3、雨音
羽が舞い上がる。
ふわり、温かな余韻を残したそれが、体からはがれて飛んでいってしまう。
甘くて、切ない痛み。心の深い所に熱い炎が揺らぐ。
手を開いて羽を掴もうとするも、するりと手のひらからこぼれる。
瞼には滴が溜まっていて、頬を伝い落ちるのを待っていた。
地に伏したままま、空を見上げる。
はがれた羽が、舞い散る情景に、捕らわれて、涙を零した。
体を掻き抱く。何かをなくして、手に入れたような錯覚は、決して幻ではない、現実。
あなたが、私の中で息づいて、新たな私に生まれ変わる。
はっとした。
シャワーを浴びながら、先ほどの夢を回想していた。
追体験したのかと思ったくらい、それは現実感を伴っていて恐ろしかった。
幻だと分かっているのに、余りにも生々しかったのだ。
夢は彼との夜を抽象的に表したものに違いなかった。
涼に愛されて抱かれて、女になった自分がここにいる。
「……綺麗事ではないのね」
好きな人に、抱かれること。それは、甘ずっぱくてロマンティックな
体験だと思っていた。それに違いはなかった。
好き合っている者同士で、幸福な初めてを迎えられた。
皆いつかは体験する通過儀礼なのだとしても、身に起こった現実は、
想像の範疇を遥かに凌駕していた。
羞恥は後から後から、こみ上げる。
最中は、そんなこと考える余裕なんてどこにもないからだ。
「……男の人は羨ましいわ」
あんなに余裕で、まるで何もなかったかのようではないか。
石鹸で洗い、シャワーで流しても、愛された余韻は消えることはなかった。
未だに、奥に残る違和感。甘く疼く下腹部の痛み。
背中にシャワーの飛沫を受けながら、菫子は壁に背中を預けていた。
(どの辺で分かったのかしら)
経験の差を見せつけられて、悔しくて、
けれども、涼が慣れているから自分も必要以上の痛みを伴わなくて
済んだのだと思えば……許せるような気がした。
「……何で苺柄? 」
菫子は脱衣籠の一番下に用意されていたコットンのパジャマを
身にまとい、部屋に戻った。
そして、真っ先に疑問をぶつけた。
「うわ、めっちゃ似合ってるやん」
涼は顎を手でしゃくっている。
「あ、ありがと」
「うんうん、もっと近くへ来て見せて」
ぐい、腕を引っ張られ、前のめりになりかけたが、
寸前で抱きとめられた。手のひらを取られ、くるりと一回転させられる。
「かわいい。うん、これにしてよかった。絶対似合う思った」
悦に浸る涼に、菫子は頬を染めた。
「これ、もらっていいの? 」
「当たり前。誕生日プレゼントなんやから」
「……ありがとう。覚えてくれてたなんて思わなかったから」
「忘れるわけないやろ」
いまや正面から見つめられていて、目を泳がせる。
思い浮かべたら駄目と言い聞かせても無理だった。
「昨日、会えたらよかったんやけどな。
そしたら20歳になる記念になったのに」
口惜しそうな涼に、菫子は何と言っていいか分からない。
「……ホワイトデイも同じ日だから覚えやすいわよね」
ぼそり、呟いた。
「ホワイトデイと誕生日のプレゼント、しっかり受けとった? 」
涼の意地悪な笑顔に、菫子は、顔を真っ赤にして口を尖らせた。
「……馬鹿」
「いや、こっちこそいっぱいもらったか。何せ初めてやったんやし。」
俺でよかったやろ」
「……涼ちゃんで良かったと思う」
この先、他の誰かと出会い、肌を重ねることなんて、
想像できなかった……仮定の未来なんてとりとめがなくて。
「寝よか」
「……うん」
ベッドまで誘導され、同じ布団に入ると、心臓がバクバク騒ぐのを感じた。
腕枕とともに、菫子のスペースが確保され、自然と抱えこまれる形になる。
「そんなにかちこちにならんでも何もせんから、安心してお休み」
ぽんぽんと布団が叩かれて、目を閉じる。
抱きよせられて、涼の腕の中、彼の匂いと呼吸の音を聞きながら、眠りに落ちていった。
ぼんやりと、目を覚ます。
涼の部屋だ。初めて訪れたその夜に、結ばれて朝を迎えた。
雨の音が聞こえるので、外を見れば窓に打ちつけるほどの激しい雨模様だった。
「……おはよ、菫子」
身じろぎしているとすぐ隣りから声をかけられ、頬に口づけられた。
すっぽりと抱きこまれ、知らない匂いまで体に移ったような。
「……おはよう、今何時? 」
「……さっきテレビつけたら10時回ったところやった」
「やだ、もうそんな時間なの。どうしよう」
「そんなに時間が気になるんか……休みなのに」
涼は微妙に傷ついた顔をしている。
「寝過ぎたから、涼ちゃんに呆れられたかもって」
俯いて恥ずかしがる菫子は、いきなり強く引き寄せられた。
寝返りを打ったらしく、離れていた距離が、一気に狭まった。
「なんや……そんなこと気にしてたんか」
「……今日はずっとベッドの中で過ごそうか? 」
くっくっと喉を鳴らして笑われ、菫子は、腕の中で暴れた。
「……そうだ、ご飯食べた? 作ろうか? 」
「あ、飯なら、作っといたから」
「……涼ちゃんって料理できたんだ。ちゃんと食べられるの? 」
「失礼な。俺は、定食屋でバイトしてたんやで。今は別の所やけど」
「今は工事現場でしょ……定食屋もわかる気がするわ」
何となく、腰に巻くタイプのエプロンとか、似合いそうだ。
ベッドに体を起こして、よく見れば涼は、服を着替えている。
食事を用意していたことを考えて寝ている菫子に添い寝をしていただけなのだ。
涼が先にベッドから出たその後で菫子もベッドの中から抜け出した。
「菫子」
「何、涼ちゃん」
「最高やった。可愛い姿見せてくれてありがとう」
「……っ……改まって何言うのよ……」
熟れたりんごの頬で、キッと睨んでも、涼の痛手になるはずもないのに、
菫子は照れ隠しのために八つ当たりめいた振る舞いをする。
恥ずかしすぎて、できることなら全速力で逃げ出したい。そういう気分は、
手を繋がれていて、にっこり微笑まれたら、
途端に気持が萎んでしまう。
(素直に甘えていれば、いいのかな。
例え昨日とは関係が変わったとしても急には変われない)
涼に促されて、隣りに座る。向かいあって座るスペースはない。
菫子は、自分のマンションでは台所じゃなくて、部屋のテーブルで座って食べているので椅子に座るのは新鮮だった。
涼の隣りに立って器によそう。
慣れなくて、どうも照れくさい。
ちら、と見上げれば、やたらと楽しそうだ。
「いただきます」
手を合わせて、食事を始める。
外で食事はしたことあるものの、こんな風に二人で食卓を囲むことがあるなんて。
昨日から今日のできごとが目まぐるしくて、一瞬目を閉じて確かめる。
目を閉じればもくもくと食事を進める涼と目があった。
「食べへんの?」
「食べる」
白い無地のテーブルクロスの上に準和風の食事が並べられていた。
「おいしすぎて驚いた」
正直な感想に、涼は照れ笑いを浮かべた。
「よかった。どんどん食べてや。ご飯のお代わりもあるで」
「……ありがとう」
味噌汁をすすって、菫子はお茶を飲む。
「……何か変な感じ。涼ちゃんの部屋でお手製のご飯食べてるなんて」
「そか? 俺はめちゃめちゃ楽しいで」
「今度は、うちに来て。お返しに好きなものつくるわ」
「それは、お誘い? 」
「ん、ご飯食べてってことだけど」
「つまり、泊まりOKってことやろ」
ぼっ。途端に顔に火がついた。まだ切り替えせる余裕が、ないのだ。
「い……いいわよ」
目を泳がせ、うろたえて菫子は返事をした。
「……いつにする? 」
「……来月、誕生日でしょう。その時に」
「よっしゃあ、決まり。もう覆せんからな。
今からバイトの予定調整せんと。菫子もやで」
「……うん」
菫子は、はにかんだ。
そうか、これが付き合うということなのかと
感慨に浸る。
胸が弾むような感じと、不思議な疼き。
涼と出会って、知ったたとえようのない切なさは、今となっては宝物だ。
「さて、これからどうしようか?
今日は、菫子以外のものは全部シャットアウトするから」
本気の発言に、菫子は
「大げさじゃない? 」
ひるんだ。一気に涼のペースに引きずりこまれている気がした。
「毎日は会えへんやろうし……会える時間は大切にしたいんや」
「そこまでしなくても」
「……雨の日は、感傷的になってしまうから余計そばにいたくなる」
どくん、波打つ心臓。甘い文句をすらすらと言う男。これが、好きになった人。
菫子は、涼の前では、素直になることができる。家族より近い存在かもしれない。
そんな貴重な相手は彼と親友の伊織だけ……。
「……伊織、どうしているかしら。電話かけていい? 」
「永月? ああ勿論」
伊織は、病と闘っている恋人のそばで一緒に闘っていた。
この間話した時は、あの凛々しくて澄んだ瞳で、菫子に笑った。
『大丈夫だから心配しないで。それより早く草壁くんとまとまっちゃいなさい』
いつも菫子のことを気にかけてくれる優しいたった一人の親友を
昨日から今日までの間、一度も思い出さなかった自分に歯噛みしたい気分だ。
どうして、思い出さなかったのだろう。
涼と、共に過ごしていたから、他の事は脳内から消えていた。
菫子は、アドレス帳から呼び出して、伊織に電話をかけた。
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