御剣のデスクの前で、これ以上無い程しょげている糸鋸。よくある光景のはずだが、今日は違った。そんな顔をさせたのは御剣では無い。糸鋸は初めからその顔でやってきたのだ。
御剣が今担当している案件は無い。つまり糸鋸が御剣に報告するべき事も無いはずだ。
――これ以上は情報が足りない。
御剣は静かに口を開いた。
「何があった」
「……やっちまったッス」
糸鋸ががっくりと肩を落とす。
「ヤツで間違いなかったのに、自分達の力が足りなかったッス。無罪放免ッス」
「フム……で。給与査定を下げるとでも言われたか」
御剣は証言台で大慌てのいつもの糸鋸の様子を思い浮かべ、口の端に冷ややかな笑みを浮かべたが、その笑みはすぐに消えた。
糸鋸の思い込みや見落としは今に始まった事ではない。そしてそれには随分手こずらされるものの、これまで被告人を無罪にするほどのミスを彼がした事は無かった。
よくよく目を凝らして見れば、決していつもの様にという訳ではない。これ程深刻な顔は見た事が無かった。
ではその顔が物語る事実とは。
「それはなかったッス」
「ならば何故……まさかキサマ、免職になったとでも」
「あ!イヤ、そんな事ねッス!」
慌てた御剣に糸鋸は首をブンブンと振る。
「その……言われてたッス。あの御剣の腹心である刑事がどれほどやれるのか楽しみにしているって……」
険しい顔のまま、御剣は黙って先を促した。脳裏にその事件を担当した検事の顔が掠める。少しずつ、この状況を生んだ流れが読めてくる。
「弁護士に言いくるめられて終わって、証拠もひっくり返されて……。そして証言台を降りた自分に小声で、誰がどんな捜査をしようが関係無く、御剣は証拠も証人も用意できるという訳だなって。噂は本当のようだって笑って……控え室に戻ってからそんな事は無いって説明しようとして、でももう用は無いって追い出されちまって結局……」
耐え切れなくなった様に糸鋸は顔を背けてしまった。
「自分のせい……ッス」
御剣の眉が軽く痙攣する。見れば糸鋸の目の端には涙が滲んでいる。それを認めた御剣は、震えて来る拳を握りしめた。
疲労の滲む糸鋸の頬には無精髭が伸び、汗で汚れたシャツもそのまま、今にも倒れそうなほど疲れているだろうに、彼はいつもの些細なミスを咎められた。そしてそれが自分の名誉を傷つけてしまったと、擦りきれた靴を履いた重い足を引きずりここまで謝りに来たのだ。
――彼をこんな目に遭わせるとは……
御剣の内に、罪に対するものとは違う激しい怒りが沸く。だが、その怒りはまたすぐに別の感情に取って変わった。
――済まない。
自分に最大の敬意を払い、持ち前のその明るさを、男らしい優しさを惜しげもなく与えてくれるこの得難い男を傷つける者がいた。
そしてそんな彼を最も傷つけたものが一検事の小さな自分の名に泥を塗る事だった。
「……誰がどんな目で私を見ようが、どう評価しようが無意味だ。完璧な有罪以外に望むものなど無い」
「でもすごく悔しそうな顔してるッス……」
「だろうな」
御剣の同意に糸鋸は震えたが、御剣は自分をかき抱き、その唇が苦しそうに歪んでいた。
「そう、彼ならばそうも言うだろう」
「……」
立証の失敗をあろう事か警察のせいにした卑小な担当検事。
そして目の前の彼はそんな男が自分に向ける侮蔑の盾になろうとした。
怒りが張り付いたままの顔を上げ、御剣は糸鋸を見つめた。
「よく分かった」
「本当に申しわ」
「では、キミの報告に対する私の回答だ」
まるで法廷での論証の様に、御剣は糸鋸の言葉を静かに、だがはっきりと遮る。大きく体を震わせて糸鋸は黙った。
フン、と鼻を鳴らすように斜に構えて腕を組んだ御剣の前で、糸鋸は大きなその身をますます縮める。
「一杯付き合いたまえ」
「……」
「それだけでは不服か。ならば食事ではどうだ」
糸鋸の返事が無い事を同意が得られなかったと取った御剣が畳みかける。虚ろな様子で自分を処分する言葉を待っていた糸鋸が、ようやく御剣の意図に気づいて顔を上げた。
「あ、あの、」
「肉はどうだ。好きだろう」
「その、そうッスけど、」
「ならば今夜は好きなだけ食べて呑むがいい。上等な肉とワイン……うム」
満足げにうなずいた御剣の顔を糸鋸は口を開けたまま眺めている。
「何をしている。早く戻りたまえ。終わったらすぐに連絡するのだ。……イヤ待て。すぐに支度して私がキミを署まで送ろう。キミの方が済んだらそのまま食事に向かう」
「けど、けど自分は検事に……!」
――恥をかかせて
喉に詰まった何かが糸鋸の言葉をせき止めた。
「もう一度言う。誰がどんな目で私を見ようが、どう評価しようが無意味だ。ただ一人」
遠くを彷徨った御剣の視線。その焦点が糸鋸に合わさる。
「キミを除いてはな」
胸につかえていた淀んだ塊が砕けてゆくのを感じて、糸鋸は思わずデスクに両手をついて身を乗り出した。
「そしてキミはこうして来てくれた。私はそれで充分だ」
「けど自分はあんな事を言わせたままで、何も言い返せなくて、情けなくて……」
「ちょうど私も同じような事を思った。キミがそのような目に遭ったのはひとえに私の至らぬ所以だ」
「えっ」
「だから今我々に必要なのは満ちたりた食事と酒で、憂さを晴らす事だろう」
勝ち誇ったような御剣の笑みは、いつの間にか慈しむような微笑に変わり、くたびれた糸鋸を癒やしてゆく。
御剣の真意に触れ、糸鋸の目にまた涙が浮かんでくる。
「異議は無いはずだ」
「……ハッ」
「糸鋸刑事、本日最後の任務だ。顔を洗い、エントランスで私のクルマを待て」
「了解……ッス」
デスクに両手をついたまま大きく頭を下げ、帰る準備を始めた御剣に軽くうなずき返して糸鋸は執務室を出た。
一日働いた体はこんなにも重いのに、体中を駆け巡る喜びが最早それを感じさせなかった。
――検事に、ではなく、自分に、でもなく。ワレワレに、って。ワレワレに必要なのは、って。そう言ってもらえるなんて。
「キミの夢はなんだろうか」
「夢……ッスか」
少しの間御剣を見つめ、軽く唇を開いた糸鋸は慌てて頭を振ると、勢い良くワインを飲み干す。
「あ、イヤ。そりゃ悪いヤツらを全員逮捕ッス……って急にどうしたッスか」
「先日偶然観た番組の登場人物が言っていたのだ。全ての悪人を断つのが某の夢だと。まさに今のキミのように」
御剣はボトルを手に軽く顎を上げて促す。糸鋸は押し頂くようにグラスを両手でおずおずと差し出した。
「私は完璧な有罪を求める」
「知ってるッス」
「そのためにキミが、惜しまず協力してくれる事を私は本当に感謝している」
――絶対にそれを後悔させはしない。
ゆっくりと息を吐き出して、御剣は自分を翻弄してくる強い想いを御しながら顔を背けた。
「二度と他の検事がキミを侮らないよう、私の完璧な勝利でそれを証し、黙らせてやるッ……!」
注がれたワインの真紅を透かして映る御剣の横顔。瞳の奥、燠火の様に揺らめく怒り。この杯を受けたからといって自分が彼の華麗な舞台で相手役を務められる訳ではない。それでも舞台の主人公はこの一幕の相手に、幸運にもこの自分を選んでくれた。糸鋸はグラスに目を落とし、そしてゆっくりと口に運んだ。広がる苦味が不思議と心地良い。
――いつか検事に相応しいオトコになって、憂さ晴らしではなく、手にした勝利に酔ってもらえるようになるッス。
「ついて来い。キミの捕らえる容疑者を全て有罪にしてみせよう」
グラスを置き、糸鋸はそっと敬礼した。横目でそれを見ていた御剣の瞳が安堵した様に伏せられ、表情を消した顔が糸鋸に向けられる。見つめ合ったままグラスを持った互いの手はゆっくりと近づいて、合わされたグラスから響いた涼やかな音が二人の誓いを固めた。
「……検事」
「なんだ」
「呑んでばかりはダメッス」
瀟洒な雰囲気。供される最高の酒と料理。そして隣で自分と酒を酌み交わしてくれる最高の人との穏やかに流れる時間。糸鋸はそんな風に自分を気遣う御剣に感謝し通しだった。
「……今、食べようと思っていた」
ぼんやりとグラスを置いてフォークを持った手を伸ばした御剣に向かって厳しい顔で糸鋸は首を振る。
考え事がある時、確かに御剣は食べる事を忘れてしまう事が多い。これ以上御剣を煩わせる事は無い筈なのに、御剣は自分が久しぶりの肉を味わうのを眺めながらグラスを傾けるばかり。
「つけあわせじゃなくて、ちゃんとニクを食べるッス」
「う、ウルサイ!目測を誤ったのだ!」
「ハイ」
自分の皿の最後の一切れをフォークに突き刺し、糸鋸はそれを御剣に差し出す。まるで子供がされるように口元に肉を突き出された御剣は真っ赤になってそのフォークを勢い良く奪い取り、懸命に頬張りながら自分の皿に並ぶ肉を全て突き刺し、糸鋸に向かって突きつける。
「……いただきます」
静かに呟いた糸鋸は顔の前に突き出された肉を見て、これ以上無い程の幸せな笑みと共に一口で口の中に納める。
「ホントにここのニクはウマいッスゥー……カラダ中に染み渡るッス。けど検事が一切れじゃアキラカに足りないッスね」
「恥ずかしくないのかッ! このような、コ、イ…ッ、イヤ、コドモのような、」
「何言ってるッス? 出されたモノは残さず食べる! これが生きるキホンッス!」
「そういう事を言っているのではないッ! ……アッ」
憤慨する御剣に相好を崩した糸鋸は、御剣の皿に残る付け合わせをスプーンで器用に口に放り込み、カウンターの向こう端にいる料理人に声を掛ける。
「すいませーん、これもう一皿下さーい」
糸鋸の予想外の行動に狼狽して両手にフォークを持って真っ赤になったまま震える御剣。
――楽しみに取ってあったグラッセが……! 刑事の振る舞いに驚かされたからといってここまで油断してしまうとはッ!
「出てくるまで一緒にこれ食べて待つッス。この頭、食べていいものッスかね」
「……キミが食べたまえ。アタマでもシッポでも」
「じゃあ身は検事の分ッス」
虚ろな顔で答えた御剣を尻目に、エビのグリルの皿にニコニコしながら取り掛かった糸鋸。_
――検事にアーンまでしてもらえるなんてスゴいッス! これは本当にツラかった今日を耐え抜いた自分へのカミサマからのゴホウビッス!
すっかり有頂天になった糸鋸は、フォークを握りしめて何やら呟きながらカウンターに突っ伏す御剣の前のグラスに、役得とばかりに自分のグラスを合わせた。