「ノコー!王子が退屈しておられるぞー」
「!ただいま参りますッスー!」
なんだかよく分からないノリだが、同僚の言葉に糸鋸は心底感謝した。
海外研修を終えて戻った御剣。警察局、検事局の馴染みのメンバーを集めて糸鋸は復帰パーティーを開いた。
黒い噂の絶えなかった御剣が検事局の腐敗を自らの進退を賭けて暴いた事で、多くの人間がこの祝いの席に参加している。
その賑やかな様子に糸鋸は満足だった。
向こうには同僚の言葉に戸惑った様子の御剣が、こちらを向いて困ったような笑みを浮かべている。
このチャンスを逃す手は無いと、糸鋸は突進した。
「検事ー!」
「な、なんだ」
上気した糸鋸の顔が御剣に迫る。
「糸鋸圭介、ずっとお供させて頂くッス!」
そういうと糸鋸はまるで子供をあやすように御剣を頭上に抱え上げ、軽々一回転する。
「刑事、やめたまえ!」
焦った声を出す御剣をそっと下ろして抱きすくめると、ずっと夢見ていたその柔らかな頬にキスをした。
周りは大喝采に包まれた。
検事はいい匂いッス…と思う間もなく糸鋸の口に何かが入ってくる。その正体に気付き愕然とした糸鋸は、抱き締めていた腕を残したまま体を離した。
そこにあったのは糸鋸が初めて見る御剣の顔だった。
「…ふむ」
御剣は糸鋸の腕を静かに外すと、髪をかきあげた。
かきあげる時に涙を拭ったのを、糸鋸は確かに見た。
大きく息をつくと胸を張って御剣は皆に向き直る。
「この辺でおいとまします。今夜はありがとう皆さん。これからもよろしくお願いします」
深々と礼をする御剣に拍手が送られる。
「あ、じゃ、じゃあ送って行くッス」
慌てる糸鋸に俯いたまま首を振る御剣。
顔を上げて何事もなかったように微笑んだ御剣はそっと会場をあとにした。
「おいおい、どうした」
「やっちまったなーノコ。ありゃ相当怒ってるぞ」
怒った?あれが?
「いくら検事殿が我々とまた働いてくれるのが嬉しいからってはしゃぎ過ぎたな」
「まあ飲め。お叱りは明日受ければいい。おまえがな」
肩を叩かれて、糸鋸は俯いていた顔をあげた。渡されたグラスを口に運ぶ。同僚達の軽口が遠くに聞こえる。
さっきまで腕の中にあったしなやかな体。
吸い付くような肌。
そして流れていた涙。
冗談で終わるはずだった。いつものように給与査定を持ち出されておどかされ、また笑って終わるはずだった。
青ざめて瞳を震わせていた御剣。
御剣の涙。それ自体は初めてではない。地震が、悪夢が御剣に襲いかかる時。その涙を見る度、糸鋸は御剣を守ると決意を新たにする。
だがあの表情を糸鋸は知らなかった。自分が持っていた想いは、彼の重い過去の出来事にも勝る嫌悪を催すもの。それを思い知らされ、嫌な汗が流れる。
本気で追究を受ければ、どんなに隠していても真相にたどり着かれる。相手は御剣怜侍だ。そしてたどり着かれてしまえば、自分はもう二度とそばに置いてはもらえない。
やっと戻ってきてくれたというのに。浮かんで来る涙を酒で飲み込む。
「それでも、どうしても自分は…検事…!」
頬に残る彼の唇と髭の感触。
抱き上げられた時の浮遊感もまだ体に残っている。
だが、あの驚きに目を見張り、傷ついた糸鋸の顔。
私はあそこで皆と一緒に笑っていなければならなかった。
毛布にくるまって、御剣は震えた。
彼が何事もなかったかのように振る舞うならまだ望みがある。
だが先程のあの様子を見る限り、明日、私は真実を追及されるだろう。
戻るべきではなかった。あんな悪ふざけに乱されるようでは。
どんなに努力しても振り払えない思いはある。成歩堂に再会するまで、苦しめられた悪夢。生涯それを抱えて生きるのだと諦めていたように。
御剣は毛布に爪を立てる。隠しながら生きるのは最早無理だと証明された。
ならば残された道は。
「こんなにも簡単に終わってしまうのだな」
自分のその言葉に御剣の目には涙が浮かんだが、もう彼はそれを拭ったりはしなかった。
いつもと変わらない一日。それももう終わる。扉の前で止まる重い足音も、その後に続く遠慮がちなノックも。
御剣は憂鬱を払えないまま答えた。
「どうぞ」
執務室に入った糸鋸は、だがいつもとは違い、扉の前から動かない。
一日中悩んだ挙げ句、逃げ出したくなる自分を叱咤してここまで来た糸鋸だったが、いざとなると勇気が消し飛ぶ。
顔を上げた御剣と目が合うと、慌てて俯いた。
「昨夜の事、すまねッス」
「なぜ謝る。キミはふざけていた。周りも大笑いしていた。宴は盛り上がったのだから構わない」
「でも…検事は…イヤだったッスよね。だからいきなり帰って」
「疲れただけだ」
「検事、泣いたッス。そんなにイヤな事だと思わなかったッス。許して欲しいッス」
「泣いてなどいない」
「口の中に入ってきたのは涙だったッス。間違いないッス」
「それは…あくびをしたからだ。疲れていた。それだけだ」
「検事の眠い時くらい分かるッス」
「気のせいだ。キミは酔っていただろう」
「酔ってなかったッス」
デスクに頬杖をついて顔を背けて話を聴いていた御剣は、勇気を振り絞って糸鋸を見た。
「それも謝らないといけないッス。酔ったフリしただけッス」
「何?酔わずにあんな事をしたのか。キミのサービス精神には感服する。だがそのために私を使うのはどうかと思うが」
「…ち、違うッス。尊敬する検事が帰って来てくれたのが本当に嬉しくて…その酔ったフリすれば、」
「だから尊敬している相手にあれは無いだろう」
「その、自分は検事を尊敬して、それからその、」
「まあいい。ならばこれからもああした事は起こり得るのだろうか」
「本当はずっとしたいと思ってたッス」
「それでは言っておかねばなるまい」
「減給ッスか」
今日、この時ばかりは御剣の口からいつもの査定に関する通告が出てくるのを糸鋸は祈った。
拳を震わせて御剣を見ている糸鋸。
むしろ今はキミが泣きそうではないか。御剣はため息をつく。
「安心するがいい。キミはもう私に減給される事などないのだよ」
糸鋸は無言で震え、目を反らした。減給されない。つまりもう部下ではないという事だ。気付かれてしまった。
恐る恐る糸鋸が目を上げると、そこには誰を責めるでもない御剣の怯えた瞳が自分を見つめ返している。
その瞳に糸鋸はもう一度震えた。本当の事を伝えなくてはいけない。御剣自身に暴かれる前に。それがせめてもの誠意だ。
だが御剣の方が早かった。デスクに両手をついて御剣は立ち、目をつぶって自分をかき抱くと、今この瞬間まで迷っていた証言を始めた。
「言ってなかった事がある。私の傷が痛む時はそれを守り、傷が癒えてからはその隙間を埋めてくれた。それがキミだ。それを認めるのは怖かった。気のせいだと思いたかった。離れて忘れてしまいたかった。だが出来なかった。
離れて初めてキミに連絡をした時の穏やかで幸せな気持ちは今も忘れない。そしてそれを守りたくて私は答えを探した。簡単な事のはずだった。この想いを隠し、検事であり続ける。そうすればキミが刑事である限り、ずっとここにいられる。キミと共にいられる。そしてまた私を満たしてくれるだろう。そう思った」
「いや、そんな自分は…えっ?」
糸鋸の震えは御剣の自白を聞く内に治まり、その言葉の意味が恐怖に痺れた頭に届きだす。
検事は今なんと…
目を見開いたまま動けない。その糸鋸の下に御剣は歩み寄った。一歩一歩、終わりに近づくのを意識しながら。
「構わない。キミが私を敬愛してくれた事は感謝している。そのために何くれとなく与えてくれた献身にも。
キミはあまりに優しく真っ直ぐだ。このような思いを私が抱いていると思いもせずに私に接してくれる。
隠しておけない事に気づいた私はここを離れた。それも無駄だった。この瞬間が来る日を延ばしていただけだったのだ。
…もう気づいているだろう。これが今までキミが尊敬していたという人間の正体だ。軽蔑するがいい」
「ち、ちょっとその、検事、自分は、」
「だから私にはアレは拷問に等しいのだよ。…以上で証言を終わる。今まで…ありがとう。本当に感謝して」
「ま、待った!」
自分をすり抜けて出て行こうとする御剣の腕をすんでのところで糸鋸は捕まえた。
「行かないで下さい」
「尋問は許さない。キミの無邪気な行為に対して私が取り乱し、傷つけてしまった事は謝る。困らせて済まなかった。もう二度とキミの前に」
「ああして酒のせいにでもしないと一生できないッス」
後ろを向いたままの御剣にがっちりと腕を回して、糸鋸は呟いた。
「検事は知らないッス。自分には検事が必要ッス。置いて行かれて、長い間一人にさせられる事がどんなに辛かったか。本当は会う度にこんな風に抱きしめたくなるッス。検事だからとか、尊敬してるとか、そんな事じゃなくて…本当に大好きッス」
「やめたまえ。私はもうキミが望むような男ではいられない。終わりだ」
「終わらないッス」
「分からないのか。私はキミを愛していると言ったんだ!」
「分かってないのは検事の方ッス」
そういうと糸鋸は御剣の肩を掴んで振り向かせ、青ざめた御剣の頬に手を触れた。
不安に震える御剣の瞳がすぐそばにある。もう我慢する理由は無い。
そのまま抱きしめるとずっと欲しかったその唇に口づけた。
瞬間御剣の体が強張った。だが糸鋸に御剣を離す気はもうなかった。
「証拠はこれッス」
腕の中で崩れそうに力の抜けた御剣の唇を解放し、糸鋸はまっすぐ御剣を見つめると言った。
「酔ってもいないしふざけてもいねッス。今も、昨日も。そして検事もこれで証明したッス。拷問なんかじゃないッス…って!?」
御剣の目からあふれる涙に糸鋸はたじろいだ。
「夢を見る…」
震えながら御剣は声を絞り出した。
「全てキミに知られてしまい、軽蔑され罵られる。キミを失ってしまうのだ。そして今、私はそれを現実にしてしまった…!」
「それはただの夢ッスよ」
大きな手のひらで頬を包み、涙をそっと拭って糸鋸はもう一度キスをした。
「今自分がどんなに幸せか分かるッスか?ずっと欲しかった言葉を一杯もらっているッス」
「なぜだ!こんな事はおかしい!キミはそう思わないのか!?」
「思ってたッス。だからずっと、検事がいなくなった時だって自分は我慢したッスよ!」
震えている御剣の耳元で糸鋸の証言は続く。
「真実はいつか顔を出す…検事の言う通りッス。どんなにおかしくても無かった事になんか出来ないッス!」
そして糸鋸は力一杯御剣を抱きしめた。
「もう一人でどこかに行くなんてしないで欲しいッス」
何度か御剣を抱いた糸鋸の懐は、今は違う意味を持って御剣を包む。
「キミは…」
そして抱きしめる力で真実を告げる。
「本当に…」
恐る恐る御剣は糸鋸の背中に手を回した。涙が糸鋸のシャツに染みをつくる。
「…愛してるッス。どこまでも一緒ッスよ」
証言は終わった。糸鋸の広い背中は揺るがない。
判決を出す者も閉廷を告げる者もいない。
二人だけ。
肌寒さに糸鋸は目を覚ました。腕枕は外れていて、胸の中に御剣の頭がある。
少し体を離して顔を見てみた。丸くなっている御剣の幸せそうな寝顔に糸鋸は安心する。
昨日自分に転がり込んだ幸運が胸の中で寝息を立てている。こうしているだけで、なぜこんなに力が湧いてくるのか。彼がいてくれればどんな困難も乗り越えられる。糸鋸は愛される力を実感する。
前髪が頬にかかり、長い睫毛を隠していた。もっと見たくなって前髪を払うと、御剣は目を覚ました。
「おはよッス」
「…あ…」
糸鋸の笑顔が御剣の脳裏に昨日までの一つ一つを思い出させる。そして、今目の前に片手で頬杖をついて自分を眺めている。そうだ。
糸鋸は約束を守った。
その事に気がついて俯くと、御剣は毛布を被ろうとする。
その腕を捕まえ、糸鋸はキスをした。
「…圭介」
昨夜幾度も口にした名前が自然にこぼれ、御剣の頬に赤みが差す。
「ッス」
糸鋸が満足そうに胸を張る。
「想像してたのと違って、なんかスゴく可愛かったッス」
御剣の頭を撫でながら糸鋸が言う。
「キミこそ想像とは全然違っていた…」
「ん?想像した事あるッスか?」
「それは…その、う…」
「ウレシイッス」
糸鋸は真っ赤になってまた俯いた御剣を満足そうに眺め、起き上がって脱ぎ散らかしていた服を身につける。
「今お茶を淹れてくるッス」
「いや、それは私が」
一緒に起き上がろうとする御剣の頭をぽんぽん、と叩いて糸鋸は微笑む。
「前に一緒に観た映画、覚えてるッスか?怜侍クンは待ってて欲しいッス」
勿論覚えている。
キッチンに行った糸鋸の背中を見送ると、御剣はパジャマを羽織る。乱れているベッドを眺めると、また恥ずかしさに身を縮めた。
目を開けたら、そこに糸鋸の顔があった。まだ夢の中にいるかのようだ。そう思って御剣は枕を抱く。
糸鋸の鼻歌が微かに聞こえてくる。
彼が一緒にいる。当たり前のように。いつもの部屋が何故こんなにも眩しい?
紅茶の香りを漂わせて糸鋸が戻ってきた。
「あれを観てから、朝お茶を淹れてあげるのが夢だったッスよ」
足元にあったベッドテーブルを御剣の膝の上まで持ってくる。
「さあ、どうぞ」
「…ありがとう」
カップを受け取り、御剣はそのお茶を飲む。
「美味しい」
「良かったッス。見様見真似ッスから」
カップを置いた御剣が、背中を向けて茶を啜る糸鋸にもたれる。
「…キミはずっと見ていたのだな」
「紅茶を淹れる時、自分にも淹れてくれるのが嬉しかったッス。フォーザポット。覚えてるッス」
「一杯だけ淹れるものではない…キミがいると無駄にしなくて…ん?」
気付いた御剣が確かめるように慎重に口に運ぶ。
「キミは茶葉を」
「いつも自分の分も淹れてくれてたッスね」
「…本当に見ていたのだな」
「当たり前ッス」
優しい味のするそのお茶を御剣は静かに飲み干した。
「あの時は帰って来た事を本当に後悔した。離れたままならよかったと」
「自分と逆ッスね」
糸鋸は振り返ると御剣の肩を抱いた。
「自分は仕事なら堂々と一緒にいられると思ってたッスよ。だから行ってしまった時は悔しかったッス。何とか向こうに行こうにも周りには秘密だとか来てはならないとか言うし。気が気じゃなかったッス」
「悪い事をした」
しょげている御剣の頭を肩に回した手で胸に押し当てる。
「いいッス。その分ずっとここにいてもらうッスよ!」
「約束する」
御剣は微笑を浮かべると、顔を上げ、糸鋸の唇を求めた。
「今ならどんな凶悪犯も見逃してあげられる気分ッス!」
「ここからは」
「ハッ!」
玄関の前に二人は並んで立っている。
「行こう、刑事」
「…もう一度だけ、お願いッス」
廊下に目を遣る御剣を糸鋸は抱きしめ、ゆっくりと口づけた。
そっと、名残惜しそうに体を離す。そして敬礼した。
「検事局へお送りします。御剣検事殿!」
糸鋸の肩に片手を預け、寄りかかると御剣は
「その前にカフェに寄ってくれないか?刑事。朝食を仕入れよう」
そう言って横目で笑う。
「了解ッス!」
連れだって歩きだす。これからも。そう二人は確信する。
二人で歩いていくのだ。たどり着いた真相を守りながら。