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『あずみ、さようならだ』
『どうして!?』
瞳を和らげた鴎葵は微笑んでいるようだった。
『ありがとう。お前と過ごせて楽しかったよ』
『……鴎葵』
すうっと目の前から消えていく姿に手を伸ばす。
掴めないと内心分かっていたけれど。
『鴎葵……やだ、行かないで』
振り返りもせずに鴎葵は消えていく。
もう会えないなんて嘘でしょう。
やだよ、鴎葵……!
夢だった。
うなされていたらしい。
額には汗が浮かび、瞳からは涙が零れている。
夢の中の自分と同じく。
お母さんが、扉の隙間からこちらを窺がっている。
大丈夫と、首を横に振った。
はっと夢の内容を思い浮かべる。
正夢になるのも考えられることだ。
後のことは知るもんか。
部屋を抜け出し、こっそり裏口から家を飛び出した。
わらじを履いていない素足では石ころを踏んでしまい足の裏が
見る見るうちに血だらけになった。
痛みに唇を噛み締める。
こんなの大した痛みではない。
必死で走る。
途中何度もつまずいて転げそうになったけれど
歩みを止めたりしなかった。
東の草原。
頭よりも高い草をぐんぐん踏み越えて、洞窟を目指す。
洞窟の入り口は大きな一枚岩で塞がれていた。
吸い込まれそうな闇も見えない。
前来た時はなかったのにまるで洞窟を隠すように一枚岩が立ち塞がっている。
当然だけど、手で押してみてもうんともすんとも言わない。
「私がいけなかったんだ」
鴎葵はここに閉じ込められて今度こそ人間を恨むだろう。
彼には罪なんてないのに、掟を破って近づいたりしたから。
ぽろぽろと瞳から溢れる雫。
泣いたら駄目だと思ってもそれ以外感情を外に出す術を知らない。
泣いてしまわなければ立っていることさえできない。
「うう……」
こみ上げる嗚咽。
ひっくひっくとしゃくり上げながら、走った。
もう会えないのだ。
無力感が体中を包んでいた。
涙に濡れた顔のまま家に帰った。
結局家に帰るしか、術はなかった。
何もできない童にすぎなかった。
鴎葵に会えないまま、夏が過ぎ、秋が来て冬が終わり春になった。
心に開いた穴は埋まることなく、私は素直に笑うことができなくなっていた。
無表情とまではいかないが、感情を隠して生きることになれてしまっていた。
人形のようで気味が悪いと、皆に言われる。
前のように自分の意志を曲げなかった私はどこにもいなくて、
変わってしまった私を少し悲しそうに見つめる家族が印象的だ。
だって、鴎葵がいない。
出逢ったのが間違いだったと思い込もうとしたけれど、
やっぱり本当はそう思いたくない。
会えなくなったら前よりも会いたくてたまらなくなった。
どれだけ時が過ぎても、脳裏に鮮やかに浮かべることができる。
白銀の髪、赤い瞳。
獣の時の優美な姿。
人間の時は、鮮やかな着物を身に纏っていた。
私の周りにはあんな綺麗な人はいなかった。
ううん、人間にはあんな美しい人はいない。
魂もぜんぶ。
人よりずっと深くて広い場所を見ている鴎葵は、
誰よりも近い場所にいた。
東の草原を歩く。
春を迎え、可愛い野草がいっぱい咲いていた。
塞がれたままの洞窟の前に座り込む。
ずるずるとしゃがみ込んだ。
ここはいつだって静かで賑やかだ。
草の揺れる音、風のにおい。
空は高くて届かないけど、じっと見上げる。
立ち上がって手を翳す。
(もうすぐ夏だね、鴎葵。私も十二歳になるんだよ)
ふふっと笑う。
これって自嘲なのかな。
草原の奥には洞窟の入り口。
奥が見える。
あの時岩で塞がれていたのに、どうして。
もう必要がないと思って岩を退かしたのだろうか。
導かれるように足を踏み入れる。
心が浮き足立つまま駆けていけば、見慣れた光景が目に飛び込んでいた。
洞窟内の少し湿った空気。
「鴎葵、いるの?」
「……」
息を吐く気配がした。
そろり、そろり歩いていくと、鴎葵がいた。
人の姿で、藁敷物の上に身を起こしている。
「……鴎葵!」
「あずみ」
ぴくと鴎葵の耳が震えた。
獣の姿の名残で三角の耳が頭の上についている
人の姿でありながら、唯人とは違う姿。
背を流れる白銀の髪が、闇の中で冴え冴えと光っている。
あの時と寸分変わらぬ姿で、彼はそこにいた。
「会いたかった……!」
駆け出して抱きつくと、恐る恐る腕が回ってきた。
息を飲む気配。鴎葵は何も言わない。
目を細めて私を見ているんだ。
長い長い沈黙の後、宥めるように背を撫でた鴎葵が、
すうと息を吸い込んで言葉を紡ぎ始めた。
「私は人と拘わってはならない存在なのだ」
あずみは、鴎葵の腕の中で顔を上げた。
顔にある紋様にふ、と手を伸ばしたくなった。
何故だか血のように禍々しく気になった。
宙に伸ばした手を振り下ろす。
届く前に、鴎葵があずみの手をそっと掴んで捕らえた。
「どうして、鴎葵は私を拒絶しなかったじゃない。
あなたが本当はどんな存在か知らないけど、私には関係なかったよ。
友達だもの」
鴎葵は、私の手を自分の頬に寄せる。
その表情に、胸の奥が激しく描き立てられた。
(何だろう、不思議な感覚)
「東の草原の先へはいくな」
「え?」
「そう言われていたお前は、禁を破ってここまで来た」
「……今更じゃない」
「私も怖がらせて追い返すつもりだった。
だが、手荒な真似をしてもお前は怖がりもせず近づいてきた」
「だって恐ろしい気配はしなかったんだもの」
過去を回想するかのように、あの時を淡々となぞる鴎葵に反論する。
彼も笑っていないから、私も茶化すようには言えない。
「どうしてこの村には掟があり、余所と交流を持っていないと思う?」
「分かんない……考えてみたこともなかった」
そう言ってからはっとした。
すぐ思い至ってもいい事柄。
東の草原の先に隠された禁忌は、鴎葵。
掟と村が閉鎖的なこと。
切り離して考えるなんてできないじゃないか。
間違いじゃないはず。
鴎葵に会えたことが嬉しくて、楽しくてそれだけでよかった。
禁を破った罪悪感を抱えながら、ばれてしまいやしないか
刺激的な気分になってて、それが余計に心地よかったんだ。
今でも童だけど、もっと幼かったあの頃。
目の前の楽しいことを独り占めしていれば満足だったんだわ。
自分の考えに耽っていた私は、真摯な眼差しに射抜かれた。
「鴎葵のことと関係があるんだよね」
「お前……人間達とは相見える存在ではない、生きる世界が違う
存在だとしか私の口からは言えない」
鴎葵の言葉は苦々しく聞こえた。
目を細めた彼の瞳の奥に何が映っていたのか私は知らない。
折角会えたのに、鴎葵は私を遠ざけようとする。
目元が熱くなったから、唇を噛み締めた。
鴎葵は、ちゃんと言ってくれた。
苦しそうに息を吐き出しながら。
でも、やっと会えたのに、今度は本当にお別れなの。
「そんな顔をするな……」
鴎葵はくしゃくしゃに歪んだ顔をしていた。
大きな手の平が頬を拭う。
初めて私の肌に触れた手はとても熱かった。
人と同じだよ。どうして。
鴎葵がどんな姿をしていても、大好きだよ。
「もう会えないの」
「ああ」
「時々でも?」
「ああ」
「ひとつだけ教えてくれる。教えてくれなきゃ帰らない」
ちょっと位いいよね。
「もしかして、大岩で洞窟の入り口を塞いだのも
それを退けたのもあなたなの?」
扉のように岩で塞ぐなんて人間にできるかどうか。
深く考えなかった。
労力と手間は計り知れない。
洞窟には人間達は来てはいない。
禁忌を犯すのを恐れず近づいたのは、私一人。
あの時、受けたお咎めは、一月、外に出ることを禁じられたことだけ。
最初に怒られた以外、何も言われなかったのだ。
「そうだ」
迷いのない口調が、返って来る。
それを聞いて何故かほっとした。
気が緩んで笑みが浮かぶ。
全然笑いたい気分じゃないんだけど変だなあ。
「そうか……そうだったんだ」
へへっ。
にへらと場違いに笑う私に鴎葵は虚をつかれているようだ。
ふさふさの耳がぴこんと垂れ下がった。
「もう一個いいかな」
一つだけと言ったのが嘘になった。
少しでも一緒にいる時間を延ばしたくなったのだ。
鴎葵は、しょうがないなと柔らかく笑った。
呆れたのかもしれない。
「私の夢の中に現われてさよならを言いに来た?
話を聞いてるとね、鴎葵にならできちゃうんだろうなと思えた。
不思議なんだけど」
「すまない」
「え……お、鴎葵」
急にきつく抱きすくめられてうろたえた。
鴎葵の体は、大きいからすっぽりと包まれてしまう。
「少し髪が伸びたか」
「うん」
短い髪の女子は滅多にいない。伸ばすのが普通の時代だったけれど、
私の場合は伸ばしたくて伸ばしてるんだ。
長い方が大人っぽく見えるかもしれないと考えて。
さら、と髪が梳かれる。
そういえば頭を撫でるのではなくこんな触れられ方ははじめてだ。
「大きくなったな」
「その発言が子供扱いしてる証拠だよ」
「あの時はほんの小さな幼子だったのに」
「十歳でも……鴎葵から見たら幼子だったんだね」
くすっと笑った鴎葵が、背中を撫でた。
くすぐったくて、笑い声が出る。
「お前は何も悪くないんだ……何も。
私が人の世を愛しすぎたんだ」
鴎葵は、私にではなくまるで自分に言い聞かせてるようだった。
「鴎葵?」
「そして夢を見すぎた。人と共に在れる未来を胸に抱いてしまった。
それが、私の犯した許されざる罪」
その言葉の意味を考えあぐねた。
どうして罪なのか。いずれ知る日が来るんだろうけど今知りたいって切実に思う。
鴎葵が遠くてはがゆいんだもの。
「お前に口で別れを告げる勇気がなかったから、夢という媒介を使った。
臆病なものだな。私は自分がこんなに弱いだなんて思いもよらなかった」
独り言だ。
私が聞いていなくても関係なく彼は喋り続けるだろう。
「あずみと出会えたことはこの上ない喜びをくれた。
人の温もりがこんなにも胸に明かりを灯すとは」
しみじみと鴎葵は呟く。
「私こそ鴎葵と会えて幸せをもらったよ。色んなものたくさんもらった」
初めて耳にする不思議なお話は新鮮だったし、山に連れて行ってくれたのも
とても楽しかった。鴎葵は時々厳しかったけど、優しかった。
「あずみ、ありがとう」
そう言ってくれてよかったと鴎葵が頬を緩める。
苦しかった。胸を熱くする何かが燻っている。
気づく前に蓋をしてしまえばいい。離れたくなくなる。
訪れるお別れに脅えるから、私は無理矢理鴎葵の腕を引き剥がした。
思いもよらぬ行動だったのか鴎葵は、息を飲んでこっちを凝視している。
「お前は……」
「握手して」
すっと手の平が重ねられる。
「本当はね、いつまでも一緒にいたかった。
あなたも、そう思ってくれてたって自惚れてもいい?」
「いくらでも」
優しい笑顔。
鴎葵は嘘をつけないから、少し残酷だ。
私が彼の様子を見守っていると、
鴎葵はうぐいす色の着物の袂から何かを取り出した。
気づけば、髪の両側には赤い鈴のついた髪飾りが飾られていた。
動くたびにしゃらん、しゃらんと涼やかな音がする。
顔がみるみる内に赤く染まる。
「よく似合っている。髪が伸びればより似合うだろうな」
「あ、ありがとう、鴎葵」
声が上擦った。とっても照れくさかった。
「さっきの言葉を信じてくれるなら……」
躊躇うように言葉は途切れた。
私は真っ直ぐ鴎葵を見つめる。
自分の瞳が潤んでいたことなんてこの時は気づかなかった。
「もう一度ここへ来てくれ。お前が真実を知って
それでも私と会いたいと望むのならば」
私は頷いた。
鴎葵の言葉は鋭く胸に響いた。
「……洞窟の外で待っている」
「いつ?」
「時が満ちた時だ」
意味深な言葉を呟いた鴎葵は、もう一度強く抱きしめてくれた。
私もぎゅっと抱きしめ返して応じる。
「きっとまた会いに来るから」
「ああ」
「嘘じゃないよ」
言い張る私に、鴎葵が苦笑する。
洞窟の外まで見送ってくれた鴎葵に一度振り向く。
しゃらんと鈴が鳴った。
「待っててね」
頷いた彼が目を細めてこちらを見ていた。
もう一度、会う為に暫くのお別れ。
白銀の髪、顔に朱の紋様を持ち、普段は獣の姿だが、
人にも姿を変えられる人間とは異なる種族の鴎葵[おうき]という名を持つ彼。
これから知るであろう真実がどれだけ重くても受け止める覚悟を決めた。
こんなにも誰かに会いたいって思ったのははじめて。
一度会ったらまた会いたくなる。
気持ちが膨らんで心を震わせるんだ
私、今度会う時は、あなたにもっと近づけるかな。
鴎葵……。
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