「今でもまだ、同じニオイがする、だろうか」
ふと、その微笑みを曇らせた御剣は立ち止まり、呟いた。
「何の事ッス?」
公判の帰り道。弁護側の異議は無に等しく、まるでシナリオがあるかのように進んだ裁判は、かつての御剣を彷彿とさせた。
糸鋸も給与査定の言葉を聞く事なく無事に証言を終え、捜査の確かさを証明されてほっとしていたところだ。
「私の中にあった恐れ、だ。巌徒局長の罪を成歩堂が暴いた時、局長が言ったあの言葉。ヒトリで戦うためには何が必要なのか。あれから法廷に立つ度に戒めとしてきたつもりだ」
「いつもいいニオイしかしないッスよ?」
「イヤ、リアルな話ではなく…」
赤くなった御剣の反応が思った通りで、糸鋸は頭をかく。
「やー、すまねッス。分かってるッス」
「…私が時に、随分強引に罪を立証してきた事を覚えているだろう」
「…」
御剣の真意を計りかねながらも、糸鋸はうなずいた。
「完璧な立証をするためならば、私は現実を動かす事も厭わぬつもりでいた。それこそ私の考えていた犯罪者と戦うための武器であり、必要ならば出来ると思っていたのだ。…無論そんな事はあり得ない」
自分に言い聞かせるように御剣は眉をひそめる。
「現実は動かない。そして厳しく我々を試してくる。だが、真摯に向き合い、強く願うなら現実はその願いに向こうから近づくものだ」
「そんなの知ってるッス」
「ム」
思いがけない糸鋸の言葉に、御剣が視線だけを動かす。
「だってずっと好きで好きで、どうしたらいいか分からなくなってたッスけど、今はもうずっと一緒にいられるッス。自分、諦めなかったッスから」
御剣に向き直り、糸鋸は大きなその手で御剣の手を握りしめた。
そうだ。私にあって巌徒局長に恐らくなかったもの。
立場も何もかも超えて私自身を見つめ続けてくれた人間の存在。
あなたは、ヒトリじゃない。
宝月主席検事が言った言葉が御剣の脳裏によみがえった。
彼女は気づいていたのかも知れない。いつか二人は、こうして共に歩いていくのだと。
「圭介」
罪を憎み、真実を押し潰していた御剣。だが御剣の目の前にいるこの男はあっという間に真実を捕まえて、受け入れていた。
想いを認めようとせずに駄々をこね、一人でいようと心を閉ざす御剣をものともせず、決して一人にしようとしなかった。
本当は強く願っていた。現実はその願いに向かう。
そして今、御剣のその手を、彼自身が糸鋸にとっての真実であるとでも言うように両手でしっかりと包んでいる。
「キミが、好きなんだ」
「…知ってるッス」