13.軍部
『天を見つめて地の底で』
将来の自分の職業を考え、思い描いたときに、
最も違和感を感じたのは軍人だった。
それでも敢えて、私はそれを選択するしかなかった。
逃げ場所は、もうそこしか残っていなかったからだ。
「軍に入る……? 本気で言っているのか、フランク」
「ええ、父上。二言はございません」
母が小さく、息を飲むのが分かった。滅多にない、家族三人での晩餐会。ぶち壊すには十分の威力を持った言葉だったに違いない。父は突然の言葉に驚き、怒りを抑えた証拠の眉がつりあがっているし、母はわなわなとワイングラスを持つ手が震えている。この一家に、軍部などという発想は元より論外なのだ。
私は殊更、のんびりと肉を噛み嚥下した。余裕を見せるように、いつもよりも優雅に、ゆっくりとワインを口に含む。ことんと下ろし、フォークとナイフも皿の脇に置く。食事は十分にとった、これからは会話の時間だ。
「私は自分を試したいのです。全く、アーチャー一族の手に及ばない場所で、どこまで上り詰められるのか」
「馬鹿なことを言うな」
父の動揺は、ものの五分で収まった。これは計算のうちだ。父は一笑に付すだろうと既に予測していた。まあ、誰だってそうだろう。栄華が既に約束されているこの一族の中から、何故、敢えて出て行こうとするのか。考えもしなかったに違いないのだから。
「馬鹿なことではありません」
ナプキンで口元をぬぐう。
「父上、父上のおっしゃりたいことも分かっています。ですが私一人、この一族から違う道を選んだところで、この一族の栄華が終わるわけではありませんでしょう?」
「うむ……」
「兄上たちもいらっしゃいますし、リィゼもいます」
私の上には二人の兄がいて、長兄ハルバートは医者だ。続き次兄のゲルグも、監察医として華々しい人生を送っている。
「だが、私の後を継ぐのはお前だったはずだ」
「政治家ですか」
元々、アーチャー家は政治家か医者の両方の業界で派閥を作ってきた。いまだ国家首相になったものはいないが、それはわれわれ一族の性にあわぬから、というだけである。影から暗躍したほうが、リスクも少なく得るものは大きい。
ふ、と私は笑う。
「政治家には、リィゼがよろしいでしょう」
「……馬鹿なことを!」
「馬鹿なこと? 父上、鸚鵡になりますよ」
”同じ言葉を何度も繰り返すのは、鸚鵡と同じことだ”───我がアーチャー家の親が、しつけの一環としてよく繰り返した言葉だ。一度却下されたとしても、同じことを要求したいとき、別の方法にて行動する。そういうことを、この家では幼いころから叩き込まれる。ましてや、同じ言葉を繰り返すなど愚かであることを象徴しているようなもの。それくらい、狡猾でなければ人を追い落とすことを職業になど出来ない。どんなときでも、気を抜かず冷静でいろという教訓なのだろう。
息子から指摘され、父は気まずそうに咳をひとつした。
「第一、リィゼは女ではないか」
「父上、女性の各権利が現実で求められている中、リィゼが政治家としてたつのは随分効果的だと思いますが」
幸い、私の妹は美しさと聡明さ、同時に女性らしからぬ豪胆さと狡猾さを持っている。
───カリスマ性は充分だ。
「初の女性政治家です。それも、アーチャー一族の出身だ」
「分かっておる。だが、リィゼには既に婚約者が……」
「挿げ替えればよろしい。彼女も、あの男性では不満があったようですから」
「簡単に言うな」
「すみません」
かたん、と席を立つ。もう、要求したいことは既に述べた。許可は元より必要はない。ただ、出奔するように家を出ては迷惑をかけると思ったから報告をしたまでのこと。
「フランクっ」
「よろしいではありませんか、あなた」
「何を言うルーン!」
これには正直驚いた。驚いて動揺し続けるだろうと思った母が、父に援護の言葉を投げかけたのだ。
「それは私も、可愛いフランクが……軍部なんて恐ろしいところへ行くのは悲しいですわ」
言葉通り、彼女の手は震えている。白い手袋に包まれた指先が、にわかに胸元で組み合わされ自然と祈る形に変化した。
「ですが、フランクが自らやりたいといったこと……思い返せば初めてですわ」
「む……」
「貴方、小さい頃にフランクと約束したではありませんか。医者の資格をとって、政治家の助手を二年ほどすれば自由に将来を選んでもよいと」
「……ははうえ」
衝撃は二度目だった。そんな約束、母は覚えていないと思っていた。あんな口約束、ただ父が自分にやる気のない勉強をさせたいだけの方便だったはずだ。それが、分からない母でもあるまい。
「口に出しては言いませんでしたが、フランクはきちんと約束を守りましたわ。あなた……」
「だが、あれは将来を決められないから……と、フランクが申したから……」
「ですから、フランクは自ら軍に赴くと将来を決めたではありませんか。この安寧の中から、抜けだして一人で頑張りたいと」
「……お前は可愛いフランクが、戦場で死んでもかまわないというのか、ルーン」
それは卑怯な言い方だと思った。事実、このルーン・アーチャーの最期の子供は私だ。リィゼは愛人の娘だからだ……。危うく流産しかけながらも、無事ここまで育ってきた私を、一番偏愛したのはこの母なのだ。
「では、あなたはフランクを生きながら死なせるつもりですの」
どきり、とした。
立ち上がり、椅子の背もたれに手をかけたまま、私は硬直した。
毅然とした目を、父に向ける母の横顔を見つめる。聡明ではあるが、元々貴族の娘である母は自分の意見というものを口にしたがらない。夫に任せる。その補助をする。意思を殺して生きてきたはず。
見たくないものは見ない。知りたくないものは知らない。
彼女に期待してきたものは、これまで一度もなかった……のに。
彼女は、私をきちんと見つめていたのだろうか。
「生きながら死なせる、とは……どういう意味だ」
珍しく反抗的な母の言葉に、父は動揺を隠し切れずワインを飲んで言葉を濁す。
「そのままの意味ですわ。分からないあなたでもありませんでしょうに」
「う……む」
「フランク、アヴェール嬢には既に伝えてあるのでしょうね」
「ええ、一番最初に」
「なんとおっしゃっておりました?」
「”お元気で”と。紹介状まで、書いていただきましたよ」
「そう、あなたのことだから大丈夫だとは思っていましたが。偉いですよ、フランク」
「有難う御座います」
二十歳を迎えようとしている子供に、その褒め方はないんじゃないかとちらりと思うが。これは幼い頃からの母の癖だ。
「彼女は、随分喜んだでしょう」
「何故、分かるんですか母上」
苦笑した。私の婚約者である、アヴェール・オンパーツィ嬢と母は仲がよかっただろうか?
「たとえ婚約を破棄されるとしても、大切な殿方の秘密を一番最初に教えていただけるというのはとても心躍るものなのですよ」
「はい」
「そして彼女は、たぶんとても貴方を愛しているわ」
「……有難うございます」
「愛しているからこそ、私と同じようにこのたびのことを喜んだのでしょう。……彼女には、相応しい別の相手を探して差し上げなくては」
「よろしくお願いいたします」
一歩下がり、優雅に頭(こうべ)をたれる。ふ、と形のよい唇を微笑みに変えて母は私を見ていた。
「おゆきなさい、フランク。軍部に何を見出したのかは分かりませんが……自ら歩みだしたのなら、きっと」
その言葉の続きを、母は紡がなかった。ただ、ふわりと微笑んだだけだ。
「はい、有難う御座います母上。父上、どうかお許しくださいますよう」
もう一度、両親に頭を下げて部屋を出た。もめると思っていたのに、思わぬ展開だった。自分が予想していたパターンは、まだまだ未熟であったのだと深く反省する。
”軍部に何を見出したのかは分かりませんが……”
───母上、私にも分からないんです。
でも、この一族の力が一番及ばないのは、そこしかなかった。
自分の全てさえ、私は知らない。
何が出来て、何が出来ないのか。
今まで生きてきて、不可能なことはなかった。否、肉体的なことでいえば自分は貧弱で。
そういうことではなくて。
───おおよそ、自分は”絶望”とは無縁の人生だったのだ。
飢える、ということを私は知らない。
精神的な飢えを知らないということは、生きていくのがとても味気ないものだ。リィゼを見ていて、それが分かった。彼女はまた自分とは正反対の性格で。全てを自分のものにしなければ気がすまないという。
諦める、ということを、あまりにも早く覚えてしまったのだ。
───そうでは、なくて。
私は探し出したいのだ。”純粋なもの”を。上手く言葉に出来ない、あこがれる何かを。
それが、軍部で見つけ出せると考えたわけではない。たぶん、その探し物は人生をかけたものになるのだろう。
まずは、自分が柔らかい殻から抜け出すことが重要だった。
傷つくことが、重要だ。
飢えることが、必要だ。
一人になろう。
階段を上りきると、リィゼが嫣然と微笑んでたっていた。白い肌。闇を溶かし込んだような髪と瞳。ただひとり、青の瞳をもたないアーチャー家の末娘。
「ごきげんよう、お兄様」
「ご機嫌麗しゅう、リィゼ」
「わたくしの部屋で、お話しましょう」
「ああ」
給仕にブランデーを運ばせるよう手配する。
二人で静々と廊下を歩いていると、リィゼが呟いた。
「中々な決断をなされたようですね」
「お前に言われると、笑ってしまうな」
「笑わないで下さいませ、本当にそう思っているのですから」
茶化したわけではない、と。彼女は毅然とした態度で私の顔を見つめる。彼女の、その強い意志が好きだった。あこがれたといっても過言ではない────後に、彼女と同じ瞳、強さを秘めた炎のような男を知ることになるのだが、私はまだ知らない────彼女のようになれたら、きっと楽しい人生が送れるだろうに、と。
目隠しをされたように、なぜこんな気持ちになるかもわからない生き方。
もう、嫌だった。
「どうぞ、入ってください」
「失礼する」
入れば、父や兄たちと匹敵するほどの本棚が両脇を占めている。女性とは、およそ無縁のものばかりだ。さすがに、銃剣や武器類は飾られていないが。
中央のテーブルを綺麗に片付け、リィゼは席を勧めてくれる。つん、と蝋の匂いがした。夜中、静かに勉学に励んでいるのだろう。彼女は、人一倍の努力家だ。
給仕が、ほどなくしてブランデーを運んできた。お互い注ぎあい、一口含んで小さくため息を吐く。
「お兄様、一言、聞いてもよろしいでしょうか」
「なんだい、リィゼ」
「軍に入る、とおっしゃいましたね……それは」
つ、と。紅い唇を噛んでリィゼは黙り込む。その言葉を、言いたくないというように。
「言ってご覧。怒りはしないから」
「そんなこと、分かっていますわ。お兄様が、私に怒ったことなど片手で足りますもの……そうではなくて」
「なくて?」
「……傷つかないで下さいましね」
思わず笑う。拗ねたような、その仕草が可愛らしくて。
「……傷つかない。約束しよう」
ほ、と微かに笑うが。心から安心したようではなかった。魅力的になったな、と私は思う。まだ、十六……小娘といっても過言ではない年頃だ。だが、彼女の能力の凄まじさの最大のポイントは……優しさを併せ持っているというところ。言葉で傷つかないと約束したところで、現実にどうなるか分からないというのに。まだ、彼女はそうした柔らかさを持っている。このまま、持ち続けてほしいと心の底で願ってしまう。
わずかに目を伏せて、リィゼは言った。
「それは……逃げるということではありませんのね?」
自分が持っている、全ての権利と義務から。
捏造です。はい。
2004/07/15 珠々 拝
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