■遠い、約束の時へ。■


□序章 涙

 あの日、あの時。
 僕は、貴方と約束した。
 もう1度……もう1度。
 必ず、あの日のあの時に、戻ると。
 還ると。

 いつ来るかも解らない、来る保証さえない、そんな時を。
 僕はずっと、ずっと、ここで待ってる。
 貴方に会うために。
 もう1度、あの腕の中へ戻るために。
 僕が再び、あの光に包まれるその時まで。

 だから貴方も待っていて。
 お願いだから……。

 あの約束の時へ、戻るから―――





「お兄ちゃん、本当に大丈夫?」
 病室の白いベッドの上で、僕はぼんやりと天井を見上げていた。
 うっすらと、目尻に涙を浮かべて。
 その様子を、妹の麻那(まな)が心配そうに見ている。
「大丈夫……大丈夫だから……」
 僕がそう言って微笑むと、麻那はようやくほっとしたように息を吐いた。
「もうっ、本当に心配したんだから。1ヶ月もどこ行ってたのよおっ」
 僕の意識が戻ってから、もう何度目かの麻那との同じ会話、そしてその度に繰り返される問い。
 でも僕は、その問いに答える事が出来なかった。
 だって、覚えていないから。
 行方不明だったらしいこの1ヶ月間の記憶が、僕にはなかった。
 麻那もそれは解っているのに……けれど、解っているからこそ、何度も何度も、同じ問いを繰り返す。
 記憶のない僕を追いつめたり、詰るためではなく、麻那の不安だった心を表すために。
 僕がここにいるのを、確かめるために。
 まだ中学1年の妹は、とても甘えん坊だった。
 思えば、麻那と1ヶ月も離れていた時などなかった。
 麻那がどんなに心配して、寂しい思いをしてきたのか――
 それを考えると、胸が締め付けられるようになる。
 でも僕は、それ以上に、別の“何か”に心を奪われていた。
 家族の心配に、申し訳なく思う気持ちよりも、もっと強く。
 胸がきりきりと痛む、“何か”に。
 それを思うと、自然に涙が浮かんでくる。
 僕は覚えていないのに。
 “何か”が何なのかさえ、解らないのに……。



 僕が目覚めたのは、病院のベッドの上だった。
 目を開けた途端、心配と安堵の色を浮かべた顔が、4つ飛び込んできた。
 麻那、父さん、母さん。
 そして、白衣を着、眼鏡を掛けた男の人。
 彼は、僕の主治医だと言った。
 麻那は僕に抱きつき、母さんは涙ぐみ、父さんは何かを堪えるように僕を見下ろしていた。
 けれど、僕は何故、病院にいるのか、心配をかけるようなことになったのか、全く解らなかった。
 困惑する僕に、何があったのかと麻那や両親が訊ねてきても、首を横に振るしかなかった。
 警察の人がやって来て訊ねられても、やはり僕には何も答えることができなくて。
 反対に、麻那や警察の人たちにこれまでの経緯を教えてもらった。

 1ヶ月前のあの日、学校から帰ってきてすぐ、僕は忘れ物を取りにもう1度学校へ戻った。
 僕も、それは覚えていた。
 学校へは海岸沿いに歩くので、勿論そこを通って行った。
 途中、ふと足を止め、海の方へと近づいて行ったことも覚えている。
 ……ただ、そこまでが僕の覚えている記憶だ。
 その先は、何も覚えてはいない。
 麻那は、出て行ったきり数時間経っても帰って来ない僕を捜しに学校まで行ったそうだ。
 学校までは30分もかからないし、出ていく時には何も持っていなかったから、心配になったのだ。
 けれど、学校へ行く途中の道にも、学校にも、もちろん海にも、僕はいなかった。
 夜遅くに麻那が帰って来た時、僕と一緒だと思って安心していた両親は、麻那ひとりが帰ってきたことに驚いた。
 そして、麻那に事情を聞いて、更に驚いた。
 僕は、無断で外泊したことや家を空けたことがなかったので、両親の心配は並のものではなかったらしい。
 結局、翌朝になっても帰って来ず、警察に捜索願いを出したのだそうだ。
 最初は誘拐の可能性も考えて、世間には公表しなかった。
 誘拐ならば何らかの要求があるはずだが、数日経っても何もなく、目撃情報を得るためにとうとう世間に公表した。
 けれど、目撃情報は得られず、心配だけが募り、1ヶ月が過ぎた。
 そして、ある日の早朝。
 僕は海岸で倒れていたらしい。
 意識がなく、病院に運ばれ、家族にも連絡を取った。
 家族はすぐに飛んできて、意識のない僕の傍にずっといたそうだ。
 特に麻那は、僕から離れようとしなかったらしい。
 外傷は見つからなかったが、念のために検査入院することになった僕は、個室の病室に移されてすぐに、意識を取り戻した。
 けれど――目覚めた僕は、1ヶ月間の記憶を失っていたのだ。

 そうして僕は、眠りと覚醒と、麻那や主治医との会話を繰り返す日々を送っている。
 それは、退院するまでのほんの3日のことだったのだけれど、僕にはとてもとても長く感じられたものだった。
 その間、やはり僕の心には、“何か”の存在があった。
 そのことが気になり、記憶がない自分が、もどかしくなった。
 何か、大切なことを忘れている。
 未だにその正体は掴めないままだったけれど……。




 約1ヶ月ぶりの自分の家。
 部屋。
 見慣れた光景。
 でも記憶のない僕の感覚では、3日ぶりのものだった。
 同時に……何故か、もう何年も何十年も帰っていなかったような奇妙な感覚も覚えた。
 この感覚は何だろう……?
 今この時、この場所……全てのものが3日ぶりで。
 でも遙か遠く離れていたもののようで―――
 落ち着く自分の部屋。
 でも落ち着かなくて。
 3日ぶりに帰ってきたという安心感はある。
 けれど……帰る場所は、本当にここだったのだろうか?
 そんな気もして。
 僕は一体、どうしてしまったのだろう。
 自分の部屋の筈なのに、遠いもののようで。
 ほんの少ししか離れていないはずなのに、とてもとても懐かしく思えて。
 そう、これはまるで―――

 そこまで考えて、ノックの音に気付き、はっとする。
「お兄ちゃん? 入っても良い?」
 麻那の声。
「う、うん、良いよ」
 僕の答えと共に、ドアが開く。
「これ」
 そっと何かを持った手を差し出す。
「お兄ちゃんが見つかった時に握りしめていたもの。さっき、警察の人がやっと返しに来てくれたの」
 ああ、そういえば、そんなようなことを言っていたような気がする。
 ぼんやりと思い出す。
 手ぶらで出て行ったはずの僕が、唯一持っていたもの。
 麻那も見た覚えがないと言っていたもの。
 とすれば、それは僕が行方不明になっていたらしい間に、誰かが持たせたのか。
 もしくは、僕自身が手に入れた……?
「……あ……っ」
 淡い青色をした、小さな巾着袋。
 麻那からそれを受け取った僕は、奇妙な感覚に襲われた。
 あの人が作ってくれたもの。
 懐かしい。
 大切。
 愛おしい。
 涙……。
 いろいろな感情が、押し寄せてくる。
「ああ……」
 そっと袋を開く。
 手の上に、さらさらと落ちてくるもの。
 砂。
 ……あの人が持たせてくれたもの。
「え……?」
 僕は今、何を思ったのだろう。
 この巾着袋を作り、砂を入れて持たせてくれた――?
 誰が……?
 覚えていない。
 こんなもの、初めて見た。
 でも何故か。
 とても懐かしくて。
 ずっと知っていたもののような気がして。
 そんな筈はないのに。
 僕が探していたものの……求めていたものの一部を見つけたような、そんな気がして……。
「お、お兄ちゃん……?」
 知らず、涙を零していた。
「どうしたの? ねえ、お兄ちゃんっ」
 麻那の声がひどく遠い。
 立っている感覚さえも、なくなっていくようで。
 解るのは、胸の痛みと頬を伝う滴の熱さ。
 そして――

 ずっと感じていた“何か”を今、何よりも強く、近くに感じていた――
   



□第1章 記憶

−1−

 久しぶりの学校は、ひどく居心地が悪かった。
 教室に入るまでもなく、靴箱や廊下で人とすれ違ったりする度に、そう感じられた。
 視線が、すごく気になった。
 だって、みんな知ってる。
 僕が1ヶ月間行方不明だったことを。
 そして、その1ヶ月間のことを、僕が全く覚えていないことも。

 今日、学校へ行けば、クラスメイトたちが僕に話しかけてくる。
 1ヶ月間のことを、訊ねられる。
 記憶がないことにも、触れられる。
 そう思ったら、急に歩く気力がなくなって、僕は立ち止まってしまった。
 突っ立ったまま、動けなかった。
 俯いて、考える。
 教室へ行こうか、それとも―――
 
 しばらく後、教室へ向かいかけていた足を止めて、僕は反対方向へと歩き出した。




 学校にいる間で、唯一、安心できる場所。
 僕の避難場所。
 だから今日も、逃げさせてほしかった。
 教室へ行くよりも、避難場所へと向かったのだ。
 ……それが、ここ、保健室だった。
「……隆ちゃん」
 ドアをそっと開いて、声をかける。
 すると、奥の方で椅子に座っていた隆ちゃんが、こちらを向いた。
「お、篤紀か? 久しぶりだな」
 おいで、と手招きされて、僕はほっとして保健室に入った。
「隆ちゃん、ちょっと居させてくれる……?」
「良いぞ。ちゃんと授業に出るならな」
 本当は、嫌だったけれど。
 僕は、小さく答える。
「……うん。予鈴が鳴ったら、ちゃんと教室に行くから」
 そう言うと、隆ちゃんが僕の頭をくしゃっと撫でた。
「よし。ま、いろいろと大変だからな、お前」
「……うん」
 俯いて、言う。
「……気になるか」
「……うん。……何か、視線が痛くて……」
「そうか。ま、座れよ」
 促されて、僕は隆ちゃんと向き合って椅子に座った。
「大丈夫か?」
「うん……」
 隆ちゃんの態度がいつもと変わらないことが、そしてその優しさが、僕は涙が出そうになるほど嬉しかった。


 隆ちゃんは、この学校で養護教諭をしている。
 名前は、早見隆盛(はやみ・りゅうせい)という。
 けれど、僕は小さい頃から隆ちゃんのことを知っているから、先生である今も“隆ちゃん”と呼んでいる。
 家の近所に住んでいて、僕にとってはお兄ちゃんみたいな存在だ。
 それは麻那にしてみても同じで、お兄ちゃんが2人いるように思っている。
 隆ちゃんは、目つきとか、ちょっときつい印象を与える外見をしている。
 けれど、意外と穏やかな性格で、笑うと表情が柔らかくなるので、生徒にも結構人気がある。
 生徒相手でも対等に会話してくれるから、それも人気のある理由だと思う。
 誰とでも砕けた態度で接することが出来て、僕はそういうところを尊敬している。
 同時に、すごくうらやましい。
 僕は、あまり人と話すのが得意ではないから。
  

「篤紀? どうかしたか?」
 僕が黙り込んだので、隆ちゃんが心配そうに訊ねてくれる。
 僕は、慌てて首を横に振った。
「この1ヶ月間のこと、気になってて……何で、記憶がないのかなって」
 今考えていたことではないけれど、僕が1番気にしていることを隆ちゃんに伝えた。
 病院で目覚めた時も記憶のことが気になったけれど、あの巾着袋を見てから、心がざわついていた。
“何か”を感じているのに、それが解らないもどかしさ。
 記憶がないことへの苛立ち。
 僕は今、すごく不安定な気持ちだった。
「記憶がないのが、そんなに気になるか?」
「うん」
 隆ちゃんは、少し考えるふうにしてから、言葉を紡ぐ。
「俺、思うんだけどな。記憶なんて、思い出す時は思い出すし、思い出せないなら思い出すまでそっとしておくのが良いんじゃないか?」
「でも……」
 言っていることは解るけれど。
「生活に支障はないんだろ?」
「それは、そうだけど……」
「だったら、もう気にするな。思い出せないならそのままでも良いだろ?」
「…………」
 何も言い返せなくて、僕は唇を噛み締めた。
「あんまり思い詰めるなよ」
 そう言って、僕の頭を隆ちゃんの胸に引き寄せた。
 さっきのように、くしゃっと頭を撫でた。
「隆ちゃん……」
 隆ちゃんは、僕が落ち込んでいると、いつもこうやって安心させてくれる。
 だから、ここは僕の避難場所になったんだ。
「俺は、思い出さない方が良いって言ってるんじゃないぞ。思い出せないのを無理に思い出さなくても良いって言ってるんだからな」
「そう、かな……」
「そうなんだよ」
「そうだよね……」
 頭の上から聞こえる隆ちゃんの声に耳を傾け、僕は頷いた。
 どこまでも優しい声と、温かい手。
 それが、僕を落ち着かせてくれる。
「自然に思い出す方が、良いだろ?」
 そう言って、僕の頭に置いていた手を外す。
 それに名残惜しさを感じなら、僕は答えた。
「うん、ごめんね、隆ちゃん……」
「別に謝ることはないだろ。……ほら、予鈴、鳴ってるぞ」
 隆ちゃんの言うとおり、予鈴のチャイムが鳴っている最中だった。
 僕は慌てて立ち上がると、
「うん。……ありがと、隆ちゃん」
 隆ちゃんに御礼を言って、僕は保健室を後にした。




 隆ちゃんと話して、少し心が軽くなった僕が教室に行くと、ちょうど先生が入ってきたところだった。
 僕はそれに少し安心して席についた。
 周りの視線は、相変わらず感じられたけれど……少なくとも、HRの間は誰かに問いかけられることもないだろう。


 けれど、それもHRが終わるまでだった。
 先生が教室から出て行って、1時間目の体育の準備をしようと僕が鞄を開けたところで、数人のクラスメイトが近くに寄ってきていた。
 そして、次々に、言葉を投げかけられる。
「ひさしぶり、井上」
「もう大丈夫なのか?」
「1ヶ月もどこで何してたんだ?」
「記憶ないって、ほんと?」
 などと、口調は僕を心配しているようだったけれど、明らかに好奇心が勝っていることが解る。
 聞かれても、僕には答えられないのに。
 それはみんな知っているのに。
「僕、覚えてないから、解らない」
 それだけしか、言えないのに。
 彼らは、しばらく僕に話しかけていたけれど、やがて諦めたのか、飽きたのか、離れていった。
 それでも僕は緊張を解くことが出来ずにいた。
 全員が着替えを終えて、教室を出て行って、ようやく僕は息をついた。
 質問攻めにあう覚悟はしていたけれど、やっぱり疲れる。
「……見学しようかな……」
 隆ちゃんに、ちゃんと授業に出るって言ったのに……けれど、とても体育をするような元気はなかった。
「隆ちゃん、ごめん」
 小さく呟いて、鞄を閉めようとした時だった。
「篤紀」
 不意に、名前を呼ばれて、振り向いた。
「美作君……?」
 クラスメイトの美作拓巳(みまさか・たくみ)君だ。
 僕は、声をかけたのが美作君だったことに驚いた。
 美作君とはたいして話をしたこともなかったのに、“篤紀”なんて親しく名前を呼ぶなんて。
 僕が、じっと見ていると、美作君は中に入ってきた。
「お帰り」
「え……?」
 僕のすぐ横に立って、嬉しそうに言った美作君を凝視する。
“お帰り”って……1ヶ月間行方不明だったから、無事に戻ってきたことに対する“お帰り”――?
 けれど何故、それを美作君が言うんだろう?
「行ってきたんだよな?」
「行ってきた、って……」
 今度は、全く意味の解らないことを言われ、首を傾げた。
「ずっと待ってたんだ、篤紀……」
「え……?」
 聞き返したけれど、返事はなかった。
 その代わりに――……
「え……あ、あの……?」
「篤紀……」
 美作君の声が、すぐ近くに聞こえる。
 僕は、美作君に抱きしめられていた。
「篤紀、会いたかった……」
「美作君、あのっ……」
 身体を捩ったけれど、ますますきつく抱きしめられてしまう。
 混乱して、わけが解らなかった。
 会いたかったって……何で?
 1ヶ月以上も学校に来てなかったから……?
 けれど、美作君が僕に会いたい理由なんて、解らない……。
 美作君は、何を言っているんだろう……その言葉に、どういう意味があるんだろう……?

「あの、離して……っ」
 いつまで経っても抱きしめる腕が緩まない。
 ずっと、美作君の腕の中に閉じこめられたままだ。
 僕は何とか逃れようとした。
 腕を突っ張って、胸を押し返す。
 けれど、僕の腕の力では、美作君を押し返すことが出来なくて、少しだけ身体が揺れた程度だった。
 その拍子に、美作君の身体が、机にぶつかった。
 机の上に置いてあった鞄が床に落ちて、中身が散らばる。
 瞬間、美作君の腕が少しだけ緩んだ。
 その隙に、押し退けようとしたけれど、それが出来るほどではなかった。
 美作君は僕を抱きしめたまま、散らばった鞄の中身を見ている。
 そうして、片手だけを僕から外して、落ちているものをひとつだけ手に取った。
「美作君……?」
 手に持ったものを感慨深そうに見つめる美作君に、訝しげに声をかける。
 僕は、その手の中にあるものを見て、目を見開いた。
 それは。
 あの、巾着袋だった。
 見ていると涙が出てくるのに、何故かずっと持っていたくて、鞄に入れてきていた。
 それを、美作君が、じっと見ている。
 散らばったものの中から、迷わずそれだけを手に取って。
 それを、見ていたのだ。
「ちゃんと持っていてくれたんだ、これ……」
「え……、し、知ってる、の……?」
 美作君の口振りに、僕は目を見張る。
「もちろん。忘れるわけないだろ……俺が、篤紀に渡したものなんだから……」
 何?
 美作君は、何を言って……?
「あ、これ……」
 袋の中に入っている砂を見て、美作君が呟いた。
「この砂……ちゃんと、入れられたんだ、俺……」
「何……?」
 声に出して、問いかける。
 けれど、美作君は聞いていないようで、反応は返ってこなかった。
 僕の頭の中は、疑問でいっぱいなのに。
 ちゃんと最初から説明して欲しい。
 美作君が何を知っているのか。
 僕の1ヶ月間と、どう関わっているのか。
 ……そう。
 混乱しながらも、僕は確信していた。


 美作君は、僕の知らない1ヶ月間を知っている―――
   



−2−

 美作君は、巾着袋を大事そうに机の上に置くと、再び僕を抱きしめた。

 離さないというような力強さに、僕は為す術もなかった。
 ただ、黙ってそれを受け入れるだけだった。

「篤紀……篤紀……」
 耳元で、美作君が僕の名を呼ぶ声だけが、聞こえている。
「何だか信じられないよ、篤紀がこうして俺の腕の中にいるなんて……またこうして抱きしめられるなんて……」
 その声はどこまでも優しく、そして感情を隠すこともない。
 けれど、それが却って僕を混乱させる。
「……美作君」
「うん?」
「あの、何を言っているのか、説明して欲しいんだけど……」
「え?」
 瞬間、美作君の身体が強張った。
「何を言っているのか解らないよ……」
「な、何だって……?」
「だから、僕、この1ヶ月間のこと全然覚えてないから……美作君が何を言っているのか解らない……」
 そう言うと、美作君は、僕から身体を離した。
 呆然と、僕を凝視する。
「嘘だろ……? 覚えてないなんて……」
 微かに震えた声。
「美作君……?」
「俺はっ、……俺は、ずっと長い間、篤紀を探してたのに。……ようやく見つけたのに……だけど、まだ俺のこと知らないんだって解ったから、今まで我慢してきたのに……っ」
 僕の両肩に手を載せる。
 痛いくらいに掴まれて、僕は顔をしかめた。
 さっきまでと違う美作君の様子に、ただ圧倒されるばかりだった。
「やっと前みたいに一緒にいられる……話ができる……抱きしめられると思ったのに……それなのに、覚えてないなんてそんなことっ」
「美作く……!」
 段々と力が込められて、僕は声を喉に詰まらせてしまう。
 離して。
 その一言が、どうしても言えなかった。
 どうして?
 どうして、美作君は、こんなに怒っているんだろう。
『前みたいに話一緒にいられる……話ができる……抱きしめられる』?
『前』って、一体いつのことなんだろう。
 少なくとも、行方不明になるまでは、まともに話したこともなかった。
 じゃあ、僕が忘れている間のこと?
 その間に、美作君と話すようになった?
 美作君と一緒にいた?
 けれど僕は、行方不明だったはずで。
 美作君も行方不明だったというなら話は別だけれど、今日の様子じゃそういうわけでもなさそうだったし。
 何もかも、矛盾だらけだ。
 僕の記憶も、美作君の言っていることも。
 真実は、どこにあるんだろう。

「なあ、思い出してくれよ、頼むから……」
 苦しそうな声が、耳元で聞こえる。
 絞り出したような声でそう言われて、僕はようやく声を出すことができた。
「そ、そんなこと言われても……」
「思い出して……思い出してくれよ!」
 僕の言葉に、美作君は焦れたように声を荒げる。
「何で……何でっ」
 何で?
 それを訊きたいのは、知りたいのは僕の方なのに。
 美作君が苦しんでいるのは痛いほど伝わってくるけれど、僕だって……僕だって、わけが解らなくてどうしたら良いのか解らないのに!
 忘れたくて、忘れたんじゃない。
 僕は、思い出したいと思ってるのに……。
 だったら……だったら、美作君が教えてくれれば、解る!
「だったら……教えてよ、美作君が知っていること。僕の1ヶ月間のこと。そうしたら……」
「駄目だ!」
 やっとの思いで、そう言った僕の言葉は、簡単に否定された。
「篤紀が篤紀自身で思い出さないと、意味ないんだよっ」
「で、でも……」
「俺が教えてどうするんだ……教えられて知ったことなんて、思い出したことにはならないだろ!? そんなの、無意味だ……嫌だ、俺は」
 そんなこと、解らない訳ではない。
 人に聞いて得たものは、自分で体験して得たものではない。
 同じ時間を共有していたとしても、人の記憶に残るものと自分の記憶は違う。
 表面的には同じかもしれないけれど、心は全然違う。
 誰かの記憶は、自分の記憶にはならない。
 本当に記憶を取り戻したいと思うなら、自力で思い出すしかないんだ。
 そう、頭では解っている。
 けれど……だったら僕は、どうやってこの1ヶ月間の事を知ったら良いんだろう?
 思い出す方法も解らないのに。
 巾着袋や中の砂を見て感じることがあっても、それは僕の記憶を思い出させてくれない。
 だから、訊こうと思ったのに。
 目の前に知っている人がいて、その人に訊こうと思うのはそんなに悪いこと?
「……っ、ごめん……きつく言い過ぎた。俺……本当にごめん!」
「あ……」
 僕は今、どんな顔をしているんだろう。
 美作君が慌てるほど、ひどい顔をしていたんだろうか……。
「ごめんな……でも、どうしても、思い出して欲しかったんだ……」
 掴まれていた肩が解放された。
「もう、無理に思い出させようなんてしないから。……でも、もし思い出したら……」
 僕から離れて、背を向ける。
「美作君……」
 そう呼びかけると、辛そうな顔が振り向く。
 けれど、それでも美作君は、微かにだけど笑ったんだ。
「じゃあ、俺、授業に行くから」
 そして、それだけ言うと、足早に教室を出て行ってしまった。
「美作君……っ」
 僕は呆然として、追いかけることも出来なかった。
 美作君は、この一ヶ月間の何を知っているんだろう?
 僕は、何を忘れているの――?



「篤紀? 授業はどうしたんだ?」
「隆ちゃん……」
 ぼんやりしている間に、いつの間にか隆ちゃんがすぐ近くに立っていた。
 一瞬、ここって保健室だったっけ、と勘違いしそうになった。
 ……ここは、保健室じゃなくて僕の教室だと、すぐに気付いて首を傾げた。
「隆ちゃんこそ、何でこんなとこにいるの?」
「お前が心配だったからな。様子見に」
「……過保護だよ」
「保健室出て行く時、まだ納得してないみたいだったぞ」
「それは……そうだけど」
 隆ちゃんが言ってくれたことは、良く解ってる。
 そうした方が、良いことも。
 けれど、やっぱり心のどこかでは納得できていなくて。
 それに美作君が言っていたことで、僕は余計に記憶のことが気になっている。
 思い出したいと、そう思っている。
 だって、嫌なんだ。
 自分のことなのに、何も解らないのは。
 どうやってでも、知りたいんだ。
 自分のことだから。

「……篤紀。お前、美作に何か言われたか」
「えっ?」
 隆ちゃんの口から美作君の名前が出るなんで思いもしなかった。
 隆ちゃんは、ほとんどの生徒の顔と名前を覚えているから、美作君のことを知っているのは不思議でも何でもないけれど。
 今、その名前が出たことに、どきっとしてしまった。
「さっき、美作と擦れ違ったんだ。ちょっと様子がおかしかったから」
「あ……」
 この教室から出て行った時に、擦れ違ったんだ。
「で、ここに来たら篤紀がひとりでいたから、何かあったのかと思ったんだ」
「それは……」
 僕は、途中まで言いかけて口を噤んだ。
 隆ちゃんに、さっきの会話の内容を言っても良いんだろうか?
 隆ちゃんは――勿論僕のことを考えてだけれど――無理に思い出すことはないと言っている。
 けれど僕は、思い出したい。
 そう言ったら、反対されるかもしれない。
 だから僕は、誤魔化してしまった。
「……たいしたことじゃ、ないよ」
 少し、胸が痛んだけれど。
 ごめんね、隆ちゃん……。
「そう、か。……ところで篤紀」
「え、何?」
「お前、授業はどうした?」
「あ、あの……体育なんだけど、ちょっと……見学しようかな、なんて……」
「こら。保健室でちゃんと授業には出るって言っただろう」
 頭を軽く小突かれる。
「……ごめん」
「まあ、いいさ。次からはちゃんと出ろよ」
「……隆ちゃんって、なんだかんだ言っても僕に甘いよね」
 可笑しくなって笑うと、
「うるさいな。でも久しぶりに見た気がするな、篤紀の笑った顔」
 隆ちゃんも、笑ってくれた。
 うん……僕も、久しぶりに笑った気がするよ……。
 忘れている1ヶ月間、僕は笑えていたのかな?
 僕は、どんなふうに過ごしていたのかな……。




 無理にでも思い出すか。
 自然に思い出すのを待つか。

 美作君の言葉と、隆ちゃんの言葉。

 けれど僕は、思い出したい。
 思い出す方を、選びたい。

 どうやったら思い出せるだろう。
 考えられる場所は、ひとつしかなかった。




「駄目だ……思い出せないよ……」
 通学路の海岸沿い。
 そこから、海の方へと近づいていく。
 覚えているのはここまでだったから、とりあえず海面ぎりぎりまで行ってみた。
 この先、どうなったのかは解らない。
 だから、ここまで来たというだけで、その後はどうすることも出来なかった。
 しばらくここにいよう。
 そう思って、海を見ているけれど、何も思い出せない。
「そう簡単に思い出せないのかな、やっぱり……」
 寄せては返す波を目で見遣りながら呟く。
「どうしよう……」
 何か他に、手がかりになりそうなものはないだろうか。
 そう思って、辺りを見回す。
 けれど、何を見ても、記憶に繋がりそうだと思えるものは見つからない。
 僕は本当に、記憶を取り戻せるのだろうか……。




−3−

 寄せては返す波の音を、ここからどのくらい聞いただろう。
 記憶の糸を手繰り寄せて、手繰り寄せ続けて……。
 けれど、結局、思い出せることなどありはしなかった。


 今日も僕は、海を見つめていた。
 思い出せるまで、何度でも来るつもりだった。
 何度でも。
 それでも、溜息をつかずにはいられない。
 美作君は、あの時以来、僕に思い出して欲しいとは言わなくなった。
 けれど、きっと心の中ではそう思っている。
 僕のためを想って言わないのだろう彼に、胸が痛くなる。
 そんな彼に、何も言えない自分が嫌だった。
 鞄の中から、あの巾着袋をそっと取り出す。
 ……最近、これを見ていると、美作君を思いだしてしまう。
 そのことに、気付いてしまった。
 だから余計、辛かった。
 美作君が、僕以上に辛いだろうことが解ったから。
 思い出せない僕と、忘れられた美作君。
 どちらが辛い? 苦しい?
「……そんなの、美作君に決まってるよ……」
 膝に顔を埋める。
 泣きそうになる……。

「……篤紀!」

 突然飛び込んできた声に、びくっと身体が震えた。
 零れそうだった涙も、止まってしまう。
 顔を上げて、視線だけ声がした方へと向けた。
 そこにいたのは。
 その人物を認めた瞬間、頭の中で何かが音をたてたような気がした。
 心臓が早鐘を打つ。
 それは、良く知っている人で。
 すごく、懐かしい人で―――。


『    』


 紡ごうとした名前。
 知っているはずの名前。
 ……思い出せない。
 喉元まで出かかった声を、頭の中で確かに覚えているはずの名前を。

 オモイダセナイ……。



「今何時だと思ってるんだ? もうとっくに日暮れてるんだぞ!」

 すぐ頭上で、声がした。
 僕は、それがどこか遠いところから聞こえてくるような気がしていた。
「……篤紀? どうかしたのか?」
 反応がなかったのに驚いたのか、訝しげな声を投げかけてくる。
「おい、篤紀?」
 両手で僕の頬を包み込むようにして触れ、頬を軽く2、3度叩かれる。
「あ……」
 そこでようやく、焦点が合った。
「りゅ、隆ちゃん……?」
 あれ……?
 さっきは確かに、すごく懐かしい人だと思ったのに。
 けれど、ここにいるのは隆ちゃん……。
 見間違い?
 さっきのあれは、何だった……?
「“隆ちゃん……?”じゃないだろう!」
 唖然としていると、隆ちゃんが僕に怒鳴る。
 珍しく本気で怒っているようだった。
「お前いつもここにいたんだな?」
「う、うん……」
 ばつが悪くて、しどろもどろな答えになってしまった。
 僕は、思い出すためにここにいるのだ。
 けれど、隆ちゃんは、無理に思い出すことはないと言っていたから……。
 だから、何となく気まずかった。
「……思い出そうとするのは良いけどな……麻那が、心配してるんだぞ」
「麻那……?」
 意外にもそんな風に言った隆ちゃんを見つめながら、麻那……妹のことを思い出す。
 そう、病院でも家でもすごく心配していた……。
 僕が行方不明になっていたことで、1番心配していたのは多分麻那だろう……。
 いつも僕に甘えてたんだから……。
「毎日、家に帰るの遅いんだってな。……もう少し、麻那のことも考えてやれ」
 ああ、そうか。
 隆ちゃんがここに来たのは、麻那が心配しているのを知って。
 そして、僕が毎日ここに来ているのを初めて知って。
 隆ちゃんも、心配してくれて、いた……。
「ご、ごめん……」
 唇を噛み締めて、絞り出すように言った。





 真っ暗な道を、誰もいない帰り道を、隆ちゃんと2人で歩く。
 そう……日が暮れてるなんてものじゃなかった。
 既に、日付が変わりそうな時間だったのだ……。


「あのな、篤紀」
 僕はただ申し訳なくて、声を掛けてきた隆ちゃんを伺うようにして見た。
「……別に、怒ってるわけじゃないぞ?」
「……うん、……え……?」
「“え?”ってお前……怒れるわけないだろう? 俺は、お前が今、どんな気持ちでいるのか解ってるつもりなんだから」
「隆ちゃん……」
 口では無理に思い出すことはないと言っていても、結局、隆ちゃんは僕のことを1番解ってくれてるんだ……。
 反対されるかもなんて勝手に思って、隆ちゃんに黙って毎日ここに来て……。
 結局、僕は余計に心配を掛けてしまったんだ。
「ただ、麻那のことを考えるとな……」
「うん……それは、ごめん……帰ったらちゃんと麻那に謝るから……」
「おじさんとおばさんにもな」
「ん……。……あ、でも、もしかしてお父さんたち、今頃僕のこと探してる……?」
「いや。俺が心当たりがあるって言って、家で待っててもらってる」
「そっか、ありがと……」
 少しほっとして、微かに笑う。
 それ以降の隆ちゃんは、何事もなかったかのように普段通り僕に接してくれていた。
 だから僕も、それに応えた。



 家に着いた頃には、日付が変わっていた。
 にもかかわらず、家は明るかった。
 皆、寝ずに待っていてくれたのだ。
 家の明かりを見ていると、隆ちゃんが僕の頭をぽんと軽く叩いた。
 皆、心配してたんだぞって改めて言うように。


「隆ちゃん、家寄ってかないの?」
 僕が玄関のドアに手を掛けても隆ちゃんが門の所から動かないのを見て、呼びかけてみた。
「ああ。もう遅いしな」
「そう……」
 お父さんたち、隆ちゃんに御礼を言いたいんじゃないのかな。
 そう思ったけれど、隆ちゃんが寄らないと言うのなら、それはそれで仕方ない。
 あ、そうだ。
 僕もちゃんと言わないと。
「隆ちゃん。……その、心配掛けてごめんなさい。それから、迎えに来てくれてありがとう……」
「……ああ。どういたしまして」
 そう言って、隆ちゃんは僕に背を向けて歩き出した。
 家に帰るのだろう。
 と思っていたら、突然、隆ちゃんが足を止めた。
「……篤紀。少しでも記憶、戻ったか?」
「えっ……あ、ううん。戻ってない、よ」
「そうか……」
 それきり、黙り込んでしまう。
「隆ちゃん……?」
 僕は、困惑して、それしか言えなかった。
「何かが足りないのかもしれないな」
「えっ?」
 何を言っているのか解らなくて、聞き返す。
 けれど、隆ちゃんは何も言わずに再び歩き出してしまった。
 次第に、その背中が小さくなっていく。
「ちょ、ちょっと待って、隆ちゃん! 今のどういうこと―――」
「お兄ちゃんっ!!」
「わっ」
 慌てて隆ちゃんを追おうとしたが、それは叶わなかった。
 背中に軽い衝撃。
「……麻那」
 後ろを見ずに、そう言った。
 抱きついているのが誰か、解っていたから。
「おかえり、お兄ちゃん」
「……ただいま」
 ずっと泣いていただろう麻那は、僕の帰りが遅くなったことを責めなかった。
 それは後から出てきた両親も同じで。
 ただ、「ありがとう」とだけ、僕は言った。

 ……麻那は、しばらく僕にしがみついたままだった。
 いくら言っても離れなくて、結局、僕の部屋で一緒に寝ることになった。


 麻那と一緒に寝るのは久しぶりだった。
 小さい頃は毎日一緒に寝ていた。
 今、改めて麻那を見ると、随分と変わったなと思う。
 もう中学生なんだから当たり前なんだけれど。
 それでも相変わらず麻那が僕に甘えてくるのは嬉しかったりする。
 それなのに、僕は。
「ごめん、麻那……」
 麻那は泣き疲れて、あっさりと眠りに落ちてしまっていた。
 腫れた目元が、僕の胸に突き刺さるような感じだ。
「ごめん……」



 結局、その夜は一睡も出来なかった。
 一晩中、麻那のことと隆ちゃんの言った言葉が頭から離れなかった……。




−4−

 寝不足で半分寝ながらの登校は、いつもの倍近くの時間を要した。
 頭のなかはぼうっとしているのに、考えることが多すぎて仕方ない。
 自分の記憶のこと。
 美作君のこと。
 麻那のこと。
 そして、隆ちゃんのあの言葉。

“何かが足りないのかもしれないな”

「足りないものって、何? 隆ちゃん……」
 声に出してみても答えが得られるはずもなく。
 とぼとぼと学校への道を進む。
 美作君は何か知っているだろうか?
「訊いてみようかな……」
 正直に言うと、美作君とは話し辛い。
 記憶を取り戻していないから、申し訳なさが先に立ってしまう。
 けれど。
 隆ちゃんの言っていた“足りないもの”が解って、それで思い出せることがあるのなら。
「……よし」
 訊いてみよう。
 そう、決めたのだった。




「おはよう、篤紀」
 教室に入ると、美作君はもう来ていた。
 記憶のことに関しては何も言わない彼だけれど、呼び方は“篤紀”のままだ。
「……おはよう。あの、ちょっと話があるんだけど良いかな」
 一気に言った。
 今言わないと、ずるずると先延ばしにしてしまいそうな気がしたから。
「話?」
「うん……あのね……僕、最近ずっと海を見てるんだ」
「それって……」
「そう。何か思い出せないかと思って……」
「それで……?」
 期待と不安が入り交じったような彼の表情と声音に、少し躊躇いながらも先を続ける。
「で……あの、結局何も思い出せないんだけど……」
「そっか……」
 美作君が目に見えて沈んでしまったのを見て慌てて首を振った。
「そ、そうじゃなくて。それだけ言いたかった訳じゃないんだ。えっと……何て言うか、そう、あの巾着袋! あれを見てたら美作君を思い出しちゃって……それで何か思い出しかけてるんじゃないかって」
「俺のことを……?」
 美作君が、何か考え込むような仕種をした。
 僕はそれをじっと見つめる。
「あのさ」
 しばらくして美作君が口を開いた。
「他には何かない? 俺以外のこととか……俺に似てる人でも良いけど」
「え?」
 言われたことが解らなくて首を傾げる。
「何もない……と思うけど」
 そう答えてから、ふと思い出した。
 昨日、隆ちゃんが海に迎えに来てくれた時のことを。
 名前を呼ばれて振り返って。
 懐かしく思って、名前を呼ぼうとして。
 けれど、名前を覚えていなくて。
 我に返った時、そこにいたのは懐かしい人ではなく。
 隆ちゃんが、いたのだった。
 そのことを美作君に話すと、一瞬顔を顰めて、また考え込んでしまった。
「美作君……?」
 僕が声を掛けると、顔を上げた。
「確かに……何かを思い出しかけているような気はする。他には? 他に何かない?」
 そう言われて、今度はこっちが考え込む。
 けれど、特に何も思い出せなかった。
 それを美作君に伝えて、僕は1番訊きたかったことを口にすることにした。
「足りないものって、何だと思う?」
「足りないもの?」
「うん。昨日、隆ちゃんが言ったことなんだけど気になってしょうがなくて」
「早見先生が?」
 美作君の声が、強張ったのには気付かず、僕は話し続けた。
「隆ちゃんに少しでも思い出したかって訊かれて、思い出してないって言ったんだ。そしたら、“何か足りないのかもしれないな”って」
「あいつ……っ」
「み、美作君?」
 急に声を荒らげた彼に驚いて、数歩後ずさってしまう。
「どういうつもりだよ、あいつ……」
 美作君は険しい顔で呟く。
 あいつって……。
 今の話の流れからすると、隆ちゃんのこと……?
「話が違う……俺には思い出させるなとか言っておいて……!」
「え……」
「なのに何であいつが、篤紀にそんなことを……」
「み、美作君? 何それ、どういうこと? 隆ちゃんが……」
「……あ……いや、何でもないんだ……」
 口走ってしまったことを後悔するように、美作君は口を噤んでしまった。
 何でもないなんてことはないだろうに。
 美作君の動揺し、険しい表情を見ているとそう思わずにはいられなかった。
 もしかしたら、美作君が僕に思い出してくれと言ったことを隆ちゃんが知ったのかもしれない。
 それで、僕の負担にならないようにそう言ってくれただけなのかも。
 けれど、それならそう言えば良いことじゃないだろうか?
 だったら、僕はこう答えるのに。
 隆ちゃんは昨日、記憶を取り戻そうとすることを反対しなかった。
 何故なら僕の気持ちを理解してくれたから。
 だから隆ちゃんも協力してくれたんだと。
 それだけのことなのだ。
 なのに美作君が口を噤んでしまったのは、どうして?
 隆ちゃんと美作君の間には僕の知らない何かがあって、隆ちゃんが思い出させるなと言ったことも心配してくれたからだけじゃないってこと?
 だけど、隆ちゃんが僕に関係することで、隠しごとをするなんて――。


 口を閉ざしてしまった彼に、何とかして隆ちゃんのことを訊ねようとした時だった。
「そ、それより。その足りないものってやつだけど。俺、解るかもしれない」
 不意に、驚くようなことを僕に告げた。
 今まで考えていたことを忘れるほどのことを。
「えっ!?」
「俺も海へ行く。一緒に連れて行ってくれ」
「う、うん。それは良いけど……解るって本当?」
「ああ。間違いないと思う。あいつの助言だってことには腹が立つけど」
 そう言って、美作君は僕の腕を掴む。
「じゃ、早速行こう!」
「え? え? ちょっ、ちょっと待って、授業は?」
 そのまま引っ張られて行きかけたので、慌てて引き留めた。
「サボリ! 篤紀が思い出すかもしれないってのに、授業なんて受けてられない」
「で、でも……」
「良いから良いから」
 良くない。
 行方不明だった間は仕方ないとして、それ以外に授業をサボったことなんて一度もない。
 それは保健室を避難場所にする代わりに授業にはちゃんと出席するという、隆ちゃんとの約束でもあって。
 そう思っていたのだけれど。
 あっという間に、僕は校外に連れ出されてしまっていたのだった。




「この辺だよな」
 海岸。
 海の間近くまで来て、美作君は足を止めた。
 そこは、いつも僕がいる場所。
 記憶の欠片を探して、佇む場所。
「ここで合ってるだろ?」
 自信たっぷりといった様子で美作君が言う。
「う、うん。良く知ってるね」
「そりゃ、知ってるよ。篤紀と初めて会った場所なんだから……」
「え……?」
 どくん、と心が跳ねた。
 初めて会った場所……それは、学校のはずじゃ……?
 学校で同じクラスになって、教室で会ったのが最初だと思っていたのに。
 それ以前に、ここで会ったことが……?
 答えを求めて彼を見ると、
「篤紀が思い出したら、解るよ」
 少し寂しそうな顔で、微笑んだ。
 それを聞いてますます疑問が膨らむ。
 だって……美作君と初めて会った時のことと、僕の行方不明。
 どんな関係があるのだろう……?



「じゃあ、篤紀。巾着袋出して」
「え。あ、うん」
 言われて、いつも持ち歩いているあの巾着袋を取り出す。
 淡い青色の綺麗な袋。
 気がつけば、美作君も感慨深そうにそれに見入っている。
「海とこの場所、巾着袋。そして、足りないものは……」
 手に持った巾着袋を、僕の手ごと美作君の手が包む。
 僕は、美作君の言葉を緊張しながら待った。
 思い出せるかもしれないという期待を持って。
「俺、だよ」
 美作君が顔を上げて、僕の目をまっすぐ見る。
 僕は言葉が出なかった。
 けれど、頭では理解していた。
 ああ、そうか……。
 思い出すための手がかりはこの場所と巾着袋。
 けれど、美作君が僕の知らない1ヶ月を知っているということは。
 もうひとつ足りない手がかりは、美作君自身だということ――。

「思い出した?」
 首を横に振る。
 まだ、思い出さない。
「篤紀、約束」
「約束……?」
「約束、思い出して」

“約束”

 その言葉に、心が揺れる。

“約束するから”

 それは確かに、僕が言った言葉。

 誰に……誰に約束した?
 約束って……どんな約束?

 あと少し、あと少しで、何かが解りそうな気がする。


「篤紀との約束を破って、俺はここに来てしまったけど……もう一度会えたから、それは約束通り、だよな……?」

「…………っ……」
 今美作君が、言った言葉。
 それが、頭のなかに浸透して。
 かちりと。
 音を立てる。

 それは、パズルの最後の一片を見つけた瞬間のよう。
 欠けていたものが元の場所に嵌った感触。

 そして。
 それが、怒濤のように押し寄せる。
 こじ開ける。
 全てを。
 忘れていたもの全てを。

 記憶の波が、自身全てを覆い尽くす。
 覆い尽くす……。



「…………か…………」

 彼の名を、呼ぼうとした。
 けれど。
 上手く言えずに、僕はその場に崩れ落ちる

「篤紀!」
 咄嗟に、誰かが僕を支えてくれたようだった。


 そのまま、意識が薄れていく。
 遠い遠い彼方へと。

 僕は、1ヶ月間のことを夢に見る。
 短くて、とてもとても永い時間だった、あの時のことを。
 彼と約束を交わした、あの時のことを。

 切なくて苦しくて……涙を流して。
 それでもどうにもならないと悟った、あの痛み。
 愛しい人と別れなければならない瞬間の、哀しい約束。


 あれは、信じられないような出来事……けれど、現実の出来事、なのだ……。




□第2章 夢、鮮やかに

−2−

 何が起こったのか解らなかった。

 視界から、全ての景色が消えて。

 次の瞬間には、眩しくて目を開けていられないほどの光が襲った。

 やがて、その光も……。

 弾けて、消えた。

 僕の意識も、同時に消えていった。

 最後に、波の音が、聞こえた。






「……う……ん……」

 唐突に、目が覚めた。
 今まで夢を見ていたような気がする。
 頭がぼんやりしていて、すぐにはどんな夢だったか思い出せないけれど。
 身体を起こすと、何かが落ちた。
 と同時に、頭に鋭い痛みが走った。
 身体も何だかだるい。
 動かすのも億劫だったけれど、落ちたものを拾わなければと手を伸ばす。
 それは、真っ白な手拭いだった。
 僅かに濡れているそれは、温かかった。
 それを手に持ったまま、辺りを見回す。
 僕は、固いとは言えないけれど柔らかいとも到底言えないような、少し色の褪せた白い布団の中にいた。
 枕元には水を張った桶が置いてあり、その縁に手拭いが掛けてあった。
 手の中にある手拭いと全く同じものだ。
 他に目立つものといえば、小さな囲炉裏があるくらいだ。
 もっと何かないかと首を巡らせようとしたけれど、だるさと痛みに断念した。
 けれど、見えた部分だけでも言えることがある。
 それは、ここが随分と質素な部屋だということ。
 そして、僕には全く見覚えのない場所だ。
 薄暗いその場所に、僕は寝かされていたらしい。

 がたっ。

 突然、物音がして、反射的にそちらを見た。
「痛……」
 勢いよく振り向いたため、再び頭に痛みが走った。
 眩暈がして頭を抑える。
 それでも、物音の原因を確かめようと視線だけをそちらに向ける。
 開いた戸口から、陽の光が部屋の中に射し込んで、薄暗かった部屋が少し明るくなる。
 少し眩しくて目を細めて見ると、誰かがいるのが解った。
 ――子供だ。
 部屋の中を、何やら心配そうな顔で覗いている。
 目が合った。
「あ! 兄ちゃん、目が覚めたんだ」
 途端に、顔から心配そうな表情が消え、嬉しそうに笑った。
「嘉壱ーっ。あの人、起きてるよーっ!」
 そしてすぐに僕に背を向けて、元気の良い声を張り上げて、外に向かって叫んだ。
「早くーっ」
 飛び跳ねながら、手を振っている子を、僕はぼんやりと眺めていた。
 しばらくすると、足音が聞こえてきた。
 それは段々と近づいてきて大きな音になっていく。
 戸口の外から、男が走ってくるのが見えた。
 子供を押し退けるようにして、中へと入ってきた男は、立ち止まらずにまっすぐ僕に向かってきた。
 近くまで来ると、手を伸ばされる。
 呆気にとられている僕を無視して、その手がそっと額に置かれた。
「熱は下がったみたいだな。気分は? どこか痛いところはあるか?」
 安堵したようにひとつ息を吐いて、男は早口にまくし立てる。
 熱――?
 手元にある手拭いを改めて見る。
 これは、そのために――?
「ああ、まだもう少し、横になっていた方が良い」
 そう言って、僕の手から手拭いを離させると、布団に寝かされた。
 僕は戸惑いながらも、再び身体を起こそうとする。
 少なくともこの人たちは、熱を出していた僕を看病してくれていたようだから、これ以上世話を掛けるわけにはいかないと思って。
 けれどそれは、思いの外に強い力で押し止められた。
 男が慌てて、布団を抑えていたからだ。
「う……」
 胸が圧迫されて、少し苦しくなった。
「嘉壱、兄ちゃん辛そうだよ。もっと落ち着いたら? 心配なのは解るけどさー」
 いつの間に近くに来ていたのか、さっきの子供が嘉壱と呼ばれた男の背から顔を覗かせた。
「あ、ああ――すまなかった」
 子供の言葉を聞いて、布団を抑えていた手をようやく退けてくれた。
 僕は、ほっと安堵の溜息を漏らす。
 それを見て、子供は満足そうに頷く。
「そうそう、兄ちゃんごめんな。嘉壱ってがさつだから」
「いい加減にしろ、弥太」
「はいはい、ごめんなさーい」
 子供――弥太は、とても謝っているとは思えない口調で嘉壱に答えている。
 良く解らない状況に置かれながらも、2人の会話を聞いていると口元が綻んでしまった。


「それで、気分は? 大丈夫か?」
 弥太との会話を終わらせた嘉壱が、僕の方に向き直る。
「あ、大丈夫です……」
「本当か?」
「……いえ、その……頭が痛いです。身体も少しだるくて……」
 心配を掛けないようにと言った言葉だったけれど、嘉壱に疑わしそうに見られてたじろいでしまった。
 だから、あっさりと本当のことを伝えた。
「そうか……やっぱりもう少し寝ていた方が良いな。3日間も熱でうなされていたから体力も落ちているだろう」
「3日……?」
 そんなに……?
「そうだよ。兄ちゃん、海に急に現れてさ。海水でびしょ濡れだったんだよ!」
 確かに、その状態なら、熱を出しても不思議じゃないかもしれない。
 けれど……。
 急に、現れた?
 どういうこと……?
「弥太。その話はまた今度だ。快復してからゆっくり話せば良い」
 問いを返す前に、嘉壱の言葉が先に発せられた。
「えー」
「弥太」
 不満そうな声を上げた弥太だけれど、嘉壱の少し厳しい声に肩を竦める。
「……はいはい、解りましたっ」
 拗ねた口調でそう言うと、ふてくされたように弥太は寝転んでしまった。
 嘉壱はそれを見て溜息をつく。
 それから、こちらを見て改まったような口調で話しかけてきた。
「俺は嘉壱(かいち)だ。そして、これは、弥太」
 最後の言葉は弥太を振り返って言う。
 さっきからお互い呼び合っていたように、嘉壱と弥太というのが2人の名前だとはっきり解った。
 が。
「あーっ。勝手に名前教えんなよ。自分で言いたかったのに……。それに、おれは弥太じゃなくて弥太郎(やたろう)!」
 寝転んでいた弥太――弥太郎が、急に飛び起きて嘉壱を睨んだ。
「……悪かったな」
「もう良いよ……で、兄ちゃんの名前は何て言うの?」
「……篤紀……」
「ふーん。じゃ、篤紀兄ちゃんだ」
「弥太……何で、篤紀は兄ちゃんで俺は呼び捨てなんだ?」
「ずっと嘉壱って呼んでたんだから今更元に戻せないよーだ」
 2人の会話に、自分の名前を言う以外、口を挟めなかった。
 黙って、2人の会話を聞いているだけだ。
 ふと、この2人はどういう関係なんだろうと思った。
 兄弟、かな?
 けれど、全然似ていない。
「おれと嘉壱は、兄弟だよ」
「あ……」
 訝しげに見ていたのに気付いたのだろうか。
 弥太郎が、教えてくれた。
 似ていないけれど、やっぱり兄弟なのか……。
 嘉壱は大人のようだし、弥太郎は見て解る通り子供だ。
 いくつ離れてるのかな?
 そんなことを思っていた時。
「……義理のな」
 嘉壱が不意に発した言葉に、弥太郎の身体が強張った。
 哀しそうに、嘉壱を見る。
 唇を噛み締めて……今にも泣き出しそうな表情だ。
 嘉壱はそれを見もせず、桶を持って立ち上がった。
 弥太郎は、黙って嘉壱の所作を見ている。
 哀しそうな表情はすぐに消えたけれど、僕はどうしても、さっきの弥太郎の様子が気になって仕方がなかった。
 義理の兄弟……。
 弥太郎は、その言葉が哀しかったんじゃないかと思う。
 嘉壱のことを本当の兄のように思っているみたいだから、尚更――。
 ……じゃあ、嘉壱は?
 わざわざ、義理のって付け足したってことは、弥太郎のこと弟として見ていない……?
 けれど、2人とも仲良さそうなのに――。

「――篤紀」
「……えっ?」
 上の空だったところへ、急に名前を呼ばれて驚いた。
「篤紀、何か食べるか?」
 その言葉に、首を振る。
 頭は痛いし、身体はだるいし、とても食べられそうにない。
 現に今、首を軽く振っただけでも、少し頭が痛かった。
「……食欲ないから……」
「じゃあ、せめて水くらい飲め。汲んでくるから。弥太、行くぞ」
「……うん。篤紀兄ちゃんは、大人しく寝ててね」


 2人が慌ただしく出ていくと、途端に静かになる。
 急に、寂しくなってきてしまう。
 すぐに戻ってくると解っていても。
 心許ない、今の自分は不安に陥っていってしまう。
 ひとりきりは……苦手だ。
 かといって、何か考えようとしても、思考が、流れていく。
 考えなければいけないことも、知りたいこともたくさんあるはずなのに。
 今は……何も、考えられない。
 考えられなかった。

 疲れた……。

 そうして僕は、ゆっくりと眠りに落ちていった。


To be continued...



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