■サンクチュアリ■ 第1部:「君のとなり」 −1− 智成(ともなり)は、目の前で微笑んでいる母の顔をぼんやりと眺めていた。 穏やかな、母の笑顔。 だがそれは、もう2度と智成に向けられることのない笑顔だ。 ひとり、薄暗い部屋にいると、昔のことばかり浮かんでくる。 両親と3人で暮らしていた頃は、幸せだった。 両親がは智成を大切にしてくれ、そんな家族をこの家は温かく包んでくれていた。 母と2人になった時は、辛かったけれど、それでも幸せだった。 母が仕事で遅い時などはそんなに広くもない家がとても広く寂しく感じたけれど、それは幸福を伴う寂しさだったから。 母が帰ってきて一歩家の中に入ると、それだけで家が明るく温かくなった。 その温かさを覚えているから、母の帰りを待つひとりの心細さも耐えられた。 だが今、この家には智成しかいない。 どれだけ待っても、家の扉が開かれることはない。 家に明かりが灯ることはない。 空虚とそっけなさと冷たさが残るだけの、ただの入れ物だった。 智成の心も同じ。 母がいないだけで、こんなにもこの家は違う。 広く広く、遠く遠く。 家の中にいるのに、何故か、自分がこの家にいないような、そんな気さえして。 自分の居場所さえ見失う。 心は空っぽで、前向きなことを考えることも出来ない。 ただ、母の遺影を眺めるだけ――― どれくらいの時が経ったのだろう。 時間の感覚さえない智成の耳に、来客を告げるインターホンの音が聞こえた。 ぼんやりとした感覚の中でその音を聞いていた。 だが立ち上がることはしない。 誰にも会いたくなかった。 特に、親戚連中には。 それからしばらく後。 インターホンは、未だ鳴り続けていた。 もしかしたら、中に人がいることを知っているのかもしれない。 それでも智成には出ようという気が起こらなかった。 「あの、すみません。誰か、いらっしゃるんでしょう? お焼香させていただきたいんですが」 インターホンの音の切れ目に、男の凛とした声が響く。 そしてまたインターホンの音。 「すみません!」 交互に聞こえてくる音。 どうやら誰か出てくるまで粘るつもりのようだ。 智成は考える。 お焼香――― 母に―――? 親戚連中でないことは確かだ。 今は、彼らにとってはお焼香どころではないはずなのだから。 かといって、この来客に心当たりがあるわけでもない。 しばらく逡巡した後、智成はゆっくりと立ちあがった。 ふらつく身体を踏ん張って、玄関まで歩く。 外にいる人物を確かめることもなく、鍵を開けた。 そろりと、扉を開く。 目の前に飛び込んできたのは、喪服を着込んだ男。 男の顔を見るが、見覚えはなかった。 年の頃は、30前といったところだろうか。 「ああ、やっぱりいらっしゃったんですね。……智成君、だよね?」 「……そうですけど」 「こんにちは。僕は瀬野恭平(せの・きょうへい)といいます。羽山(はやま)さんに……お母さんにお焼香させてもらっても良いですか」 30前の男が高校生の智成に対して、丁寧な口調でそう述べる。 智成は、そんな恭平に少しだけ好感を持った。 黙って頷くと、恭平を中に招き入れる。 「どうもありがとう。お邪魔します」 そう言って、靴をきちんと揃えて中に上がる。 智成は扉を閉め、母の元へと案内した。 母の遺影の前に恭平が座るのを確認すると、智成は台所へ行った。 何をする気力もなかった智成だが、来客があるとお茶を出すことが母と2人で暮らしていた頃の智成の役割だったので、ほとんど条件反射でお茶を湯飲みに注いでいた。 今までなら、お茶を持っていった先には、客と母が智成を待っていてくれた。 けれど今日は……お茶を出すのも、客と話すのも、すべて智成がするしかないのだ。 母はもう、いないのだから。 そう考えると、不意に目頭が熱くなる。 慌ててそれを振り切ると、台所を出て恭平の元へ向かった。 部屋の入り口で中の様子を見ると、恭平は目を閉じて手を合わせていた。 ずっとずっと、とても長い時間。 恭平が目を開きこちらを振り返るまで、智成も心の中で母に手を合わせていた。 母のために手を合わせてくれている恭平を、見ながら。 「お茶、どうぞ」 そう言って盆に乗せたお茶を、恭平の前に置く。 「……ありがとう」 微かに微笑んで、湯飲みを手に取る。 智成は、その微笑んだ顔をじっと見つめた。 ……微笑んでいるのに、その笑顔は何処か寂しそうで。 目が、赤く潤んでいて。 胸が締め付けられた。 母の死を、本当に、心の底から、悼んでくれているのだ、この人は――― 智成の、空っぽだった心に、ほんの少しだけ光が戻った気がした。 同時に、疑問が浮かぶ。 「あの……母とは、どういう……それに、俺のこと、知ってるんですか……?」 智成の疑問に、恭平はひとつ頷き、話し始めた。 「羽山さんには、とてもお世話になったんですよ。つい最近まで足の骨折で入院していて、その時ずっと僕の世話をしてくれていました」 母は、近くの総合病院で看護婦をしていたのだ。 智成が8歳の時に父が亡くなるまでは、土地を借りて小さな病院を2人で経営していた。 内科と小児科のふたつを。 診察は父がした。 その他諸々のことは、2人が協力し合ってやっていた。 智成には詳しい記憶は薄れているが、とてもとても幸せそうだった。 そして、そんな2人を見て、智成も温かい気分になった……そのことだけは、今もはっきりと覚えている。 父が亡くなると、医師免許を持たない母ひとりでは病院を続けることが出来なくなった。 どうしようかと悩んでいる時、懇意にしていた医者が総合病院に母のことを頼んでくれたのだ。 それから8年。 母はずっと総合病院で看護婦として働き、最近は婦長として頑張っていた。 「あんなに親切で、親身になってくれた看護婦さんは初めてで……ああ、婦長さんでしたね……すごく、嬉しかったんですよ。いくら感謝しても足りないくらいです」 嬉しそうに母のことを話す恭平に、智成も嬉しくなる。 母は、病院で、こんなに慕われていたんだと。 そんな母を、誇りに思えた。 「……すみません」 「え?」 急に、恭平に頭を下げられ、困惑した。 何故、謝ることがあるのだろうか。 「お通夜にも、お葬式にも出られませんでしたから。羽山さんが亡くなったことは知っていたのですが……入院中だったので……本当は、行きたかったんだけど……結局、亡くなってから一週間も経ってしまって」 「そんなこと……気にしないでください。入院中だったんだし……母は怒ったと思います」 「……そう、だね。もう少しで退院なのに、病院を抜け出したりしたら……きっと羽山さんは怒ったでしょうね……」 「はい。それに、母はきっと今、喜んでいると思います。俺も、嬉しいです。母のことをこんなに……」 そう言うと、恭平の目がすっと細められた。 「やっぱり、聞いていたとおりだ。すごく良い子だって、自慢の息子だって、よく話してくれました」 その言葉に、智成の顔がかっと熱くなった。 おそらく、耳まで真っ赤になっているのではないだろうか。 「母が、そんなことを……」 「だから、智成君の事を知ってたんですよ。勿論顔もね」 「えっ!?」 「羽山さん、智成君の写真をいつも持ってましたから。何回も見せてくれましたよ」 「…………」 ますます顔が熱くなる。 「それで……」 「は、はい?」 恭平が真剣な表情になったので、智成は緊張した。 「智成君は、これからどうするの……?」 「どう、って……?」 「此処で、ひとりで暮らすの? それとも、誰か親戚の人の所へ行くの?」 「…………」 智成は高校生だ。16歳で、未成年で。 それでもひとりでやっていけないことはないと、智成はそう思っていた。 思いたかった。 だが、親戚連中はそれでは納得しない。 「今……親戚の人たちが、相談してます。俺を、誰が引き取るかって」 自分の言葉に、心臓がキリキリと痛み出した。 唇をきつく噛み締め、拳を握る。 何かを堪えるように。 それは怒りで、哀しみで、やるせなさで。 「みんな、本当は俺を引き取りたくないんです。でも、誰かが引き取らないと……体面もあるし。だから、押し付け合いをしてる……」 静かな憤り。 親戚連中に、思い切りぶつけたいこの気持ち。 自分はひとりで此処で、この家で、暮らす。 未成年だから、子供だから、そんな理由で、この家を離れたくない。 ……だが、ぶつけても無駄だ。 体面を気にする彼らは、認めない。 そして、一週間も不毛な押し付け合いをしているのだ。 「そう……そうか」 そんな智成をじっと見ていた恭平が、静かに、口を開く。 「だったら……僕の所へ、来て欲しい」 「……は……?」 一瞬、言われた意味が解らず、智成は恭平を見返した。 「僕と一緒に暮らそう、智成君」 真剣な瞳が、智成を見ていた。 強い意志を持った瞳が。 −2− 恭平のあまりにも真剣な瞳を前に、智成は固まった。 この人は、今何を言ったのだ―――? 恭平の言ったことが、じわじわと頭の中に浸透していく。 「冗談……」 掠れる声で、それだけしか言うことが出来ない。 「冗談じゃないよ。僕は今日、お焼香するためだけに来たわけじゃない、そのことを言いに来たんだ」 「な……」 「正直言うと、ちょっと迷ってたんだ。親戚の人が智成君を引き取るって言うなら、その方が良いんじゃないかって」 そこで言葉を切ると、手を智成の頬にそっと触れさせる。 「でも、迷うことなんかなかった。君にそんな顔をさせるような親戚の人に君を渡しても、きっと幸せに暮らすことなんてできない」 智成には恭平の言うことが全然理解できなかった。 確かに自分は親戚連中があまり好きではない。 母が死んでも、その死を哀しむよりも先に智成を誰が引き取るかで揉める親戚連中のことなど。 智成が今、どんな気持ちでひとりで母との思い出の詰まったこの家にいるかなど、知らずに。 知ろうともせずに。 それを恭平は解ってくれるのだろうか。 だが、それがどうして一緒に暮らすことにつながるのか解らない。 恭平にとっての智成は、世話になった人の息子だというだけだ。 少なくとも、智成はそう思う。 いくら話に聞いていたとしても、写真で顔を知っていたとしても。 それだけで、他人と一緒に暮らすなどと―――自分を引き取ろうとするなど、智成には到底理解できなかった。 「どうかな、智成君。僕は君と一緒に暮らしたい」 智成が絶句していると、尚も恭平はそう繰り返す。 そんなことを言われても、どうしろというのだ。 一緒に暮らすと言えば良いのか。 見ず知らずのこの男と――― ……そんなこと、出来るわけがない。 親戚連中の所へ行くのは嫌だが、恭平と暮らすなんて、それこそ無茶苦茶な話だ。 「……お断りします」 低い声で、拒絶の意志を伝える。 頬に触れていた恭平の手を、振り払う。 だが恭平は、そう言われることは予想していたようだった。 いきなり現れた男に、そう簡単についていくわけがない。 「勿論、今すぐじゃなくて良いよ。落ち着いてからで良いから。親戚の人には、僕の方からちゃんと話しておくしね」 次の恭平の言葉に、智成は驚いた。 智成がついていくわけがないと解っていながら、それでも恭平は智成を引き取るつもりらしい。 親戚連中には願ったり叶ったりだろう。 厄介事がなくなるから。 とはいえ、恭平がいくら智成を引き取ると言ってもすんなり納得するとも思えない。 血がつながっているわけでもない他人に、血のつながっている彼らが智成を渡したとなれば、周りから何を言われるか解らないのだから。 「大丈夫、必ず説得してみせるから。智成君は何も心配しなくて良いから」 智成の沈黙をどう取ったのか、恭平が言った。 その言葉は智成の心中を理解してのことだっただろう。 だが、説得するしないの問題ではない。 智成は、はっきり断った。 それなのに、恭平はその言葉がなかったように振る舞う。 穏やかな雰囲気の恭平は、だが、言動はかなり強引だった。 それでも最初に抱いた好印象は今も変わらない。 無茶苦茶なことを言っていても、親戚連中に比べれば、どれだけましだろう。 少なくとも恭平は、智成自身を心配してくれている。 だが、それに甘えられるかというと、無理な話だった。 智成にとって恭平は、会ってからほんの1時間ほどしか経っていない、母の患者だったという存在なだけなのだ。 それなのに。 恭平は、そっと智成の肩に手を置いた。 「遠慮なんかしなくていいんだよ」 違う。 遠慮しているわけではない。 「そんなんじゃありません。瀬野さんの言っていることが理解できないだけです」 「どうして? 僕はただ、一緒に暮らそうって言っているだけだよ」 「それが解らないって言ってるんです。何で、赤の他人の俺を引き取るなんて言えるんですか」 智成がそう言うと、恭平は顔を曇らせた。 だがすぐに微笑んで、ゆっくり首を横に振る。 「そんなこと関係ない。赤の他人だろうが、血が繋がっていようがいまいが、僕が君と一緒に暮らしたいって気持ちは変わらないから」 「でも―――」 「血の繋がりがないと、家族にはなれない? そんなことないでしょう?」 恭平の言っていることは正しい。 血の繋がりが全てではない。 現に、多少なりとも血の繋がった親戚連中を智成には家族とは絶対に思えない。 それほど、親戚連中の母への想いが薄いことが堪えたのだ。 だが、問題はそれだけではないのだ。 「血の繋がりがなくても家族にはなれるかもしれない。……でも、初対面の俺を引き取る理由にはならないんじゃないですか?」 「本当にそう思う? 僕はそうは思わない。一緒に暮らしたいと思うのに理由なんかいるの? いらないよね、少なくとも僕はそう思ってるよ」 恭平の言うことに、つい納得してしまいそうになる。 常識的なことを言っているようで、実際は非常識な言葉を。 心の何処かで、嬉しいと思っているのかもしれない。 母がいなくなって、ひとりで。 親戚連中は様子を見にも来ない。 決して来て欲しかったわけではないが、そのことが自分がひとりなのだということを明らかにされているようで哀しかった。 そんななかに、恭平が入り込んできたのだ。 智成の心に。 優しい言葉と温かい笑顔。 何処か父を思い出させるような、智成を見る眼差し。 心が揺らぐ。 恭平が本気で言っているならば。 こんなに真剣に言ってくれているのならば。 親戚連中のうちの誰かの所に行くよりも、ずっと。 安心できるのではないか。 「でも……俺は、この家を離れたくない……」 気がつけば、そう言っていた。 これでは、家のことがなければ恭平と一緒に暮らすことを肯定しているのも同じだ。 だが、智成は、本当は誰かに縋りたかったのだ。 ひとりになったこの寂しさを。 辛い気持ちを包み込んでくれるような、相手に。 智成のことを本気で考えてくれる、そんな相手を……この1週間、求めていたのだ。 それは恭平なのだろうか。 信じても良いだろうか。 こんなに弱い自分を、父と母は許してくれるだろうか。 智成の心は、大きく揺れていた。 「僕が此処に来てもいい……智成君が良ければ」 「え……でも、瀬野さんはさっき、“僕の所へ、来て欲しい”って……」 それは恭平の家に智成が来て、そこで一緒に暮らしたいということだろう。 「うん、言ったね。でもね、智成君がこの家を離れたくないんなら、僕は構わないよ」 「でも……」 「僕がこの家に住むのは嫌? だったら、何か別の方法を考えても……」 恭平は、どうしてこんなに優しいのだろう? 別の方法などあるわけがないのに、それでも恭平は考えてくれる。 今、誰よりも智成のことを考えてくれているのは、恐らく恭平だろう。 心が恭平に傾きかけるのを感じながら、だが智成は、今すぐに結論は出せないと思う。 出すべきではないと、そう思う。 突然言われて、勢いで頷いたみたいだから。 混乱している頭を整理しながらゆっくり考える時間が必要だと思う。 「あの……」 「ん?」 穏やかな表情を崩すことなく、恭平は智成を見る。 「少し、考えさてください。すぐには決められないです、だから……」 「解った、そうだよね。さっきも言ったけど、今すぐじゃなくていいんだから。ゆっくり考えて、ね?」 「……はい」 上手く丸め込まれたような気もする。 だが、恭平の傍が智成にとって心地良いのは確かだった。 1週間ぶりの、安心感。 それを今、智成は感じている。 「じゃあ、今日のところは帰るよ。……そうだ、これ」 しばらくして、恭平は立ち上がり、ポケットから薄い紙を出した。 名刺だった。 受け取り、書かれている文字を見る。 “『喫茶・ひだまり』 店長・瀬野恭平” 「ひだまり……」 「そう。日あたりの良い暖かい所って意味だよ。そういう空間にできたら良いと思って店名にしたんだ」 「喫茶店を、経営してるんですか……」 「まあ小さいところだけどね。一度、来てみてくれると嬉しい」 そう言って、恭平は玄関へ向かう。 靴を履いて、外へ出ていく。 「いつでも来てくれて良いから。待ってるよ」 そう言い残し、恭平は帰っていった。 智成は渡された名刺を握りしめ、恭平の言ったことを思い出してみる。 最後の言葉は、喫茶店に行くことだけではなく、一緒に暮らせる時を待っていると、そういう意味にも智成には聞こえた。 いつか、そんな日が来るのだろうと、そんな漠然とした予感があった。 今は解らないけれど、いつかきっと。 −3− 名刺を手に、智成は店の前に立った。 『喫茶・ひだまり』 その看板の前に。 恭平が智成の家を訪れた、その翌日。 午前中をひとりで家で過ごした智成は、恭平との会話をじっくり考えていた。 恭平と一緒に暮らすこと。 どんな形でも良い、どこでも良い、そう言った恭平と一緒に暮らすことを。 気持ちは、ほとんど決まっていた。 断る理由なんか、なかった。 この1週間で、恭平よりも自分を心配してくれる人などいなかった。 1番、安心できる。 だが、智成は心にブレーキをかける。 恭平は一緒に暮らすのに理由などいらないと言った。 本当にそうだろうか。 それは家族とかもっとごく親しい間柄の人同士ならば言えることであって、初対面でそんなことを言えるものだろうか。 だが、だとしたら恭平が智成を引き取ろうとする理由は何だろう。 母に感謝していたとしても、そのお礼だとしても、智成を引き取ることは重すぎることではないか。 ……結局、恭平の真意が分からないので思考は堂々巡りだった。 これ以上、考えるのはよそう。 そう思っても、ひとりきりの家で何をするでもない智成には、どうしてもそこに考えがいってしまう。 今日は平日で学校はある。 忌引で休める期間も過ぎている。 それでも学校へ行く気にはなれなかったから、こうやって家でひとり考えることしかできないのだ。 ふとテーブルの上に置かれた名刺に視線を向ける。 ……行ってみようか。 あれこれ考えるよりも、本人に直接聞いた方が確実だ。 恭平が話してくれるかどうかは解らないが、何もしないよりも……ここでひとりでいるよりも、恭平の所へ行った方が良い。 もしかしたら、学校に行かなかったことを聞かれるかもしれないけれど。 ひとりで考えるのは、もう嫌だった。 特に、今日は……。 今日だけは、ひとりでいたくなかった。 智成は立ち上がると、家を出た。 手には、名刺を握りしめて。 そうして、探し当てた場所。 恭平の店。 さっきから智成は、店の前で突っ立っていた。 ここまで来たは良いが、どうしても入る勇気が出ない。 通りを車が走っていくのを横目に見ながら、智成は拳を握りしめた。 いつまでもここにいてもどうしようもない。 唇を噛んで、手をドアにかける。 そっと、ドアを押す。 ドアの上の方につけられた小さな鐘が、来客を告げた。 「いらっしゃいませ」 昨日聞いた穏やかな声が、智成の耳に聞こえてくる。 「あ、の……」 ドアを開けたまま、智成自身もそれ以上店内に入れないまま、呟く。 「智成君? 来てくれたんだね」 恭平の方は、すぐに智成だと気付き、カウンターから出てきて足早に近寄ってきた。 ドアを閉めながら、智成の背中を押して中へと促す。 「そこ、カウンター席にでも座って」 前方に見えるカウンター席を指差し、そこへと誘導する。 「あ。は、はい」 つっかえながら、カウンターへと近づいていく。 そこには先客がいた。 「あれ、初めて見る顔じゃないか? マスターの知り合い?」 「ええ、まあ」 興味深そうな顔で聞いてくる男ににこやかに答え、智成を席に座らせた。 「入院中にお世話になった人の息子さんです」 「ああ、さっき言ってたっけ。君がそうなんだ」 男は手に持っていたカップを置き、智成を見た。 「マスターが君のことを話してたよ」 「はあ……」 智成は生返事を返すことしか出来ず、ぼんやりと男を見返した。 ……まさか恭平は、母さんや自分のことを店に来る人みんなに言っているのだろうか。 そう考えて、元々居心地が悪かったここが、更に居づらくなってしまった。 「ああ、ごめん。いきなりこんなこと言って。……マスター、今日は帰るよ。また今度来るから」 智成の気持ちを察したのか、男は立ち上がった。 「わざわざすみませんでした」 「全快祝いに来ただけだから、気にしなくていいよ」 そう言って、男は智成にも手を振ると、店を出ていった。 「ありがとうございました」 恭平は、それを見送った後、智成に笑顔を向ける。 「来てくれてありがとう、嬉しいよ」 智成は黙っていたが、恭平はそれでも優しい目で見ていた。 それを見ると、学校へ行かなかった後ろめたさはあったが、恭平がそのことについて触れないのに安堵もしていた。 「お昼はまだ?」 「あ、まだ食べてません」 「そう。じゃあサンドイッチはどう? すぐに出来るよ」 「え……でも……」 「お腹、空いてるよね」 本当だった。 最近、食欲がなくてあまり食べていなかったのだ。 智成が頷くと、恭平は、解ったと言って、サンドイッチを作り始めた。 言ったとおり、サンドイッチはすぐに出来上がり智成の前に置かれた。 一口で食べられるように小さく四角に切られたパン。 メニューをちらっと見てみると、そこに載っていた写真のサンドイッチは割と大きめだった。 恭平を見ると、ただ笑うだけで何も言わなかったが、食欲がないだろうということを考慮して作ってくれたことが解った。 そんな些細な気遣いが、今の智成には、とてつもなく嬉しく感じられる。 食欲がなくても、食べられる。 そう思えた。 「美味しい……」 ひとつを口に入れてみて、そう呟く。 「そう? 良かった、口にあって」 安堵の表情を浮かべた恭平が、店のドアのほうへ歩いていく。 どうしたのだろう、と智成が見ていると、恭平はドアに掛けていた“営業中”の札を“定休日”にしてしまった。 「瀬野さん……?」 そうしてドアに鍵を掛けると、再び智成の傍に来て、隣に腰を下ろした。 「あの、良いんですか、お店……」 戸惑いながら、智成は訊ねる。 「うん、良いんだ。元々、智成君が来てくれた時には店を休むつもりだったからね」 「そんな……あの、俺、また出直してきます。さっきの人だって……」 「あの人は全快祝いに来てくれただけだよ。退院は5日程前にしていたけど、まだ店は開けてなかったからね」 「あ、そう言えば骨折したって……」 それで入院して、母と知り合ったのだ。 「掃除中に脚立から落ちてしまって。でも、ひどい骨折じゃなかったし、もうほとんど治ってるんだ。生活に支障はないし、だから昨日、智成君のところへ行ったんだ」 それを聞いて、安堵する。 退院していくらもしないうちに、結構離れている智成の家まで来たりして足は大丈夫なのだろうかと思ったのだ。 反面、店を開けるより先に、自分の家に来てくれたということが嬉しかった。 サンドイッチを口に運びながら、そんなことを考えていた。 サンドイッチをほとんど食べ終えた頃、智成は今日ここに来た目的のひとつを恭平に切り出そうとした。 だが、言う前に、少し躊躇う。 どんな返事が返ってくるだろう。 それが気になる。 「瀬野さん。……瀬野さんは昨日、一緒に暮らしたいと思うのに理由なんかいらないって言ってましたけど……俺、やっぱり良く解らなくて……どうして一緒に暮らそうと思ったんですか?」 それでも、意を決して訊ねた智成に、恭平は穏やかに返した。 「どうしてかな……僕も、正直言って良く解らないんだ。入院中にお世話になった人の息子さんだから智成君と暮らしたいって思ったのかもしれないけど……でもね、もし智成君が羽山さんと何の関係もない人だったとしても、それが智成君だったなら僕は一緒に暮らしたいと思ったと思うよ」 「? あの、良く解らないんですけど……」 「そうだね。僕も、本当に解らない。でも、智成君だから、一緒に暮らしたいって思うんだ」 「…………」 そう言われても、やはり智成には良く解らなかった。 恭平も解らないと言っているけれど、恭平は恭平なりに考え、答えを出したのだということは解る。 “智成君が智成君だから” 良くは解らないけれど、その言葉に、妙にくすぐったさを感じるのは気のせいだろうか。 ……いや、少なくとも、嫌だとは思わない。 むしろ……。 「そうだ、智成君に渡したいものがあるんだ」 唐突に、恭平が立ち上がった。 驚いて仰ぎ見るが、恭平はカウンターの向こうへ行ってしまう。 目で追ってはみるものの、智成が座っている位置からは恭平が何をやっているのか何を持ってこようとしているのか解らなかった。 やがて、恭平は大きな箱を抱えてこちらに来てその箱をカウンターの上に置く。 そして箱から、何かを出した。 「今日、誕生日だよね。おめでとう」 差し出されたものを見て、智成は目を見張った。 「あ……」 同じものだった。 毎年、母が作ってくれたものと同じケーキ。 違うのは、その大きさだけだった。 「このケーキね、入院中にお母さんに教えてもらったんだ」 「え……?」 「ケーキは作るのが苦手でね。店のメニューにもないんだよ。そう言ったら、作り方を教えてくれたんだ」 16本の小さな蝋燭を立てながら、思い出すように話す。 「智成君の誕生日に毎年焼いているんだって言ってた。甘いものが苦手だから甘さは控えめだって」 蝋燭に火を灯す。 「母さんの……」 炎に揺れるケーキを見つめる。 今年は食べられないと思っていた。 母のケーキ。 今年はひとりぼっちで過ごすのだろうと思っていた。 だからひとりでいたくなかった。 だからここへ来た。 目の前のケーキに顔を近づける。 目を閉じて、蝋燭の灯りを吹き消す。 恭平がケーキを切り分けていくのをぼんやりと眺める。 「どうぞ」 そっとフォークを手に取って、恐る恐るケーキに伸ばす。 躊躇いながら、ゆっくりと口に入れた。 「……母さんの、味だ……」 毎年作ってくれるものと全く同じ。 そう思ったら、目の奥に、熱いものがこみ上げてきた。 目尻に涙が浮かぶ。 涙を零すまいと慌てて腕で目元を擦ろうとする。 だが、上げた腕は力強い手によってそれを阻まれた。 一瞬、目を見張ったが、すぐに智成はもう片方の腕で涙を止めようとする。 「駄目だよ」 穏やかで、だが強い口調で、両の腕を掴まれる。 「瀬野、さん……?」 「泣きたいのを無理に止めることはないんだ」 ゆっくりと腕を降ろされ、今度は包むように手を握られる。 「お母さんが亡くなってから泣いてないんだろう?」 「…………」 「泣いて良いから……ここには僕以外、誰もいないから、思い切り泣くと良い……」 後から後から、涙が流れていく。 そうだ。 泣いたことなんかなかった。 泣いたら、どうしようもなくなるから。 足下から、何かが崩れていくような気がするから。 ……泣いても、誰もいなかったから。 そうしたら、もう涙が止まらないような気がして……。 「……っ……」 哀しくて、辛くて、本当は泣きたかった。 泣きたかった。 「う……」 それでも、泣いて良いと言われても、声を押し殺して泣くことしか出来なかった。 下を向いて、出そうになる声をとどめて。 嗚咽を漏らす。 我慢のために、肩が震える。 「無理しなくて良いんだ……」 だが、その優しい声に、震えが収まった。 代わりに、声がどんどん大きくなっていく。 「っ、母さん、母さん……っ!」 何で、何で。 母がいなくなったら、ひとりになってしまう。 母がいたから、哀しくても笑っていられたのに。 ……寂しい。 でも、それよりも、辛いのは。 「俺、母さんに何にもしてあげられなかった……!」 再び、震えが智成を襲う。 父が死んでからひとりで智成を育ててくれた。 働いて、家事もして、いつも自分のことを考えて。 そんな母を見てきて。 でも何も出来なかった自分に腹が立った。 いつか母に、母が自分にしてくれた以上のことを返そうと思っていたのに。 「こんなことなら……いつかじゃなくて、今何かすれば良かったのに……っ」 半ば叫ぶようにしてそう言うと、智成の手を握っていた恭平の手が外された。 そしてその手はすぐに智成の背中に回される。 ぐっと引き寄せられ、智成は恭平の胸に倒れ込んだ。 「瀬野さ……」 しゃくり上げながら、顔を上げようとすると、それを阻むように智成の頭に手が置かれる。 何度も何度も、あやすように宥めるように、頭と背中を撫でてくれた。 その優しさが、温かさが、じわじわと智成の心に浸透していった。 恭平は何も言わず、智成の言葉を聞いてくれている。 口を挟むことなく、智成の言うことを黙って聞いてくれていた。 少しずつ震えが収まって、智成は息を吐いた。 涙ももう、止まっていた。 恭平の手は、まだ智成を優しく包んでいる。 「智成君は、優しいね」 不意に、頭上で、恭平の声が聞こえた。 今まで何も言わなかった恭平が、智成が落ち着くのを待って囁いた。 「でも、お母さんは、そんなこと思っていなかったんじゃないかな? 智成君の成長が何より楽しみだったんだよ。お母さんは何かを返して欲しいなんて思っていなかったと思うよ」 「瀬野さん……」 「僕は母親になったことはないし、これからもなれないけど……母親ってそういうものじゃないのかって思う」 抱きしめていた腕を外すと、智成の目を見て言葉を続ける。 「今こんなに智成君が苦しんでいる分だけ、お母さんもきっと苦しいんじゃないかな」 「俺、俺は……」 自分は、何も解っていなかったのだろうか。 解っているつもりで、一番解っていないのは自分だったのかもしれない。 母はいつだって笑っていた。 辛い時でも、哀しい時でも、苦しい時でも。 全ては、智成のために。 そして母自身のために。 智成が自分の思うように生きられるように、それを見守られるように。 それが、母の幸せだったのだと。 そう、思って良いのだろうか。 恭平の言うように、そう思っても。 ―――そう、思いたい。 「でも本当に良かったよ。少し緊張してたんだ、ケーキなんてまともに作ったの初めてだったから。折角教えてもらったのに上手く出来なかったらどうしようって。……何とか出来たけど、肝心の智成君の口に合わなかったらどうしようって。お母さんのケーキを台無しにするかもしれないって思ってたんだ」 「そんな……」 恭平はきっと一生懸命作ってくれたのだろう。 店に出すつもりで教えてもらったケーキを、智成の誕生日に出すために。 ……智成のために。 「俺、嬉しかったです。母のケーキ、もう食べられないと思ってた……」 「嬉しいな、僕も。作って良かった……本当言うとね、なかなか上手くいかなくて、昼前までかかって作ったんだ。大きさは……ちょっと大きすぎたかもしれないけど、つい張り切りすぎて」 照れたように呟く恭平に、智成は少し笑ってしまう。 智成も、少し照れてしまったから。 「あ、でも。俺が今日来なかったら、どうするつもりだったんですか? そのケーキ」 照れ隠しに、そう言う。 「勿論、持っていくつもりだったよ、智成君の家に。やっぱり誕生日のその日に渡したいからね」 瞬間、顔が熱くなって俯いてしまった。 「最初は、お焼香に行くの今日にしようかと思ったんだけど、いきなり来てケーキなんて渡したらびっくりするんじゃないかって思い直したんだ」 いきなり初対面で一緒に暮らそうと言われるよりは、そちらのほうがまだびっくりしなかったと思う。 だが、恭平の声音からは真剣な気持ちが伝わってきて、本心からそう言っているのが解る。 恭平の気遣いや優しさ、温かさ、ちょっと感覚がずれているところ。 何もかもが、智成の心にすんなり馴染むような気がした。 そうしたら、自分の今の状態が、急に恥ずかしくなった。 母がいなくなって落ち込んで、自分を責めて。 無気力になって、学校へも行かず――― 自分は一体何をしていたんだろう。 何をしているんだろう。 恭平のこの優しさに……何も言わない恭平に甘えている。 それはすごく楽だけれど。 それでは駄目なのだ。 閉じこもって、甘えて……そればかりではどうにもならないのだ。 甘えっぱなしでは、いけないのだ。 ……だから。 「瀬野さん、俺……」 顔を上げる。 恭平が、まっすぐ自分を見ている。 それに負けないように、智成も恭平をまっすぐ見た。 「俺、明日学校行きます」 はっきりと、そう告げた。 恭平は、黙って微笑んでくれる。 「だから……あの、明日も……」 ここに来たい。 その言葉を智成が言い淀むと、恭平は優しく言ってくれた。 「明日は、残りのケーキを一緒に食べようか」 「……はい」 智成の、止まっていた時間がようやく動き出した瞬間だった。 −4− 「智!」 教室に入ると、すぐに聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。 「来たんだ、もう良いの? 大丈夫?」 こちらに駆け寄ってくる。 あまりの勢いに、面くらってしまう。 「でも本当に良かった。心配してたんだよ」 自分たちの席へ向かいながら、明るく話しかけてくる。 智成に話す機会を与えないほどに。 惣一なりの気遣いだということは解っているので、智成も無理に口を開くことはしなかった。 榎本惣一(えのもと・そういち)は、高校に入学してすぐにできた友達だ。 母が生きていた頃は、惣一の家で夕飯をご馳走になったり、時には泊めてもらったりもしていた。 それはいつも、母が夜勤で一晩家に帰ってこない時だった。 本当に、惣一の家族には良くしてもらっていた。 「様子見に行けなくて、ごめん。……なんかさ、智に会うのが辛かったっていうか……」 そんなの、良いのに。 それは辛い時に惣一がいてくれれば、少しは楽になったとは思うけれど。 自分もそう言う立場になったら、どんなに心配でも様子を見に行けなかったと思うから。 親しい人を亡くした人に、かける言葉なんて見つからないから。 それよりも智成は、学校に来てこうして声をかけてくれる、心配してくれる友達がいて、それだけで十分だった。 それに、優しさや温もりは、もう十分もらっているから……。 恭平と……そして惣一に。 「良いよ、気にしてない。ありがと」 「そ、そっか」 智成の言葉に、安堵したように惣一は微笑んだ。 自分の席に着き、椅子に座る。 惣一の席は智成の前なので、いつも惣一が後ろを向いて話していた。 今もそうしているのだけれど、惣一は智成の方を向いているだけで話そうとはしなかった。 何かを言いたそうで、けれど言いたいけれど言えない、というような感じだった。 「惣一?」 智成が声をかけると、やがて決心したように口を開く。 「……智、これからどうするの? 親戚の人とかは……」 ああ、やっぱりそれか……と、意外に冷静にその言葉を聞けた自分に驚いた。 そして思う。 冷静に聞けたのは、多分……恭平のおかげだと。 だから次の言葉も、落ち着いて言えた。 恭平に言った時は、取り乱していたけれど。 今度は。 「うん……今、揉めてるみたいだけど。でも……」 「でも……何?」 「その……俺のこと、引き取りたいっていう人がいて」 「えっ!? だ、誰、それ!?」 惣一は、急に大声になり身を乗り出す。 「か、母さんの患者だって。母さんに世話になったからって言ってた」 その様子に、たじろぎながらも智成は答えた。 けれど、その言葉を聞いた惣一は怒ったような顔になる。 「ちょ……っと待ってよ。それだけ? それだけの理由で、智を引き取るって言ってんの?」 「そう、だけど」 「…………」 惣一は、一体何を言いたいんだろう? 恭平が、智成を引き取ることがそんなにおかしいのだろうか。 それは智成だって考えた。 世話になった人の息子だからって引き取ろうなんて、どうしてそんなことが言えるのか解らないと。 けれど、恭平は……恭平は……。 「どんな人、その人……?」 しばらくして、惣一が低い声で智成に問うた。 「どんなって……優しい、と思う」 そうとしか、言えなかった。 恭平にもらったものは他にもあったけれど。 それを一言で言うことなんてできないから。 智成は惣一の様子を伺いながら、恭平のことを思った。 初めはどうして引き取りたいなんて言ったのか解らなかった。 もちろん、今も解らないのだけれど。 恭平の態度を見ていて、少なくとも本気で言っていることは良く解った。 今は、それだけでも十分なのだ。 自分を必要としてくれる人がいることが嬉しかった。 気にかけてくれる人がいることが、本当に嬉しいのだ。 「……会いたい」 「え?」 惣一の呟きに、智成は一瞬、言っている意味が解らず聞き返してしまった。 「その人に会わせてよ」 「え、えーと……」 意味を理解して、智成は言葉に詰まった。 「今日、学校終わったら、連れてって?」 今日は、恭平の所へ行くことになっているけれど。 恭平には、ひとりで行くと言ってあるのだ。 友達を連れて行ってはいけないというわけではないけれど。 「きょ、今日? 今日はちょっと……明日だったら……」 智成は、咄嗟にそう言っていた。 ……何故、自分がそんなことを言ってしまったのかは解らない。 けれど、そう言ってしまっていた。 惣一は、特に機嫌を悪くしたようでもなく、あっさり頷いた。 「ん。じゃあ、明日ね」 「う、うん……」 智成は、戸惑いながらも頷いたのだった。 「瀬野さんって、どこに住んでるんですか?」 学校が終わって、智成はまた恭平の店に来ていた。 恭平は、わざわざ智成のために店を臨時休業にしていた。 目の前には、ケーキ。 昨日の残りだ。 味はというと、焼き立ての昨日よりは落ちるけれど、それでも美味しい。 母と恭平が作ったものだから。 そう思っている。 恭平は、言っていたとおり智成の隣で一緒にケーキを食べていた。 そうしながら、学校の話などをして過ごしている。 今は専ら、智成が恭平にいろいろと尋ねているところだった。 「この店の裏だよ。店の裏口から出るとね、家の裏口がすぐ近くにあるんだ」 「そうなんですか……近くて良いですね」 智成は、恭平の答えを聞いて、ふと思う。 智成の家で一緒に住んでも良いと言っていたけれど、そうしたら店までの距離が遠くなる。 少なくとも、今よりも確実に不便になるだろう。 「まあ、楽といえば楽だけど……おかげで行動範囲が狭まってるよ」 今のは……智成の考えを読んで、自分の言葉をフォローしたんだろうか? それとも、ただ思っていることを言っただけ? 「……智成君? どうしたの?」 「あっ、すみません。ちょっと考え事……」 ぼんやりしているところに心配そうに声をかけられて、智成は慌てて答えた。 それから惣一のことを思い出して、恭平に尋ねる。 「あ、あの。明日、友達と一緒に来て良いですか? もちろん、客としてですけど」 「良いよ。待ってるからね」 恭平が快く承諾してくれたので、智成はほっと息をついた。 昨日今日と続けてここに来ているから、さすがに明日まで来ると言ったら迷惑かと思ったからだ。 「ありがとうございます」 御礼を言うと、恭平は笑顔でそれに答えてくれた。 翌日。 今まで来た2回は自分ひとりだったが、今日は惣一と共に恭平の店へやって来た。 「ここ?」 ドアの前で惣一が訊ねる。 「うん、ここ」 「じゃあ、入ろっか」 そう言って、惣一はドアを開ける。 「いらっしゃいませ」 聞き慣れた、穏やかな声が店内に響く。 智成は周りを見回してみた。 初めて来た時は、客はひとりだった。 次に来た時は、休みだった。 そして今日は。 店内に客がたくさんいるのが、智成には新鮮だった。 学校帰りの高校生が多い。 テーブル席はほとんど満席だった。 「智成君、いらっしゃい。……こちらが智成君の友達、かな?」 そう言いながら、恭平は智成たちをカウンター席へ招いた。 ちょうど、端に2席空いていた。 ……もしかして。 智成が見遣ると、恭平はにっこり笑って頷いた。 わざわざ、席を空けておいてくれたのだ。 昨日言った、友達の分も。 「あの……良いんですか?」 智成はついそう言ってしまった。 空けておいてくれたのは確かに嬉しいけれど、そんなことをして他の客は何も言わないのだろうか。 「大丈夫。この時間帯は高校生が多いからね。大抵、数人で来るからテーブル席のほうへ行くんだ」 恭平に促されて、惣一と並んでカウンター席に座る。 そして、コーヒーを2つ頼んだ。 恭平が作っている間、惣一は恭平をじっと見ていた。 手には、カウンター席に座った時に恭平が持ってきてくれたコップを持って。 中に入っている水が、不安定に揺れている。 惣一は手元など気にもしていなくて、今にも水が零れそうになっていた。 「惣一、水が―――」 見かねた智成がコップに手を伸ばすと、 「うわっ」 ばしゃっという音がして、コップが転がった。 智成がコップに触れた拍子に、惣一の手からコップが滑り落ちたのだ。 それは、智成の制服の上着を濡らした。 「智!」 「智成君、大丈夫? 怪我は!?」 恭平が、すぐに音に気付き飛んできた。 「あ、大丈夫です。コップ割れてないし、水がかかっただけですから」 「そう、良かった」 恭平は一度智成から離れ、すぐにタオルを持って戻ってきた。 「これで拭いて」 「あ、すみません」 智成はタオルを受け取って、水に濡れた箇所を拭いていく。 「ごめん、智……」 「ん、良いって」 気にしていないというように笑いかける。 実際、自分も悪かったから。 拭いていると、袖の方も濡れていることに気付く。 いつも左手にしている腕時計も。 カウンターの上は既に恭平が布巾で拭き終えた後だったので、智成は腕時計を外して拭いた後、カウンターの上に置いた。 そして、手首を拭いて、タオルを恭平に返す。 「もう、拭けた?」 「はい、ありがとうございました」 「あ、あのっ」 惣一が、口を挟む。 「すみませんでした。俺の不注意で」 「良いよ、気にしなくて。それよりも怪我がなくて安心したよ」 そう言って、その場から離れていく恭平を見送る。 「……なるほど」 「何?」 ぼそっと呟いた惣一に、訝しげな視線を投げかける。 「智の言ったとおり、優しいんだ」 「うん、そうだね……」 ぼんやりと智成は恭平を見遣る。 ……何だろう。 心が、ざわついた。 喫茶店を出た後、惣一に誘われて夕食をご馳走になった。 智成にとって、久しぶりの明るい食卓で。 誰かと一緒に食べた、夕食だった。 惣一もその家族も、智成の母のことに関しては一切触れなかった。 そのことに、なんとなくほっとしてしまった。 惣一は泊まっていくように言ってくれたけれど、何の用意もしていないし、だからといって一旦家に帰ってもう一度惣一の家に向かうのは面倒だったので、断った。 帰り道、寂しさを感じながら歩く。 ひとりになると、急に辺りが暗くなった気がする。 街灯などの灯りがあって、明るいはずなのに……。 更に、辺りだけでなく、自分の心まで暗く沈んでいくようだった。 それを振り払って、努めて暗くならないようにしようと早足で歩く。 途中、今何時だろうと思って腕を見た。 「……あれ?」 腕時計がない。 ポケットや鞄の中も見てみるけれど。 「どこにもない……あっ」 ふと思い当たる。 「瀬野さんの店だ……」 惣一が水を零した時に、外したまま置いてきてしまった。 ……店に取りに戻ろうか? けれど、惣一の家を出た時にはもう午後9時を回っていた。 今から行っても、迷惑かもしれない。 「……明日でも、良いかな……」 4日連続で行くことになるけれど大丈夫かなと、少し心配になったが、すぐにその考えを振り払う。 行く理由はあるのだし、それに……。 それに、何故か恭平に毎日でも会いたいと思っている自分がいるような気がした。 そんなことを思っている間に、家の近くまで来ていた。 玄関が見えてきた辺りで、智成は足を止める。 ……家の前に、誰かいる。 遠目には良く解らないけれど、少し近づけば街灯と隣家の灯りではっきりと顔が見えた。 その顔を認めると、智成の表情が強張る。 「……叔母、さん……」 智成の小さな呟きは、叔母にも聞こえたようだった。 −5− 重苦しい空気が流れる客間。 来客があった時には、必ず出すはずのお茶は、今はない。 出すことすら忘れていた。 テーブルを挟んだ正面に、目の前に叔母がいる。 今まで、顔も出さず、連絡もしてこなかった叔母が。 そして、用件はひとつ。 “智成は叔母さんが引き取ることになったから” 叔母が家に来て言った言葉は、それだけ。 ひとりの智成を気遣う言葉も何もなかった。 体面、義務。 そんな理由で智成を引き取ることになったのだと。 叔母を見ていれば、手に取るように解る。 後は、智成が頷けばそれで終わり。 そう。 頷く以外に、道はない。 叔母は智成を意志を聞きに来たのではなく、既に決定したことを言いに来たにすぎないのだから。 だが、智成には頷くことが出来なかった。 叔母は、母の妹ではあるが、ほとんど交流はなかった。 そんな、ほとんど知らない叔母の家になど行きたくなかった。 何より、叔母の家は県外で、当然この家を離れなければならないし、転校もしなければいけないだろう。 はっきり拒否できればどんなに良いだろう。 だが、いくら拒否したとしても受け入れられるとは思えない。 そう思うと、頷くことも拒否することも出来なかった。 沈黙したまま、ただ、時間だけが過ぎていく。 痺れを切らしたのは叔母の方だった。 「今日は帰るけど、次に来る時には引っ越す準備をしておいて頂戴ね。転校の手続きとかはこっちでしておくから」 そう言って、話は終わったというように立ち上がろうとしたのだ。 「……ま、待ってください!」 呼び止めて何を言うのか。 そんなこと考えていなかった。 ただ、このまま叔母を帰してしまってはいけない。 それだけが智成の頭のなかを占めていた。 「どうしたの?」 渋々、といった様子で上げ掛けた腰を下ろす叔母。 「…………」 「黙ってたら解らないわ。何か話があるんでしょう?」 呼び止めておきながら何も言わない智成に、叔母は苛立ちを抑え切れずに言った。 その時、智成が思ったことは、あの人だったら自分が言うまで辛抱強く待っていてくれるのに、ということだった。 あの人――瀬野恭平。 恭平なら、智成が言うことをきちんと聞いてくれる。 恭平なら、苛立った様子など見せない。 恭平なら――。 ……恭平なら、こんな体面を気にしてだとか義務だとかで智成を引き取ろうなんて思わない。 そんな様子など、恭平からは微塵も感じられない。 智成と、一緒に暮らしたいと心からそう言ってくれる。 「あの、……俺を引き取りたいって言ってくれてる人がいて……それで」 恭平のことを考えていたら、咄嗟に、そんなことを言ってしまっていた。 「何ですって?」 叔母の声が険しくなる。 「どういうことなの?」 「どういうことって……だから、俺はその人と……」 厳しい声で言われると、弱々しい声音しか出てこない。 智成は、誰にもこんなに威圧感のある態度を取られたことがなかったから。 「その人のところへ行くって言うの?」 「それは、まだ解らないけど……でも、考えてる途中なんです」 「考える必要はないでしょう? うちで引き取るのはもう決まったことなのよ」 「…………」 唇を噛み締める。 「大体、その人はどういう人なの? 親戚ではないんでしょう?」 畳みかけるような叔母の言葉に、智成は何も言い返せなかった。 悔しい。 そう思った。 何も言い返せない自分が、もどかしい。 このままでは、叔母は帰ってしまう。 智成の言った言葉など聞かなかったことにして。 そして、その通り叔母が再び立ち上がろうとした時、玄関のインターホンが鳴った。 「あ、ちょっと出てきますから。待っててください!」 構わず出ていこうとする叔母を制して、智成は玄関に向かう。 夜遅くに誰かと思ったが、智成にはこの来客がありがたかった。 叔母を少しでも引き止められる。 何とか、叔母を説得しなければ。 出来ないと解っていても、そう思わずにはいられない。 「はい?」 夜だということもあり、すぐに扉を開けることはせず、そう呼びかける。 「智成君? 瀬野だけど……」 「せ、瀬野さん!?」 扉の向こう側から呼びかけているのが恭平だと解り、慌てて鍵を外して扉を開けた。 「突然ごめんね」 柔らかい声。 今までの叔母の声を思い出し、その温かい声に安堵を覚える。 初めて恭平が家に来た時は喪服だったが、今日はTシャツにジーンズというラフな格好だった。 「どうしたんですか?」 「腕時計を店に忘れていたから、届けに来たんだ」 恭平が手に持っているものは、間違いなく智成の腕時計だった。 明日取りに行こうと思っていたものだ。 「す、すみません。わざわざ……」 「気にしなくて良いよ。僕も夜遅くに届けに行くのはどうかなとは思ったんだけどね、でもやっぱり時計がないと困るんじゃないかって」 「そんなこと……あの、ありがとうございます」 「どういたしまして。でも、本当は時計を忘れてるってすぐに気付いていたんだ。店を空けるわけにはいかなかったから、届けに来るのが遅くなってしまって悪かったね」 「いえ、そんな……」 恐らく、店を閉めてすぐに来てくれたのだろう。 申し訳なさそうな恭平の顔を見ると、却って恐縮してしまう。 しばらくお互い黙っていたが、叔母といる時の沈黙と違い、すごく穏やかな時間だった。 安心できる、そんな気がして。 「……智成君、大分前に帰ったと思ったんだけど、どうかした?」 不意の問いかけに、意味が解らず首を傾げる。 「え?」 「制服のままだから……何かあったのかと思って」 「あ……瀬野さんのお店を出てから、惣一の家で御飯をご馳走になってたので……」 恭平は智成の返答に安堵したようだ。 「惣一君って、さっき来てくれた友達だよね? だったら良かった。じゃあ、僕はこれで帰るよ。またいつでも、店に来て。待ってるから」 恭平がそう言ってくれるのに嬉しくなる。 いつでも店に行っても良いんだと。 「は……」 「智成? どちら様?」 はい、と。 言いかけた瞬間、いつのまに来たのか背後から叔母の声が聞こえた。 「あ……」 恭平と話していたことで、叔母のこと、叔母の話を頭の隅に追いやっていた智成は、急に現実に引き戻されたようで心が苦しくなった。 それでも何とか振り返り、焦りを含んだ声音で叔母に答えようとする。 ……だが、何と言えば良いのだろう? “この人が、自分と一緒に暮らしたいと言ってくれる人です”……って? いや、さっきの叔母の様子からして、そんなことを言ったら恭平に迷惑を掛けかねない。 “忘れ物を届けに来てくれたんです”……? こんな遅い時間にわざわざ、と不審に思われるかもしれない……。 智成が躊躇っていると、肩に恭平の手が置かれた。 「瀬野さん?」 今度は恭平のほうに向き直る。 「お客さんが来ているようだから……僕はこれで」 「え。あ、はい。今日は、どうも……」 「と言いたいところだけど。大丈夫? 顔色悪いよ」 叔母には聞こえないように、小さく訊ねられる。 その気遣いに、縋りたい。 そんな気分になった。 迷惑を掛けるとか、そういうこと以上に、恭平の優しさに頼ってしまいたい。 その思いが膨れあがる。 「叔母なんです……俺を引き取るって……」 たったひとりの自分を唯一、理解してくれる人。 それが、瀬野恭平なのだ……。 「そう……智成君、ちょっとお邪魔しても良いかな」 「え……?」 「叔母さんに、きちんと話をしようと思うんだ。丁度良い機会だしね」 そう言った途端、智成が不安そうな表情をしたのに気付いた恭平が、柔らかい声音で言葉を紡ぐ。 「僕は、智成君が自分の意志で叔母さんのところに行くと言うのなら止めることは出来ない。でも、もしそうじゃないなら、僕は君を叔母さんに渡したくないんだ」 「せ、瀬野さん……」 思わず、赤面してしまった。 恭平の表情は真剣で、誠実で、凛としていて。 それが全て、自分に向けられている。 「最初に言ったよね。“君にそんな顔をさせるような親戚の人に君を渡しても、きっと幸せに暮らすことなんてできない”って。今、智成君はあの時と同じ顔をしてる。僕は、そんな辛そうな顔を黙って見ていられない」 だから。 智成の目を見る。 「だから、叔母さんときちんと話がしたいんだ。智成君にそんな顔をさせないためにね」 「瀬野さん……」 「入っても良いかな」 恭平の言葉が、じわっと心に沁みた。 その温かさに。 智成は、母に感謝した。 恭平と知り合ってくれてありがとう、と。 こんなに良い人と、自分を会わせてくれてありがとう、と。 「はい……どうぞ……」 だから、迷いなくそう言った。 智成の言葉と表情に、恭平が微笑みを向ける。 安心させるようなその笑みは、事実、智成の心を軽くしてしまった。 やがて、やんわりと智成から視線を外すと、叔母をまっすぐ見る。 叔母は、恭平がどういう人なのか解らず、困惑しているようだ。 「智成君の叔母さんですよね。お話があるのですが」 恭平はそう言って扉を閉めると、叔母の返事も待たずに家の中に入った。 −6− 隣に、恭平がいる。 そのことが、こんなにも安心感をもたらしてくれる。 さっき、叔母と2人で向かい合っていた時の孤独で苦しい時間……。 なのに、此処に恭平がいるというだけで、孤独ではなくなった。 今、叔母と向き合っているのは、智成ひとりじゃない。 恭平が、隣にいてくれるから……。 「初めまして、瀬野恭平といいます」 丁寧な言葉遣いで、軽く叔母に頭を下げる恭平。 「智成の叔母です」 叔母も、同じように挨拶をする。 急に現れた来客に驚いていた叔母も、さすがに答えないわけにはいかなくなったらしい。 「それで、お話というのは?」 「智成君のことです」 「智成の?」 「はい。是非――僕に智成君を任せて頂けないかと」 「――何ですって……?」 穏やかな口調の恭平とは対称的に、叔母の声が険しくなる。 「僕は、智成君と一緒に暮らしたいと、そう思っています」 「な……」 絶句する叔母。 それも当然の反応だろう。 初対面の、しかも、智成のどんな知り合いかも解らない人に、突然そんなことを言われたのだから。 「今日は、そのことをお話したいと思ってお邪魔しました」 「…………」 沈黙が部屋に満ちた。 智成は、恭平と叔母を交互に見る。 叔母の反応が気がかりだった。 けれど……。 嬉しかった。 きっぱりと、恭平が言ってくれたこと。 “智成君と一緒に暮らしたい”――そう、何の迷いもなく言ってくれたことが……。 叔母は、唖然としたまま、しばらく何事かを考えているようだった。 やがて、何かに思い当たったように顔を上げ、 「もしかして――貴方が、さっき智成が言っていた……」 低い声でそう言った後、智成を厳しい顔で見据える。 「そうなのね、智成」 “智成を引き取りたいという人” それが恭平だと、確信した声音。 否、確信せざるを得ないだろう。 ああもはっきりといわれてしまっては。 「……そうです」 今更、躊躇っても仕方がない。 智成も、きっぱりと叔母に答える。 ――大丈夫。叔母に怯える必要などない。 恭平が、傍にいてくれるのだから。 「そう……。瀬野さん、貴方、智成とどういう関係でいらっしゃるの?」 智成の答えを聞いて、叔母は恭平を厳しく詰問し始めた。 「智成君は、僕の恩人の息子さんなんです。智成君のお母さんには病院でお世話になりましたから」 「……ただの、患者ってことじゃないの。それなのに、智成を引き取ろうなんてどういうつもり?」 「一緒に暮らしたいから、ただそれだけです」 「そんなの理由にはなっていません! それにもう、智成はうちで引き取ることに決まったんです。血の繋がりも、何の関係もない他人に、家族の問題に口出しなさらないで頂きたいわ!」 「智成君の家族は、智成君自身が決めることですよ。智成君自身が家族だと思える人……それが、本当の家族なんだと僕は思うんですけど」 「! それが貴方だと仰りたいの? 馬鹿馬鹿しい、昨日今日出逢った人に、そんなこと思えるものですか」 口を挟む間も、息つく間もない。 お互い、一歩も譲らない。 ただ、叔母だけが熱くなっていて、恭平のほうは穏やかなままだというだけだ。 そんな恭平に、智成は頼もしさを感じずにはいられない。 だが、叔母の次の言葉に顔が引きつった。 「もしかして……。――いえ、きっと何か魂胆があるんじゃないの。でなければ、よく知りもしない子を引き取ろうなんて思わないわよ。残念ですけどね、財産なんてものはこれっぽっちもありませんからね。財産を期待しているのなら――……」 瞬間、全ての音が消えたような感覚に陥った。 ――そして。 「せ……っ、瀬野さんはそんな人じゃないっ!!」 突然大声を上げたことに、自分自身驚いた。 だが――。 叔母の言葉が、許せないと思った。 恭平に対しての暴言を。 ……許せなかった。 今の智成には、それだけしか頭になかった。 「確かに、俺は瀬野さんとは会ったばかりでっ。瀬野さんのことなにも知らないかもしれないけど、でも……でも……!」 自分が口走っていることも、何もかも、頭で考える前に勝手に表に出てしまうのだ。 呆気にとられている恭平と叔母の様子にも頓着出来ず――。 「瀬野さんは優しい人だって、すぐに解った。ちょっとずれてるところもあるけど、すごく優しい人だって!」 頬を、湿ったものが流れ伝っていることにも気付かなかった。 気付けなかった。 「だから叔母さんにそんなこと言われたくない! 瀬野さんときちんと話したこともないのに、瀬野さんのこと悪く言われたくない……!」 ただ言いたいことを全てぶちまけた。 今まで呑み込んできた言葉の代わりとばかりに、ただ、感情の侭に。 言い終えた後には、嗚咽だけが残った。 肩が上下に揺れて、息が上手くできない。 しばらくして、ふわり、と、何か温かいものが肩に触れた。 「あ……」 震えていた肩が少しだけ治まる。 恭平の優しい手が、智成の肩を抱いていた。 そして……上げた顔のすぐ傍に、恭平の穏やかな……同時に、哀しげな表情があった。 「瀬野、さ……」 呼びかけは最後まで言葉にできなかった。 恭平の哀しげな目に、動揺してしまった。 「智成君」 自分の名を呼ぶ恭平の、切ない声。 出逢ってからまだ日は浅いが、今まで、恭平のこんな声を聞いたことはなかった。 ――どうして? 「ありがとう、智成君」 どうして、そんな声で。 そんな、御礼の言葉など……“ありがとう”だなんて……言えるんだろう。 聞いているだけで、辛くなる。 そんな辛い響きの、“ありがとう”……。 「ありがとう……智成君は僕のために怒ってくれたんだよね。嬉しくないって言えば嘘になる。でもね……」 「瀬野さん……?」 「……でも、僕は、すごく苦しいよ。智成君は……僕のことを優しい人だと言ってくれたけど、本当は人のことをそんな風に言える智成君のほうがずっとずっと優しい子なんだよ。だから、僕のために怒ったり泣いたりするのは見たくないんだ……なのに、そうさせてしまったのが僕自身だということが、すごく苦しい」 「瀬野、さん……」 苦しみに満ちた声音で、辛そうな顔で、それなのに……。 不思議なことに、恭平の言葉は智成の心に優しく染み渡っていく感じがする。 恭平の優しい想いが、伝わってくる……。 その時、不意に気付いた。 叔母に対して言いたいことを吐き出して、けれど、肝心なことは伝えていない……伝えられていないことを。 「叔母さん」 真正面から、叔母を見た。 初めてかもしれない。 こんなにまっすぐ、しっかりと、叔母の目を見据えて話を切り出すのは。 ずっと厳しい目を見せていた叔母の目が、たじろいだように泳いだのを見たのは……。 「俺は、瀬野さんと一緒に暮らしたい。だから、叔母さんの所へは行きません。……それを、認めてください」 「と、智成……」 最後まで、目線を叔母から背けずに、言い切った。 ……言い切れた。 そして、絶句した叔母は。 しばらくの静寂の後、立ち上がり、 「……そう、……それなら、勝手にしなさい」 吐き捨てるように、けれどどこか寂しさをも感じさせるような声音を残して、叔母は部屋から出て行った。 その後ろ姿を、智成は信じられない気分で見ていた。 叔母が自分の言葉を、認めてくれるとは思わなかったのだ。 否、認めてはいないかもしれないけれど。 それでも……、あっさり引き下がってくれるとは思いもしなかった。 一気に、力が抜けていくような感覚を覚えた。 叔母が帰ってから、恭平と2人きりの客間は静かな時間が流れていた。 智成は、叔母に自分の言いたいことをはっきりと言えたことに、驚きを感じていた。 同時に、胸のつかえが下りたような、すっきりした気分でもあった。 叔母の様子は気になるけれど、それ以上に、安堵の気持ちの方が大きかった。 それは、隣にいてくれる恭平のおかげでもあり、だからこそ、今度は恭平に言いたいことがある。 さっき叔母に向かって言ったことを、今度は恭平に。 「あ、あの、瀬野さん」 「うん?」 「さっきのことなんですけど……、瀬野さんと一緒に暮らしたいって言ったこと……」 「うん、解ってる。大丈夫、焦らなくても良いんだよ。もっとゆっくり考えて……」 智成の言葉が、叔母の所へ行きたくないがために出た言葉だと勘違いしたらしく、恭平は的はずれな返答を寄越す。 いつも優しくて、智成のことを良く解ってくれている恭平。 そして、叔母と対峙していた時に感じた、頼もしさも持っている恭平。 それなのに、どうしてこういう時だけ、自信がないような一歩退いたような態度を見せるのだろう。 「そうじゃないです」 「智成君……?」 「勢いとか話の流れで言った訳でもなくて。……本心なんです」 「智成君……」 恭平は、智成の言葉を噛み締めるように少しの間目を閉じ、やがて穏やかな微笑みを浮かべた。 どこまでも澄んだ目で、智成を慈しむように見つめる。 そして、改まったようにかしこまって、ただひとこと、恭平は言葉を紡いだ。 「僕と……一緒に暮らして欲しい」 「はい。俺も、瀬野さんと一緒に暮らしたいです」 恭平の心からの言葉が耳に届いた瞬間、躊躇うことなく、智成はそう言えた。 初めて会った時に、恭平が同じ言葉を言った時には、困惑ばかりを感じていたのに……。 けれど今は。 頷く以外の答えなどあるはずもなかった。 智成は、そっと差し出された恭平の右手を握る。 それが、これからの新しい生活の始まり。 握り返してくれた恭平の手は、優しさに溢れていた。
−第1部:「君のとなり」end−
『サンクチュアリ』 第1部:「君のとなり」 あとがき ここまで読んでくださってありがとうございます。 この『サンクチュアリ』は、サイト開設時から連載していたものでした。 その頃から遅々とした進行速度ではあったものの、第5話までは順調に(?)更新できていたのですが……。 第6話に至って、こんなに遅くなってしまって本当に申し訳ありません。 待っていてくださった方がおられましたら、心から謝罪と感謝を申し上げます。 この第6話が、第1部の最終話となります。 最初は、第1部、第2部……と分けるつもりはなかったのですが、長くなりそうだったし、話の丁度良い区切りでもあったので、こういう形になりました。 第1部は、智成と恭平が出逢って、一緒に暮らすまでの経緯を書いた話です。 まったくといって良いほど、恋愛要素がありません(汗) 恋愛になる前の、そのまた一歩手前くらいの感じかなと。 第1部で書きやすかったのは、智成と恭平の会話シーン。 ひたすら優しい恭平を書きたかったので、智成と話している時の恭平を書くのはすごく楽しかったです。 逆に書きにくかったのは、叔母さんとの話し合いのシーン。 話の流れ上仕方ないとはいえ、叔母さんが悪役みたいになってしまって……。 この話では、優しい空気っていうのかな、そういうのを出したかったので、辛かったです。 でも結局、悪役にはしきれなかったみたいですね。 いずれまた再登場する場面もありますが……その時にどういうふうにしようかと思案中です。 ……その前に、恋愛面を……! ですけど。 智成も、恭平も、惣一も、そして叔母さんも、皆大切なキャラクターたちです。 これからも、大事に大事に書いていこうと思います。 第2部のタイトルは「二人の狭間で」 遅まきながら、ようやく恋愛編に突入します。 第1部で恋愛面を書けなかった分、これでもかというほど書けると良いなと思っています(……思っているんですけど……どうなることやら……/汗) 第2部も、よろしくお付き合い頂ければ幸いです。
2005/01/22 立花真幸 拝
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