裁判所の外に飛び出した糸鋸。
刑事の勘の告げるまま走ると果たして、向こうに見える小さな公園に、紅いスーツが見える。
走るのを止めて糸鋸は小さなベンチにもたれている御剣の背中をそっと目指す。
壮絶な舌戦が繰り広げられた裁判だった。心身耗弱を訴え、被告の不幸な生い立ちを強調する弁護側の主張を御剣はねじ伏せた。糸鋸が見つけた証拠から、被告が持つ冷静な殺意を完璧に立証したのだ。
さっきまでの全身に刃をまとったような御剣はもういなかった。
抜けるように青い空の下でベンチに崩れて目を閉じて、陽の光を浴びる御剣。
糸鋸は息を殺してその白い肌に跳ね返る光を受ける。
こうして見るとあどけない顔をしている。だが法廷ではその顔は一変する。まだ日が浅いとはいえ刑事の自分が震え上がるほどに。
今はまるで人形のように動かない。その顔の中で唯一赤みのある唇が動いた。
「糸鋸刑事」
びくっとして姿勢を正す糸鋸。何故自分がいると…そもそも何故自分だと分かったのだろう。その鋭さに糸鋸は舌を巻く。
「あのような揚げ足取りにむざむざ引っかかるとは」
「すみません!そ、それとありがとうございます、助けてもらって…」
糸鋸は思わず敬礼してしまう。目を閉じたまま御剣は言った。
「当然の事だ。キミは私の証人なのだから。捜査は完璧だった。事実、あの証拠が最後にものを言った」
投げ出された手。その人差し指がベンチをリズミカルに叩く。
「私の手にかかれば、弁護側に出来るのはただの悪あがきに過ぎない。堂々と証人席に立ちたまえ」
「ハッ!」
先刻までその口から出ていた言葉は、証人を、被告を、容赦無く叩きのめした。傍聴席から嫌悪感も露なざわめきが起こるほど。
「全ての罪は償われなければならない」
それが糸鋸には悔しかった。御剣が法廷に立つのはそのためだ。自分が今、刑事でいられるのも彼の冷酷にも見えた追及あってこそだ。
だが、自分と同じ刑事達ですら彼のそのやり方に眉をひそめる。
自分だけは何があってもこの人について行く。
見ると、御剣の指は動かなくなり、口は軽く開いて、人形のような佇まいに戻っていた。眠ってしまったようだ。
糸鋸はコートを脱ぐと、そっと御剣に掛けた。
こんなになるまで自分をすり減らして。そこまで罪を憎むその理由。それを糸鋸はもう知っていた。
それ以外の感情が無いように見える顔。
だが、糸鋸は忘れない。自分が隠した事実を引き出して救ってくれた若き検事の慈愛に満ちた眼差しを。それが自分のあるべき道をも示してくれた事を。
青ざめた御剣の頬。今日のために寝ずに準備していたに違いない。もしかすると食事もとっていない。
ホットドッグを買って戻ると、御剣はまだ眠っていた。袋をベンチの端に置いて、ずり落ちているコートを直そうとして糸鋸はふと、その手を止めた。
風変わりな衣装に身を包んで、舞台さながらの立ち居振舞いで法廷に立っていた彼。
(王子様みたいッスね)
童話の挿絵に出て来るようなその姿を糸鋸は初めてまじまじと見つめた。
まだ少年と言われても通りそうな、憂いを帯びた寝顔。彼の年なら遊びたい盛りだろう。だが今も、ベテラン弁護士がぐうの音も出ないほどの立証を済ませたばかりだ。
微動だにしない。糸鋸はしゃがんで御剣の顔を覗き込んだ。静かな寝息。微かに揺れる長い睫毛。きめ細かな肌。唇は濡れたような桜色で、そして何か良い香りがした。
その瞼が静かに開いた。
「糸鋸、刑事…」
「…」
「そこにいたんだ…」
次の瞬間、完全に目を覚ました御剣の体はびくりと跳ね、ベンチの端に後ずさる。
「糸鋸刑事!」
「ハ、ハイッス!」
鋭い声に、糸鋸が我に返って飛び上がる。
「何をしているのだッ!」
ずり落ちたコートを握りしめ、息を荒げて怒鳴る御剣に、糸鋸は直立不動で答える。
「何を…あれ?」
睨み付けられて震える糸鋸の目に入るホットドッグの袋。
「こ、これッス!ちょっと遅いけどお昼ッス!」
袋をひっ掴んで御剣に突きつける。
「いらない!」
間髪入れずに御剣が袋を押し戻す。その袋をもう一度御剣の方に押し付ける勢い余って、糸鋸はベンチの背に手をついて御剣に覆い被さり、詰め寄った。
「ダメッス!」
「何故だ!私は…」
「今朝から何も食べてないッスね!?自分の目は誤魔化せないッス!」
「キミの目?」
冷笑を浮かべる御剣に、しゅんとしてうつむく糸鋸。確かにこの一月足らずで一年分は怒られた…というか怒らせた気がする。
「…違ったッス?」
目の前でしょんぼりしている糸鋸に根負けしたように、御剣が黙った。
「いや、キミの言う通りだ。…分かった、頂こう。だから離れたまえ」
「あ、あいすまねッス」
顔と体とを戻すと、もう一つの袋を取って御剣の横に座った。
「コーヒーもあるッスよ。…良かった、こぼれなかったッス。砂糖とミルク、使うッスか?」
「いや、そのままでいい」
「じゃあ検事の分も自分が使うッスね」
糸鋸が差し出した紙のカップに入ったコーヒーを受け取ったまま、御剣は横目で糸鋸を見ている。
その視線に気づいた糸鋸がふと気がついたままを口にした。
「王子様はこんなの飲まないッスね」
「…王子様?」
「あ、いや、こっちの話ッス!…でも嫌いッスか?コーヒー」
「いや、何かいろいろと分からない」
「冷める前に飲んで下さい」
「ああ…ム、」
膝に掛かったままの糸鋸のコートに気づいた御剣が、カップを脇に置いてコートを返す。
「済まない」
「掛けてて下さい。起きたばかりは寒いッス」
「汚してはいけない」
「なら…」
糸鋸は立ち上がってベンチの後ろに回り、御剣の肩にコートを掛けてやった。
「刑事?」
見上げる御剣に笑いかけ、今度は前に回ってしゃがむと、袋からホットドッグを取り出して差し出した。
「…ありがとう」
受け取ったホットドッグを膝に置いて礼を言う御剣の顔が何か気になる。捜査を離れ、法廷を出た彼の顔は、寝起きのせいもあってかどこか無防備だ。
糸鋸が立ち上がると、御剣はカップのフタを空けて静かにコーヒーに口を付けていた。その頬にほんのり赤みがさしている。
人心地ついた様子の御剣にほっとしながら糸鋸は隣に座ってホットドッグにかぶりついた。
「あ…」
これも王子様は食べない気が…恐る恐る目を向けると御剣は今まさにホットドッグにかぶりついたところだった。
糸鋸の声に、御剣がもぐもぐしながら振り向く。
「ウマいッスか?」
こくんとうなずいて御剣はまたホットドッグをかじる。
この人、食べてる時はカワイイッスね。あと、さっきみたいに寝てたり…カワイイ?
伝説の検事、狩魔豪に師事した若き天才に抱く印象がいつもと違う事に糸鋸は首を傾げる。
「う」
その謎について考えていた糸鋸は、突然嗚咽を漏らして震え出した御剣の様子に慌てた。
「あっ、あの、御剣検事!?どうしたッス、」
「…マスタード」
「…あっ!カラシッスか!これ飲んで落ち着くッス!」
「スゴい、カタマリが…」
「さあ、飲むッス」
慌てて肩を抱いてコーヒーを飲ませてやると御剣は涙目で息をついた。優雅にハンカチを取り出して目と口元を拭う仕草に糸鋸は見とれてしまう。
「やっぱり王子様にこんな食い物は合わなかったッス」
「さっきから何を言っているのだ」
「御剣検事は王子様ッス。それもスペシャルッス!」
ようやく糸鋸の話が見えてきた御剣が眉をひそめる。
「バカな」
「そんな服着てるのは王子様だけッス」
「これは先生と同じ、格式ある服装だ」
法廷と同じ、硬い声音。冷たい視線。反射的に糸鋸は震える。言い過ぎた、とでも言いた気に御剣が肩をすくめてため息をつき、そして笑った。
「それにホットドッグは好きだ」
再びホットドッグにかぶりついた御剣から目が離せない糸鋸は、
「だが次はマスタードは少なめにしてくれたまえ」
と横目で言われて、ただうなずくしか出来なかった。
風が出てきた。御剣が帰った後のベンチはよく見るとあちこちペンキも剥げていて、周りの枯れた雑草も相まって物悲しい。
とっくに御剣は帰ったのに、時折糸鋸の鼻には御剣の匂いが届く。
はっと気がついて、膝の上にぐちゃぐちゃになっていたコートを取り上げると果たして、御剣の匂いはそこからしていたのだった。
普段とは違う御剣の表情。彼があんな顔をする事に、糸鋸は何故かほっとしていた。
「検事は王子様ッスね」
立ち上がってコートを羽織る。御剣の匂いが後ろから糸鋸の体をまとい、自然に片腕が後ろを庇うように差し出された。
「悪い怪物退治する時は、自分が盾になるッスよ」
子供っぽい発想に、差し出した片手で頭を掻きながら、糸鋸は公園を後にする。
「けど検事は強いッスもんね。助けなんていらなそうッス」
今日の法廷の立証までの流れは、隙も無駄も無く。唯一向こうの攻撃が届きそうになったのは。
「…せめて証言の時は足を引っ張らないように頑張るッス!」
陽が落ちた後の仄白い空に御剣の青白かった頬を思い出しながら、糸鋸は帰りを急いだ。
※この後デビュー衣装が封印されていたり