『ホントにどうなるかと思ったッスけど、無事、無罪判決をもらったッス。マコクンの運の悪さには毎回ハラハラするッス』
そうだ。キミの後輩。キミは彼女を名前で呼ぶ。
彼女が晴れて婦警となってからも、何かと面倒を見てきたはずだ。
単に後輩で、同僚ではないのか。キミがそう言っていたのだ。
それでも名前で呼ぶのは、キミの中で彼女はそれらを越えた大切な存在という事なのだろう。
『どの弁護士にも見捨てられて困り果ててたところを、ナルホドーが名乗り出てくれたそうッス。彼女の悪運もそこまでひどくはなかったッスね』
キミにかかっては私など、検事、で終わりだというのに。
大体今の私は検事ですらない。
そしてキミは刑事だ。捜査官だ。
にもかかわらず、私が逮捕されてもなお信じ続け、救ってくれた。
そこに、キミが彼女に抱いているような親愛の情があるはずも無い。単に私に対する義理立てだったのだろう。
それでも私が押し込めていたキミに対する感情ははじけてしまったのだから情けない。
「成歩堂は相変わらずだな。依頼人を信じ抜き、真実に辿り着く。どれほど勝ち目の無い法廷も、最後には逆転してみせる…さすがだな」
『検事までそんな事…』
キミが悪いのだ。私にそんな話などするから。
キミにとって私は面倒だったろうが、多少の良い目を見た時もあっただろう?
そういう事だ。分かっている。それでもキミに望まれるの嬉しさに私はやってきた…惨めなものだ。
『マコクンも言ってたッス。成歩堂さんの大ファンだって』
「フッ。彼女を誤認逮捕してしまったのだろう?成歩堂の活躍は彼女の目にそれは眩しく映ったろうな。キミも負けてはいられまい?」
そして今となっては、残ったのは面倒だけ、か。いつも貧乏クジを引く男だ。
最早私の相手をしても何の得も無い。そんな必要などとうに無くなったのだ。
それでも私はそんなキミの性分を利用する。何もかも無くした私を、キミと話している間は忘れていられるから。
『もちろん負けなかったッス!』
相変わらず誤認逮捕した事の反省は無いようだな。
そんな事だからいつまでも彼女に振り向いてもらえぬのだ。キミの恋が実れば、私もいつまでも女々しくキミへの想いをひきずらなくて済む。さっさと交際すれば良いのだ。
御剣はため息をついてポットのスイッチを入れた。
彼ののろけ混じりの言い訳が終わったら紅茶を淹れる。それを飲んで忘れる。
キミへの想いなど、塵以下にしてみせる。
『自分はビシッと言ってやったッス。“一番カッコいいのは御剣検事に決まってるッス!”って!』
御剣は小さな缶に伸ばそうとした手を止める。
『大体、ワレワレ警察の人間が弁護士のファンとか言語道断ッス!
いくら助けてもらったからって、あんなハッタリ弁護士のファンなんて許せないッス!
御剣検事の鮮やかなロジックが有罪への扉を開いて…完璧な証拠品と証人が被告をその扉の奥へと誘う…
あんなに美しい立証が分からないなんて法廷マニアが聞いて呆れるッス!』
「…クッ」
『あ…』
そのハッタリ弁護士に手も足も出なかった私の姿をキミは忘れたのか?
『笑ったッス…?』
「ああ、イヤ、済まない」
『ち、違うッス。やっと、やっと笑い声が聞けたッス…』
まるで泣き出したように消え入る糸鋸の声。その声に御剣の胸が震える。
その震えを何とか抑えようと、御剣は顔をしかめようとする。
『…自分、検事の笑ってる顔が好きッス』
「電話ではないか」
『でも見えるッス。自分には』
「…そうか。だが私は、きっとキミが考えているような顔はしてはいまい」
『いいッス。笑っててくれれば。いっぱい笑っててくれればいいッス』
鏡に映っているのは、薄暗い部屋の中でも分かるほど赤くなっている自分の顔。
そして糸鋸が言う通り、自分でも知らなかった幸せな微笑みが浮かんでしまっている。
単純で愚かな御剣怜侍。
御剣は驚き、唇を噛み、それを認めまいとかぶりを振る。
「…しかし驚いた。キミはいつからそのように詩的な表現を身に付けたのだ」
『シテキ?』
「自分で言った事をもう忘れたのか。“ロジックが有罪への扉を開く”」
『あ!あれはこないだ読んだ《月刊法廷》のバックナンバーの受け売りッス…御剣検事の特集があったの知って取り寄せたッス』
「なッ…!」
『まだちょっと初々しい検事のインタビュー記事が楽しくて、何度も読み返してるッス。取材受けてたのなんで教えてくれなかったッスか?』
「…仕事に関係無いからだ」
再び御剣の頬は熱っぽく紅潮してゆく。
『読んでると、あの頃一緒に解決した事件が甦るッス』
「うム」
誰に見られる訳でもないのに御剣は手のひらで顔を覆い、相槌を打つ。
『たくさん怒られたのも思い出すッス…』
「ぐっ!」
『困ってる事とか無いッスか?』
穏やかな糸鋸の声。
結局はまた自分の胸の内を穏やかにしてくれたその声に御剣は心の奥で感謝し、紅茶の缶を玩ぶ。
「トノサマンが観られない事だろうか。続編が気になっている」
『そっ、それは一大事ッスゥー!』
「たかが子供番組ではないか、刑事」
『ナニ心にも無い事を言ってるッス。あれが検事にとってどれだけ大切か…自分、ウッカリにもほどがあるッス。こんな大事な事に今まで気づかなかったとは…!』
「DVDを買えば済む事だ」
「あ、そうッス。じゃ、じゃあ発売されれば検事帰って来るッスね!」
「…それはないだろう刑事」
『イヤ、自分には分かってるッス。検事が賭けてる熱い思い!』
「…キミにはもっと気づくべきものがあるだろう」
そう、例えばキミへの想い…トノサマンとは比較にならないというのに、なぜ分からないのだ…
『うう、手厳しいッス…とにかく早くDVD化されるように警察の総力を挙げて圧力を掛けるッス!確かあのカントクは、』
「やめてくれたまえ」
一瞬でも想いを匂わせようとした自分に御剣は冷笑を送る。
そもそも分かってしまっては元も子も無いからこそ、離れたのだから。
「…キミこそ何か困ってはいないだろうか」
人恋しくなっている自分に喝を入れ、御剣は無理矢理に話題を変えた。
『そりゃ検事がいない事ッス。今日だって自分、散々揚げ足取られて』
折角話題を変えたのにこれか…と、御剣はため息をつく。
『それなのに、担当検事は知らんぷりッスよ?』
「担当検事は誰だったのだね」
『なんて言ったッスかねー、あの人…いや、あんな人いたッスかね』
「なんなのだそれは」
彼女の無罪に浮かれて担当検事の名前を忘れるとは彼らしい。もっとも、無罪に喜ぶ刑事というのも…いや。
『御剣検事だったら絶対助けてくれたッスのに』
「…そうだな」
御剣の口元が黒い笑みに歪んでくる。
忘れたとは言わせない。私が何と呼ばれていたのか。
そう、私が担当検事だったなら、証人のキミを成歩堂ごときに弄ばせはしない。
そしてスズキさんをあっさり無罪になどさせなかった。
だからキミは私の不在を喜ぶべきなのだ。
キミの言う通り私が今戻ったなら、何が起こるか想像出来ないのか。
成歩堂にイヤというほど突きつけられた真実の重さ。私は今、それに潰されている。
…それが分かるか。キミに見られたくないのだ。
キミが大切に思う彼女。そんな真実など無かった事にしたくなる醜い私を。
優しいキミの手を、目を、私から奪ってしまう彼女に対する恐怖を。
『ちゃんと食べてるッスか?』
「ム…」
『また紅茶で終わりにするつもりッスね』
たしなめる糸鋸の声に御剣は口を尖らせた。こんな時に限って糸鋸は鋭い。
「何が悪い」
『もー。なんでそういう事言うッスかね、検事は。
…だったらこうするッス。確か、サンドイッチとかケーキの皿が重なったのがあるッスよね?紅茶飲むならあれを届けてもらえばいいッス』
「覚えていたのか」
『アレ、ゴチソウになるの嬉しかったッスから』
キミは気づいていただろうか。
幾度も過ごしたキミとのアフタヌーンティー。ティースタンドを頼む時は、自分への最高の褒美だった事を。
『食べなきゃ元気出ないッスよ』
「キミはいつもそう言うな」
『当たり前ッス。法廷には万全のコンディションで立ってもらわないと。検事が倒れたら自分の責任ッス』
だから私は今法廷には立っていないし、不養生で倒れたとしてもキミの責任ではないというのに。
「分かった…食べる」
『!良かったッス』
御剣の口からは素直な返事が出る。毎回の事だが御剣はそれに首を傾げずにいられない。
だが、御剣はその問に答えを出す事はせず、背筋を伸ばして告げた。
「さあ、そちらはもう遅い。そろそろ休みたまえ」
『ハイッス。…検事、』
「なんだろうか」
『またいつか、ゴチソウして下さいッス…おやすみなさい』
「…おやすみ」
またいつか。
キミはそうして無邪気な言葉で私を繋ぎ、絡め取る。
御剣はゆっくりと立ち上がると、バスルームに向かった。
「刑事」
午後のホテルのラウンジ。ビジネスマンの姿は消えて、マダム達が噂話に花を咲かせにやって来る。
「言われた通り、食べた」
手にしたソーサーにカップを置いて、御剣はうつむく。
「不味い」
ティースタンドの上には、一口ずつかじられたスコーンやサンドイッチが転がっている。
「不味いんだ」
キミがいないと。
浮かんだその真相を御剣は振り払う。
「キミはいつもそうだ、余計な事ばかり…」
手が震え、カップとソーサーが音を立てる。
良い茶葉が出す澄んだ水色の紅茶。シンプルだが上質な材料で作られているのが分かるスコーンやキッシュ。
どれもいつも頼んでいたアフタヌーンティーのセットより美味しかった。だがそれに大喜びしているはずの糸鋸の笑顔はここには無い。
「…バカ刑事め…!」
カップの中にこぼれた滴は小さな音を立てたが、ラウンジのざわめきにかき消されてしまう。
自分の望んだそのまま。独り。なのに。
肩を震わせている御剣に一人のウェイターが気づいたが、顔を上げない御剣を数秒眺め、問題無いと判断したのか自分の仕事に戻って行った。