言えない言葉


 家柄だけ見れば最初から吊り合わなかった。
 彼女は伯爵令嬢なのに、自分は子爵の子息に過ぎなかったから。
 親のことや家のことを恥じるつもりはないけれど、
 あちらとしては心の中全部で賛成していなかったに違いない。
 彼女の両親は矜持が高い一流貴族の典型のような夫妻だ。
 王から求婚を受けるなど願っても見ない縁談だったに違いない。
子爵の息子を婿に迎え入れて跡継ぎにするよりよほど、意味のあることだろう。
 浮かれていて隙だらけの俺に、突如もたらされた運命。
 使者はすべてをピリオドへと導いていった。
 当人同士の気持ちなど、置いてけぼりで。


「ジャック」
 トリコロール子爵夫人は、息子の名前を呼んだ。
 震える声にならぬようにするとどうしても抑揚がなくなる。
 柔らかい笑みを母に向けながらジャックは彼女の話の続きを待つ。
 手のひらを強く掴まれて、息苦しい。
 母の瞳は揺れていた。
「どうかした?」
「セラのことは諦めなさい」
 我耳を疑う。空耳にしてははっきり聞こえすぎた。
 どくんと心臓が跳ねる。
「ギウス陛下との婚約が正式に決まったのよ……」
「王家にも逆らえないわ。勿論メリル伯爵家の意向にも口出しできない」
 感情を抑えた淡々とした響き。
 ジャックには母の動揺が伝わってきた。
「セラは本当にいい子で、気に入ってたわ」
「もう遅いよ」
 何を言っても。母が心底申し訳なさそうな顔をしている姿に
 きつく異を唱えるなどできるはずもないジャックは、淡々と呟いた。
 自室に引きこもると静かに嗚咽を噛み殺す。
 結ばれると夢見ていた。
 自らの家を継がず伯爵家に入ることも受け入れるほどに彼女を愛していた。
 気高い水色の瞳。強くてクールで、けれど女っぽく脆い所を持ち合わせた
 綺麗な女性。身分、家柄なんてくそくらえだ!
 行き場のない感情をどうしたらいい。
 ジャックは、生まれて初めて涙を流した。
 愛する人を想って泣いた。
 もう少しで一緒になれると思っていた矢先に起きた悲劇だった。
泣いてすべてが元に戻るのなら涙で海ができるほどに泣いただろう。
 だが何もならない。
 ぽっかり空いた心の穴にぴゅーぴゅーと隙間風が吹いていくだけだ。
 そうだ、俺が今なすべきことは何だ。
 事実を告げられた彼女の方が辛いというのに。
 苦しみを抱えたセラを見送ってあげなければいけない。
 精一杯、いつもの自分で。



メリル伯爵家の外にジャックはいた。
今更セラを訪ねていくことはできないから、門の外側にそっと佇む。
 この門の中へ行くことは二度とない。
 今や頑丈な檻に見える鉄門。
 まるでセラとジャックを隔てる境界線だ。
 暫く待ってセラに気づかれなければ、ジャックは帰ろうと心に決めていた。
 空を見上げる。夜空には星々が輝き地上に光を送る。
  玄関の扉が開く派手な音と共にセラが出てきた。
 駆けて来る愛しい人。
 側まで来たセラの手を掴むとジャックはそっと握り締めた。
「ジャック」
 セラは寂しさと切なさが織り混ざった複雑な表情をしていた。
 ジャックは苦笑し、思わず零す。
「そんな顔するなよ」
 握り締めた手に力を込める。
「私、王と結婚しても一生愛せないと思う。分かるのよ」
 聞いてはならない言葉だが、ジャックは内心嬉しかった。
 強情なセラは嘘をつけない。
 言霊は強い力で未来を決定付けている。
 セラの為ではなく自分の為に言わなくてはならない。
 ジャックは、空いている方の手で拳を握った。爪が食い込むほど強く。
 迷いのない清々しい表情でセラを見つめながら、
「そんなことを言うな。ちゃんと王を愛して世継ぎを生んで立派な王妃になってくれ」
 必死の言葉を紡いだ。少し激しい口調になっていたかもしれない。
「ジャック…………っ」
 ジャックは抱きつき首に腕を絡めてくるセラを受け止める。
 震えている。
 あの強いセラが。誇り高い彼女が。
 自らの矜持を傷つけられ、意志のない人形にならなければ
 ならないことへの怒りと焦燥と哀しみ。
 耳元に聞こえてくる嗚咽。
 最後が涙の記憶になるなんてせつなすぎる。
 ジャックは、細い金の髪を撫でる。
 セラがひっくひっくと泣きじゃくる姿を見るのは初めてだった。
 ただ抱きしめる腕に力を込める。
 世闇の中に静かに響く泣き声。
 ジャックはおどけて見せた。
「らしくないな、セラ。君は強気に微笑んでいないと」
「…………全部見抜かれてるみたいね。適わないな」
 くすっと笑ったセラは強気な表情だ。
 口元が震えているのが痛々しいけれど。
 髪を丁寧に梳いてゆく。
 この腕の中で抱いていたかった。
 口づけを交わすのは、セラしかいないと思っていた。
「ずっとあなたを愛してる」
 セラが背伸びをして、口づけてくる。
 温もりを返すようにジャックも口づけた。
「セラ」
 愛してる。
 吐息混じりに呟く。
 永遠に胸に刻まれるのだ。



 ジャックは、諦めきれない思いを胸に日々を過ごしていた。
 セラは教育を受ける為、婚姻の日の2ヶ月前にお城に入った。
 それから早1ヶ月が過ぎようとしている。
 セラとの結婚が破談になったことで、
改めてトリコロール子爵家を  継ぐため勉強の日々。
ジャックは、両親のかけてくる慰めの言葉が  胸に重くのしかかってしょうがない。
 ”ジャックがいればトリコロール家は安泰ね。”
 ”お前は是非伯爵よりも上の地位に昇りつめてトリコロールの名を広めてくれ。”
 ”メリル家に入るのは重責だと前から思っていたんだ。
 肩身の狭い想いをしてあちらの伯爵夫妻に頭が上がらない日々を送ることに
 なっていたんだから、結果としてよかったんだよ。”
 表面上だけの薄っぺらい言葉に聞こえるのは、余裕がないからだろう。
 彼らなりに精一杯、ジャックを気遣ってくれているのだ。
 邪険にできず曖昧に笑うけれど、傷はまだ癒えそうもない。
 幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた幼馴染でありフィアンセだったセラ。
 過去形にしたくないのに現実が、すべてを過去にする。
 想い出は何一つ消えずこの胸にあるから、
 いつだってセラを脳裏に思い浮かべることができる。
 忘れるなんてできないからせめて想い出にしてもいいだろう?
 ジャックは、今夜はパーティーにでも出てみようと思った。
 仮面舞踏会で新しい出会いがあるかもしれない。
古くからトリコロール家と親交のある公爵家の家で、パーティーは開かれた。
 男女それぞれ仮面を見につけて、気に入った相手を探す。
 ダンスを踊って一時だけ夢の世界に身を委ねる。
 ジャックはこれまでメリル伯爵家主催以外のパーティーには出ていなかった。
 もちろん、隣にはセラがいて彼女をエスコートしてステップを踏んだ。
 ジャックとセラはメリル伯爵家の周囲には公然の仲だったのだ。
 隣には現在誰もいない。
 空いた場所を埋める存在に出会えるのだろうか。
 ジャックは半ば投げやりな気持ちでホールに佇む。
 本当は自分の家柄にも誇りを持っている。
 決して地位は高くないが、心根の清らかな優しい両親がいるから。
 貴族のあざとさや駆け引きとは無縁の世界で生きている彼らが、
 ジャックは好きなのだ。
 結局、ジャックは誰とも踊らずにパーティーを終えた。
 メイドの運んでくる飲み物を流し込んで、適当に時間を潰していた。
 他にも目当てのパートナーがいなかったのか、ジャックのように適当に
 過ごしている者も少なくなく、自分の行動が目立たなかったことを幸運に思った。
 セラを想い出にすると決めたもののまだ無理だ。
 これまでの長い日々は未だ色鮮やかだ。 
 ジャックは自室のベッドに寝転がって自嘲した。 


 瞬く間にまた1ヶ月が過ぎた時、思いもよらぬ出来事が起きた。
 ベットで眠りにつこうとしていたジャックは、窓に何かがぶつかった
 音を聞いて飛び起きた。小石程度の小さな音だったが、しっかりと聞き取れた。
 がらりと窓を開ける。
 窓の外には二度と会えないと思っていた最愛の女性がいた。
「セラ!?」
 びっくりして目を瞠る。
 セラは茶目っ気のある笑みを浮かべて、
「驚いた?」
 と嘯いた。
「何やって……いいから中へ入って」
 はっとして、すぐに平静を取り戻し窓から腕を差し伸べる。
 セラをソファに座らせたジャックは、
 ティーポッドから、カップにお茶を注ぎ、セラに差し出した。
 セラが口づけるのを見ながら話しかける。
「冷静な君とは思えない行動だな」
「大方予想できてたんじゃないの」
 ジャックはセラが唇に手を当てて笑うのにつられて自分も笑った。
 セラが腰に佩いた短剣に視線をやると苦笑する。
「まだ持ってたんだ…………返してもらっとけば良かったよ」
 いつかきまぐれでセラに教えた剣。
 お城の兵士には敵うはずもないが、一人で出歩いて危険
が訪れた時、
 敵を退ける術にはなる。それがこうして仇になった。
「無理よ、今も前も返すつもりはないもの。
 あなたと交換してたメッセージボトルは屋敷に置いて来るしかなかったけど」
「私がここに来た理由、気づいてるでしょう」
セラは既に罪を犯している。決して知られてはならぬ罪を。
 そしてこれから新たに取り返しのつかない罪を刻もうというのか。
 ジャックは、剣を無理にでも奪っておけば良かったと、見え透いた後悔をしていた。
「明後日、もう明日か……婚儀は」
 まだ間に合う。彼女を拒絶してしまえば。
 それができるほど大人ではない。
 若い情熱に身を燃やすことへの躊躇いなど、簡単に消えてしまう。
 セラはジャックを見つめ続けている。
 揺らがない視線は媚を含んでいてジャックは視線を逸らせなかった。
 ぐいと抱きしめて、
「まさかまた会えるなんて…………」
 耳元で囁いていた。抱き返される腕に頬を寄せる。
「会いたかった」
 どちらから漏れた声だろう。
 そんなのどっちでもよかった。
 闇へと縺れ合いながら、堕ちてゆく。

 熱が籠もった吐息。
 指をきつくきつく絡め合って、全部を確かめ合う。
 叶うなら望むことが許されるなら
 このままでいたい。

 二人は何度となく互いの名前を呼んだ。
 吐息混じりの声にならない声で。
 お互いの肌がこんなに熱かったなんて知らなかった。
 温かいだなんて表現では収まらない。もっと奥底で感じる熱。
 与え合い奪い合う。



うっすらと夜が明け始めていた頃、
 頬に雫が落ちてきてジャックは目を覚ましたが
 眠っている振りを装いセラの様子を窺った。
「さようなら」
 涙で濡れた声が、耳を嬲る。
 腕を引いて抱き寄せて、もう一度伝えたい。
 他の誰かを妻に娶ってもセラが心から消える日はきっと来ない。
 触れ合って確かめた想いを永遠に抱いて生きるだろう。
 行くな、一緒に逃げよう。
 喉から出かかった言葉はとうとう言えなかった。
 ジャックは一滴の涙を落とした。
 セラの温もりが残る場所を掻き抱いて瞳を閉じる。

 愛しているよ、セラ。


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