執務室の鍵を掛けた途端、廊下の向こうから馴染みのある足音が聞こえてくる。慌ただしい一日が終わった後に優しい恋人が迎えに来る嬉しさに御剣は微笑んで顔を向けた。
「お疲れ様です、御剣検事殿」
相変わらず仰々しく敬礼する糸鋸の胸を御剣は拳で軽く叩いて応える。
「行こうか」
「その前に……検事、これ受け取って下さい」
「ム」
御剣の目の前で糸鋸は誇らしげにプレゼントだろう何かを取り出すと、胸に押し当てて期待を込めた目を向けている。
何かの記念日だったろうか、と御剣は考えを巡らせるが、いくら考えても思い当たる節が無い。
ウキウキした糸鋸の顔にせっつかれて御剣が手を差し出すと、糸鋸はその手を取り、防犯ブザーのようなものを握らせた。
「自分入魂の! 無線機ッス。困った時はすぐ連絡するッスよ。飛んで行くッス!」
「ホウ? ……有効半径は」
渡されたそれを手のひらの上で転がす。発信ボタンにマイクにスピーカーというシンプルな構成。糸鋸の器用さが御剣には眩しい。それを感じた糸鋸は、無線機ごと御剣の手を包んで笑顔になった。
「普段は大したこと無いッス。5キロくらいッス」
それ以上離れるな、という事か。
御剣は心配性の恋人を見遣り、微笑みを浮かべる。
「……待て」
その微笑みが一瞬で眉間の皺にとって変わる。
「普段は、とはどういう事だ」
「本当にピンチの時は」
それを見た糸鋸が我が意を得たりとばかりに胸を張る。
「ワレワレの無線に割り込む事が出来るッス。というか目的はソッチッス。ただ連絡するだけならケータイでジューブンッスから。これで電波の届かないようなところで何かあっても安心ッス」
「待ちたまえ、私はただの検事で」
「ただの検事じゃないッス! 検事局始まって以来の天」
「そういうことではない! 警察官でもない私が使えるはずが無かろう!」
「検事」
食ってかかる御剣にうなずきながら、糸鋸はその両肩に手を置いて見つめる。その真剣な目に御剣は黙った。
「自分が一番辛いのが何か、知ってるッスよね。……どうかお願いッス」
はっとしてうつむいた御剣の頭を糸鋸はいつものように撫でる。
「ホントはこんなの使うようなコトが起きないのが一番ッスけど」
「……そうだな」
御剣の同意に糸鋸がほっとしたのも束の間、済まなさにうつむいたはずの御剣が顔を上げ、糸鋸を見据える。
「私が恐れる事も同じだ」
「え」
「キミは私の知らない内にクビになる名人だからな。私の相棒だと言うなら、無茶をする前にまず私を思い出せ」
そして御剣はその指を真っ直ぐ突き付けた。
「だがそれでも間に合わず、そして結局どうにもならなくなった時は」
その迫力にゴクリと唾を飲み込む糸鋸に御剣は微笑む。
「その時は私がいる」
ゆっくりと指を下ろして、御剣は内ポケットに無線機をしまった。
「助けを求めろ。誰より先にこの私に、だ」
晴れ晴れとした顔の御剣。想像していたのとは違う展開。拍子抜けしたように口を開けたまま、そんな御剣を見つめている糸鋸。
だが糸鋸は思い出す。その唇からこぼれる言葉は確かに幾度となく自分を救ってきた。
そして今は何より幸せな愛の証を与えてくれる。
「ありがとう。約束する。肌身離さず持っていよう」
感謝の言葉を紡ぐ御剣の唇を眺めて喉を鳴らす様な糸鋸の様子を見た御剣が、軽く眉をひそめて薄く笑う。
「……まずはキミの空腹を救おう」
「あ、分かったッス?」
「愚問だ」
「……じゃあエンリョなく頂くッス」
素早く御剣を抱きすくめると、糸鋸は唇を奪う。
「……ッ!」
「……最高のデザートッスね。それじゃメシ、行くッス」
「順番が逆だッ!」
真っ赤になって憤慨する御剣の手を取って、糸鋸は誰かに見られてはいなかったかと辺りを見回す。
それも順番が逆ではないか! そう御剣は異議を唱えようとしたが、しっかりと手をつないで歩き出した糸鋸に引かれる内、それもどうでもよくなって瞳を伏せ、幸せの内にため息をついた。