第7章



リシェラ王女ただ一人の側にいつも影のように従う少年ディアン。
 知らぬものはこの国でいないというほど彼の名は広く知れ渡っていた。
 城に仕える兵士の中でもっとも強い男である兵士団長・ライアンを
 剣の手合いで負かした。王・王妃夫妻の身近で彼らを守る
 役目を担っている男が、王女の従者に、敗れた。
 天性の才でもあるのか、授かった剣をあっという間に使いこなした。
剣の切っ先は光り輝き、風を切っていた。
 王も見守るその前で腕を披露した噂は、瞬く間に場外に広まった。
 王が自ら剣を賜らせた、一番のお気に入りの男。


 当のディアン本人は、自らの噂が流れていることを知らず、
 今日も今日とて王女の私室で彼女の側で給仕に徹していた。
 リシェラも上機嫌の笑顔で、ロールケーキに齧り付いている。
 頬についたクリームを見て時折、ディアンがはしたないですよと
 たしなめると恥ずかしそうに、ガーゼで拭う。
 何も邪魔する物がない自由な時間が流れ続けている。
 夏の終わりの風は、爽やかで二人は耳をすませて
 風の音を聞き、心地よい風が頬を撫でるのを感じていた。
「ディアン、今度ピクニックに行きましょうよ」
「ぴ、ピクニックですか?」
 声が上擦ってしまったディアン。困惑の色が明らかに見て取れた。
「あ、嫌そう」
「いえ、そんなことありません!」
 慌てて否定する様子にリシェラはむっと膨れかけたものの
 一瞬で表情を変え笑い転げ始める。お腹まで押さえて大げさに。
「リシェラ様、どうかされた?」
「だって……ディアンの反応可愛すぎなんですもの!
 外見は背が高くて二つ違うだけでこんなにも大人
なんだって思うんだけど  意外に中身は可愛かったりするのよね」
 クスクスと笑われ、ディアンは額を押さえた。
「本当にあなたはご自分の事を棚に上げて」
 妹がいたらこんな感じだろうかとディアンは思う。
 別の想いが心を揺さぶり始めていることを気づかぬ振りをしているだけ。
 それすら気づかぬままに、ぶるぶると頭を振るう。
「ディアン?」
 リシェラは首を傾げるでもなく横目でディアンを見つめる。
 さらりと揺れる髪。くるんと先がカールしているリシェラの頭に
 ディアンはそっと手を伸ばして、撫でた。
 無礼と思う心よりも先に本能の衝動で動いていた。
「やめて!」
 途端、リシェラは激しくディアンの手を振り払った。
 振り払われた手が熱い。ディアンははっと我に返った。
「とんだご無礼を。申し訳ありません」
 ディアンは少し距離を取りリシェラに深々と頭を下げた。
「……驚かせてしまったわね」
「いえ、私が悪いのです」
「生まれてから髪に触れられたことって数えるほどなのよ。
 だから怖い……抵抗があるのかな。
 お母様の色ともお父様の色とも違う異質の色で自分でも嫌いなの。
 瞳の色はお母様と同じなのに、髪だけ誰にも似ていない。
 大人になったら綺麗な金色になるわってお母様は言っていたけれど
 ……知ってるの。この城の中で働いている人達が噂してること。
 リシェラ王女はセラ王妃の不義の果てに生まれたんだって!」
 ディアンは衝撃を受けていた。
 うさぎを抱えて眠っていた彼女の心の深い闇は
 自分が思っているよりずっと根深いのかもしれない。
「根も葉もない噂じゃないですか」
 根拠もなしに心を和らげる言葉を吐いている自分がたまらなく嫌だ。
 ディアンは唇を噛み締めてリシェラを正面から見つめた。
「……お母様が私を見る時、時折酷く切ない目をするの。
 すぐに翳りは消してしまっていつものお母様に戻るけど……」
 震える自分の体を抱きしめているリシェラにディアンは、
 いてもたってもいられず腕を伸ばした。
 真綿で包み込むように、優しく腕の中に抱きこむ。
「リシェラ様を苦しめる者は俺が許しません。
 何故あなたがそんなにも苦しまなければいけないんだ」
 耳元に下りてくる言葉にリシェラは、心臓が高鳴った。
 馬鹿らしい不安なんて吹き飛んでゆくほどの効力。
 彼は、私を守ってくれるの?
 ゆるゆると顔を上げれば、真摯な瞳とぶつかった。
「ありがとう、ディアン」
 ぎゅっと背中に手を回す。
 他意はない。側にいてくれて、嬉しかったのだ。
 リシェラは、一時の温もりに酔いしれた。
 温かな腕は、力強く、自分よりも広い背中にたくましさを感じた。
「悪意に満ちた噂に惑わされ苦しむ位なら、真実を確かめる
 ことも必要だと思います。まだお聞きしてはいないのでしょう?」
「ええ……それは」
「王妃様にお確かめになって下さい。
 単なる悪い噂に過ぎなければ、それで済みます」
「分かったわ」
 ディアンが腕をほどくとリシェラも彼の背中に回していた腕を離した。
「そのような噂を流す連中は城から追い出すべきですね。
 王様にご意見させて頂きます」
 強い口調で言うディアンにリシェラは少し驚いた。
「そこまでしなくても。彼らも私が聞いていたことなんて知らないのだから」
「甘い態度だとつけあがります。あなたは王女です。
もっと威厳のある態度でいていただかないと」
 言いすぎと自分でも感じていたが止められなかった。
 この小さな王女は自分の手で守らなければいけない。
 年のわりに利発だが彼女は無防備すぎる所がある。
 ディアンは拳を握った。
 自分こそが解任されることになるだろうか。
 その事態を招いても仕方がない行動をしているのだが、そう考えると少しおかしかった。
「ディアン、大丈夫よ。咎めたりしないから。
 逆に私にそこまで言う人今までいなかったから新鮮よ。
 皆、王女の私とは一線引いてるしね。
 あなたは私の事を考えて言ってくれてるのが分かるから、
 叱責する理由なんてないわ。瞳はまっすぐだし、
 戸惑いながら喋ってるの見て何も感じないわけないじゃない」
「一臣下に過ぎぬ身でありながら、行き過ぎた行動でした。
 だけど俺はあなたを守りたくて」
「あなたがいてくれてとっても心強いわ」
 リシェラはディアンの手のひらを取り、自分のそれを重ねた。
「お母さまにお尋ねする時、側についててくれる? お部屋の外で待っててほしいの」
「勿論です」
 翌日、リシェラは王妃の間の前にいた。当然柄共にディアンを連れている。
 心臓がうるさいくらい高鳴っている。
 聞きづらいに決まっていた。
 馬鹿な子ねと笑ってくれればいい。 
 瞳を瞑ると胸元で手のひらを重ねる。
 覚悟を決めて瞳を開けると扉をノックした。
「お母さま、リシェラです」
「お入りなさい」
 凛とした澄んだ声に促され、リシェラは扉を開けた。
 チラと後ろを振り向き、ディアンと目線を交わすと、
 表情を一変させる。硬いとも取れる真剣な表情になった。
 室内に入ると窓際にセラはいた。窓から差し込む夕昏の光
 を受けて佇む姿はとても美しい。金の髪がますます輝いて見える。
 リシェラの憧れの色。ティアラがあの頭の上に乗ると本当に綺麗なのだ。
 昨夜の夕食の時、明日の予定を聞き、夕方からなら空いていると
 の話だったので、空が黄昏に染まる時間に部屋を訪ねたのだった。
 セラに見とれてしまい、刹那リシェラの時間が止まっていた。
「大事なお話があるのでしょう」
「お母さま」
 リシェラは息をごくんと飲み込んだ。
 失礼で、何よりも傷つけてしまいかねないことを自分は聞こうとしている。
「私はお父様の娘なのよね」
「リシェラ」
「口さがない噂だったなら、それでいい。私の事を
 叱って。罰を受ける覚悟だってあるもの」
 じわ。一度言ってしまった言葉は喉には戻らない。
 目じりに熱いものが込み上げる。
 母親を疑っている最悪の子供だ。

 セラは当惑していた。
 娘をここまで疑わせてしまっていることに。
 確信のない噂を信じるような娘ではない。
 頭の回転も早く利発で、思い立ったら行動する性格の。
 これまで随分と悩んだに違いない。
 気の強い娘が、鼻にかかった声で。
 はらはらと零れ落ちそうな涙を必死に堪えて、立っている。
 早く答えなければ不安が一層募るだろう。
「あなたは正真正銘、私と陛下の娘よ」
 リシェラはセラの表情を一瞬でも見逃すまいと、視線を向けている。
 セラはこつんと自分の頭をリシェラの頭に寄せた。
「馬鹿な子ね」
「だって、私のこの髪の色は……」
「私のお母様も子供の頃は赤茶けた髪色ですごく悩んでいたけれど、
 大人になるに連れて金色に変ったって聞いたわ。
 まだ一度も会わせてあげたことなかったわね」
 リシェラは自分の祖母や祖父という存在に会ったことがない。
 いることを知っていても。
一貴族の夫妻と王族である彼女は、普通の孫と祖母・祖父  として接することが許されないのだ。
 他人行儀すぎるそれは、双方の胸の内に切なさを生む。
 会うことを恐れ多いものとし、だから今日まで一度も顔を合わせていなかった。
 リシェラが生まれて15年も過ぎているのに。
「あの家を出て、16年が過ぎたわ。私はメリル伯爵家の娘から
 グリンフィルド王家の王妃になった。
 長いようで短い日々この城で生きてきたのよ」
 抱きしめられて、リシェラはくすぐったい想いがした。
 こんなに華奢で、腕だって細くて、強い人だと思っていたけれど
 それは、彼女の一部分でしか過ぎなくて。
 内に色んなものを抱えて秘めて生きてきたんだ。
 この城で、王妃として妻として母として。
突然の告白への戸惑いよりも、母が自分の過去を詳しく語ってくれたのなんて
 初めてでそのことへの嬉しさがリシェラの中にあった。
 さらさと指で梳かれていく髪。
 安心感で身を委ねる。髪に触れられるなんて何年ぶりだろ?
 リシェラは瞳を閉じる。
 もう子供じゃないのに恥ずかしい。甘えてしまってる。
 セラは、ふいにリシェラの顔を覗きこんできた。
「綺麗な暁色なのに勿体無いわよ?好きになってあげなくては」
 セラは優しい笑顔で言った。リシェラは思わずそんな母に抱きついた。
「うん!ありがとう、お母様」
 リシェラは赤茶けた髪色は目立つしやっぱりコンプレックスだけれど、
 好きになろうと思っていた。暁の色という言葉すごく心に響いた。
 金の髪じゃなくてもいいわと。
「今度、お婆様とお爺様に会いに連れてって」
「そうね、機会があれば。私もお父様とお母様にお会いしたいわ」
 ギブソンに時折連絡を取ってもらっているので、元気で過ごしているのは
 分かっているが、長い間会っていないのだ。直接会いたい。
 セラは王家に入って以来一度も口にすらしなかったが、気になっていた。
「お父様にお願いしてみましょう」
 リシェラは、はっとした。
 陛下と呼ぶ姿しか見たことがなかったのだ。
「はい。それじゃあお母様、そろそろ失礼します」
「ディアンも待ちくたびれていてよ」
「そうかも」
 クスクスと唇に手のひらを当てて笑う。
 セラの眼差しに見送られリシェラは王妃の間を後にした。
 その後、セラがつぶやいた言葉を聞く事はなかったのは幸か不幸か。
「あの娘が、彼の子であれば良かったのに。あの秘められた日の」

 リシェラが扉を開けて廊下に出ると、ディアンは部屋から少し離れた場所に
 背を向けて立っていた。離れなくても重厚な扉の奥からは
 声一つ漏れはしないのに。おかしなディアンだわ。
 リシェラはふふと笑った。
 どうやらリシェラが部屋から出てきたのに気づいてないようだ。
 リシェラは驚かせてみようと思い、ゆっくりと近づいていく。
「わっ!」
 背中から抱きついて顔を覗きこむとディアンは慌てた。
「リシェラ様!?」
 顔が真っ赤だ。 
「ねえ、ずっとここで待ってたの?」
「待ってましたよ」
「今度ね、お爺様とお婆様に会えるかもしれないの。
 どんな方かしら」
「その様子を見るとお悩みは解決されたのですね」
「心配かけちゃってごめんね、もう大丈夫。
 お母様も綺麗な暁色って言ってくれてとっても嬉しかったの」
「俺もリシェラ様の髪、好きですよ。夕焼けの色ですよね」
 リシェラは途端にぼっと顔を赤くした。火がついたという表現がぴったりはまる。
 母に言われたのとは、何故か違う意味合いに聞こえた。
 胸が早鳴りを始め、慌ててディアンから離れた。
「何よ、あなたの方が綺麗なのに。まるで月みたいで」
 ぼそぼそと呟く声をディアンは聞き逃すまいとしていた。
 リシェラはそっと手を伸ばしてディアンの手のひらを掴み取った。
「お部屋に帰りましょう!」
 リシェラはぶんぶんと腕を振り勢いよくディアンを引っ張っていく。
 掴まれた手のひらはいつもよりも熱くて、ディアンも戸惑っていた。

 顔の火照りは未だ引かない。
 リシェラは、さっきからぐるぐると部屋を何周もしている。
 両の頬に手を当てたまま。
 ディアンは部屋の脇に控えてそんな彼女を見守っていた。
 笑い出すのを堪えながら。
「暑いのなら窓でも開けましょうか?」
「馬鹿にしてるでしょ!」
「してないですよ」
ディアンは、窓を開けた。夏の終わりの風が吹き込んでくる。
 リシェラの様子を見ているとさっきまで悩んでいたことを忘れかけた。
否、忘れていた。
 だがふとした拍子に脳裏に蘇る。
 風が頬を撫で髪をくすぐった瞬間にも。
「ディアン」
 部屋を一人で巡っていたりシェラがいつの間にやら目の前にいた。
 頭に手を伸ばされ、髪の一筋を掬われて撫でられる。
 一連の動作はスローモーションのように流れた。
「あなたの髪って柔らかくて気持ちいい」
 無邪気な仕草にたまらなくなり、気づけば手の甲に口づけていた。
 背を屈め、敬愛するたった一人の主に万感の思いを込めて。
「リシェラ様の髪にも触れてよろしいですか?」
「うん」
 ふわふわの髪に触れる。
 先ほどは拒絶されたが今度は抵抗もなく、一臣下に髪を触れさせている。
 王女としての自覚を持てと言った自分の行動としては呆れるが。
 彼女も無防備すぎるのだ。
 ディアンは、心の中で決意を固めた。  


第8章
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