ヤタガラス。真実を盗む義賊。
法を超えて罪を暴こうとした彼ら。その翼はもう羽ばたく事は無い。




公判を終え、執務室に戻って書類を整理し終えた御剣が、帰国して最初の勝利に晴れやかな笑みを始終浮かべている糸鋸を振り返った。

「…キミも、真実のためなら例え不正な手段でも証拠を求めるか」

「そうッスね。おやッサンもそういう気持ちだったと思うッス。ナルホドーと局長室に忍び込んだの思いだすッスねー」

「駄目だ!」

感傷に浸る糸鋸は、突然響いた御剣の声にびくりと身体を震わせた。

「絶対に駄目だッ!」

御剣が怒っていた。現場や法廷での給与査定を持ち出しての叱責とは明らかに違う怒りに糸鋸は目をしばたく。

「そんな事は決してあってはならない!」

糸鋸は気付かない。
御剣の内には、父、一条検事と馬堂刑事の間の信頼を二人に重ねた美雲の言葉が、あれから何度も繰り返し響いていたのだ。

「で、でもあの時は、検事が辞表書いたりして、その、検事のために何とかしたくて、」

切羽詰まってそう言った糸鋸だったが、まるで今にも泣き出しそうな顔で糸鋸を見つめる御剣に、続く言葉を失った。

「キミは刑事だ。それ以外のキミなど、私は認めない」

その剣幕に糸鋸は小刻みにうなずくしか出来ない。

「あんな事をさせてなるものか…!」

肩を震わせてうつむいた御剣に、掛ける言葉がどうしても浮かばない。
御剣のためなら何でも出来る。そして何でもやって来たつもりの糸鋸。彼への狂おしいほどの恋を昇華したそれらの好意を御剣は受け入れてくれている。そう思っていたのだが。

「馬堂刑事に手錠を掛けた時、キミはどう思った」

泣きそうな顔のまま糸鋸の胸ぐらを乱暴に掴み、御剣は吐き捨てる。
御剣が怯えた時と同じその行動に、反射的に抱きしめようと出してしまった手で糸鋸は宙を掴んだ。

自分の何気ない返答が、御剣をここまで狼狽させてしまった。どうすればいいか分からず、糸鋸は所在無げに辺りを見回す。

「私がキミの罪を立証する事になったら、私はどうすると思う!」

そして御剣は顔を上げ、震える声で懇願した。

「…頼むから、無茶はするな」

力無く手を離し、がっくりとまたうつむいたその顔に戸惑いながらも糸鋸は自分の胸を叩いて見せる。

「自分、御剣検事の部下ッス。無茶なんて思った事無いッスよ。遠慮無くアゴで使えばいいッス」

「部下?キミは私の相棒ではないのか!?その言葉を違えるつもりか!」

糸鋸の言葉にもう一度顔を上げ、御剣は床を踏み鳴らし、拳を降り下ろす。

「は、はいッス!無茶しないッス。けど」

焦って答えた糸鋸の顔が曇る。自分を気遣うその言葉。まるで自分が御剣にとって特別な人間であるかのような。

そういうの、ずるいッスよ。

相棒って、自分が思いたいだけッス。検事は部下としか見てないじゃないッスか。どんなに近づかせて欲しくても。

歯痒さが、糸鋸の顔を曇らせる。

「そうしないと検事を守れないと分かってる時は…勘弁して欲しいッス」

「私などどうでもいい!言ったはずだ。それが真実をねじ曲げる事になっても私はキミを救うと。だからいかなる真実が隠されていようと、キミをヤタガラスになどさせない!
キミがどうしてもヤタガラスにならねばならぬと言うなら…私もなってやる!」

糸鋸のロジックが望まぬ答えを導く。
御剣は刑事である自分を必要としている。そう言っているのだ。

「そんな事、させられないッス。…絶対ならないッス。約束するッス」

半ば諦めて糸鋸は言った。
やっと戻って来てくれたのだ。自分はそれで充分のはずだ。自分は御剣検事の一の部下。それだけは誰にも負けず、そして譲らない。それでいい…

糸鋸はざわつく心を何とか宥める。

「検事も無茶しちゃダメッス。どこにも行かないで、ずっと自分と捜査してくれないとダメッスからね」

「無論だ」

一目。ほんの一目でいい。刑事ではない、自分自身を見て欲しい。
だが、それは叶わぬ夢。目の前にいるこの人はその気位の高さではっきりと告げた。刑事以外の自分は認めない、と。

「…男、糸鋸圭介。イッピキの刑事として御剣検事にこれからも全力で尽くす所存ッス」

共に捜査が出来れば。それで一緒にいられるのなら、何を拘る事があるだろう。
そう思いながらいつものように敬礼しようとした糸鋸は、動かない手に気づく。それだけでは納得出来なくなっている自分。

離れていた間に、自分で思っている以上に想いが大きくなっていた事に、糸鋸は一度大きく震えた。

吐き出してほっとしたのか、力の抜けた瞳で自分を見ている御剣。
変わらない美しいその佇まい。静かな微笑。洒落た皮肉。
今はそのどれもが消え失せて、ただ自分が馬堂刑事のようにどこかに消えるのを恐れている。



ひどい人ッスね。検事は。
自分を置いて行ったクセに、何もかも捨てても尽くしたい自分の気持ちを無視したクセに、戻って来た途端に元通り部下でいろなんて。
ずっと、追いかけたいのを我慢して。一緒にいたいのを我慢して。
それでも自分は、そんな勝手な検事が好きで。忘れられなくて。



「…検事」

デスクの向こうに行こうとする御剣の腕を糸鋸は掴む。
その強さに御剣が目を見開き、振り返った。

「一杯、付き合って欲しいッス」

「今用意しようと思ったところだ」

「紅茶じゃないッス。…呑みに行くッス」

この腕を、絶対に離さない。

糸鋸に真っ直ぐに見つめられて固く結ばれた御剣の唇。

「帰国祝いッス。呑み明かすッス」

「…うム」

そこからこぼれた言葉に、糸鋸は大きく息をつき、そして漸く上がった手を額に敬礼した。

「お疲れさまでした、御剣検事殿!」

ゆらりと揺れた御剣の瞳はすぐに生気を取り戻し、こわばっていた唇には冷笑が浮かぶ。

「全くだ。帰国早々慌ただしい事この上なかったな」



事件の跡がまだ残る執務室を二人は後にする。
検事と刑事は仕事を終えた。
ただの男でいられるほんの少しの時間を分け合うために、二人はかつてのように歩き出す。
どんなに時が過ぎても、まるでずっと一緒だったように合う歩調。
それに気づいて顔を同時に見合せた二人は、同時に顔を赤らめて、そして同時に顔を背けた。

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