■月に惑いて■ −1− 夢を見ていた。 幼い頃の、夢を。 あの時、彼は何と言った? 覚えていない。 思い出せない。 ―――けれど、とても大切なことだったような気がする。 とてもとても。 大切な、こと。 耳元で、不快な音がする。 快い眠りを妨げる音。 いつも無意識に、音を止めてしまっている。 そして。 「……彼方……彼方」 聞き慣れた、声。 「ん……」 うっすらと目を開けると、予想通りの顔が映る。 物心ついた頃から―――いや、赤ちゃんの頃からずっと一緒だった。 「基……も、朝……?」 半分寝ている声で、問う。 「もう朝。ついでに、あと10分で本鈴だよ」 「うっわあっ!!」 その言葉に、飛び起きた。 慌ててベッドから降り、パジャマを脱ぎ捨て制服に腕を通す。 「何でもっと早く起こしてくれなかったんだよ」 「起こしたよ、何度も。彼方が全然起きなかったんだ」 毎日繰り返される会話。 お互い飽きもせずよくやるよなあと、自分のせいであることを棚に上げて思う。 「……用意できた? もう行ける?」 基が言うのに頷くと、足早に部屋を出る。 洗面所に駆け込んで顔を洗った後、家族への挨拶もそこそこに家を飛び出した。 「な、基。そろそろ……月見だよな。今年は……どうなんだ?」 学校への道を走りながら、彼方は基に訊ねる。 少し遠慮がちに。 答えは解っているから。 それでも訊かずにはいられなかったのだ。 「今年は……悪い、駄目なんだ。従兄弟の家に行くことになってるから」 「……そっか」 内心では今年“も”だろと思う。 けれど、追求することはしない。 似たような会話が、毎年交わされているのだから。 久住彼方(くずみ・かなた)と柏原基(かしわら・もとい)は、幼い頃からの幼なじみだ。 家が隣同士ということもあり、彼方と基だけではなく家族ぐるみでの付き合いが続いている。 彼方たちが産まれる前から親同士は懇意にしていたが、産まれてからは更に親密になった。 誕生日も近い彼方と基は、産まれた時からずっと一緒なのだ。 物心ついた時から、行事やイベント、旅行などは2家族で一緒に行っていた。 誕生日も、クリスマスも、お正月も。 ただひとつを除いては。 この17年、月見というものを基と―――柏原家と一緒に過ごしたことがなかった。 ほかのこともどちらかの都合が悪くて一緒に出来ないこともたまにあったが、月見だけは、毎年必ず別々だ。 毎年、何かと理由をつけては断られる。 今年も例外ではなく。 彼方はそのことをずっと不思議に思っていた。 勿論今も。 そういえば、さっきは聞き流してしまったが、基は今年は従兄弟の家に行くと言った。 考えてみれば、これだけいつも行動を共にしているというのに基の従兄弟になど一度も会ったことがない。 従兄弟がいるということだけは知っていたが、それだけの認識しかなかった。 「……従兄弟って、どんな人?」 思わず訊ねると、基の足が止まった。 彼方も慌てて立ち止まる。 急にどうしたのだろう。 従兄弟のことを訊くのはまずかったのだろうか。 彼方がそう思っていると、基はゆっくりと口を開いた。 「上は今、大学の4回生で……下は高2だったかな、確か」 「ふうん……なんて名前?」 「上が勇士(ゆうし)で、下が瑞希(みずき)」 「ふうん……」 「……どうかしたの?」 「別に……」 彼方はそれだけ言うと、再び走り出した。 「彼方!?」 基の声が追いかけてくる。 「早く行かないと、間に合わないだろ!」 本当は今更急いだところで遅刻は確実だろうが。 どうしてだろう。 月見を一緒に出来ないのはいつものことなのに。 どうして、今年は、こんなにもやもやした気分になるのだろう。 案の定、1時間目に間に合わなかった彼方と基は屋上に来た。 1時間目をさぼって、2時間目から出席することにしたのだ。 彼方は寝転がって空を見ていた。 基はその横に座って、彼方を見る。 「なんか……怒ってる?」 「何で?」 「機嫌悪いから」 「そんなことは……」 「そう? だったらいいけど」 それきり、2人とも黙り込む。 2人でいて、こんなに重苦しい気分になったのは初めてだった。 彼方は自分の気持ちを持て余しているのだ。 どうしてもやもやした気分になるのか……それは多分、基が自分に隠し事をしているような気がするから。 月見のことも従兄弟のことも。 基は自分のことを誰よりも良く解ってくれて、自分も基のことを解っていると思っていたのに。 ほかの誰よりも近い存在だと思っているのは彼方だけなのだろうか。 だから基は、自分に何も話してくれないのだろうか。 たかが月見じゃないか。 けれど、彼方にとって、それは一番重要なことだった。 何でも一緒だった2人の、唯一、異なった時を過ごすものだったから。 「柏原たち、今年も駄目だって?」 夜、父親の周一(しゅういち)が帰ってきて開口一番にそう言った。 「お帰りなさい。……ええ、そうなんですって」 母親の有希恵(ゆきえ)が台所から顔を出し答える。 「そうか……今そこで奈緒(なお)さんに会ってね、そう言ってたから」 「私も、昼間奈緒に聞いたのよ。彼方は基君から聞いたのよね」 居間のソファでテレビを見ていた彼方は、有希恵を振り返りもせずに首だけで頷く。 「毎年のこととはいえ、なんだか寂しいな」 周一は彼方の向かいに腰を下ろし、ネクタイを緩めた。 「そうねえ。月見だけですものね、一緒に過ごしたことがないの……」 自分と同じことを思っている2人の会話を聞いていたくなくて、彼方は自分の部屋に行った。 自分のベッドに横になり、窓の外を見遣る。 カーテンは開かれたままなので、隣の明かりが漏れている。 基の部屋の明かりだ。 しばらく眺めた後、彼方は起きあがり窓を開けた。 少し手を伸ばせば、隣の基の部屋の窓に手が届く。 コツコツと、窓を叩いた。 「基……」 そう呟くと、窓に影が近づく。 「彼方?」 窓の開く音がする。 そこから基が顔を覗かせる。 「どうした? 何かあった?」 「いや……何してるのかと思って、さ」 特に用事があったわけではない。 気づいたら、窓を叩いていたのだ。 「本読んでたんだ。推理小説」 「基、推理小説好きだよな」 窓と基の隙間から見える部屋の中。 ベッドの上に文庫本が置いてある。 基が今読んでいたという推理小説だろう。 「……そっち、行っていい? ……あ、でも本読む邪魔になるか」 「いいよ。読み終わったところだし」 「そっか。じゃあ」 そう言って、窓枠に足をかける。 基が窓から離れたのを確認して、彼方は隣の窓に飛び移った。 身体を屈め、部屋の中へと滑り込む。 慣れたもので、無事に着地する。 「いらっしゃい」 「……お邪魔します」 部屋に入ってからいらっしゃいもお邪魔しますもないだろうと苦笑いしながら床に座り込む。 「何か、飲み物とか持ってこようか」 「いい」 部屋を出て行こうとする基を止める。 「あのさ、今日、泊まってもいいか?」 「いいよ」 彼方の言葉に基はあっさり頷く。 「着替えどうする? 持ってくる?」 「いい。基の貸して」 「すぐそこなんだから、取ってくれば良いのに」 基はそう言いながらも彼方のためにパジャマを出してくれる。 「ありがと、洗って返すから」 基は頷くと、布団を取ってくると言って、部屋を出て行った。 閉じられたドアを見つめながら、彼方はパジャマに着替える。 基のパジャマは、彼方より少しだけ大きい。 身長も体重もそう違わないのに、基の方ががっしりした体格をしているのだろう。 いつからそうなったのだろうと思いながら、ベッドに倒れ込む。 彼方も基も、それぞれ成長していく。 成長していっている。 ふと、思う。 自分と基のこの関係はいつまで続くのだろう。 ずっとずっと、続いて欲しい。 そう思いながら、けれど、漠然とした不安が押し寄せてくる。 いつまでもこのままではいられないのだと。 いつかは別々の道を歩むのだと。 そうしてふたりは疎遠になっていくのだろうか。 それとも、今の久住家と柏原家のように家族のように付き合っていけるのだろうか。 それぞれ別の家族を持って。 この不安は一体何なのだろう――― −2− 月見の夜。 隣の家は真っ暗だ。 人の気配もない。 基と父親の卓(すぐる)、母親の奈緒は従兄弟の家に出かけていっていないのだ。 彼方の家でささやかに行われる月見は、何処か味気ない。 楽しいはずなのに、楽しくない。 それは隣の柏原家の家族がいないから。 基がいないから。 「今頃、どうしてるのかしらねえ」 ため息混じりに有希恵が呟く。 けれど、誰も何も答えない。 言葉だけが宙に浮く。 基は今頃、勇士や瑞希という従兄弟と楽しく過ごしているのだろうか。 自分たちとは決して一緒に過ごさない、月見の夜を……。 月を見るのもそこそこに、彼方は自分の部屋へと引き上げた。 すぐにベッドには行かず、窓へ近寄る。 明かりの消えた、基の部屋。 今夜は帰ってこないと言っていた。 従兄弟の家に泊まると。 従兄弟ってどんな人たちなんだろう。 一度、会ってみたい……かもしれない。 ああ、そうか。 自分は、基のことをもっと知っていたいのだ。 基のことだから、知りたい。 どんな些細なことでも。 そうして、月見の夜は更けていく。 「彼方、朝だよ」 肩がゆらゆらと揺れる。 「彼方?」 ぐいぐいと腕を引っ張られる。 「いくら休みだからって、いつまでも寝てないで起きなよ」 さっきから耳に聞こえるのは聞き慣れた声。 いるはずのない彼の。 途端に、目が覚めた。 「基!?」 「わっ、びっくりした。どうしたの」 肩を腕を掴んでいるのは基の手だった。 「びっくりしたのはこっちだよ。どうしたんだよ、従兄弟のところじゃなかったのか?」 「朝一番の電車で帰ってきたんだ」 「何で? 休みなんだからゆっくりして行けば良かったじゃん」 心にもないことを言う。 本当は嬉しいのだ。 いつものように基が起こしに来てくれるのが。 「だって彼方を起こすのは俺の役目だから」 笑顔を向け、彼方から手を離す。 彼方は身を起こすと、着替え始める。 「昨日、どうだった。楽しかったか?」 呟くと、基は苦笑いを浮かべ、首を振る。 「全然。彼方と一緒にいる方が、楽しい。……彼方は? 彼方はどうだった?」 「……別に、普通だよ」 基の言葉が嬉しかったのに、反対に訊ねられると、素直な言葉が出てこない。 それでも基は笑っている。 基は解っているのだ、本当は彼方が寂しく思っていたことを。 それを素直に言えないだけだということを。 「あの、さ」 「うん?」 小さな呟きを聞き逃さず、基が問い返してくれる。 「俺といる方が楽しいんだったら、……だったら、来年は一緒に月見しような」 “一緒にしたいから”。 その言葉を呑み込んで、告げた。 「……出来たら一緒にしよう」 「…………」 基の言葉はある程度予想出来た。 どんなに言っても、これだけは基ははっきり頷かない。 この先……あと何回月見の夜が訪れるのかは解らないけれど、基と月見をすることはないのだろう。 解りたくはないのに、そう解ってしまう。 ……寂しい。 とても、寂しい。 基と一緒にいたいだけなのに。 基と過ごさない時間があって欲しくない。 そう言えたら、基は何と答えるだろう。 ……解っているから、訊けない。 否定の言葉は、聞きたくないから。 彼方は、夢を見ていた。 最近よく見る夢。 まだ幼い頃の……。 「かなちゃん、……がこわいの?」 「うん。こわい……」 「じゃあ……は?」 「こわくないよ」 「だったら、だいじょうぶだよ」 「なんで?」 「だって、…………だもん」 「え?」 「…………ならだいじょうぶ。それにね、かなちゃんはぼくがまもるから、ぜったいぜったいまもるから……」 「もといちゃん……?」 「…………からもぜったいまもってあげるから。…………ないよ」 「もといちゃん……」 「だから、なんにもこわいことなんて、ないからね」 「……っ」 突然、目が覚めた。 息が荒い。 窓を見ると、まだ薄暗い。 「俺……」 あの夢は、何だろう。 微かに覚えている、あの幼い頃。 基と交わした言葉。 けれどはっきりとは思い出せない。 夢の中でも肝心な部分が抜け落ちている。 「基……」 呼吸を整え、再び目を閉じる。 「基……」 眠りは、なかなか訪れてくれない。 「基……」 繰り返し繰り返し、呟く。 基。 ……基。 繰り返し繰り返し。 「彼方、おはよう」 窓が開き、驚きを隠せない顔で基が部屋に入ってくる。 「……おはよう」 基が驚くのも無理はなかった。 覚えている限りでは、彼方は自力で起きたことがなかったからだ。 いつも基が起こしてくれるから。 けれど今朝はもう起きていた。 正確には、途中で目が覚めてから眠れなかったのだ。 基との会話が気になって、眠れなかった。 あの、抜け落ちた部分を思い出したかった。 眠れなかったからといって眠たくないわけではない。 基の顔を見たら、なんだか眠れそうな気がした。 目を閉じようとすると、基に阻まれる。 「折角起きたのに、また寝るの? 駄目だよ」 「もうちょっと寝かせてくれよ……昨夜、よく眠れなかったんだ……」 「学校、どうするの?」 「行くよ。行くけど、ちょっとだけ」 そう言って、目を閉じる。 「彼方」 基の呼ぶ声が聞こえる。 心地良いその声音に、彼方の意識が薄れていく。 「彼方……」 彼方は、眠りに落ちた。 「ごめん、彼方。ごめん……」 そんな、基の声が聞こえたような気がした。 あれから、彼方と基は表面上はいつも通りだった。 月見の夜前後が過ぎてしまえば、毎年そうだ。 けれど今年は。 今年は、何故だか不安でしょうがない。 去年までも、不安は感じていた。 今年はそれ以上の、不安が彼方を襲う。 その正体も解らないままに。 その日、学校から帰ってくると、基の家の前に男が立っていた。 見たことのない男だった。 セールスか何かかなと思いながら素通りする。 「待って」 彼方の家の門に手を掛けようとしたところで、呼び止められた。 見ると、基の家の前にいた男が彼方のすぐ傍まで来ていた。 「この家の子?」 「はあ」 男の言葉に彼方は気のない返事をする。 男は何が面白いのか、にこにこと笑っている。 「そっか。じゃあ彼方ってあんた?」 「え?」 この男は何だろうと思いながら、しばらくして曖昧に頷く。 「へえ、あんたかあ。ふうん……」 遠慮もなしに彼方の顔を覗き込んでくる男から少し身を引いて、門を開ける。 馴れ馴れしいし、軽そうだし。 付き合ってられない。 「あ、待ってよ。俺、柏原勇士っていうんだけど」 門の中に入ろうとしていた足が、止まった。 その名前に聞き覚えがあったからだ。 「基の……従兄弟……」 確か、そう言っていた。 上は勇士で、下は瑞希。 勇士は大学の4回生だったか。 「そうそう。基が言ってたんだろ? 俺もあんたのことは基に聞いてたから」 「基は……まだ学校です。先生に呼ばれてて」 少し険のある言い方でそう言う。 けれど内心は動揺していた。 基が、自分のことを話していた……? 何と言っていたのだろう。 それに、何故、基の従兄弟が此処にいるのだろう。 基に用事があるにしても、今までこんなことはなかったから不思議だった。 何せこの17年間というもの、従兄弟の存在は知っていても実際に会うことがなかったから。 それが今日、従兄弟が訪ねてきた。 今まで感じていた不安が、更に大きくなっていく。 「基? 違う違う。今日はあんたに会いたかったの」 「……俺?」 「そう。基に話を聞いて気になってたんだよね。だから、あんたに会いに来たんだ」 基に用事があるのではない? 彼方に用事がある? 何故、面識もないような相手に会いに来る必要があるのだろう。 「ちょっと話があるんだ、ここでいいから聞いてよ」 声のトーンを落とし、内緒話をするように顔を近づけられる。 彼方は更に身を引いた。 「……話って何ですか」 「そんなに睨まなくてもいいじゃん。単に話するだけなんだからさ」 知らずに勇士を睨んでいたらしい。 彼方は話を聞くかどうか迷った。 けれど、結局は頷いた。 勇士が言ったからだ。 「基のことだ」 ―――と。 基のことなら、聞かないわけにはいかない。 更に、勇士は言う。 「正確には、基とあんたのこと、かな」 −3− 「基と俺の、こと……?」 訝しげにそう呟く。 基の話だけじゃない……? 自分にも関係あること……。 「基は、あんたに何もかも話してるわけじゃない」 唐突に、勇士の声が降ってくる。 「そんなの―――」 解ってる。 そうでなければ、こんなに不安になったりしない。 「まあ聞けって。別にあんたのことを厭って話してないわけじゃないんだから。……むしろ逆」 彼方には勇士が何を言いたいのか解らない。 「あんたが大切だから、話せねえんだよ、基は」 大切だから、話せない? ……どうして? 「いや……そうじゃねえか。大切なあんたに嫌われるのが怖いから……だな」 「俺は、基を嫌ったりしない!」 勇士の言葉に、彼方は思わず怒鳴っていた。 「嫌うわけないだろ!」 基が自分に何も話してくれなくても。 ほんの些細なことで―――月見のことでこんなに不安になっても。 「そうは言っても、あんたが基や俺たちの何を知ってる? 知りたいと思う?」 「何なんだよ、あんた。何が言いたい」 苛立ちは、頂点に達しつつあった。 「知りたい知りたい。知りたいよ! でも、知りたくない……」 矛盾している。 けれど彼方の本当の気持ちだった。 基のことは知りたい。 知りたいけれど、基が話さないことを無理に聞き出してどうする? どうすれば良い? 「なら……教えてやろうか。基は―――」 「うるさいっ、聞きたくない。聞くなら、基の口から聞きたい」 「……じゃあ、ヒント。いつも一緒の基たちがあんたたちと過ごさない時は月見の夜だけか?」 「え……?」 「月見以外にも、あるだろ」 月見以外に、一緒に過ごさない時……? そんなの、あるわけがない。 離れている時なんて、思い出せない。 「ま、がんばって考えてみてよ」 そう言って勇士はここを去ろうとする。 「ちょっと待って!」 彼方は反射的に呼び止めていた。 「あんた、俺に話って何なんだ? それだけ言いに来たのか?」 勇士は微かに笑い、彼方の耳元に顔を寄せる。 「ちょっとしたおせっかいみたいなもんだ。基を見てるともどかしくってしょうがねえ」 「どういうこと?」 「さっさと言っちまえば良いんだよ、あれこれ考える前に」 そして勇士は今度こそ歩き出した。 彼方の心を更にかき乱す言葉を告げて。 『この前の月見の夜、基は俺の家になんか来なかったよ』 ふらふらと家の中に入った彼方は、まっすぐ自分の部屋へ行き、ベッドに突っ伏した。 最後に勇士が言った言葉が頭の中を駆けめぐる。 基は従兄弟の家に行くと言った。 その従兄弟は基は来なかったと言った。 どっちが正しい? そんなの決まっている。 勇士を信じる理由が何処にある? 基が嘘をつく理由が何処にある? だったら答えはひとつだ。 基の言うとおり、基は従兄弟の家に行った。 ……けれど、心は晴れない。 本当に基が嘘をつく理由はないのだろうか。 そう、考えてしまう。 だって勇士を信じる理由はないけれど、勇士が嘘をつく理由もない。 そして。 基が嘘をつく理由に、思い当たってしまう。 彼方に話せないこと。 それが月見と関係があるのだとしたら、それは嘘をつく理由になるのではないか? そこまで考えて、彼方は慌てて否定する。 月見なんて、些細なことだ。 ……些細なことなんだから。 ……本当に些細なことだろうか? 些細なことなら、嘘をつく必要はないのではないか? 勇士の言った言葉を思い出す。 『一緒に過ごさないのは月見の夜だけか?』 あの時はないと思った。 毎年過ごさないのは月見だけだと。 そう。 確かに、毎年月見は一緒に過ごさない。 他のことは“どちらかの都合が悪くて一緒に出来ないこともたまにあった”けれど、基本的には一緒に過ごしていたのに。 一緒に出来ないことも“たまにあった”のだ。 けれど、それが何だというのだろう。 都合が悪いことなど、どちらも時々はあることだ。 事実、柏原家の都合が悪くて一緒に出来なかった時ばかりではなかった。 久住家の都合の時もあったのだ。 ……それと基が話せないことと、どんな関係があるというのか。 彼方は、ベッドから降り、窓へと向かう。 窓を開けると、空は薄暗かった。 そのなかに浮かぶ月。 半月。 ……月。 月見の夜は、満月だ。 それから……。 「嘘、だろ……」 共通点。 勇士が言っていたこと。 柏原家の都合で一緒に過ごせない時は、いつも……満月、だった。 そこまで解っても、彼方にはそれがどういうことなのか解らなかった。 解るのはただ、満月の夜に基と一緒にいたことがない、ということだけ。 それが何を意味するのかは解らない。 けれど些細なことだと思っていた、いや思いたかった月見のことが、本当は些細なことなんかではなく……。 とても重要なことだった……? とても……。 「あのね、もといちゃん、よるにおとうさんとおかあさんがね、てれびをみてたの」 「なにをみてたの?」 「えっとね……だよ。ぼくがちかくにいったら、みちゃだめだよっていうんだ」 「…………」 「…………から、いいこははやくねなさいね、っていうの……」 「…………」 「ねえ、ほんとに…………かなあ。だったら、おとうさんとおかあさんのいうこときいたほうがいいよね」 「かなちゃん……」 「そしたら…………よね」 「かなちゃん、……がこわいの?」 「うん。こわい……」 「じゃあ……は?」 「こわくないよ」 「だったら、だいじょうぶだよ」 「なんで?」 「だって、…………だもん」 「え?」 「…………ならだいじょうぶ。それにね、かなちゃんはぼくがまもるから、ぜったいぜったいまもるから……」 「もといちゃん……?」 「…………からもぜったいまもってあげるから。…………ないよ」 「もといちゃん……」 「だから、なんにもこわいことなんて、ないからね」 「また……だ」 また、あの夢。 今までよりも少し長かった。 けれど、肝心なところは抜け落ちたまま。 基が確かに言った言葉なのに。 思い出せないのがもどかしい。 勇士と話した翌日は、まともに基と話せなかった。 目も合わせなかった。 こんなこと、初めてだった。 基は不審に思ったのだろう、よく彼方の顔を覗き込んだ。 けれど、彼方は顔を背ける。 基の顔を見て、冷静でいられるとは思えなかったから。 月見と満月と……。 それらを問いつめたかった。 衝動のままに。 それをしないために、基を避け続けた。 基と話せない時間は、想像以上に彼方を打ちのめした。 基といることが、当たり前になりすぎていて。 前進も後退も、出来なかった。 「あ」 1週間ほどが経った頃。 基の家の前に勇士が立っていた。 彼方は勇士に近づく。 「考えた? 俺の言ったこと」 「……考えた」 「それで? 何か解った?」 「解ったけど、解らない……」 正直に言った。 目の前のこの男のせいで、基と話せなくなってしまった。 その憤りを抑えて。 「満月……それだけ」 「正解」 「でも……それだけ、だ」 「満月が意味することが解らねえ?」 「解らない……」 「ま、普通はそうかもな」 勇士は基の家の門に寄りかかって、空を仰ぐ。 「解れってほうが無理なんだよ……基は一生、言いそうにねえしな」 不意に、勇士の彼方を見る目が険しくなる。 「……あんたの、せいでな」 「俺の、せい……?」 勇士の言葉に身体が強ばる。 「あんたこの1週間、何を思った? 俺の言葉のせいで基とうまくいかなくなったと思ってたんじゃねえか?」 「……っ」 図星を指されて、彼方は目を伏せた。 「あんたがそんなだから……基は何にも言えねえんだ。知りたいなら、知りたいってはっきり言え。言ってくれなくても、言うまで粘ってみろ!」 勇士の雰囲気、言動が変わっていく。 険しく、厳しい。 勇士の言葉が胸に突き刺さる。 勇士の言うことは正しい。 本当に知りたいなら、どんなことをしてでも聞きだせばいい。 それが出来ないのは。 「知ることが怖いか? それとも……無理に聞きだして基に嫌われたくないのか? ……両方、なんだろ?」 最後の言葉は、思いの外、優しかった。 そうだ。 知るのは怖い。 基が言わないのは、良いことではないから。 基と彼方にとって良いことではないから。 それを無理矢理聞きだして、基に嫌われたら? そんなの、耐えられるはずがない。 だから。 「結局、2人とも臆病になってんだよ。この際、思い切りぶつかってみろ」 じわじわと、胸に浸透していく言葉。 「……うん」 彼方は頷いた。 「よし。丁度今日は満月だからな。ま、頑張れよ」 完全に、前の雰囲気に戻った勇士が、彼方の頭をぽんと叩く。 「うん」 ……うん。 今日は、意地でも聞き出す。 満月だから離れているのは、嫌だ。 「わっ、なっ、何っ!?」 突然、勇士に抱き込まれて彼方は叫んだ。 逃れようともがく。 「抱き心地良いなあ」 けれど、更にきつく抱きしめられた。 「基やめて俺にしねえ?」 「なっ、何言ってんだよっ。離せっ」 ついさっき彼方に発破をかけてくれた時とは正反対のその言動に驚きながら、必死に叫ぶ。 だんだん、息苦しくなってくる。 とにかく、どうにかして逃れようと思ったその時。 ふと、勇士の拘束が緩んだ。 その視線の先にいたのは、基だった。 −4− 動けない。 拘束が緩んだとはいえ、まだ勇士の腕は彼方を抱きしめている。 だから視線だけ、基に向けた。 「……何、やってるんだよ」 低い、基の声。 こんな声、聞いたことがない。 「彼方に触るな」 ぐいと引っ張られ、勇士の腕が彼方から離れる。 勇士は、笑みを浮かべている。 「……俺がいるのを知ってて……」 基が問うと、勇士は肯定する。 「どんな反応するかと思って、な」 「なっ!」 声を上げたのは彼方だった。 勇士が何故わざわざそんなことをしたのか解らなかったのだ。 「でも、本当に抱き心地は良かったな」 「勇士兄!」 軽く言う勇士に基が反応する。 ……怒っている。 基が、怒っている。 「基……」 掠れた声で呼ぶ。 基は振り返り彼方を見た後、勇士から庇うように彼方の前に立つ。 「……そうやって庇うくらいなら、ちゃんと言え、基」 「…………」 勇士は2人の横を擦り抜け、小さく呟いた。 「……欲しいならな」 一言、それだけを。 勇士の背が小さくなって、やがて見えなくなった。 「彼方……大丈夫?」 基が訊く。 いつもの基の声で。 いつもの口調で。 それにほっとし、彼方は頷いた。 「ならいいけど……」 まだ心配そうな基を見て、彼方は思う。 今しかない。 今、訊かなければきっともう訊けない。 訊く勇気など、湧かない。 「……基、話が、ある」 ゆっくりと絞り出すように、言葉を紡ぐ。 「話? それって今?」 「……今」 「時間、かかる?」 「……解らない」 それは、基の返答次第だから。 けれど今日は満月で、基は絶対に話を聞くとは言わないだろう。 それでも。 それでも、どうしても、今。 話さなくてはいけない。 「今日はちょっと……明日じゃ駄目?」 やっぱり。 予想通りの返答。 基の表情は、少し苦しそうだった。 嘘をつくのが苦しいのか、それとも話を聞けないことが辛いのか。 「駄目なんだ、今じゃないと。だから……」 必死な顔をしていたんだと思う。 今までにないくらい、必死な顔で、基にそう訴えていたのだと思う。 「……解った、入って」 基は躊躇いながらも結局はそう言うと、家の中へと促す。 さっきよりももっと苦しげな顔をして。 「お帰り、基。……あら、彼方ちゃん?」 基の家に入ると、すぐに奈緒が顔を出した。 奈緒は彼方がいるのを知ると、驚いた顔をして基を見た。 基がそっと首を振ると、奈緒は解ったというように頷いて、 「いらっしゃい。ゆっくりしていってね」 歓迎してくれた。 「……お邪魔します」 基の家に玄関から入るのは久しぶりだった。 大抵、自分の部屋から基の部屋に飛び移っていたから。 そういえば、基が彼方の家に玄関から入っていたのも随分前のことだったような気がする。 基も彼方と同じく直接彼方の部屋へ入っていたから。 2階に上がり、基の部屋が目に入る。 ドアを開けると、見慣れた部屋が飛び込んでくる。 彼方と基は並んでベッドに腰を掛けた。 部屋は静まりかえっていた。 彼方も基も、黙り込んだまま、視線をどこともなしに彷徨わせている。 今更、此処まで来て、どうして躊躇うのだ。 訊くために、此処へ来たのだから。 だから。 「……基」 意を決して、言葉を絞り出す。 基を見ると、基もゆっくりと彼方を見た。 その表情からは、何も読みとれない。 「急に、ごめん。今日は駄目だって解ってるけど……満月だから駄目だって解ってるけど……」 「勇士兄が何か言ったのか?」 基の声に、言葉を詰まらせる。 確かに、勇士に言われたから、気づいた。 けれど、月見のことはずっと気になっていたのだ。 勇士の言うとおり、人のせいにするのは良くない。 「違う、よ。俺の背中を押してくれただけだ」 訊くことが出来なかった背中を。 「彼方……」 「月見のことだって、本当はずっと気になってたんだ。でも訊けなくて……今年は、本当は、従兄弟の家じゃなくて何処へ行ってたんだ……?」 「それは……」 基は俯いて、何も語らない。 彼方はその肩が震えているのに気づいた。 何かを耐えるように。 「……言えよ、基。言ってくれ、頼むから」 「彼方……」 「月見のことなんて些細なことだって思ってたんだ。でもほんとはそうじゃないんだろ? 重大なこと、なんだよな?」 基の両腕を掴み、力を込める。 「だったら……だったら話してくれよ! 俺、知りたいんだっ、基のこと……知りたいんだ!」 額を基の肩に押しつけ、叫ぶ。 「知りたいんだ……」 「…………知って、後悔しない?」 静かに呟いた基の言葉。 彼方は、はじかれたように押しつけていた額を離し、基の顔を見た。 「しない、なんて言えない……でも、それでも、知りたい、どんなことでも」 必死で、そう言う。 「そう……」 基はやんわりと彼方に掴まれていた腕を離し、徐に彼方を抱き寄せた。 「も、基……?」 彼方は基の腕の中で戸惑った声を出した。 「彼方、俺……俺、ずっと……彼方のこと好きだった」 彼方は目を見開いた。 好き。 基が、自分を。 「基……俺……」 好きだ。 ずっと。 だから、隠しごとをして欲しくなかった。 基のことなら何でも知りたかった。 そう、伝えようとした。 「でも……駄目なんだ」 けれど基のその言葉に、そこまで出かかった声が出なくなった。 「基?」 「俺、彼方を好きだなんて……言う資格ない……」 「何で……?」 「嘘、ついてたから……いつも一緒にいて、それなのに……一番肝心なことを話してないから……」 彼方を強く強く抱き込んで、けれどその腕は震えている。 「でも、話すわけにはいかなかったから」 声も、震えている。 「何で? ……勇士は俺に嫌われたくないから言わないんだって言ってた。だから……言えない?」 「それも、ある。でも……」 「でも何?」 「でも、もし言ったら……彼方が知ってしまったら、自分を抑えることが出来ないかもしれない……」 抱き寄せた時と同じように唐突に、基の腕が彼方を離す。 俯いて、表情が見えない。 「彼方を傷つけてしまうかもしれない……」 「……っ」 基が彼方から離れていこうとする。 「か、なた……?」 気がつけば、離れていったその腕を抱き込んでいた。 離したくなかった。 「馬鹿野郎! 基の馬鹿!!」 「な……?」 「馬鹿……」 勇士の言ったこと。 2人とも臆病になっているだけ。 その通りだ。 基も彼方も、相手にどう思われるかと何も出来ないままだった。 立ち止まり、更に後退しようとしているのだ。 幼い頃からの付き合いなのに、お互いこんなに臆病になってどうする? いや、長い付き合いだからこそ、失うことを怯えているのだ。 けれど。 「……俺たちってそんなもんだったんだ? ……違うよな……?」 怯えているだけでは、恐れているだけでは何も変わらない。 前進する努力を、今までどうしてしようとしなかったのだろう。 「俺だって同じようなこと考えてた。ずっと気になってしょうがなかったこと……でも訊くのが怖かった! それでも知らなきゃ……何も言わないまま知らないままじゃ、そんなの……うわべだけの付き合いと変わらないんだ」 「彼方……」 「俺たちはそんなんじゃないよな? 違うだろ!? だから言えよっ」 語気が段々荒くなっていく。 それは解って欲しいから。 基に、自分の気持ちを。 「……解った、言うよ……」 微かに震える声で、基が呟いた。 彼方は、ほっと息を吐いて基の腕を離した。 「……本当は言えるものなら言いたかったんだ……だから、聞いて欲しい」 彼方は頷いた。 そして心に決める。 どんなことでも最後まで聞く。 どんなことでも受け止める努力をする。 どんなことでも……基から離れたりしない。 堅く、心に。 「何から……言えばいいかな……満月のことから言おうか」 瞳が揺れている。 まだ、何処か迷っている、そんな瞳。 彼方は口を挟まず、ただ基が話し始めるのを待った。 やがて、基は拳を握りしめ、口を開いた。 「彼方の言うとおり、月見の夜は勇士兄の所には行かなかったんだ。……ずっと、外にいた」 「外って……」 「用事は済ませても夜のうちに家に帰るわけにはいかなかったからね。……彼方や彼方の家族に会うわけにも行かなかった」 彼方は疑問をぶつけるのをかろうじて堪えた。 基の話したいように、好きなように話せるように。 自分が訊ねるのではなく基から全てを聞くために。 「俺たちは……絶対に久住家の人には手を出さないって、ずっと決めてたから」 それは彼方と基が産まれる前から、2人の両親が出会って懇意にするようになってからずっと。 ずっとずっと、そう決めていたのだと。 「両親がそんなこと決めていなかったとしても、俺は彼方に手なんか出せなかったけどね」 何処か自嘲めいた口調で話す基に、彼方は胸が痛くなった。 けれど、止めない。 胸の痛みなど気にしていられない。 「でも本当は……勇士兄が言ってたように、欲しかったんだ、彼方のこと……」 ……欲しい? 何か、話がずれていっているような気がする。 今は、月見の夜の話をしているのではなかっただろうか。 そんな彼方の困惑に気づいたのだろう。 基は苦笑して続けた。 「彼方が思っていることとはちょっと違うと思うよ。まあそういう気持ちもあることはあるけど……さっきの“欲しい”って言葉は……」 そこまで言って、基は口ごもってしまった。 だから、此処からが本題なのだと……彼方に隠していたことなのだと、解った。 「俺は……彼方の……」 基は目を伏せ、けれどすぐに彼方を見て、呟く。 「血が……俺は……本当は、ずっと……欲しかった、んだ……」 その言葉を聞いた瞬間。 彼方の頭の中に蘇ってきた。 あれが。 あの、幼い頃の記憶が。 夢で見た、幼い頃の。 抜け落ちた部分を、思い出した。 −5− 「あのね、もといちゃん、よるにおとうさんとおかあさんがね、てれびをみてたの」 「なにをみてたの?」 「えっとね、こわいてれびだよ。ぼくがちかくにいったら、みちゃだめだよっていうんだ」 「…………」 「これはきゅーけつきっていって、きゅーけつきにちをすわれちゃうから、いいこははやくねなさいね、っていうの……」 「…………」 「ねえ、ほんとにこどもがわるいことしたらきゅーけつきにちをすわれちゃうのかなあ。だったら、おとうさんとおかあさんのいうこときいたほうがいいよね」 「かなちゃん……」 「そしたら、ぼくのとこにはこないよね」 「かなちゃん、きゅーけつきがこわいの?」 「うん。こわい……」 「じゃあ、ぼくは?」 「こわくないよ」 「だったら、だいじょうぶだよ」 「なんで?」 「だって、ぼくきゅーけつきだもん」 「え?」 「きゅーけつきのぼくがこわくないならだいじょうぶ。それにね、かなちゃんはぼくがまもるから、ぜったいぜったいまもるから……」 「もといちゃん……?」 「ほかのきゅーけつきからもぜったいまもってあげるから。かなちゃんがちをすわれることなんてないよ」 「もといちゃん……」 「なんにもこわいことなんて、ないからね」 何故忘れていたのだろう。 こんなこと、忘れられるようなものじゃないのに。 まだ幼稚園の頃だったから? ……違う。 基が自分が吸血鬼だと言ったのは、あの一度きりだ。 怖がっている彼方を宥めようとして。 これ以上、怖がらないように。 そんな気持ちから、そう言ったのだと思いこんだのだ。 そして、忘れてしまっていた。 知りたいことは、その答えはすぐそこにあったのに。 本当のことを言っているという認識がなかったために、頭の中から追いやられていたのだ。 大切な、基のことだったのに……。 「……めん、ごめん。基、ごめん……」 ごめん、と。 基、ごめん、と。 ただそれだけを彼方は呟き続けた。 「何で、彼方が謝るの? 悪いのは、俺だよ」 「だって……俺、本当は知ってたんだ……忘れてただけで、基が吸血鬼だってこと、知ってた!」 「え……っ?」 「基がそう言ったのを、忘れてたんだ……やっと思い出したんだ……だから、ごめん。俺が忘れてなきゃ良かったのに……」 「そうか……思い出したんだ……」 「基、覚えてたのか?」 「勿論、覚えてるよ、俺が彼方に言ったことなんだから。あの時は、彼方が怖がらないようにって必死だった。言っちゃいけないって言われてたのに……」 だから、それ以降は何も言わなかったのだ。 彼方が忘れているなら、その方がいいと。 言わなかったことにしようと、そうすれば変わらない。 このままの関係でいられるのだと。 「でも本当に彼方が謝ることなんてないよ。俺は……俺は、彼方に嫌われたくなかったから、疑問に思っているのがうすうす解っていても何も言わなかった」 彼方は基の告白を、黙って聞く。 「さっき言ったよね。俺は、彼方の血が欲しいんだって。ずっとそう思ってた……だからそうしないために……彼方に手を出さないって決めてたから、満月の夜に彼方に会うわけにはいかなかったんだ」 抑えられなくなるから。 満月は、基の心を掻き乱す。 そうして、彼方を傷つけてしまうから。 それを、止めることが出来るか解らないから。 彼方は基のその言葉を聞きながら、思う。 血って何なのだろう。 吸血鬼って何? 人間と何処が違う? 基は基だ。 吸血鬼だろうと人間だろうと。 自分と何処が違うというのか。 そう、基は基なのだ。 けれど基は。 「彼方……悪いけど、今日はもう帰って」 「何で……?」 言われた言葉に、彼方は呆然と呟く。 「俺の話、聞いたよね。今日は、満月なんだよ? だから……帰って。今夜はもう、会わない」 「嫌だっ」 「彼方、お願いだから」 「嫌だ!!」 「……彼方、解ってよ。俺、もう彼方に隠してたことを言ったけど……でも彼方の血、吸うわけにはいかないから」 どちらも必死だった。 基は、彼方を自分から遠ざけようと。 彼方は、基から離れたくなくて。 譲れなかった。 「何で? 久住家の人には手を出さないって決めてるから? だから、駄目?」 「違う! それもあるけど、そうじゃない。俺、言ったよね、幼稚園の時。彼方を護るって……彼方が血を吸われることなんてないって。そう言った俺自身が彼方の血を吸ってどうするの……?」 「いい」 反射的に、彼方はそう言っていた。 けれど、嘘ではない。 本当の気持ちだった。 「いいから……だから……」 「……彼方……」 基は首を振る。 彼方を、追い出そうとする。 「何でっ!? 俺がいいって言ってるんだからっ、いいだろ!?」 「俺が、嫌なんだ……」 彼方を見ずに、基は呟く。 「さっき言ったこと、もう忘れたのかよ! 欲しかったんだろ、本当は! そう言っただろ!?」 もどかしい。 基に届かない心が。 「俺は……いい。基だったら、いいんだ……」 ずっと我慢して。 知られたくないと、嫌われたくないと、ずっと。 それなのに。 もう彼方は知ってしまったのに、どうしてこれ以上苦しむ必要がある? 我慢する必要なんか、ないではないか。 「俺は、基と過ごせない時間なんか、いらない」 だから、知りたかったのに。 それを知ったら……それを受け止められたら、一緒にいたい時はいつでもいられると思っていたのに。 けれど、基はそれを許してくれない。 それならば、基は、どう思っているのだろう。 「基は、そうじゃないのか……?」 彼方だけが、そう思っているのだろうか。 「そんなの嫌だ。嫌なんだよ!」 だから、一緒にいられない時間があっても平気なのか。 「基、どうなんだよっ」 黙っていないで、何か言って欲しい。 ……思えば、こんなに真剣に基に何かを訴えたことなどなかった。 基はいつも良く解ってくれていたから。 けれど今、基は彼方のことを解ってくれない。 どう言えば解ってくれる? 本当は、少し怖かった。 それでも、基だから。 基だから。 だから、大丈夫なのだと。 解って欲しい。 「……本当に、いいの?」 聞き逃すのではないかというくらい、小さな声で基が言った。 彼方は言われた言葉を噛み締める。 「いい。最初から、そう言ってるだろ」 「……本当に……?」 基は繰り返す。 確かめるように。 「いい」 彼方も同じ言葉を返す。 今の、彼方の心を。 「……俺は……俺だってずっと、一緒にいたいよ。彼方とずっと……」 「基……」 「彼方じゃない誰かなんて欲しくない。幼い頃からずっと、彼方だけ見てたんだから」 言ってくれた。 彼方が言って欲しかった言葉を、やっと。 基がそう言ってくれるなら、そう思ってくれるなら。 怖さも苦しみも哀しみも。 全てが、嬉しさと喜びに溶けていく。 混ざり合って、溶けていく。 空が、だんだん暗くなっていく。 太陽もあと少しで、完全に沈む。 そして、そのあとには月が……満月が地上を照らす。 淡い、光を。 微かな、煌めきを。 家々や街の明かりよりも、何よりも。 その瞬間、満月だけが、鮮やかに。 2人を照らす。 ゆっくりと、けれど確実に。 その時が、迫っていた。 「彼方……」 基の腕が、彼方を引き寄せる。 今までで、一番強く、抱きしめる。 存在を確かめるように。 ゆっくりと、彼方は基の背中に腕を回す。 抱き返す。 きつく。 優しく。 今のありったけの想いを込めて。 基の唇が、耳朶をかすめる。 やがてそれは、彼方のはだけた首筋に落ちる。 躊躇うように。 微かに震えながら。 不器用に、押しつけられる。 彼方の身体が、微かに震えた。 途端に、唇が離れる。 彼方は慌てて首を振った。 違う、と。 嫌じゃないから。 ただ少しだけ、慣れない感触に震えただけ。 それだけ。 彼方の意志を汲み取ったのか、基は再び唇を彼方に近づける。 けれどそれは首筋ではなく。 彼方の額に目尻に頬に。 くすぐるように、触れていく唇。 そして、彼方の唇に、基のそれが重なる。 優しく……優しすぎるほど……。 彼方は目を見開いたが、すぐに閉じた。 何も見ず、基だけを感じようとした。 そっと重なっただけの、優しいキス。 それがこんなにも嬉しい。 窓の外から、月の微かな光が漏れていた。 綺麗な満月が、その姿を現して。 やがてそれは、2人を照らした。 −6− その瞬間、首筋から痛みを感じた。 やがてそれは、全身に広がっていき、痺れたような感覚が彼方を襲う。 「……っ」 座っているのに、自分では自分を支えられなくなり、基に寄りかかる。 力が抜けていく。 噛まれた首筋の痛みは麻痺しているのか、それとももう痛くはないのか、それさえ解らなかった。 「……彼方、大丈夫……?」 唇を、彼方の首筋から僅かに離すと、基はそう訊ねる。 「ん……わ、解らな……」 けれど彼方は声を出すことさえ、満足にできなかった。 「ふらつく? 眩暈とかする?」 基の声が、ひどく遠く感じられた。 「彼方……」 薄れていく意識のなかで、基に強く抱きしめられたことだけは解った。 「彼方……彼方には手を出さないって決めてたのにね……」 聞こえる。 「でも……嬉しいんだ、すごく……」 基の声が。 「だから……」 「基……?」 「あ、起きた? 彼方」 目を開けると、すぐ目の前に基の顔があった。 「あれ、俺……」 まだ、基の腕が彼方を抱きしめていた。 「そんなに多くもらわなかったつもりなんだけど……気分悪い?」 「え……ぼうっとしてるけど、それ以外は別に……」 気分は悪くなかった。 「……良かった」 彼方は徐々に思い出していた。 自分が言ったこと。 基が言ったこと。 基が自分にしたこと。 途端に顔が熱くなった。 いくら必死だったからといって、自分があんなことを言うなんて。 ……基が、彼方に応えてくれたなんて。 「……彼方……?」 戸惑った声が聞こえてくるけれど、そんなの関係なかった。 彼方は思い切り基にしがみついていた。 基が自分を抱きしめる腕よりも強く。 そうしたら、基も更に抱きしめ返してくれる。 今、この瞬間が何より大切だった。 基がしたことを基の両親は責めなかった。 基も彼方も同意の上で行ったことだから。 特に奈緒は、満月の日に基が彼方を連れてきた時点でもう納得していたらしい。 基と過ごせない時間がなくなったこと。 嬉しかった。 すごく嬉しかった。 これで、いつでも一緒にいられる。 そう、思った。 基もそう思っていると思う。 そう、思っていたのに。 ……それなのに……。 「え……?」 言われたことを理解できずに―――いや、理解したくなくて、彼方は呆然と基の顔を見ていた。 『今まで通り、満月の夜は一緒にいられない』 信じられなかった。 信じたくなかった。 基も同じ気持ちでいてくれていると言っていたのに。 どうして? 「何で!?」 「彼方……俺は」 「何でだよ!」 「彼方、聞いて。俺はもう十分なんだ。彼方が、良いって言ってくれて、ずっと欲しかったものが手に入って。……それだけで、十分なんだ」 「何で、十分なんて言うんだよ……」 1回だけで十分だと、基の気持ちはその程度だったのか。 彼方は、不信感に囚われ、基にそう怒鳴った。 基は哀しそうな顔をして、首を横に振る。 「そんなことない。そんなことないけど……でもだから、駄目なんだ」 「だから、何で駄目なんだよ!」 「…………から」 「えっ?」 俯いて小さく言われた言葉が聞き取れなくて、聞き返す。 「もっと、欲しくなるから」 「…………」 一瞬、きょとんとし。 次いで、顔を赤くする。 「基……」 基の顔も赤かった。 「……べ、別に……良いよ、そのくらい」 わざと、ぶっきらぼうに言う。 ……照れ隠しだった。 「あ……」 基は目を見開くと、複雑そうに笑う。 「そんなこと言って……もう彼方には負けるよ」 顔を見合わせて笑う。 お互いの笑顔を、すぐ傍で見る。 今までで、最高の笑顔だった。
End.
『月に惑いて』 あとがき ここまで読んでくださってありがとうございます。 この話は、私が初めて書いた(完結させた)オリジナルBL小説です。 サイト開設時に5までをUPしていました。 この時点で6話完結ということが決まっていたのに5でストップってどうかとは思いました。 でも、6に関しては、ラストをどうするかが決まっていませんでした。 正確にはラストまでの話の展開、ですかね。 2通り考えてたんですけど、結局は、こちらに。 2通りといっても、そのシーンがあるかないかの違いなんですけど。 そんなわけで、そのシーンがカットされた分、6は短くなってます。 ストーリーに関しては、同じ想いを抱いているのにそれが伝わらない、伝えられない、ということを書きたかったんです。 彼方のその想いが上手く表現できていると良いのですが。 その想いの苦しさを変えていけるように。 それを願って、書きました。 キャラについて ・久住彼方(くずみ・かなた) 主人公です。彼方は基に関してはすごく弱く臆病です。反面、一度決めたら最後までやり通します。 基に話を聞くと決めれば、基が話すまで問いつめる、というように。 彼方の心の描写が難しかったです。 ・柏原基(かしわら・もとい) 彼方第一。自分よりも彼方のことを考えている。 その分、臆病になってしまう。そいうところでは、彼方も基も同じなんですね。 弱いところもあるけど、芯は強いと思います。 我慢強いし(笑) ・柏原勇士(かしわら・ゆうし) 基を見ているとじれったくなり、彼方と話をしにきたんですが……結局は基のことを心配してのことだったんですよね。 実は、勇士が一番初めに出来たキャラでした。 その時点では彼方も基もいませんでした。 勇士メインの話でしたから(主人公も別にいました) でも、いまいち勇士のキャラがつかめなくて、今回のような登場となりました。 ……やっぱり勇士のキャラはつかめてないんですけど(汗) 軽そうなキャラにしたかったんですが、どうでしょう(あまり軽そうじゃないかも……) でも肝心な時には真面目というかしっかりしてると思います。 おつき合いくださり、ありがとうございました。 この話のなかで、何かひとつでも読んでくださった方の心に残るシーンがあったら、嬉しいです。
2002/12/30 立花真幸 拝
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