第9章



 ディアンがグリンフィルド城から旅立って3月が過ぎた。
 リシェラは以前と変らないように見えて、その笑みはどこかぎこちない。
 ごく身近にいる者しか分からない変化ではあったが。
 側仕えのメイドなどは、痛々しささえ感じられる姿を見ていられず
 動揺が態度に出てしまうものもいた。
 その態度がリシェラを傷つけてしまうことさえ気に止められずに。
 食事を食べられないという所までいっていないのが、救いだったが、
 このままではいずれそうなってしまうのは火を見るより明らかだった。


 コンコンと扉をノックする音にリシェラは顔を上げた。
 ディアンであるはずがないのに、僅かな期待を抱く自分が悲しい。
 一度で扉の叩く音は止んだ。リシェラは扉に向かって歩く。
 扉を小さく開けると隙間から見えたのは、
「リシェラ」
 母である王妃セラの姿。
「お母様、どうかされたのですか?」
 思わず問うてしまっていた。
 扉を開いて部屋の中に招き入れる。
 廊下には王妃仕えのメイドが一人いた。
 セラはいつも同じメイド一人のみを従えている。
 自分の身の回りの事はできるだけ自分でしたいという  考えがあってのことだ。
 それは自分のプライバシーは守り通すという意志の表れでもあった。
「お婆さまとお爺さまの所に行きますよ」
 にっこりとセラは笑っている。
 リシェラぱぱちぱちと瞬きした。
「今からですか?」
「ええ。一時間後には出ますから、それまでに支度をすませなさい」
「……はい」
 セラは、それだけ言うと部屋から出て行った。
 リシェラはふうと息をつくと着替え始めた。
 着替え終わると帽子を被り部屋の外に出る。
 廊下に控えていたメイドを従えて玄関ホールに向かう。
 辿り着くと既に王妃セラがいて、いきましょうとリシェラに声をかけてきた。
 数人の供を従えて城門を出て、馬車に乗る。
 リシェラはセラの隣に座った。
 二人で何処かへ外出するなんて何年ぶりだろうか。
 ディアンが来てからはいつも彼と一緒に出かけていたけれど。
 街へ下りる以外で遠出もしていない。
 ディアンが戦争へと赴いて以来寂しさから心が虚ろになりかけていた。
 誰かがいないから寂しいのではない。
 今まで感じたこともないほどの虚しさを感じている。
 リシェラは連れ出してくれたセラに言葉ではいえないほど感謝していた。
 最初にセラから話を聞いた時は、何も思わなかったのに、着替えている時に思い至った。
 母が、元気づけようとしてくれていることが。
確かに部屋に籠もってばかりでは、余計に気が滅入る。
 無駄に元気づけるのではなく、静かに見守る姿勢を貫いている
 セラの温かさが本当にありがたく思えた。
 同じ馬車内に二人きりでも、会話はあまりない。
 それが逆に居心地が悪いわけではなく、寧ろ心地よさを生み出していた。
 穏やかなセラの横顔を見ていると不思議に心が落ち着いていく。
「お母様、ありがとう」
「どうしたの?」
「なんでもないわ」
 ふと漏らした言葉にセラが小さく微笑む。
 リシェラははにかんで首を振った。
 セラの生家であるメリル伯爵家は、王城から一時間ほど馬車に揺られた場所にあった。
 城に比べれば小さいが、一般の屋敷としては充分大きい。
 セラが、王家に嫁いでから屋敷も改築された。
「見栄と虚飾に彩られた屋敷だわ」
 母の口からぽつりと紡がれた言葉にリシェラはきょとんとする。
 まるで誰の返事も求めていない独白のようだった。
 何事も無かったように歩き出したセラにリシェラもついてゆく。
 風に乗った花の芳香が、ふわりと鼻腔を擽った。
 秋の花が咲き乱れている花壇はよく手入れがされている。
「綺麗」
 リシェラは微笑んだ。
 セラが呼び鈴を鳴らし、出てきた貴婦人にリシェラは胸が高鳴った。
(これがお婆様)
 セラがそのまま年を重ねたような風貌は、まさしく疑いようもない。
「セラ……王妃様」
 女性はとっさに言い直した。
「お母様、お久しぶりです」
「王女様もようこそいらっしゃいました、さあお上がりになって」
 やはり名前で呼んではくれない。
 当然のことであってもリシェラは寂しさを感じずにはいられなかった。
 応接間に案内されたリシェラとセラは、差し出された飲み物に口をつける。
「イレーヌと申します、王女様」
「リシェラです。お婆様、初めまして」
 リシェラはワンピースの裾を持ってお辞儀する。
 一瞬だがイレーヌは嬉しそうに頬を緩めた。
 これが事実上の祖母と孫の初対面。
 セラとイレーヌは15年ぶりの再会だった。
同じ空間にいるのに和やかな雰囲気とは程遠い状況。
 隔てられた境界を崩せるのかリシェラは不安でいっぱいになっていた。
「王妃様……いいえセラ」
 イレーヌの声にセラは視線をそちらに向けた。
 戸惑いつつも昔のように自分を呼んだ母。
「あなたは今幸せ?」
「ええ、とても」
「そう、良かった」
 淡々とした会話だが、今はこれで充分だとセラは思う。
 リシェラは祖母と母を見比べると両方に微笑みかけた。
「お母様とお婆様はよく似てらっしゃるわ」
 リシェラの一言は場の雰囲気を和ませる力を持っているようだ。
 セラもイレーヌも顔を見合わせて笑った。
 リシェラがお母様の部屋が見たいと席を立ってイレーヌと
 セラが二人きりになった時、イレーヌがぽつりぽつりと語り始めた。
 あの時のことを悔やみ申し訳なく思っていること。
 昔は分からなかったことがようやく分かったのだと、すすり泣いた。
 それでも久しぶりに会った娘の顔は、決して不幸せな者ではなく
 孫もとてもいい子で、ほっとしているとそうイレーヌは言った。
 セラはレースのハンカチでそっと母の頬を拭った。
 久しぶりに会った母は年老いて変っていた。
 あの時のことを考えれば複雑な気持ちもあったが喜びを感じたセラであった。
「お母様、ジャックはどうしているかご存知ですか?」
「……5年前、お父様が亡くなられて爵位を継がれたわ。
 ご結婚はされていないけれど跡継ぎのこともあってご養子を迎えたそうよ」 
 セラはイレーヌの言葉を受け止めると窓の方を見つめた。
 彼の”今”が知れたことがどれだけ自分の心に光をもたらしたか。
 彼が一人でいることにほっとしている自分がいた。
 自分は結婚し子どもまで成しておいて本当に身勝手だけれど。
 恋という感情を教えてくれたただ一人の人を忘れることなどどうしてできようか。
 心の中にゆらりと揺れる灯火の想いは
 時の流れに風化されることなく、セラの胸の中にある。
 決して二度と会うこともないジャック・トリコロール。
 彼との運命は自分に開かれていなかったのだ。
 ずっと窓の方を見つめたままのセラに、イレーヌがお茶のお替わりを注いだ。
 話が終った頃、タイミングよく部屋の扉を叩いたリシェラに自然と笑みがこぼれる。
「お母様のお部屋、昔住んでいらした時のままにしてあるのね」
「ええ、お嫁にいってもセラの部屋であることに変わりはないもの」
「お母様」
「頻繁には来られないでしょうけど、またいつでもいらっしゃい。
 お父様もきっと会いたいと思っているから」
「はい、突然来てしまったのでお会いできなくて残念ですが、また来ます」
 母娘のやり取りを見てリシェラは胸を撫で下ろした。
「リシェラと呼んでもいいかしら?」
イレーヌは穏やかに笑っていた。
 リシェラはその手のひらを掴んで指を絡めた。
「勿論ですわ、お婆様」
 握り返された手のひらを感じてリシェラはとても嬉しかった。
 対面した時のぴりぴりとした緊張感は消え、紛れもない家族の姿がそこにあった。
 今度来る時はお爺様にもお会いできるといいなとりシェラは願う。
 リシェラとセラの親娘は晴れやかな気持ちでグリンフィルド城に帰っていった。 
 帰城してすぐ向かった王の間で、リシェラは目を瞠ることとなった。
「お見合いですか!?」
「相手はお前の従兄弟だ。昔会ったことあるはずだぞ。
 王家の親戚筋に当たるアルヴァン公爵家の子息・ザイスだ」
「そんなこと急に言われても!私、結婚するつもりなんてありませんから!」
 ぷんぷんと興奮しているリシェラをセラが宥める。
「お見合いであって結婚ではないのよ」
 いつもは利発で聞き分けのよいリシェラが声を荒らげて反発するのは珍しい。
 よほど納得できないことでもない限り。
 今回の事がいい例だとセラは冷静に分析する。
 リシェラはさっきまでの楽しい気分が一気に台無しになったと感じていた。
「突然で驚かせてしまったのはすまないと思っている。
 だが、これはもう決まったことなのだ。
 一度会ってみてくれないか?」
 ギウスは強制でもなく促すようにリシェラに問いかけた。
 よほど事情があるのだろう。
 心苦しそうなギウスにリシェラは、拒否しづらくなった。
 別に父を困らせたいわけではないのだ。
「……お父様」
 しゅんとうな垂れるリシェラにギウスは茶目っ気を含んだ笑みを向けた。
「今は遠くに行っていますが私には心に決めた人がいます。とでも
 言って断ってやるといい。私自身もあの男は好かん」
 父の提案に吹き出しかけたリシェラだったが、はたと停止する。
「あの、お父様、それって嘘をつけってことじゃないですよね?」
「自分の気持ちには嘘をつくなってことだ」
 訳が分からずリシェラは首を傾げた。
「大丈夫、何があってもお母様とお父様はリシェラの味方ですからね」
 にこっと瞳を細めた母にますます混乱させられてしまう。
「ええ、ええっ??」
 リシェラはついに頭を抱えた。
 その姿を見てギウスとセラはそろそろこの辺で止めておく事にした。
「今は分からずともその内分かる。だからさっきの言葉を覚えておきなさい」
「は、はい」
 セラはくすっと笑いリシェラの頭を撫でた。
「そ、それじゃあ失礼します」
 考えすぎて疲れたのかリシェラはふらふらと覚束ない足取りで王の間を後にした。
「リシェラが自覚する日はいつかしら?間違いないはずだものね」
 しみじみとセラは呟いた。
「……まだ暫くあのままでいて欲しいな」
 ギウスは苦笑した。
 部屋に戻り、部屋着に着替えたりシェラは、先ほどの出来事を振り返る
「さっきのお父様とお母様、今まで見たことないくらい仲良さそうだったわ。
 だけどああいうの人が悪すぎるったら!!」
 リシェラはベッドの上で一人足をばたばた動かしている。
 はしたないことこの上ないのは自分でも重々承知だ。
「お父様の言葉を信じるしかないってことね。
 お見合いにはお父様も乗り気じゃないのが救いだわ」
「立ち直れないくらいめっためったにしてやるんだから!」
 リシェラは妙な気合を入れていた。
 拳を握り締め突き上げている様子は勇ましいというより愛らしい。
「なるべく穏便にことを運ばなければ」
 自分に言い聞かせるように言ったリシェラはそのまま寝息を立て始めた。
 部屋着の裾が捲れ素足を覗かせたままで。
 夕食の時間に呼びに来たメイドの声も聞こえないほどぐっすり眠っていた。 


 お見合い当日、お城の衣装師から渡されたドレスに身を包んだリシェラは応接室にいた。
 白い手袋を嵌めた手を膝の上でかき合わせ、きゅっと唇を引き結んだ彼女は
 とても凛々しく見えた。つい眼前を睨みつけそうになる度慌てて表情を作る。
 もうすぐ相手がやってくるはずだった。
 皮肉なことに王や公爵などを交えず、二人きりでの対面をしなければならない。
 廊下にはメイドや兵士も控えているので、安堵はあるが、  部屋の中は二人きりだ。
 重厚な作りの扉なので、少々の声は外に聞こえないだろう。
 笑顔でも内心は警戒心たっぷりのリシェラである。
 幼い日にパーティーで一度会ったことがあるということだが、いかんせん全く覚えていない。
(向こうがそのことを持ち出してきて馴れ馴れしくしてきても嫌だわ)
気がつけば扉ノックする音が響き続けている。
 どうやら考えに没頭していたらしい。
「どうぞ」
 リシェラはなるべく柔らかい口調を心がけた。
 扉がゆっくりと開いて入ってきたのは濃い茶色の髪の青年。
 ディアンと同じくらい長身だ。
 視線を外す前に、相手は目の前に座っていた。
(はやっ。見すぎてたのかしら)
「初めまして……じゃないですね。私とあなたは昔に一度会っている」
 青年の言葉はとても慇懃無礼にリシェラの耳に届いた。
 空気を震わせる声に不快感を感じる。
「あの、普通にしてくださって結構ですから」
「おや、そうですか、では」
 リシェラの言葉に青年の表情が一変した。
 それは些細な変化だったがリシェラは感じ取っていた。
「ザイス・アルヴァンです、王女様」
「リシェラ・グリンフィルドです」
差し出された手をリシェラはすっと掴む。
 やんわりと力を込められて顔が強張った。
 中々手を離してくれないので、自ら振り解くことになった為、
 もう穏便に済まそうなんて考えは木っ端微塵に消えた。
 自分もだが相手も好かれたい気持ちはないのだろう。と勝手に結論付けた。
 リシェラが手を離した後は、時々酷く凝視してくるのみでザイスは何の行動もしなかった。
 リシェラの出方を見ているのか、ザイスは言葉も発することもなく
 部屋は居心地の悪い静けさに包まれていた。
 リシェラの方もじっと睨みつけて相手を観察する。 
 ザイスは一歩も引かずに視線を受け止めリシェラにその視線を返した。
「ザイス様、私には心に決めた人がいます。
 だからこのお見合いはお受けできません」
 お見合いは婚約を前提としたものであり、行き着く先は結婚なのだとリシェラは知っている。
 セラもギウスもお見合いであって結婚ではないと言っていたが、
 このお見合いに赴かせる為の建前もあったのだろう。
 嘘を言っているわけではなくても。
「どちらにいらっしゃるんですか?」
「今は遠く離れていますが、私たちは想い合っています。
 誰にも引き裂くことはできません」
 リシェラはギウスの台詞に脚色を加えた。
 きっぱりとした口調は清々しささえある。
「あなたをお慕い申し上げています。幼いあの日よりずっと」
 ザイスもリシェラを真摯な眼差しで見つめた。
 リシェラの瞳が僅かに揺れる。
 信じてはいない。ザイスの意図が気になった。
「私は本気です」
 ザイスはリシェラの手を掴みその甲に口づけた。
 リシェラはがたんと椅子から立ち上がる。
 顔は火を噴いたように真っ赤だった。
 恥ずかしいのではなく怒りによって。
「いきなり何するのよ!……ディアン!」
 思わず口にした名前にリシェラははっとした。
 縋るように助けを請うような声に自分でも驚く。
 咄嗟に出た名前が、今はここにいない人。
 呼ぶのが癖になってしまっていたから出たのだろうけれど。
 こんな時でも彼の助けを求めているのが情けなくて仕方がない。
「ディアンというのですね、あなたの想い人は」
 リシェラは、戸惑うばかりだ。
「あなたに想われるとは幸せな人だ。
 まったくもって羨ましい」
 ザイスはうっすらと笑んでいた。
 動かなくなったリシェラの肩に手を置くと、
「またお会いしましょう」
 と耳元で囁いて去っていった。
 リシェラは、再び椅子に沈み込んだ。
(ディアン……。)
 自分の気持ちはよく分からない。
 ディアンを想うと胸が疼くのは確かだ。
 ザイスの言葉を脳裏に浮かべて反芻していると顔が火照り始める。
「早く戻ってきて」
 口から漏れた言葉には彼女の気持ちがありありと表れていた。
 早くディアンに会いたい。
 見えない想いの在り処を教えて。
 リシェラはテーブルに頭を伏せて、自分の髪を弄んでいる。
 熱くなる胸を抑えられずにいた。


第10章 top










             

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