「あんなにすぐ分かったって事は、絶対検事はあのクマが好きなはずッス」
デパートの玩具売り場に足を踏み入れた糸鋸は目当てのぬいぐるみを探す。
たくさんのぬいぐるみが並ぶ場所を見つけ、少し照れながら近寄る。周りには幸せそうな家族連れ。
初めて子供におみやげを買って帰る父のような面映ゆさに、糸鋸は頭を掻いた。
だが、その幸せは束の間だった。うっかり忘れていたが、御剣の知識に助けられた証拠品と同じ巨大なそのぬいぐるみは、値段もまた巨大であった。
疲れで目が霞んでゼロがいくつも見えてるッスね…と顔を近づけて何度確認しても、ゼロの数は変わらない。
それなら、と周りに並んでいるほどよいサイズのぬいぐるみを次々に確認するが、そのどれも、サイズに似合わぬ値が付いている。
糸鋸はよろよろと玩具売り場を後にする。その背中に漂う哀愁はまさしくハードボイルドの主人公だった。



そして失意の糸鋸を待っていたのは、事件解決を労う御剣の食事の誘いだった。
待ち合わせ場所でも、食事が始まってもため息をついてばかりいる糸鋸に御剣の眼差しが曇る。
頭に巻かれた真新しい包帯が、くたびれた糸鋸の格好に浮いていた。
「痛むのか」
「痛いならまだマシッス」
聞き捨てならないその言葉に御剣の顔色が変わる。
「無理はしなくていい。家まで送ろう」
「検事の部屋に…」
「な!?」
音を立てて立ち上がった御剣。そこでようやく糸鋸は我に返った。
呆気にとられて糸鋸を眺める御剣だったが、さすがに周りの視線が集まって唇を震わせながら座った。
発つ前にせめてひととき、と思っただけの事が思わぬ事故を引き起こす。御剣はうつむき、自分の浅はかさに怒り、肩を震わせる。
まるで法廷で自分のミスを叱責する時と同じようにテーブルに手のひらを置いて唇を震わせている御剣に、おぼろげな会話の自分の返事を思い返した糸鋸がその危うさに気が付き、慌てて立ち上がってものすごい勢いで頭を下げる。
「あいすまねッス!検事の部屋に、く、クマッス!」
「クマ…?」
再び集まる視線に、今度は糸鋸が身を縮めて座り込む。
「検事の教えてくれたあのクマ、高菱屋に見に行ってきたッス」
決まり悪そうに呟く糸鋸の言葉に御剣の眉間から力が抜ける。
「懐が痛むどころかどうする事もできない値段だったッス。本当にビックリしたッス。海外ブランドの現実には」
「フトコロ…」
ほっとした御剣に、目の前のワインを飲む余裕が戻った。
「それで、あのテディベアをキミが?また何故」
「検事はあれが好きだと思って…だからお祝いに検事の部屋に置いてもらおうと思ったッス」
「お祝い?」
「検事が帰ってきたお祝いッス」
糸鋸がおずおずとグラスを掲げて乾杯を誘う。
戸惑いながら御剣はグラスを合わせた。
「本当に凄かったッスよ。あれが検事の見つけた答えだったッスね」
「キミが真宵くんを必死に捜索してくれた事。そんなケガをしてまで届けようとしてくれた遺留品。そして成歩堂の執念あってこその、」
「真実を知るために真っ直ぐ突き進む検事の覚悟、伝わったッスから…検事は自分の誇りッス!…」
胸がいっぱいになった様子で次の言葉を続けられずにワインをなめた糸鋸に、御剣は寂しく笑う。
私が再びここを離れるのを知っているのにキミは帰ってきたお祝いなどと。
「物心ついた頃には、いつも私と一緒にいたテディベアがあった。あのぬいぐるみはそれと同じブランドだったのだよ」
「そうだったッスか」
まだ小さな御剣がぬいぐるみを抱いて眠る姿が浮かび、糸鋸はテーブルの向こうで静かな笑みを浮かべる御剣を眺める。
御剣の言葉を信じるなら、この笑みにまたしばらく会えなくなる。糸鋸は唇を噛み、せっかくの御剣との時間を台無しにしないようにと耐えた。
「良いぬいぐるみは子供のいい友達になる」
そういえば、事件の後だ。あのテディベアを失ったのは。
目の前で真っ赤になってワインをなめている糸鋸を見て、御剣は思い出した。
あの時私は多くのものを失った。幼かった私にはどうする事も出来なかった。だが今は違う。キミを失いたくない。そのためにこれほどの時間を費やしているのだ。さあ、私が掴みかけている答えをお目にかけよう。
「…そうだな。いつかキミに家族が出来たら、私がプレゼントしよう」
なんでそんな事言うッス…糸鋸の背筋に冷たいものが走る。歯を食いしばり、拳を握りしめる。
あどけない顔でクマのぬいぐるみを抱いて眠る少年の顔が、淋し気な青年の微笑に変わり、その唇から出てくるのは聞きたくない言葉。
家族って、自分、検事以外の人なんかいらないッス。だからプレゼントしたいと思ったッス。検事の喜ぶ顔が見たいッスよ…
本当は分かってるッス。
糸鋸はグラスを弄ぶ。
中で揺れる複雑な薫りの深紅のワイン。このワインのように、本当は自分には縁の無い、深紅のスーツに包まれた人。
すぐそばで一緒に仕事をして。けれど立っているその場所は全然違っていて。
身の程知らずって知ってて検事の事好きになっちまって。それが分かってて、喜ぶ顔が見たいなんて思って。
今だって、何にも出来ないで。
検事の事、愛してるなんてそんな事思う資格がどこにあるっていうッス。
検事がここを離れたらもう見送るしか出来ない自分が…
「刑事、冷めてしまう」
諦めに絡め取られる糸鋸をよそに、御剣は心にもない事を言った喪失感を潰そうと、空になった自分のグラスにワインを注ぐ。
「…検事」
うつむいている糸鋸。本当はずいぶん疲れているだろうに無理をさせてしまったか、と御剣は顔を曇らせる。
「検事は…やっぱり行くッスね」
「そうだ」
「もしも向こうで困った事が起きたら、その時は、」
「その時キミが刑事ではなかったらどうするのだ」
「うぐっ…」
落ち込む糸鋸の目を覚ます御剣の一撃。
「人の命がかかっていたとはいえ、あまりに迂闊ではないか」
「面目ないッス!」
テーブルに手を付き、糸鋸は頭を下げる。
「冥は確かに無茶だが、さすがにあの処分は不当とは言い切れない」
「ハッ…!」
今更ながらに糸鋸は自分の無謀な行為を後悔する。あの時は人質が取られた事で頭がいっぱいだったが、刑事でなくなってしまえば、御剣を待つ事も叶わなくなったのだ。
「それに、私がどれだけ悔しかったと思う」
目をしばたいている糸鋸に御剣はため息をつく。
「真宵くんが誘拐されていた事を成歩堂から聞かされたのだぞ。それも審理の後でだ」
「その…検事には言えなかったッス。要求が無罪判決では…」
「そう、今までの私ならキミを甘いと責めたかも知れない。黙っていたのは当然だ」
「そんな事はないッス!検事が板挟みになっては、」
「済まない。意地が悪かった」
慌てて糸鋸が頭を上げる。仕方がないと言いた気な御剣の苦笑が目に入った。
「分かっている。そうでなくてはキミではないからな」
グラスの中身を一息で飲み干し、御剣は肩をすくめる。
「…だからキミは今まで通り刑事の本分を全うしたまえ」
テーブルに置かれたキャンドルの炎は潤んだ糸鋸の瞳を光らせている。御剣はワインを盾にしてそれを隠した。



「テディベア」
呟くと、閉まったドアに御剣はもたれた。冷たいドアが御剣の背中を冷ます。
幼い頃、いつも一緒に寝ていたテディベア。夜の闇の怖さを、独りの淋しさを慰めてくれた。
「…キミに似ていた」
ふと口からこぼれた甘えに怒りが沸いた。
「私は…独りでいられる!」
乱暴にリビングを通り抜けながらコートを放り投げ、ベッドに倒れ込んだ。
「独りで眠れる…!」
“あれが検事の見つけた答えだったッスね”
頭に響く糸鋸の言葉。
「答えを見つけたのなら、何故私はキミを忘れられないんだ!」
枕に顔を埋め、御剣はたくさんのものを一度に失ったあの頃のように泣き続けた。


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