その日上級検事執務室に届けられたその荷物は、極彩色の箱に収められた何か、だった。
デスクの大きなスペースを占めるその箱を前に、腕組みをする御剣と、その横でゴクリと音を立てて唾を飲み込んだ糸鋸。
「糸鋸刑事。私は今日ほど、キミがいてくれる事を頼もしく思ったことはない」
「いつにもまして、禍々しい何かを感じるッス…けど大丈夫ッス。検事の事は自分がこのイノチに代えても守るッス!」
荷物の差出人は大場カオル。成歩堂と並んで、御剣に幾度も辛酸を舐めさせた彼女は、御剣の思いに反して季節を問わず様々なものを送ってくる。バレンタインデーもその例に漏れず、毎年チョコレートが送られて来た。だが今年のサイズは尋常ではなかった。
「では、あ、開けるぞ」
震える手を伸ばす御剣。だが、どうしてもそれ以上彼の手は動かない。
「検事!そんなツラい思いはさせないッス!自分がやるッスよ!」
糸鋸は御剣を片手で制し、箱に手を掛けると一気に包装をはがして箱を開けた。
「ぐはあッ!!」
二人は同時に執務室を揺るがす勢いで声を上げた。
一枚のプレートのように鎮座する巨大な板チョコ。そしてそこに書かれているのは。
“酒池肉林” カオル
「…」
「キ、キズは浅いッス!」
「あのご婦人は…私はどうすれば良いのだッ!」
唇を震わせ、がっくりと膝を付いた御剣の肩を、糸鋸が強く抱きしめる。
「…ココアにして飲んでしまえばいいッス」
「何?」
「これからしばらくは、午後のティーはココアッス!自分も付き合うッス!それはもう、育ち盛りの仔犬のように飲み干して見せるッス!!」
「圭介ッ…!キミを…愛している!」
「怜侍クゥゥン!」
「…精神状態に不具合が生じていたようだ」
「そうッスね…」
デスクの上は何事も無かったように片付けられ、御剣自慢の茶器がいつものように並ぶ。
先程の大騒ぎが嘘のような御剣の優雅な微笑みに安心して糸鋸はカップの中の華やかな香りを味わう。
とはいえ先刻の御剣は、怜侍クンカワイイランキングのかなり上位に入ったので、心の中でガッツポーズしてオバチャンに感謝する糸鋸だった。
御剣が紅茶を飲むデスクの横に無造作に置かれたいくつもの紙袋からは、溢れんばかりのチョコレートが覗いている。それに目をやると糸鋸は意を決した。
「それにしても、毎回スゴい数ッスね」
「キミは?」
「いつも通り検事の足元にも及ばないッス。あ!今年は一つ増えたッス」
「ミクモくんか」
「そうッス」
糸鋸が見上げると、御剣は隣に腰を下ろして優雅に足を組んだ。
「毎年キミがもらったチョコの話にはイライラしたものだ。義理チョコだと言われても、どうにも…」
糸鋸が動悸の激しくなる胸を抑えようと深呼吸して横目で眺めると、御剣は口の端に恥ずかし気な笑みを浮かべている。
「今年は私もその中に加えてもらえる訳だ」
そんな御剣の告白に勇気を得て、糸鋸は言った。
「じ、自分なんか、もっとずっと!毎年検事に選んだチョコを自分で食べてた悔しさ…それも今日までッス!」
糸鋸は立ち上がり、執務室を出て、ドアの横に隠しておいた袋を手に戻ると深呼吸して、御剣に突きつけた。
「さあ、受け取るッス!世界でイチバンのこのアイを!!」
御剣が赤くなる顔をうつむけて袋の中から取りだしたのは、Kの字が真ん中にデコレーションされたハートのトロフィー型のチョコレート。
「検事・オブ・ザ・自分ッス!」
「これでは…もったいなくて食べられないではないか」
「そう言うと思ったッスよ。大丈夫、食べてもらう用はこっちッス!」
そう言って糸鋸がポケットから取り出したのは、綺麗な包装にくるまれて紅いリボンを掛けられたキスチョコだった。
「残りで作ったッス!」
「これはこれでもったいない…」
「ダーメッスゥー。折角マスターにスゴいウイスキー取り寄せてもらったッスから。ちゃんと食べてもらわないと、」
「ウイスキー?今夜はマスターに私達の分もディナーをお願いしたのだが、何も聞いていないな」
「えっ?」
「うム。今日はコースの予約客のみだそうだ」
「そうッス。だからウイスキーだけ買って帰るはずだったッス。…で、でも、バレンタインッスよ?あそこもクリスマスはカップルだらけだったじゃないスか。あの時は狩魔検事も一緒に来てくれたからまだカッコがついたッスけど…」
「フッ。たまたま今日はバレンタインデーだというだけだ。日夜捜査に明け暮れる我々に盆も正月もバレンタインデーも関係無い」
御剣が優雅に手を広げる。
「心配はいらない。まかせておきたまえ」
糸鋸は困惑して頭を掻いたが、御剣は自信たっぷりに笑顔を浮かべている。
「…そうッス。考えてみたら自分、ずっとこういうの憧れてたのに行かない手は無いッス!」
晴れ晴れとした糸鋸の笑顔に御剣はうなずいた。
「じゃあ、後でまた迎えに来るッスから」
「ああ。気をつけて。本当にありがとう」
御剣がチョコレートのトロフィーを大事に抱え、糸鋸に触れるか触れないかくらいの頬擦りをすると、大任を果たしてホッとしていた糸鋸の顔が真っ赤になる。
御剣の微笑みにぶんぶんとうなずいて慌てて出て行く糸鋸の背中に、御剣は心の中で抱きついた。
「ハア…」
糸鋸がうっとりと辺りを見回す。いつもなら客が数人はいるはずのシガールームには二人だけ。
今夜の為に用意されたダイニングテーブルの上には花が活けられ、キャンドルが灯されていた。糸鋸が持って帰るはずだった年代物のウイスキーが豪華な化粧箱と共に置かれ、そしてマスターからの心尽しとして、チョコレートだろう小さな包みも二つ置かれている。
「カウンターとテーブルは全て予約されていた。ここなら用意出来るという事だったのだ」
「…」
二人が仕事が一段落した夜をこのバーで過ごすようになったのは、もうずっと以前からだ。
御剣が日本を離れた時も、糸鋸はふらりとこのバーを訪れては、二人で解決した事件を思い、マスターに御剣のいない寂しさをこぼしたものだった。
再び二人で現れるようになった彼らの事をマスターが喜んでくれているらしい事は糸鋸も十分感じていたし、それがために特別扱いしてくれた事も想像に難く無かった。
「さあ」
食前酒のグラスを掲げた御剣に、糸鋸は慌ててグラスを合わせる。
運ばれて来た前菜を静かに口に運び出した御剣の満足そうな顔にホッとして、糸鋸は甘い一時を味わう事にした。
御剣がテーブルの上にそっと差し出した小さな箱を糸鋸が開けると、そこには細身の葉巻が並んでいた。手のひらの上に出して香りを確かめる。
「これ、チョコの匂いがするッス」
「最初はチョコレートにしようと思っていた」
ため息をついて顔を上げた糸鋸に恥ずかしそうに微笑んだ御剣はうつむいて、
「だが私のコイビトは刑事になるために生まれたような男で…だから、バーでグラス片手に葉巻をくゆらす姿もきっと似合うと思った」
と呟く。
「う。そんな事言われたら、もうポカ出来ないッス…」
糸鋸はライターを取り出し葉巻に火をつけた。冷たい音を響かせて灯った炎が御剣の穏やかに揺れる瞳に映る。
頭を掻きながら甘い煙を吐いた糸鋸の目に光る男の決意は、頼りない言葉とは逆に天才検事の相棒に敵う強さで。
「しないように努めたまえ」
そして御剣はその胸を撃ち抜いた糸鋸のチョコレートを口に放り込み、ほろ苦い恋の味に瞳を伏せた。