sinfulrelations

モドル ススム モクジ


始まりの日





 彼女は帰ろうかと思った矢先、階段で足を踏み外した。
普段はしないようなことをするなんてよほど
疲れていたんだと結論づけたかったのだけれど、
そこで終わることはできなかった。
彼女を助けようと階段を上ってきた青年も巻き込んで
 共に堕ちたのだ。
 どこまでも。
 この出会いが永遠となることをまだこの時二人は、知らなかったのだけれど、
非現実的な出会いはまさしく運命だった。
 彼女が忘れ物を取りに来なければ彼と出会うことはなかったのだから。



 どうやら痛みは無いようだ。
 身じろぎしても起き上がれないのは強い力で
 抱え込まれているからだと動転した意識の中でやっと気づく。
 起き上がろうと体を動かせばまた腕の力が強くなったようだ。
 体が強張る。
 きっとこの腕の持ち主が助けてくれたんだ。
 広い腕の中は気が狂いそうなくらい温かくて。
「ごめんなさい……」
 自分の不注意で巻き込んでしまったことが申し訳なかった。
「支えてもらってありがとうございます。お怪我ありませんか? 」
「ううっ」
 聞こえた呻き声にびくっとした。
どこか痛いのだろうか。どうしよう。
「胸が痛い」
「う……本当にごめんなさい」
頭を動かして彼の方を見つめる。
きっと今泣き出しそうな顔してる。
悪いのは私で彼は助けてくれたのに。
「君こそ大丈夫か? 」
いい人だ。
ふっと微笑を浮かべてこちらを安心させてくれようとしてる。
起き上がれないまま、背中から腕が回ってきて抱きしめられる。
決して強引ではない柔らかい仕草。
公衆の面前で地面に横たわったまま抱きしめられてるなんて。
今更ながら恥ずかしい。
「ええもう大丈夫です」
彼の腕を剥がし立ち上がろうとした時強く抱きすくめられた。
再び彼に寄りかかった状態になる。
「えっ……」
「送っていこうか? 」
「いや……そんな……すぐそこですから」
高鳴る鼓動。
間近に見た彼の顔が信じられないくらい綺麗だったから驚いて、
一瞬これが現実ではないような錯覚を起こす。
「気にしなくていい」
「……じゃあ」
「お茶でも飲んでいきますか? 」
「ええ」
私はその時、彼の口の端が上がったことに気づかなかった。

見ず知らずの人と、小さな部屋の静寂の中にいる。
チェストに入れたポプリとベッドサイドの花が芳しく香りを放つ。
何故か心臓が高鳴った。
紅茶を飲みながら他愛もない会話を交わし、
穏やかな時間はゆっくり流れてゆく。
ほとんど私ばかり話していて彼の方は聞いているだけ。
未だ名前さえ名乗らないままだが、二人ともそのことに
気づかぬ振りをしているのか、気づいていないのか。
「歳、いくつ?」
「もうすぐ誕生日が来て19になります」
「俺は今26。今年で27だ」
彼は苦く笑う。
大人の男の人だと思っていたが本当に歳が離れている。
やっぱり子供だと思われちゃったかも。
「あ、そういえば同じ会社の方なんですよね? 」
だとしたら先輩ですね。
「いや、仕事であそこに行っていただけで会社は別だ」
「そうなんですか」
紅茶のお替わりを薦めたところではっとする。
「時間大丈夫ですか? お引止めして申し訳なかったです」
私の部屋に彼を案内してあれから2時間以上も経過している。
「ああ……時間は大丈夫だ。明日は日曜だろう」
彼の言葉にほっと息をつく。
「それじゃあもう少しお話に付き合って下さると嬉しいんですが。
勿論ご迷惑じゃなければですけど。独りなので寂しくて
友達は近くに住んでないし、休みも一人だし、
こんな機会滅多にないんですもの」
最後の方の言葉は空気に溶けるほどか細くなってしまった。
「お酒なくてごめんなさい。一応、未成年だったりするので。
あ、お腹空いてたら言って下さいね。
私は一度家に戻ってから、会社に忘れ物を
取りに行ったので食べてるんですが」
自分の饒舌ぶりが信じられない。
ただ、帰らないで欲しい。側にいて。
初対面の人に抱く思いではないだろうか。
苦笑いされたのは呆れられちゃったかしら。
「折角だが空いてないからいい。ありがとう」
「ちょっと待って下さいね。冷蔵庫にクッキー
入ってたと思うので取ってきます」
がたんと音をさせて慌てて立ち上がる。
 いらないと彼は言ったのに、それを流すかのように。
 あの瞳を見ていられなかったのだ。
 全てを絡め取られそうな甘い瞳を。
 うっすらと笑みを浮かべて手を振る彼。
 キッチンまではさほど距離が無い。
 背中を向けた瞬間、腰に回された腕、肩口に熱い吐息を感じていた。
「もっとじっくり話さないか」
 降りて来た言葉にどきっとした。
 一瞬体が震える。心臓がけたたましく鳴り響いていた。
 彼には気取られている気がした。
「もっと君のことが知りたいな」
「あ、いいですよ、何でも聞いて下さい」
 体が強張る。ふわりと宙に浮いた感覚がしたと思えば
 いつの間にか上から見下ろされていて、
 抱えられていることに気づいた。
 瞳と視界が揺れる。
 寝室へと運ばれて、ベッドに降ろされた。
「いいか? 」
心地よい低音に誘われて惑わされる。
暫し、逡巡した後、
「……いいわ」
ここまできて意味が分からぬはずもないのに、頷いていた。
階段から縺れ合うように落ちた時に、私は既に囚われていたのだ。
 馬鹿だと思われたとしても自分の心に従おう。

 横たえられて、上目遣いになって見つめる。
 その瞬間、何故か彼が息を飲んだ。
 今更躊躇っているわけでもないはず。
 一度頭を抱き起こされて、髪に触れ、口づけが落ちた。
 長身の体がベッドに縫い止めるように覆い被さった。
 ただ彼を見つめる。
 耳元から甘い感覚が広がり、じわりと体に伝わった。
「ん……」
 無意識で声を発していた。
 瞳を閉じると唇が重なる。
 口づけは触れるだけの淡いものから、やがて吐息を交わす激しい物へと変わった。
 舌を絡ませていると痺れが走って体の力が抜けていく。
 焦点が合わない瞳で、口づけに応える。
 彼の首に腕を回してしがみついていると、耳に痛みを伴う刺激。
 肌を彷徨い、降りてゆく指に酔いしれながら、彼に身を任せた。

 広くてしなやかな胸に寄り添う。
 背中に腕を回して彼に抱かれて。
 鼓動は早鐘を打ち続け、体の熱さに戸惑う。
 問いかけられた言葉に頷く。
 首を横に振るとでも思ったの?

 何度となく高い声で啼いていた。
 一瞬、感じた痛みもすぐに快楽に変わる。
 ベッドのきしむ音がやけに生々しく、響いてたまらない。
 愛されているわけじゃないのに、苦しいほど優しい仕草に、私は、
 このまま忘れられなくなることを確信した。
 どうなっても構わないとさえ、思ったのに、きちんと
 気遣って、いたわってくれたのだ。
 肌に触れる掌、唇。
 汗の雫が落ちてきて、首筋を掠める。
 肌に貼りついた髪をさらりと避けて彼は額に唇で触れて、
 柔らかくキスを奪った。
 戻れない罪のキス。



 腕枕された格好で横から見つめられている。
 また触れられて背中が跳ねた。
 息が乱れる。
 うっすらと瞳を開けた私は声をかけられた。
「名前言ってなかったな」
「ん……」
 まどろみから脱け出せない。
「俺は青だ」
「……せい」
 人形のように彼から告げられた名前を繰り返す。
「私は……沙矢」
 声は囁きとなって宙に融けた。
「沙矢か。よく似合ってるな」
「もう会うこともないだろうが。気をつけろよ」
 何をとは言わない彼に、少し笑って頷く。



 次に目覚めた時には、隣には誰もいなかった。
 無数に刻まれた赤い華と甘い痛みが幻ではなかったことを私に思い知らせる。
   そして、奥に残った彼の残滓によって唐突に訪れたはじめてを実感した。
 この違和感の正体はあの人の残した証。
 煙草の味が唇に残っている。
「苦い……」
 指先で唇の輪郭を辿って確かめる。
 唇が潤んでいた。
 彼のいた形跡がここにも。
 ふわりと漂う香りは、コロンだろうか。
 一夜限りだなんて、信じたくない。
 始まった瞬間には終っているなんて。
 頬を伝わる雫が唇にまで流れる。
 しょっぱくて、熱い。
 せい……。
 罪を犯したのはあなた? それとも私?
 多分二人共だわ。


モドル ススム モクジ


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