「御剣様」
音も無くそばに控えたボーイが恭しく頭を下げた。
ホワイトデーに、と御剣が用意したのは、ここ、ホテルバンドーインペリアルを会場にしたアフタヌーンティーパーティーだった。
見知った女性達を招いてのティーパーティーは和やかで、そして朗らかな笑顔に包まれてお開きとなり、ホストとして駆け回った御剣は安堵のため息をつく。
「楽しんでもらえたようだ。礼を言う」
「誠にありがとうございます。…ところで御剣様」
ロビーへの出口で振り返り、何度も手を振る真宵と春美にまた手を振り返す。
我ながら良い思いつきだった。と御剣は軽く背中を伸ばした。
「糸鋸様がこちらでお待ちでございます」
カードキーを渡され、御剣が目をしばたく。
「何?そういえば刑事は…」
辺りを慌てて見回すと、自分と一緒に客を送り出していたはずの糸鋸の姿がどこにもない。
この後二人で最上階のラウンジに移動すると言ってあったのに。
部屋番号を確認して、自分を置いて行った上に一人でエレベーターに乗せようとする糸鋸に少し腹を立て、御剣は眉間にシワを寄せてエレベーターホールへ向かった。
御剣がドアを開けるとそこには部屋いっぱいに飾られた花やバルーン。その部屋の真ん中で、満面の笑みを浮かべている糸鋸が両手を広げて呆気にとられた御剣に抱きついた。
「これは…?」
「ハイティーッスよ、ホワイトデーに。
今日一日大変だったッスよね。今からゆっくりお茶して欲しいッス」
「ハイティー…は、こんなに華やかなものでは、」
その両手の中にくるまれた御剣は、呟きながら糸鋸のスーツの襟を力一杯握りしめ、涙を滲ませ睨み付ける。
「分かってるッス。けど時間的には…あっ」
感動というより不安に震える御剣の様子。
そこでやっとこの部屋が何階にあるのかに思い当たった。
「す、すまねッス、こんな、」
「何故置いて行ったんだ」
「ホント、すまねッス!サプライズしたいばっかりで、」
「…」
御剣は糸鋸の腰に回したその手に力を込めた。
「いつかキミを置いて行った事の仕返しか」
そう言って体を離し、力無く微笑んだ御剣を、糸鋸はおどおどと抱きしめる。
「そんなつもり、全然無いッス!そんな事言わないで欲しいッス…
ホ、ホラ、自分が追い掛けて行った時の思い出のプディングッスよ」
「プディング…」
「そうッス」
確かにテーブルには、湯気を立てたハゲ頭のようなプディングが鎮座している。
「覚えてくれていたんだな」
ようやく機嫌を直したらしい御剣の様子に糸鋸はホッとして肩を撫で下ろす。
特別に頼み込んで用意してもらったプディングの効果は抜群だったようだ。
「パブで初めて食べたのと同じヤツッス。
あん時は、初めて見た食べ物の事より、怜侍クンが美味しいってぺろりと食べちゃったのにビックリして…そんなの滅多にないッスから」
「…そうなのか」
「自分にはプディングは無理だったッスけどプリン作ってあるッス。夜食代わりにスゴく大きいの作ったッスよ!」
「なら、あまり遅くならない内に帰らないとな」
「そうはいかないッス」
プリンと聞いて子供の様な笑みを浮かべた御剣に、糸鋸は得意げに胸を張る。
「成歩堂弁護士のとこのムスメさんが、バーでマジック始めたッス!招待してもらってるッスよ」
「…あッ!」
帰り際に、また後でな、と気味の悪いウインクをして来たのはこれの事か、と御剣はうなずく。
「さあどうぞ」
糸鋸が椅子を引いた。
御剣が掛けると、糸鋸は紅茶を注ぎ、恭しくお辞儀する。
「お疲れ様でした」
御剣の向かいに腰を下ろして、糸鋸はプディングをよそう。
「それにしてもスゴい男ッスね、成歩堂弁護士」
「ム」
「逃亡した依頼人の娘を養子に迎えるなんて、なかなか出来る事じゃないッス」
「そうだろうか」
差し出されたプディングを満面の笑みで受け取って、御剣は頷く。一口食べると懐かしい味が広がった。
「検事になった私と連絡が取れないというだけで、弁護士になって来た男だぞ…ム?」
大きなため息をついた糸鋸を眺めた御剣の顔から笑みが消える。
「さすが、怜侍クンを救ったオトコッス」
「キミはまたそんな事を」
糸鋸の過小評価がまた始まったのか、と御剣は眉をひそめる。
自分は誰より彼を幸せにしたいのに、自分自身の存在が彼の自信を奪っている。だが。
「イヤー、ヘンな意味じゃなくて、ホントにスゴいって思ってるッスよ」
御剣の顔を見た糸鋸は、またやってしまった、とばかりに頭を掻き、今度はパイをよそって御剣に差し出した。
「キミは成歩堂が知るずっと前から、私が非情で、冷酷で、疑惑が記事になるような人間だったと知っていた」
「そんな事無いッス!怜侍クンはいつだって罪を犯したヤツを許さなかっただけッス」
「そう。キミだけはいつもそう言ってくれたな」
コゼーを取って、伏せられたカップを取り上げ、そっと中身を注ぐ。まろやかな香り。
「その言葉が嬉しかった」
テーブルに乗り出していきり立つ糸鋸。だが御剣の静かな笑みに気がついて、糸鋸は握りしめたフォークを置いてゆっくりと座った。
「私の弱さも強がりも全て見ていて、」
料理に合わせたしっかりした味わいの紅茶にうなずき、まだ不安げな顔の糸鋸に差し出した。
「矛盾を指摘し、罪を立証し、成歩堂からの手紙を握り潰したこの手で淹れる紅茶を共に楽しんでくれた。今と同じ様に」
花束のみずみずしい香りと紅茶の香りが混ざり合う。
自分はこの香りを知っている。
糸鋸がうなずく。
執務室で軽い食事と一緒の時に御剣が選ぶ紅茶の香り。今はもう、この紅茶の名前も、御剣のお気に入りの専門店の名前も頭に入っている。
そしてその時間の執務室にはいつも、花と御剣の微笑みがあった。
糸鋸は一度瞬きして、その香りを深く吸い込んだ。
「最初はキミしかいなかった私のセカイは随分賑やかでそして、温かくなった…だが、これを見たまえ」
懐に手をやると、御剣は薄い包みを取り出し、糸鋸に差し出した。
「受け取って欲しい」
呆けたままの糸鋸だったが、受け取ったその包みが御剣からのプレゼントだと気がつき、慌てて封を切った。
警察手帳と同じ大きさの小さな手帳。アンティーク風の革張りのカバーが美しい。
開くとそこには。
「これ…は」
二人の写真が一つ一つのページとなって綴じられていた。宝物にしているファイルに入っているのと同じ、閉廷後や捜査の後に無理を言って一緒に撮ってもらった写真達。それが手帳に合わせて小さく現像されている。
めくる度に少しずつ時は流れ、最後はついこの間執務室で撮られた写真で終わっていた。
糸鋸はアルバムから静かに目を上げた。
「キミと二人だけだったあの頃も、私は信じられないくらい幸せだったのだよ」
静かな御剣の微笑み。他人ならばそれが微笑みだと気づかないだろう。
そして気づく。どの写真の御剣の顔にも、この微笑みが浮かんでいた事に。
礼を言おうとするが言葉にならない。糸鋸はアルバムをそっと抱き締めて頭を下げた。
「失くしたら始末書では済まんぞ」
「…失くさないッスよ」
安心して頭を掻いた糸鋸が警察手帳に重ねてそっと内ポケットにしまう。
「それに…自分の中にはもっともっとたくさんの思い出があって…それはゼッタイに消える事はないッス」
席を立って、御剣は感極まっている糸鋸の頭をそっと抱える。
「そのアルバムは、これからも少しずつ厚くなっていく。いつかポケットに入らなくなるほどになるかも知れない。
それを私は見届けたいのだ」
御剣の腹に顔を埋め、糸鋸は何度もうなずく。
「…そうだな。例えばもし私が成歩堂のように養子を迎えると言ったらキミはどうするだろう」
「それをお望みなら自分は全力で支えさせて頂くッス!」
「そう言ってくれると思っていた」
顔を上げ、大きくうなずく糸鋸。
「ではお願いしよう」
期待を込めて待つ糸鋸の耳に届いた言葉は。
「全力で幸せになりたまえ」
糸鋸が目を丸くして顔を上げた。
「それこそが私の望みの全てだ」
「…どうしてそんな事言うッス…それじゃ、堂々巡りッス…う、うう」
そのまま糸鋸はまた顔を埋め、腰に回した腕に力を込める。
「泣く事はないだろう」
「これは!嬉しナミダッス!」
顔を離した糸鋸は袖でぐいっと涙を拭くと、
「自分はずっと幸せなのに、これ以上どうしたらいいか分からねッス…」
と呟いた。
「それでもだ」
御剣は糸鋸を立たせると、カップを取り上げ、冷めた紅茶を飲み干した。
「この後どこに行くと言ったかな」
「…マジックバーッス」
「その後は?」
「ウチに来てもらうつもりッス。その、プリンが」
「今夜もキミとずっと、一緒にいられる」
その言葉を噛みしめた御剣は、飲み干したカップに紅茶を注いで糸鋸に握らせた。
「それがどれほど私を幸せにするだろう。だからキミにも幸せでいて欲しいと思う。なのにキミは、ずっと幸せだと言うのだ。それを聞いて私はまた幸せになる。
キミの作ってくれたこの連鎖…覚えがある。とても古く温かな記憶だ。キミにもう一度与えてもらうまで忘れていたほど、ムカシの…」
「怜侍クン…」
「だからきっと、ずっとこのままでいい」
「ずっと?」
「キミが望む限り」
「ならホントに、ずっと」
「ずっと、だ」
テーブルに腰を下ろした御剣はクラッカーにたっぷりとクリームをつけると糸鋸の口につきつける。
「泣き虫め」
「…お行儀悪いッスよ」
もう一度目を擦って紅茶でクラッカーを流し込むと、糸鋸は自分の小言を欲しがる可愛いお坊っちゃんに、クリームのついた口づけを捧げた。