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2014-06-17
松浦ケントシリーズ
愛しのマー
シ in
ラオス
1.グリーン・カレー
愛しのマーシ、彼女は、松浦ケントに真のプラトニック・ラヴと母なる豊かな川メコンのよう
な感性をくれた。
私にとって真のプラトニック・ラブとは、グリーン・カレーの味のような気がする。
自宅の庭に有るラオスの天然の香辛料を使った地味な料理だが、マーシの作ってくれたグリー
ン・カレーは絶品だった。
私は、そのグリーン・カレーを何皿もお代わりした。
以後、シンガポール、タイ、マレイシア、日本のレストランで、メニューにグリーン・カレー
があれば、私はグリーン・カレーを食べて来たが・・・・・
それらのグリーン・カレーからは、豊かなメコンとラオスの恵みは感じられないのである。
2.ラオスへ
その年の7月、私は仕事でラオスへ赴くことになった。
ラオスのビザを取るために、私は、バンコクに3日滞在した。
バンコクは暑く、気温40度を越していた。
交通渋滞も渋滞時間が長く、車が行列を作っている。
バンコクからラオスのTKKまでは、タイ国内航空で、一時間、TKKの対岸の空港に着く・・・・・
ベトナム戦争の際、米軍が作ったかまぼこハウスの到着ロビーがそのまま残っている。
タイとラオスの国境は、母なる川メコンだ。
私の恋愛のように、今にも沈みそうなモーターボートが国境を往来している。
3.恋愛に落ちる為に、必要な見詰め合うベストタイムは3秒前後
マーシに初めて会ったのは・・・・・
私が、ラオスの入国審査を終えて出てくると、旅行社のデスクが有った。
そのデスクに、マーシが座っていた。
「どこから来たの」と、マーシから私に声を掛けて来た。
「日本から来た」と言った。
その間、私とマーシの見詰め合った時間はほぼ3秒である。
「男と女が恋愛に落ちるための見詰め合うベストタイムは3秒前後」
「自惚れ刑事に出て来る栗橋教授を実感したようだ」と、私は思った。
マーシは、テレサ・テンを細身にして美形にしたような女性だった。
彼女は、性格も良く、とにかくのんびりしている。
それから暫らく、私はマーシと会う機会が無かった。
私の誕生日は、8月7日だ。
「誕生日、おめでとう」と、マーシがバースデイケーキを私のところに届けてくれた。
この時から、二人の交際が始まった。
彼女は、出入国審査所の係官に、私、松浦ケントの誕生日を尋ねたようだ。
4.TKKの生活
ラオスは、仏教国で男女の交際については厳格である。
未婚の男女が、手をつないで歩くことなどとんでもないことだった。
ラオス人は温和な性格で、言語はタイ語に似ている。
それに、私のようなプアー・ジャパニーズに対しても慈悲深いのだった。
ラオスは、フランスが統治していた国だ。
フランスの統治国は、貧しいところが多い。
例に漏れず、ラオスも貧しい国だった。
香港やシンガポールを見れば、英国とフランスとの統治政策の差が歴然と分かる。
フランスから唯一ラオスへの置き土産は、美味しいフランスパンぐらいだった。
ラオスの美味しいフランスパンは、今でも私の印象に残っている。
上水道は無く、井戸が主体で、雨が降ると赤く染まった水で私は顔を洗っていた。
私をよく知っている人たちは、私が、今、ラオスという不便な土地で生活していることを
誰も信じないだろう。
他人は、私のことを苦労知らずの人間だと思っていたからである!?
5.マーシの家族
マーシの家族は、6人だった。
しかし、彼女の父親はラオスにはいなかった。
ラオスの内戦中、彼女の父親は、メコン川をタイ国側へ泳いで渡り、難民としてアメリカへ
移民したのである。
彼女の父親は、そのまま一度もラオスに戻って来ないまま、アメリカで再婚していた。
マーシの姉弟は、姉一人、妹一人、弟一人だ。
既に、姉妹は結婚していた。
妹、弟、母とマーシは、同居していた。
ラオスも、夫婦別姓で、マーシだけが父の姓を名乗っていた。
だから、マーシの父親は、彼女とアメリカで一緒に生活するのを希望していたのである。
マーシは、ラオスの首都ヴィエンチャンにあるアメリカ大使館に、5年間続けてビザ申請をした後、やっと彼女の
ビザが下りた。
6.恋愛のインフラ
私は、ラオス語が全然できなかった。
たぶん、広東語、タイ方面の言葉は、私には不向きなのだろう!?
私たち二人の英語は、日常会話を少々できる程度であった。
二人の間には、それだけで十分だった。
それでも、私たちは二人で一緒にいるだけで愉しかったし、意志の疎通も出来た。
「二人で一緒に居れば必要なものは時間が過ぎると共に、後から着いてくるだろう・・・・・」
「とにかく、二人の恋愛のインフラだけは整備しておこう」と、私は思った。
私は、週に2、3日、マーシの家の二階でラオス語を習って、時々、二人で外食をした。
「真のプラットニック・ラブは、やはり遅咲きなのだ」と、その時、私は、勝手に解釈していた
のである。
7.見送り バンコク
アメリカのマーシの父から航空券が届いた。
私は、マーシの為に送別会を開いた。
マーシには、送別会を自身で開く経済的余裕が無かったのだ。
「送別会を開いてくれてありがとう!!」と、マーシが私に言った。
航空券が届いてから一週間後、マーシはバンコク経由でサンフランシスコに行った。
その時、私は、バンコク国際空港まで彼女を送って行ったのである。
空港ロビーで、「別れたくない」と、突然、マーシが泣き出した。
私は、彼女の肩を抱き、彼女の笑顔を取り戻そうとした。
まだ、飛行機の時間に余裕のある乗客たちが、私たち二人の成り行きを見守っていた。
少し時間が経ち、マーシも落ち着いたようなので、私は、彼女を出国ゲートまで送って行った。
8.アメリカの家族
「無事に、サンフランシスコへ着いた」
バンコクで、マーシと分かれてから5日後、サンフランシスコにいる彼女から私に電話があった。
マーシは、サンフランシスコで彼女の父の家に泊まっていた。
マーシの父は、同じラオス難民の女性と結婚し、その女性には、二人の女児(連れ子)がいた。
アメリカの家族は、マーシに親切にしてくれて居心地も良いようだった。
しかし、彼女自身、アメリカと言う国に馴染めなかったようだ。
「将来、私の父が居なくなると、完全に私独りになる。移民して、独りになった時、私は、ラオス
へは帰れないのだ」と思うと、マーシは悲しくなったらしい・・・・・
そして、
「やはり、ラオスに帰ろう」と、彼女は決断したのである。
9.出迎え
4週間後、私は、ラオスの首都ヴィエンチャンにあるワッタイ国際空港の到着ロビーでマーシを待っていた。
飛行機の到着が遅れて、私は、狭いロビーを落ちつかない動物園の熊のように何回も行ったり来
たりしていた。
TKKから首都ヴィエンチャンまでの交通は、バスが、一日一本しか走っていない。
早朝TKKを出て、そのバスに6時間揺られて、私は疲れていた。
彼女の飛行機が到着して、彼女が出てくるまでに、理解できないくらい長い時間が掛かった。
そして、私たちは各々のホテルで少し休憩をした。
夕方の約束の時間に、私は、マーシと彼女のホテルのロビーで会った。
ヴィエンチャンには、ラオガールとイタリアーノが結婚して開いているイタリアン・レストラン
があった。
私たち二人は、そのレストランで夕食をした。
ピザは、本場風でたいへん美味しかった。
なにしろ、イタリアーノが本格的な石釜でビザを焼いてくれるのだから・・・・・
首都ヴィエンチャンで一泊して、私たちは、次の朝のバスでTKKへ帰ることにした。
10.首都ヴィエンチャンからTKKへ
私たち二人は、8時30分ごろ、首都ヴィエンチャン発のバスに乗って夕方4時ごろTKKに
着いた。
マーシは、実家に帰った。
彼女ともう少し話をしていたかったのだが、彼女は疲れているようなので、私は、部屋へ帰ってシャワーを浴び、
ベッドに入るが、疲れ過ぎていてなかなか眠れなかった。
眠れないので、私は、マーシのことを考えていた。
明くる日の夕方、私たち二人は、彼女が仕事でよく使うベトナム料理のレストランで一緒に食事をした。
ベトナム料理は、タイ料理のように酸っぱく無くあっさり系の料理なので、私には嬉しかった。
彼女は、旅行社で働いていたので、普段からお客さんを連れてそのベトナム料理のレストランへ
よく行っていたのである。
ベトナム料理のレストランで、私は、マーシからアメリカ土産の財布とラングラーのシャツをもらった。
「サンフランシスコは、どうだった?」
「ラオスは、海が無いから、海が印象的だったわ」
「それから、大きな船、高層ビルも・・・・・」
「お父さんは、元気だったのか?」
「父は元気で、アメリカの家族は、私に親切でやさしかったわ!!」
「じゃ、マーシは、なぜ、ラオスに帰ってきたんだ!?」
「私の父が居なくなった時のことを考えたの」と、彼女は言った。
「たぶん、毎日、両親と一緒の生活が保証されているあなたには理解できないでしょうね」
私は、そのことばを聞いて反論できなかった。
「今まで、両親と一緒の生活が出来て、幸せだった」としか、私は言えなかった。
「私独りで、アメリカで生きていくことができるのか?アメリカに移住すると、私は、ラオスに
帰って来ることができないの・・・・・」
「だから、選択しなければならなかったのよ」
「それに、あなたもTKKに居たから」と、マーシが言った。
夕食後、二人でデイスコへ出掛けた。
TKKの村は小さく、バスも無いような不便な土地である。
二人でデイスコへ行くときは、単車の二人乗りだ。
私とマーシが二人きりになれるのは、村はずれのデイスコへの行き帰りだけだった。
TKKのデイスコは、デイスコといっても、天井から色付きの電球がぶら下がっている程度のデイスコ
である。
まるで、映画のランボーに出てくる戦場のデイスコの風景を彷彿とさせた。
11.ラオ寺院
マーシが、アメリカから帰って来て半年経った。
「今晩、TKKのお寺のお祭りがあるの。一緒に、お寺に行かない。ケント!?」
「君となら、是非行きたいね!!」
「今晩7時に、迎えに行くわ」
「じゃ、君の迎えを待っているよ」と、私は、電話でマーシとお寺に行く約束をした。
その夜、マーシと私は寺院の祭礼に行った。
名は知らないが、如何にも歴史があるといわんばかりの大きな寺院でだった。
夜でも、その寺院からラオ仏教の荘厳さが私に伝わって来るような雰囲気だった。
近郊近在の村々から人々が集まって来たのか、寺院は人で溢れていた。
この寺院は、私ががマーシと最初で最後に行った思い出の寺院になった。
寺院には何も無かったが、私は、敬虔(けいけん)な仏教徒である真のラオス人の姿を見た
ような気がした。
その夜、私は、ラオ仏教を満喫して部屋に戻り、シャワーを浴びて眠った。
12.予期しない帰国
私とマーシは、結婚を視野に入れていた。
二人の結婚に、彼女の姉妹や弟は賛成だった。
しかし、マーシの母は「ラオボーイと結婚して欲しい」と考えていた。
私は、マーシにラオス語を教わりながら、焦らず、マーシの家族とTKKの生活に馴染もうと考
えて行動していた。
しかし、現実とは反して、私の体の調子が少しずつ悪くなっていたのだった。
そして、微熱が治まらなくなり、体も怠るく、食欲も無くなった。
心配したマーシは私に、一度、日本へ帰って、日本の病院で病気の検査をしてくるように薦めた。
それから数日、体調が一向に良くならないので、私は帰国をする決心をした。
その夜、私は、マーシと帰国の相談をした。
三日後、マーシの弟に私は見送られて、TKKの対岸にあるかまぼこハウスの空港からバンコク
経由で帰国した。
13.真夏の夢
明くる日の夕方、私は、唐招提寺の側にある実家に着くと、私はマーシに無事到着したという電
話をした。
なかなか、私から連絡が無いので、彼女は心配していたようだった。
私は、マーシに電話をしてから風呂に入り、夕食をして眠った。
11時間ほどぐっすり寝て、朝8時半頃、私は目が覚めた。
私は、母の作ってくれた朝食を食べながら、母の話を聞いていた。
30分ほど母の話を聞いていると、私の身体から冷や汗が出てきた。
そして、急に、私の身体から力が抜けていくのを感じた。
体温を測ると、38度8分、私は吃驚(びっくり)した。
私は体温が低いので、38度8分という体温は極限に近い苦痛であった。
何度測り直しても、38度8分と私の体温に変わりはなかった。
私は、冷蔵から氷枕を出して自室に戻り直ぐに寝た。
母が、電話で福山先生に往診を頼んでくれた。
午前の診療が終わって直ぐ、福山先生が、私の往診に来てくれた。
福山先生は診察後、私に点滴を打ってくれた。
それから、三日間、私はトイレへ行く以外は目が覚めず、私は奇怪な夢を見ながら眠り続けた。
福山先生は、
「兵隊に行って、南方から帰って来た人がよくこのような症状の病気になった」と言った。
三日後、私の体温は平温に戻っていた。
私は、念のために、CT検査を受けたが、CT検査に異常は無かった。
しかし、後遺症は大きかった。
三日間眠り続けた私の脳裏からは、マーシのことも、ラオス行った記憶も完全に消えていたの
である。
以後、私が、ラオスのことを思い出そうとすると激しい頭痛に襲われるようになった。
愛しのマーシは、松浦ケントがラオスという南国で見た真夏の一夜の夢だったのだろうか!?
恋愛は、時には思いも因らないくらいの悲惨な結末を生み出すようである。
了
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