ルシアの手を取ったクライヴはその甲に唇を押し当て、次は額を掠めた。
「契約の証だ」
 淡々と言い放つクライヴに、陶酔しかけていたルシアは、
 唐突に現実に引きずり戻された。
 ああ、そうだったこれは単なる契約。
 彼の暇を潰す為にいるだけの存在だと残酷にも思い知らされたルシアだった。
「私はあなたの弟子になったのかしら」
 間の抜けたことを聞くルシアにクライヴは少しばかり苛立った。
 やはり、面倒ごとに関わるより暇を弄んでいた方が良かったか。
 言葉にせずとも怒気が伝わったらしく、
 ルシアに視線をやれば瞳を潤ませてクライヴを見上げていた。
「泣くな」
「……あ、ごめんなさい」
「弟子なんて持ったつもりはない。俺とお前は契約しただけだ。
 主従関係なんて冗談じゃない」
「教えてもらうんだから先生って呼んだ方がいいと思うんですが」
「名前以外で呼ぶな。俺はそういう俗称嫌いなんだよ」
「分かりました!」
 元気よく返事をするルシアを見ることもなく、クライヴは部屋から姿を消した。
 ルシアはその時幸か不幸かクライヴのチッという舌打ちを聞くことはなかった。

 目の前から、音も立てずに一瞬で消えたクライヴをさすがだわと
 感心しているルシアは、大物かもしれない。
 ほうと溜息をついて、両の掌まで重ね合わせている。
 呑気にしていられるのも今の内かもしれないのに、ルシアはどこまでもマイペースだった。

 その日の夜、クライヴはルシアと共に地下へと移動した。
 ルシアは狭い階段をクライヴの後を追うように降りる。
 手すりもないので足を踏み外したら終わりなのだが、クライヴはルシアに手を貸してくれる様子はない。
 ルシアは、吸い込まれそうな黒い穴に恐怖を感じ、悪いとは思いつつも
 クライヴのマントの背をしっかり掴んだ。
 その瞬間、クライヴの動きがぴたりと止まり、ルシアは前方につんのめった。
 自然とクライヴの背中に体が密着する形となる。
「クライヴ?」
「うっとうしい」
 クライヴはどこまでも傲岸不遜だった。
「う!」
「お前、最初と印象違うな」
「変ですか? 」
「飽きがこなくていいかもな」
 後ろを振り向かずに言葉を口にするクライヴが、ふっと笑った気配がした。
 ぐいと腕が引き寄せられる。
「あ、ありがとうございます」
 掌を重ねられ、繋がれた指先にルシアは安堵を覚えた。
 唐突で強引な行為は心臓に悪かったけれど。

 階段を下りた先にある大きな扉を開けると光溢れる庭園が広がっていた。
 魔力で生み出された太陽の光によって眩しいくらいに明るい。
 先ほどまでの暗さとは打って変わっての明るい世界にルシアは、目を細める。
 咲き乱れる四季の花が、彩を添えている。
「ここ……」
「今は昼みたいだな」
 暫く沈黙が続きルシアが、問いかけようかと迷っていた所、唐突に、
 クライヴが口を開いた。掌は腰に穿いた剣の柄に触れている。
「息が詰まった時の癒しの場所が欲しかった俺は、
いくつかあった地下の部屋の  壁をぶち抜いて、広い空間を作った。
 この場所に来れば朝か昼か、知ることができるように空を作り、太陽を昇らせ、
 花や緑、樹木などの生命を息づかせた。うるさいくらいに賑やかだろう。
 魔力で咲かせる花々は、水をやらなくても俺の命が消える時まで咲き続けるから
 手間もかからないし、ここだけは生ある場所になる。
 荒んだ自分にとってのある種オアシスといえるかもしれない。
 狂うギリギリまで追い込まれた時、ここを訪れて俺は自分を調節する。
 普段は、封印をかけて近づくこともないがな」
 淡々と話す口調は余計に内容の重さを物語っている。
 彼にとってのギリギリはどこなのだろう。
クライヴの闇をルシアは敏感に感じ取っていた。
「外に出て人と触れ合ったらいいじゃないですか」
「俺は人が嫌いでな」
「卑屈なんですね」
「誉め言葉に聞こえるな」
 ルシアは吹きだしかけたので思わず口を手で押さえた。
 もし怒らせでもしたら、殺されてしまうと確信にも似た思いがある。
 クライヴは危うい拮抗の上で生きている人だ。
 緊張感のなさが取り得だと自分でも自覚しているが今それを発揮しても通用する相手ではない。
 ルシアは場を和ませたいだけなのだが、クライヴには冗談など通じない。
「お前には光の方が似合うと思ったから、ここに連れてきた」
「確かにいつもあの部屋にいたらあっという間に病んじゃいそう」
 クスッと笑うルシアに、クライヴは目を細めた。
「暫く待っていろ」
 クライヴは瞳を閉じて口元を小さく開いた。
 ごうっと風が唸る。
 片腕を作り物の空に差し向けた瞬間、一羽の鷹らしき鳥が現れ、
 クライヴの肩にすとんと降りた。  バサバサと羽音がし、一枚の羽が落ちる。
 大きな鳥は肩のほとんどを占領している。
「それはあなたのペット? 」
「どこがペットに見える」
「だって何か心が通じ合ってそうだから」
「これは使い魔だ。鷹に見えるが魔物だぞ。俺が名を下せば
 その通りに動く。例えばその嘴で目の前の女の喉を切り裂けとかな」
 シャアッ。鷹が嘶いた。
「わ、怖いこと言わないで下さい! 」
 クックックッ。
 クライヴは不気味に笑った。
「冗談だ」
「あなたの言葉は冗談と本気の境目が分かりません」
 ルシアがむきになろうが、クライヴはさらりと流す。
「いいから始めるぞ。まずは風の魔術からだ」
「炎じゃなくて?」
「炎は初心者に簡単に扱える物じゃない。風を起こすことができたら
 炎に進む。そして、炎が成功したら雷だ」
「そんなにたくさん教えてくれるなんて優しいですね」
「お前が会得できたらの話だ」
「が、頑張ります」
「俺の手本を見て、ホークスを宙に浮かせてみろ」
「は、はい……って名前があるんですか!」
「意外か」
「ええ」
素直なルシアの返答に、クライヴは口の端を上げた。
 それはよほど注意深く見ていなければ見逃してしまうだろう程の間。
 クライヴがぱちんと指を鳴らすとホークスが、草の茂る地面に降り立った。
 目を閉じてクライヴは呪文を唱える。
 ゆっくりとした口調で、ルシアに聞き取れるように。
 強い風が、ホークスの周囲で発生し、宙へと舞い上がらせた。
 自分の意志ではない力で飛んでいるからかどこか不自由そうに見える鷹。
 巻き起こった風に髪がそよぐ。視界が遮られてルシアは片手で髪を押さえた。
 シュン。風が止んだ途端、ホークスがばさばさと翼をはためかせて着地する。
「呪文は聞いていたか」
「はい」
 やってみろと眼差しで促すクライヴ。
 ルシアは目を閉じて集中力を高めて、ぶつぶつと呪文を唱え始める。
 瞬間ホークスが、浮かび上がった。
 ホークスの力ではなくルシアが浮遊させたのだ。
 手を伸ばせば届く程度の高さだったけれど。
「できた」
 目を輝かせて喜んだのも束の間、ホークスはすぐに地面に降りた。
「……はは」
 ルシアは明らかに肩を落としていた。
「最初から上手く行くわけないだろ。魔術の魔の字も知らないド素人のくせに」
 思いもよらぬ言葉が、口下手な男から漏れた。
「誉めてくれるなんて思いませんでした」
 クライヴの容赦ない毒舌は、ルシアには通じなかった。
 彼女は何でも前向きに捉え、順応性もあった。
「勘違いするな。誉めてはない」
 こう言ったらああ言う人だなとルシアは、思った。
「魔術なんて縁のない世界で生きていたのに不思議なものですね
 突然あなたに呼び寄せられて、ここで魔術を教えてもらうことに
 なるなんて一秒前だって予測つきませんでしたもの」
「俺もお前が出てくるなんて知らなかった」
「私が現れてあなたはよかったのかしら 」
 小さな呟きは独り言と同じで、クライヴも聞こえていないようだった。
 真顔で嘘をつける彼は聞こえない振りを装ったのかもしれないが。
 どちらにしろルシアは答えが欲しいわけではなかった。
「もう一回」
「お手本は見せてくれないんですか? 」
「呪文は覚えただろう。無駄なことはしたくないんでな」
 ルシアのおねだりは軽く拒否された。
 こうなることはルシアにも予測できていたのだが、試してみたい気持ちに抗えなかったのだ。
 怖いもの知らずにも素っ気無い彼の反応を。
「さあ、続きだ」
 ルシアはただ、無我夢中で呪文を唱え続けた。
 結局、クライヴに認められたのはそれから七日程経った頃だった。
 二人が出会って10日目だ。
 太陽が昇り沈むこの庭園の中で、
 ルシアは陽が落ちては昇る回数を数え、時間の感覚を忘れまいとした。
 魔術の修行をするようになってからルシアは、この庭園で過ごしていた。
 食事は、そこらじゅうになっている木の実を食べ、大木に吊り下げられたハンモックで眠る。
 夜まで魔術を教えた後クライヴはどこかに消える為、ルシアは一人きりだったが、
 孤独などはなく、結界が張られた陰気な部屋で眠るよりよほど心地よく感じられた。
 あの部屋には暗闇以外存在しないが、ここには空、太陽、空気、草花、木々がある。
 ルシアが幼い頃から見てきた景色があって、時々ふいに涙が零れるのだ。
 帰りたいけど帰りたくない。矛盾した気持ちが鬩ぎあう。
 飽きられるまででもいい側にいたいなんて思ってしまった自分にはっとする。
 何故。初対面から自分の物だと不躾に言われて
 身勝手に私を縛って閉じ込めている酷い人なのに。
 恐ろしい狂気を身に纏うクライヴだが、時折見せる寂しげな眼差しに惑わされるのだ。
 ふとルシアは思う。飽きたら捨てられるのは確実の頼り気な契約。
 もっと、特別な証が欲しい。求めるのは我儘かもしれないけれど。
 風の魔術を会得した日の翌朝、庭園に姿を現したクライヴを見上げながら
 ルシアは、思い切って口にした。
「契約の証、私から求めてもいいですか?」
 クライヴはルシアの様子を見ているらしく、何も言わなかった。
 鋭い眼差しで射抜いている。
 ルシアはごくりと息を飲んだ。
 クライヴに惹かれている事実から目を逸らしながら、これは契約なのだと
 自らに言い聞かせて、背伸びをして唇を重ねた。
 クライヴは、不敵に笑い、耳元で囁く。
 耳元でなければ聞き取れない程の囁きで。
「いい度胸だ」
 ぐいとルシアの頭を掴んで、激しく唇を重ねる。
 舌を絡め、熱い吐息を漏らした。
 濡れた音を意識せずにいられない。
 ルシアだけではなく、クライヴも。
「私は弟子じゃなくてあなたの物でしたよね」
「そうだ」
「使い魔のように忠実にはなれないだろうけど、これから私はあなたの命に従います。
 どうか、私を使役として側にいさせて下さい」
 望みが叶わないのなら、クライヴの側にいられる方法を見つけるしかなかった。
 例えどんな方法でも。
「俺は人間を使役したりしない」
「お願い」
「人としての尊厳を失ってまで側にいることを望むのか」
「帰る気持ちを奪ったのはあなたじゃない。こんな短い時間で」
 クライヴは奇妙なものでも見るかの目つきでルシアを見やった。
「ここにいることが私にとっての全て。側にいる自由を与えてください。
 他には何も入らないから」
「……へえ」
 クライヴはおかしそうに笑った。
 何かを企んだように意味深に笑っている。
「何でもするのか?」
 舌で唇を舐め、ルシアを見やるクライヴは、
 既に獲物を駆る瞳になっていたが、無垢なルシアは気づくことはない。
 ただ、引き寄せられるままに唇を開いた。
 彼に誘惑されたのでははなく、自分の意志で。
「ええ」
「約束を違えたらその場で殺すからな」
 浮かべた冷笑はぞっとするほど美しかった。
 ルシアは、頷き、クライヴを見つめる。
「お心のままに」
 ドレスの裾を掴んで、礼を取る。
 ルシアは、毅然とした微笑を浮かべていた。



1.magic circle     3.yes,my master
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