人気の無い暗い路地に二人は立っている。
垣根の向こうはまるで小さな竹林のような風情。知らなければ気づかずに通り過ぎてしまうだろう。
きょろきょろする糸鋸が小さな看板を見つけて首を傾げた。
「あれ?ここって…」
「うム。蕎麦屋だ」
「ソバ…」
「先日紹介して頂いたのだ。良い日本酒を振る舞いたいと相談したら、ここを」
「誰にッスか?」
「水鏡裁判官だ」
「え?意外ッスね」
「そうだな。だが詩紋くんは知っての通り新進気鋭の子役。お付き合いなどもあるだろう。それならばこのような場所も馴染みがあるのでは、と読んだ。
思った通り、いい雰囲気の店をご存知だ」
「でも蕎麦屋ッスよね…」
「もともと蕎麦屋は酒を出すものだったそうだ。文豪などが好んで蕎麦屋で呑んでいたと」
「ハードボイルドッスね!」
「そう、粋だな」
恭しく現れた出迎えに案内されて、二人は蔦の絡まる小さな引戸をくぐった。
「…ウマイッス!」
「そうか」
「雰囲気も良くて、しかもお座敷なんてスゴいッス…」
嬉しさいっぱいの顔で、糸鋸は溢れそうになった猪口に口を近づけた。
「キミが連れて行ってくれる居酒屋の女将さんに頼もうかとも思ったのだが」
御剣は目を伏せて、猪口をそっと口に運ぶ。
「どうも彼女は苦手で…」
「初めて連れてった時からものすごい食い付き様だったッスからね」
ニヤニヤする糸鋸に御剣はうつむく。
「“どーしてこんなイケメンとっとと連れて来ないんだい!”って、あんなハナイキ荒くなった女将は初めてでビックリしたッスねー」
「私もビックリした」
「ま、あれからヨメさんまだかって聞かれなくなって助かったッスけどね」
「ム?まさか…」
「あー、大丈夫ッス!そういうのじゃなくて、怜侍クンに夢中なだけッス。
署の皆とも顔出してるッスけど、戻って来たと知って、皆から怜侍クンの事聞き出そうとして必死ッスよ」
「何故キミに直接聞かないのだ。この間行った時もそんな話などして来なかったではないか」
「今度質問責めにしたら、もう二度と連れて来ないって言っといたッスから。
恋人がいるかどうかくらいは教えろって食い下がってるッスが、完全黙秘を貫いてるッス」
「そうか」
「…本当は、検事には付き合ってる人がいるって言いたいッスけどねー」
「言えばいい」
「えっ?」
いとおしむように呟いた糸鋸に、事も無げに御剣は言い放つ。
その言葉に糸鋸は目を丸くした。
「言えばいいのだ。御剣のコイビトは素晴らしい人物なのだと」
「うー。そんな自信無いッス…」
「聞かれれば私はそう答える。誰も聞かないだけだ」
わさびを擦る御剣の瞳が伏せられている。
前髪の奥。睫毛の奥のその瞳に浮かぶ優しい光。それを見つけて糸鋸の瞳も輝く。
「自分達の間では、仕事一筋のカタブツって事になってるッスよ」
「そうか」
「最近じゃ自分もその仕事一筋を見習ってる事になってるッス!」
「…」
糸鋸の言葉に御剣はおろし金を置いて、薄い笑みを浮かべた。
「なんスか、そのウタガイのマナコは!自分は昔から怜侍クン一筋ッス!」
「なっ!?」
そちらの一筋だったか、と驚く御剣を得意げに眺めた糸鋸が酒を呑み干して猪口を差し出す。
徳利を手にした御剣の顔が驚きを浮かべていたのも一瞬、
「私の方がずっとキミ一筋だった」
「自分ッスゥー」
並々と注がれた酒にそっと口をつけた糸鋸に御剣は口を尖らせる。
「私がいない間に誰かの尻を追いかけ回していたクセに」
「あッ!あの頃の自分の努力、もう分かってるはずッス!そういうイジワルな事を言う口はこーッスよ!」
鮮やかな箸さばきで、糸鋸は天ぷらを御剣の口に放り込んだ。
「自分、美少年が好きッス」
「なっ…!」
自分一筋と宣言したその口で平然と言ってのけた糸鋸に御剣は目を白黒させた。
思い通りの反応に気を良くした糸鋸は再び得意げに猪口を掲げる。
「いつものあの酒の名前ッスよ。でもこれ、ホントに美味いッスね。またお気に入りが増えたッス」
悔しいが敵わない、とばかりに御剣が猪口を合わせてくる。
「あのラベル見てると怜侍クンの顔が浮かんできたもんッス。それが最高の肴だったッスよ」
「バカな。キミと出会った時、私はとうに少年などという年は超えていたではないか」
「どうしてか、そう思ってたッスよ。そう、不思議ッスけどね…」
そう言って糸鋸は目を閉じて一口飲むと、物思いに耽る。
「検事局始まって以来の天才検事って言われてて、実際並みいる検事達もその才能に恐れを抱くくらいで。
我々に対しても厳しくて、けどその代わりに絶対有罪を約束してくれる人で。
若いのに、自分よりずっと大人で、現場でも法廷でも教えてもらったり助けてもらったりするばっかりで」
からすみの揚げ物をかじって、糸鋸は幸せそうに笑みを浮かべる。
「それなのに、自分にはキレイでカワイくて、世の中の悪人や悪事なんて何も知らない王子様みたいに思えて。
だからドロドロの殺人事件を前にして汚れてしまわないように自分が守らないとと思って。そうしているうち、気がついたらスゴく好きになっちゃってて…って、ああッ」
「どうした」
「…怒らないッス?」
「何故だ」
「だって怜侍クン、カワイイとか言うと、」
「キミが言うならそうだったのだろう」
糸鋸の言葉を噛みしめていた御剣が、頬を染めて目を伏せる。
「キミに隠し事は出来ない。いつも」
ああ、やっぱりカワイイ人ッスね。
糸鋸は薄い湯気を立てている湯葉をそっと掬って差し出す。
「キミには見えていたのだ。平静を装い、被告人の有罪を証明する顔の下で泣いていた幼い私が」
一口食べて恥ずかしさを紛らせた御剣は一度上目で糸鋸を見ると、慌ててまた目をそらす。
何度も見ているはずなのに。それなのに見る度胸が熱くなる。
糸鋸は自分も湯葉を掬おうとしたが、まだ早かったようで箸をすり抜けてしまう。その様子を見た御剣が、微笑んで食べかけの湯葉を箸に乗せて糸鋸の口に持ってくる。
ぱくりと箸ごとくわえて糸鋸は幸せを噛みしめた。
「他人にならば容易く隠しおおせる事の出来る秘密が、キミにはいつの間にか見透かされている。
キミに出会った頃、何度も驚かされたものだ。
…私がキミに想いを寄せている事も感じていたのだろう」
「それが全然分からなかったッス。だいたい、分かってたらその場ですぐチューしてるッスよ」
「キミが開いたパーティーの時のようにか?」
口の端で笑う御剣に、糸鋸は恥ずかしそうに身を縮める。
「うう…前にも言ったッスけど、あの時は頑張ったゴホウビにそのくらいしてもバチは当たらないと思っただけッス」
「頭が真っ白になった。初めて成歩堂にしてやられた時よりもだ」
「優しくされる度、もしかして自分の事、好きッス?なんて考えては、自分、都合の良いようにばかり考えてバカにも程がある、とはよく思ってたッスね」
「バカなものか。私はキミが、大好きだったんだ」
尊敬を隠さない御剣の視線に射抜かれて、糸鋸は真っ赤になった。
「キミは男らしく、明るく強く真っ直ぐで…この世にこんなに善良な人間がいる事が信じられず、そんな男が私を慕ってくれる事はもっと信じられなかった。
私がそんなキミに恋をするのに、時間はかからなかった」
「最初はそのロジックでバレるんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたッスけど。けどやっぱり怜侍クン守るのは自分だけって思いたくて。ラッキーな事に怜侍クン鈍くて」
真っ赤になりながら憎まれ口を利く糸鋸に御剣は微笑む。
「初めはしょっちゅうミスをするキミを侮っていた。だがキミの力にはすぐに気づかされた。
苦しむ私を守ってくれたその強さ。それを求め、そして恐れた」
ほっと息をつき、頬杖をついて、手酌している大切な人を御剣は眺めた。
「だからキミには厳しく当たった。そうでもしないと気づかれるのではないかと思っていた。
本当はいくらでも甘くしたかったのだが」
小さな庭を眺めて酒を口に運んだ御剣に、糸鋸は身を乗り出す。
「今からでも遅くないッス!甘くして欲しいッス!」
「査定を行うのは私だけではないのだぞ…ともかく、私にとってキミは評価されるべき、最高の人物だ。
出会った時から今までずっと、そう思っている」
「自分今…“御剣検事賞”もらったッスね…」
徳利を持った手が止まり、警視総監賞でももらったかのようにうっとりと呟く糸鋸に御剣はそっぽを向く。
照れる御剣に、糸鋸は目を閉じて唇を突き出した。
「何だ」
「副賞も欲しいッス」
「では」
ニヤリとした御剣が、そこにあったはじかみを糸鋸の口に突き付ける。
「ぐほおッ!」
口いっぱいに広がる刺激に、糸鋸は手にそれを吐き出す。
「なんスかこれ…あ、色が怜侍クンっぽいッス!」
「ちょうど良かったではないか」
「怜侍クンのチューはこんなスッパクないッス!」
蕎麦が運ばれて来た。
御剣は豊かな蕎麦の香りに口元を綻ばせ、糸鋸は目を白黒させながら茶で口を濯いでいる。
それを見た仲居は肩を震わせながらも蕎麦を並べ終え、口元を押さえて一礼するとそっと障子を閉めた。
我慢出来ずに吹き出した仲居の笑いが障子の向こうから聞こえる。
それを聞いて二人は顔を見合せ、笑った。