■月夜を抱く君■



−1−



 満月の夜だった。
 塾が終わり、いつもの帰り道を歩く。
 途中、公園があって、そこを通ると近道だった。
 公園の暗さに躊躇いながら、結局はそこを通る。
 けれど今日だけは。
 多少、帰るのが遅くなろうとも、公園を通るべきではなかった。
 後で思い切り後悔する羽目になったのだ。



「え……?」
 聞き間違いだろうかと、一瞬、思う。
 静かな公園内、確かに何かが―――声が聞こえたような気がしたのだけれど。
 和都(かずと)は、立ち止まって辺りを見回してみた。
 近くには誰もいない。
 けれど聞き間違いではない証拠に、少しずつ声が大きく近くなってきた。
 それもひとりの声ではない。
 もっと大勢の、怒鳴り声。
 足音も近づいてくる。
 身を竦ませながら、和都は急いで公園から出ようとした。
 厄介なことに巻き込まれたくなかった。
「邪魔だ、どけっ」
 歩きかけた時、すぐ耳元で男の怒鳴り声が聞こえた。
 あっと思う暇もなかった。
 こちらに突進してきた男と思い切りぶつかり、和都は地面に倒れてしまう。
 その上に、男が覆い被さってくる。
「……っ!」
 腰を強かに打ち、更に上からの圧迫感が和都を襲う。
「……ってえ……おい、どけって言っただろうが!」
 和都の上から身を起こしながら、男は罵声を浴びせかける。
 その凶暴さに、びくりと身体を震わせる。
 そんなこと言ったって急に避けられるわけない、と咄嗟に浮かんだ言葉も、声にする前に飲み込んでしまう。
 けれど、この状態のままでいるのも嫌で、男の様子を窺い見ながら、緩慢な動作で和都も起きあがった。
「……ったく」
 不機嫌そうに男は呟き、和都を睨みつける。
 剣呑な雰囲気を醸し出している男を前に、再び身体が震えるのをどこか人事のように感じた。
 尚も男が何事かを言い募ろうとした時、公園に複数の男たちが入って来るのが見えた。
「……ちっ」
「え!?」
 男の舌打ちが聞こえたと思った途端、和都の身体が宙に浮いた。
 男が和都を抱え上げたのだけれど、何が起こっているのか全然解っていない和都には、そのことを認識できなかった。
 そのうちに、段々と茂みの方へ入っていき、和都は放り投げるように勢いよく地面に押しつけられた。
 すぐに男が和都に覆い被さってくる。
「なっ、ちょっ……むぐっ」
「ちょっと静かにしてろ」
「ん、ん―――」
 男の手で口を塞がれ、声にならない声が漏れる。
 和都は自分に何が起こっているのか整理しようとした。
 けれど駄目だった。
 整理しよう、落ち着こうとすればするほど、頭に血が上って考えられなくなる。
 口を塞いでいる手を掴み、押し退けようとするけれど、全然びくともしない。
 あまり力強くはない和都は、それでも渾身の力を振り絞って身を捩る。
 それが、何の意味もなさないとしても。



「――いたか!?」
「いえ、こっちには。あちらを探してみますか?」
「ああ、そうだな」
 男の姿に視界を遮られて、どういう状況になっているのか見ることはかなわなかったけれど、耳から入る情報で、公園に入ってきた男たちが去っていったのを感じ取る。
 ざわついていた公園内が、一気に静けさを取り戻した。
「……行ったか」
 それを確認した男は、ようやく和都の口を解放した。
「……っ、ごほっ」
 口にあった圧迫感が消え、安心したと同時に入ってきた空気に和都は咽せる。
「い、一体、何……?」
 かすれた声で和都は問うた。
 手を放してくれたのだから、上から退いてくれるだろうと思ったのに、予想に反して男は退こうとしない。
 和都の問いに答えるでもなく、ただ、和都を見下ろしていた。
「あの……?」
 頭に上った血が引いていくに連れて、和都は地面の感触と匂いに気分が悪くなってきた。
 男と地面に挟まれて身動きが取れない状況も、和都の本意ではない。
 普段はどちらかというと大人しい和都も、さすがに苛立ちが募ってきた。
「あの!」
 少し声を荒げる。
 けれど、男は和都を見据えたまま、何も答えない。
 全身に男の舐めるような視線が絡みつく。
 その視線に、和都は漠然とした恐怖を感じた。
 男の背後から見える満月が――普段、特に気にもしない満月が、何故だかその恐怖を増幅させていくようで、和都はそれを視界から追い出した。
 そうすると、和都の目に映るものは男だけになる。
 その男の瞳が、光ったような気がした。
 口元には、微かな笑み。
 歪めるような、嫌な感じの、笑み――。
 苛立ちも、何もかもが、じわじわと確かな恐怖へと変貌していき、声も出なくなる。
 その男の瞳に浮かんでいるものは――。
 次の瞬間、男の手が和都の制服のブレザーに伸びた。
 和都は、手際よく脱がされていくブレザーを、男の手を、呆然と見遣る。
「あいつらに見つかって追っかけられた時は今日は駄目かと思ったけど、これはこれで良いかもな……」
 低い声が、すぐ間近で聞こえた。
 和都には意味の解らない言葉。
 男は、脱がせたブレザーを乱暴に脇に放り、再び和都に手を伸ばす。
 今度はネクタイを緩め、Yシャツのボタンに手をかけた。
「や、ちょ、ちょっと! 何して……っ」
 ここに来てようやく和都は、男の手を止めようと、男を引きはがそうと、必死で暴れ回った。
 冗談ではない。
 何故、こんなことになっているのだろう。
 塾に行って、終わったら帰って。
 いつものように、今日もそうなるはずだったのに。
 男は、そんな和都の抵抗をものともせず、ゆっくりボタンをはずしていく。
 ひとつ、ふたつ。
 全部はずされるんじゃないかと身構えた。
 背筋を、冷や汗が伝っていく。
 けれど男は、ふたつはずしただけで手を止めた。
「――?」
 急に止まった手に、安心はしたものの、困惑も隠せない。
 男の行動が、読めない。
 解らない。
 けれど。
「――!!」
 次の瞬間、和都は、声にならない声を上げていた。
 驚愕に、目を見開く。
 両手を突っ張って、男の肩を押し戻そうとする。
 けれど、和都の首筋に顔を埋めた男はびくともしない。
 首筋にかかる男の息が、押しつけられた唇が、全ての感触が不快で、けれど、和都には男を制止できるだけの力も何もなかった。
「やめ……っ」
 目尻に涙が浮かぶ。
 そして。
 首筋に男の歯が立てられた瞬間。
 和都は、無我夢中で手に触れたものを掴み、男を力一杯殴りつけた。
「……っ」
 男が呻き、和都から僅かに離れた隙をついて、男の下から抜け出した。
 そのままよろよろと立ち上がり、駆け出す。
 男に言いたいことは山ほどあったけれど、それより何より、この場から逃げ出すことが、今の和都の全てだった。
 幸い、男が追ってくる気配はない。
 それでも和都は走り続けた。
 公園の外へ。
 明るい場所へ。
 人通りの多い所へ。




 どれくらい走っただろう。
 家近くの賑やかな大通りまで来たところで、ようやく和都は立ち止まった。
「はあ、はあ……っ」
 息が上がって、上手く呼吸が出来ない。
 しばらく肩で息をしていると、何とか落ち着いてきた。
 そろそろと辺りを見回し、さっきの男が居ないことを確かめ、ほっとする。
 一体、さっきのは何だったんだろう。
 訳も解らず、自分の身に起こったことすら、把握できていなかった。
 ただ、恐怖だけがあった。
 男を思い切り殴りつけた凶器は、未だ和都の手にあった。
 それは和都の鞄だ。
 教科書や参考書等が入った重たい鞄。
 これを持って、学校や塾に行くのはかなり辛かった。
 けれど、今日、初めてこの鞄と中身に感謝した。
 自分の窮地を救ってくれたのだから。

 ――もう二度とあの公園を通ったりしない。

 そう思うには十分すぎる目に遭った和都は、深く深く息を吐き出す。
 震える手で乱された服を整える。
 時折吹く夜の風の冷たさに身体を竦ませながら、早く家に帰りたいとそれだけを考えて思うように動いてくれない足を必死で前へと歩ませた。





−2−



 今日は朝から最低な気分だった。
 学校に行きたくないとは思うものの、そういうわけにもいかず、寝不足のまま、のろのろと支度をして家を出た。
 学校に近づくにつれ、出会う人は同じ学校の生徒が多くなっていく。
 その中を、居心地悪く歩いた。
 追い越し追い越され。
 そのほとんどの人が、和都を見ている。
 何か言いたげに。
 ――何が言いたいかは、よく解っていたのだけれど。
「……はあ」
 でるのはため息ばかりだ。



 そんな調子で校門までたどり着いた。
 更に生徒の数が増えている。
 その生徒たちの視線が痛い。
 靴を履き替えていると、ぽんと肩を叩かれた。
 振り返ると、友達の亮太(りょうた)と瑞希(みずき)がいた。
 亮太と瑞希とは、小学校の時からの付き合いだ。
 クラスが別れても、変わらずに仲良くしていた。
 高校に上がってからは、幸運にも2年間、ずっと同じクラスだ。
 お互い色々なことを相談し合ったりして、時には言い争ったりもしたけれど、いい友達付き合いが出来ていると思う。
「おはよ、和都。……お前、ブレザーは?」
「……おはよ」
 さっきから会った生徒たちが言いたかったであろうことを亮太はあっさり口にした。
 当たり前といえば当たり前だけれど。
「せめてベストとか着て来いよ」
「あ……そっか」
 亮太にそう言われて、そうすれば良かったと思う。
 けれど、今朝はそれどころではなかった。
 制服のブレザーがないことに気づいたのは、今朝起きてすぐだった。
 いつもブレザーと一緒に掛けてあるネクタイが、今朝はYシャツと一緒に掛けてあった。
 それからブレザーを探し回ったけれど、結局見つからなかった。
 おまけに今朝は寝不足だったため、本気で欠席しようと思ったほどだ。
 けれど親に上手い言い訳も思いつかず、のろのろと支度をしている途中で、寝不足とブレザーがない理由に思い当たった。
 昨夜のことだ。
 ブレザーは脱がされたまま置いてきてしまった。
 あの時は逃げることしか頭になかったから、ブレザーのことなどすっかり忘れていたのだ。
 寝坊の理由は昨夜の出来事全てだ。
 自分の身に起こったことが頭の中をぐるぐると回り続け、ほとんど眠れなかったのだ。
 結局、見知らぬ男に襲われそうになった、とそういうことなのだろうか……。
 どうして自分が、男に襲われなければならないのか――。
「……と。和都!」
「え……?」
「え、じゃねえよ。お前さっきから変。どうしたんだよ」
 乱暴な口調でありながらも心配そうな瑞希の言葉に、昨日のことを言おうと思ったが、思い止まった。
 今まで大抵のことは相談してきたけれど、さすがにこれは言えない。
「えっと……そ、そう、ブレザーだったよね。……なくしたんだ」
「なくした?」
「そ、そう。あの、塾で……」
「ああ、忘れてきたってこと?」
「う、うん……」
 嘘だ。
 本当は男に脱がされて、そのまま置いてきたんだ。
 けれど、言えなかった。
 だから、そう言うしかなかった。
 瑞希との会話を聞いていた亮太が、少し考えて口を開く。
「塾か……確か今日も、授業あったよな?」
「うん」
「今日は忘れずに着て帰れよ」
「……うん」
 和都は曖昧に笑みを返す。
 ……ブレザー、どうしよう。
 公園に一晩中放置されていただろうから、探しても見つかるかどうか解らない。
 それに、和都は公園には行きたくなかった。
 二度と行かないと、決めたのだ。
「教室行こう、遅刻するから」
「あ、うん」
 亮太に促されて、歩き出す二人の後を慌てて付いていく。
 上はYシャツだけの制服が、異様に冷たく感じる。
 まるで、今の自分の心のように、寒く、憂鬱だった。
 




 放課後。
 憂鬱な気分で、和都は塾に行った。
 和人の通う塾は、基本的には月・水・金の週3回、午後6時から9時までだ。
 今日は木曜日だけれど、個別授業というのがある。
 これは、普段の授業と違い、講師と生徒、1対1で行われる。
 生徒各自の進路に合わせて授業や進路相談をするのだ。
 火・木・土は、その個別授業に当てられていて、和都は木曜日がその授業の日だった。



 塾が終わると、空はすっかり暗くなっていた。
 今は午後7時。
 授業開始は午後5時だった。
 個別授業の日は、始まりも終わりも早いのだ。
 今頃は、他の生徒が授業に入っているだろう。
 外に出て、立ち止まる。
 ……どうしよう。
 公園に行ってみようか。
 本当は、行きたくない。
 けれど、ブレザーを何とかしないと、明日亮太と瑞希に何て言えば良いのか。
 塾の前で、和都は途方に暮れた。
 煮え切らない自分が嫌だった。
 考えるよりも先に、さっさと公園に行けば良いのだ。
 けれど、公園にブレザーがなかったら?
 どうしよう……。



 散々悩んだ末、結局、和都は公園に行くことにした。
 もう二度と行くまいと決めた公園に。



 公園は、広い。
 昨日、ブレザーを脱がされた場所を探すのは一苦労だった。
 何しろ、ほとんど覚えていなかったのだから。
 仕方なく、公園中を歩き回る羽目になってしまった。
 やはり昨日の場所がどこなのかさっぱり解らなかったけれど、公園中を探し尽くしてもブレザーはなかった。
 さすがに疲れて、よろよろと近くにあったベンチに座り込む。
「はあ……」
 今日、何回目のため息だろう。
 疲れと寝不足と、憂鬱さと。
 ここにいると、昨夜の恐怖さえも思い出しそうで――。
 それらがないまぜになって、身体が重くなっていく。
 頭が痛くて、左手で押さえる。
 ふと目に入った時計を見ると、既に9時近かった。
 2時間も、ここにいるのか。
 そろそろ帰ろう。
 ブレザーのことを気にしつつも、どうしようもなくて、立ち上がろうとした。
 けれど、立ち上がれなかった。
 凍り付いたように、身体が動かなかった。
 眼前に現れた人物のせいで。





−3−



「昨日と大体同じ時間帯だな。来てみて正解だった」
 男はそう言って、座っている和都の目線に合わせるように身をかがめた。
「あ……」
 喉に何かが詰まっているような、息苦しさを覚えた。
 今、目の前にいるのは、昨夜の男だ。
 和都は何も言えず、身を固くする。
 何故、ブレザーが無いと解った時点で帰らなかったのだろう。
 何故、ベンチに座ってしまったのだろう。
 何故、目の前に、あの男が居るのだろう――。
 何故。

 昨日の事が脳裏に焼き付いている。
 恐怖と混乱と。
 憤りと。

 知らず、和都は目の前の男を睨みつけていた。
「そんなに睨むなよ。日高和都(ひだか・かずと)君」
「何で……」
 フルネームを呼ばれ、和都は目を瞠った。
 何故、自分の名前を知っているのだろう?
 男は、悪戯っぽく笑うと、胸ポケットから手帳のようなものを取り出す。
「あ……!」
 見覚えがあった。
「それ、僕の……」
 生徒手帳。
 ブレザーの胸ポケットに入れてあった、和都の生徒手帳だった。
「昨日、忘れていっただろ」
 生徒手帳を突き出され、思わずそれを受け取る。
「見たんですか」
「ああ。見なきゃ、誰のか解らねえからな」
 正論だった。
 腹立たしいほど。
 そして、自分にも腹が立った。
 明らかに相手が年上だとはいえ、こんな男に敬語を使っている自分に。
「さて。……付いて来いよ」
 ぐい、と腕を引っ張られ、無理矢理立たせられた。
「は、放してくださいっ」
 足を必死で踏ん張った。
 冗談じゃない。
 何処へ連れて行かれるのか解らないけれど、昨日の二の舞だけは御免だ。
 けれど、男の力は強く、ずるずると引っ張られていく。
「そんな警戒しなくても、何もしねえよ」
 信用など出来るはずがない。
 和都は、死に物狂いで抵抗した。
 そんな和都に、男はため息をついて足を止めた。
 腕は放してもらえなかったけれど。
「……ブレザー」
「えっ?」
「探してたんだろ。俺が拾っといたよ」
「あ……」
 そうだ。
 生徒手帳をこの男が持っていたということは、当然、ブレザーも男が持っているはずだ。
 では、和都に返すために、この公園に来たというのだろうか。
 けれど、と和都は思い直す。
 だったら、生徒手帳だけ持ってくるなどということはせずに、ブレザーもここに持ってくるのではないか。
 男を見ても、ブレザーを持っている様子はない。
「どこに……あるんですか」
「付いてきたら返すよ」
「……ここに持ってきてください」
「二度手間だろ、一旦戻ってまたここに来るなんてさ」
 だったら最初から持ってくれば良いんだ、と喉元まで出かかって堪える。
「夕飯、付き合えよ。そしたら返してやるから」
「………………」
 このまま大人しく付いていって大丈夫なのか。
 けれど付いていかないとブレザーは戻ってこない。
 和都は究極の選択を迫られた気分になって、唸った。
「考えるまでもないだろ」
 男の低い声が、頭上から聞こえる。
「付き合うよな?」
 それは、確認ではなく、ブレザーを盾に取った命令だった。



 街灯が照らす夜道を、2人で並んで歩く。
 結局、半ば押し切られるような形で男に付いてきてしまった。
 和都は、それを、早くも後悔していた。
 ブレザーよりも、自分の身を心配すべきだったのではないか、と。
 男がどこへ向かっているのか、見当も付かない。
 夕飯に付き合えと言っていたから、ファミレスとかかな、とは思うけれど。
 和都は、隣にいる男を観察してみた。
 昨夜は男の風貌を気に掛ける余裕など当然のことながらなかったから、まじまじと見入ってしまう。
 年上だということを差し引いても、和都よりもはるかにがっしりした体格。
 顔立ちも、整っているというのか、格好良い部類に入るのではないだろうか。
 自分はどうだろう。
 17歳という年齢に似合わず華奢な身体。
 顔も、童顔というわけではないけれど、何処か幼さが残っているような感じだ。
 そのことをコンプレックスにも思っていた。
 そのがっしりした体格の半分でも分けてくれないかなと、無茶なことを考えていると、
「何?」
「え?」
 男の声が急に降ってきて、驚いて男の顔を見返した。
「さっきから俺のことじっと見てるだろ。……格好良いから見惚れてたとか?」
「そんなんじゃないですっ」
 きっぱり否定すると、男は苦笑した。
 ……羨ましいのは体格だけだ。
 こんな、性格が悪くて軽薄そうな、訳の解らない男に見惚れるはずがない。


「着いたぞ」
 男が不意に立ち止まった。
「え……こ、ここ……?」
「そう」
 ぐいと腕を引っ張って、中に入ろうとするのを慌てて押し止めた。
「待ってください、ここ、居酒屋じゃないですか」
「それが?」
「僕、未成年です」
「解ってるって。別に酒飲まなきゃ問題ないだろ」
 そう言って、男は扉を開け、暖簾をくぐる。
 和都も、戸惑いながらそれに続いた。
 暖簾には「柏原」と書かれていて、それが店の名前のようだった。
 扉を閉め中を見渡すと、こぢんまりとした、けれど、温かみのある店内の様子が見て取れた。
 ただ、テーブル席にもカウンター席にも客はいなかった。
「ああ、勇士(ゆうし)。やっと来たのね、待ってたのよ」
 知り合いらしく、店の女将がにこやかに男に話しかけている。
 男の名前が、勇士だということを初めて知った。
「その子が、話してた子?」
「ああ。夕飯食べるから何か出してくれ」
「はいはい、ちょっと待っててね。……さ、そこに座って」
 和都の方を見、カウンター席を示す。
「あ……はい」
 大人しく、和都はカウンター席に座った。
 その隣に勇士が座る。
「今日は、早めに店終いしたのよ。勇士が貴方を連れてくるって言うから」
 女将はにこにこと楽しそうに、和都に話しかけた。
「え……」
 和都は戸惑う。
 自分が来るから、店終いをした?
 居酒屋というのは、これからが稼ぎ時ではないのだろうか?
「勇士が誰かをここに連れてくるなんて初めてのことなのよね」
「はあ」
 曖昧に返すしか、どうしようもなかった。
 随分、親しげだ。
 2人の関係をはかりかねていると、勇士が口を開いた。
「これ、お袋」
「親に向かって、これはないでしょ」
 そう言って、女将は和都に向かって軽く頭を下げた。
「初めまして。この子の母親の柏原杏子(かしわら・きょうこ)です」
「あ……日高和都です。えっと……」
 和やかな杏子の物言いにつられたように、和都も名前を告げたものの、それ以上はどう言えば良いのか解らなかった。
 そんな和都に微笑むと杏子は、御飯をよそったり、おかずを選び取ったりと、2人に出す料理の準備を始めた。
 勇士は出されたお茶を飲んでいる。
 和都も同じようにお茶を飲みながら、そんな2人を交互に見ていた。
 ……親子。
 随分雰囲気の違う親子だと思った。
 けれど一番驚いたのは、勇士に対してだった。
 昨夜の勇士とは明らかに違う。
 あの夜の出来事と公園で再び会った時に感じた恐怖は、ほんの短い間に薄れてしまっていた。
 今の勇士からは、あの時の獰猛さは感じられない。
 こうやって隣合って座っていても、不思議なほど心は落ち着いていた。
「おまちどおさま」
 やがて、杏子が料理を出してくれた。
 御飯に、具のたくさん入った御味噌汁。
 煮物に、焼き魚、湯豆腐。
 漬け物と海苔。
 いつも自分の家で用意されているような、メニューだった。
 それがかえって、食欲を刺激する。
「食えよ」
「……はい」
 そっと、箸を持ち、煮物を挟み、口に運ぶ。
「……美味しい」
 まるで、杏子の雰囲気が移ったかのような、温かくて優しい味だった。
「そう? 良かったわ。どんどん食べてね」
「はい」
 ブレザーを探し回ってお腹が空いていたこともあり、和都は食べることに没頭した。
 その様子を、勇士は満足そうに見ていた。
 昨夜の出来事の全てを覆すような、時間だった。


 出された料理を和都がほぼ食べ終えた頃、勇士は立ち上がった。
「ブレザー取ってくるから、待ってろ」
「あ、はい」
 和都が頷くと、勇士は店を出ていった。
「10分くらいで戻ってくると思うわ。家は店の裏の方にあるのよ」
「はい、解りました」
「あ、ねえ。柿は好き? 丁度、美味しいのがあるのよ」
「はい、好きです」
「良かった。今、皮を剥くわね」
 杏子が器用に柿の皮を剥いていくのを和都はぼんやり見ていた。
 そうして、考える。
 昨夜のことを。勇士のことを。
 昨夜の恐怖と混乱しか呼び起こさない勇士と、今日の勇士。
 あまりに違いすぎて、もしかして昨夜のことはみんな夢だったのだろうか――などと、有り得ないことまで考えてしまう。
 あれは、間違いなく自分の身に降りかかった出来事だというのに。
 昨夜の勇士は一体何だったんだろう。
 一体、どれが本当の勇士なんだろう。
 けれど、一番、不可解なのは。
 今のこの時間が、この空間が、何故か居心地が良く感じられるということ――。





−4−



 柿を食べながら、杏子ととりとめもなく話をした。
 勇士が大学4回生だということや、和都と同じ学校に弟がいるということ、他にもたくさん。
 杏子は話上手で、随分打ち解けて話をすることができて、思いがけず楽しい時間を過ごせた。
 そうしているうち、勇士がブレザーを手に戻ってきた。
「ほら。これで間違いないな?」
 和都にブレザーを差し出しながら、勇士が聞く。
「……はい、これです。間違いないです」
 ほっとして、ブレザーを握りしめる。
 ……良かった。
 ブレザーが戻ってきた。
「あらあら、和都君。そんなにしたら、皺になっちゃうわよ」
 そうたしなめられて、慌てて、ブレザーを着込む。
 学校で、塾で、公園で。
 あの時はすごく寒かったのに、今はブレザーを着ると、暑いくらいだ。
 ぱりっとした感触と、糊の匂いに気付いて、顔を上げる。
「あの、これ……」
「ええ、汚れてたから、クリーニングに出させてもらったの。……ごめんなさいね、勇士のせいで」
「…………」
 勇士のせいではないとは言えなくて、黙って俯く。
 そうしてから、はたと気付いた。
 事情を知っているような言い方をした杏子に。
 勇士は自分のことを……昨夜のことをどういうふうに言ったのだろう。
 そう思ったけれど、動揺してしまって、とても聞けなかった。
 代わりに、杏子に頭を下げた。
「……ありがとうございました」
 経緯はどうであれ、杏子がクリーニングに出してくれたことはありがたかったから。
「いいのよ」
 にこにこと笑う杏子に、自然に和都の顔も緩んだ。
「……そろそろ帰るか? もう、11時だ」
「えっ!?」
 勇士の言葉に慌てて時計を見ると、確かに11時だった。
「うわあっ、ど、どうしようっ」
 突然の素っ頓狂な声に2人ともびっくりしたように和都を見る。
「何だ? どうしたんだ」
「…………」
 本来、個別授業の日はいつもより終わるのが早いから家に帰るのも当然早い。
 ブレザーのことがあったから、遅くなるということと夕飯も外で食べるということは母親に言ってきた。
 けれど、ここまで遅くなるとは思っていないだろう。
 もう高2なのだから多少夜遅くなっても心配しなくても良いと和都は思っているのに、母親はそうではないらしい。
 遅くなっても良いけれど、その場合は連絡をきちんと入れること。
 そう、約束させられていたのに。
 そのことを2人に告げると、
「俺が一緒に行って謝って来る」
「そうね、そうしなさい」
 と言う。
「そんな……あのでも……」
 慌ててかぶりを振っても、勇士はいいから、と和都の背を押して店を出た。
 杏子もそれに続いて、和都を見送りに出てきてくれる。
「気をつけてね、和都君」
「あ、はい。あの、美味しかったです、ご馳走様でした」
「またいつでも来てちょうだいね」
「ありがとうございます」
 杏子が手を振るのに答え、勇士と並んで歩き出す。
 それから、お金を払っていないことに気づいた。
「あの……」
「ん?」
「今の料理……いくらですか? 僕、払い忘れちゃって……」
「ああ、いいって。俺が誘ったんだし、俺の奢り」
「でも、悪いです」
「元はと言えば昨日のことが原因なんだから良いんだよ。……お詫びってことでさ」
 もうこの話は終わり、と締めくくり、再び歩き始める。
 和都もそれに続き、ふと考える。
 昨日のこと――。
 さらりとそう言う勇士に、改めて疑問を強くする。
 あれは一体何だったんだろう?
 勇士は、やはり昨日とは別人のようだ。
 訊ねようとは思いながら、何故か切り出すことが出来ない。
「……ところで、お前の家ってどこだ?」
「……え?」
 考え込んでいたため、よく聞こえなかった。
「だから、お前の家。俺、知らねえんだけど」
「あ、そ、そうですね。えと……」
 家の場所を教えると、頷いて勇士は黙ってしまった。
「あ、あの……」
「ん?」
「……何でもないです」
 やっぱり訊ねてみようと言いかけたけれど、結局、言葉を飲み込んでしまう。
 第一、どう聞けば良いのか。
 あまり口に出したくないし。
 ……そうだ、忘れよう。
 忘れるしかない。
 勇士の方も何も言ってこないし、いつまでも悩んでいても解決しない。
 昨日のあれは、もう過ぎ去ってしまったこと。
 一度起こったことをなかったことにはできないけれど、それでも忘れることはできる――。
 そうしよう、と。そう、思うのに。
 ――やはり、いくらそう思おうとしても、忘れることなどできない。
 そのくらい、昨日の出来事は今まで平穏に日々を過ごしてきた和都にとって衝撃的だった。
 自分はどうしたいんだろう。
 どんな答えが返ってくれば納得するんだろう。
 解らなかった、何もかも。



 勇士は和都を送り届けると、和都の母親に遅くなった理由と謝罪を言って帰っていった。
『高校の時に通っていた塾でバイトをしていて、以前からよく和都と話をしていた。今日は一緒に夕飯を食べていたらつい話し込んでしまった』、と。
 嘘をつくのは嫌だったけれど、本当の事は言えないので仕方がない。
 とはいえ、食事をしていて遅くなったのは本当だから、まるきりの嘘というわけでもない。
 それに、帰る道すがらに勇士に聞いた話では、バイトこそしていないけれど、実際に高校の時に和都と同じ塾に通っていたらしい。
 勇士の言葉に、母親は特に疑った様子もなかった。




 翌日はきちんとブレザーを着て登校した。
 亮太と瑞希は、そんな和都を見て笑っていた。
 もう忘れるなよ、と軽い口調でからかうように言われて、苦笑しつつもそのからかいにのったりして。
 もう、いつもの日常だった。



 夕方からはまた塾だ。
 毎日、淡々と過ぎていく。
 一昨日までは、そう思っていた。
 けれど、日常というものは、ちょっとしたきっかけで簡単に色を変えてしまうのだと、和都は気づいた。
 そう、今日もまた……。




 授業を終えて外に出ると、塾の入り口の脇近くに立っていた人がこちらを見た。
 夜の暗闇の中、塾の明かりで辛うじて見えたその顔は――。
「……柏原さん?」
 和都は慌てて駆け寄った。
「ど、どうしたんですか……?」
「お前を待ってた」
「え?」
「ちょっと……付き合わないか」
 勇士の言葉に和都は少し考えた。
 昨日はブレザーのために付いて行った。
 けれど、今日は――付いて行く理由はない。
「あの……昨日、帰るの遅かったし、……だから、今日も遅いってわけにも……」
 もごもごと消え入りそうな声で、けれど、和都は必死に言葉を紡ぐ。
 勇士に対して恐怖を感じたり、身構えたりすることはなくなってはいても、それでもやはり積極的に付き合いたい相手ではないというのが本音だった。
「そうか……」
 勇士が納得したように呟いたのを聞いて、和都はほっと息をついた。
 けれど、ほっとしたのも束の間だった。
「そんな時間は取らせねえから、気にすんなよ。なんなら、また送っていくし」
「え……」
「だから。な、付き合えよ」
 拒否する間もなく、強引に腕を掴まれて焦る。
「か、柏原さんっ」
 腕を掴む勇士の手は、彼に付き合うまで解放してもらえそうにないほど力強く和都を捕らえていた。





−5−



 どうして、自分はこんなところにいるのだろう――。


 一昨日も、昨日も来たこの場所で、和都は考え込んだ。
 本当なら、二度と来たくなかった場所に、連日来る羽目になるとは思わなかった。
 それも、今、自分の隣にいるのは、あの勇士なのだ。
 昨日再会してしまった公園のベンチで、ほぼ同じ時間帯に、二人並んで腰掛けている、この状況。
 時折、夜風が二人の間を揺らしていくのが感じられる。
 勇士は何を思って、自分をここへ連れてきたのだろう。
 ちらりと隣の勇士を見遣るけれど、彼は黙って上を――夜空を見上げているだけだ。
 言葉は何もない。
 強引に連れてきたくせに――。

「……柏原さん、あの」
「……俺、初めてなんだよ」
 何を言おうとしているのか自分でも解らないまま、それでも声を掛けようとした和都の言葉に重なるようにして、ようやく勇士が口を開いた。
「は、い? 初めて……って?」
「お前見てると……いや、そうじゃなくて……」
「?」
 何を言いたいのかさっぱり解らなくて、和都は問いかけるように勇士をまじまじと見つめてしまった。
「あー……あんまりこっち見るな」
「柏原さん?」
 勇士が、がしがしと頭を掻いて何やら唸っているのを見て、和都は更に疑問の表情を深くする。
「だから見るなって言ってんだろ……。――今日、お前に会いに来たのは」
「えっ?」
 そんな和都を余所に、話題は転々と変わっていく。
 ますます訳が解らない。
「……会いたかったから」
「……はい?」
「昨日から……いや、一昨日から、だな。ずっとお前のことが頭から離れねえんだよ。だから、こうやって会いに来た」
「それって……」
 どういう意味だろう。
「こんな気持ちになったのは初めてだ。……お前だけだ」
「あの……?」
 何だか妙な雰囲気だな、と思う。
 結局、何が言いたいのだろう。
 勇士の顔も言葉も声音も何もかもが真剣で、まともな反応ができない自分がおかしいのかと思ってしまう。
「これからも会いたいし、お前のことを知りたい」
「――――」
 何と返したものかと迷う。
 いや、唐突な物言いに思考が働かなくなった、といったほうが正しいかもしれない。
「……どうだ?」
「ど、どう、って……」
「これからも、こうやって俺と会ってくれるかって聞いてるんだ」
「……それは」
 返答を迫られても、さっきと同じで、どう答えたら良いのか自分でも解らない。
「えっと……あの、会ってどうするんですか?」
 気付けば、間の抜けた問いを返していた。
 勇士を見れば、面食らったような複雑そうな、何とも言えないような顔をしていた。
 何となく申し訳ない気分になって、
「す、すみません……でも、僕と会って柏原さんは楽しいのかなと思って……僕は高校生だし、話をするにてしても楽しくないと思うんですけど……」
 そう言葉を続けたけれど、それを聞いた勇士は、更に微妙な表情になってしまった。
「……本当に解ってないのか、俺の言ったことの意味……」
「すみません……」
 勇士は長い息を吐いて、和都を正面から見据える。
「……一昨日、初めて会って、逃げられて……」
“一昨日”という言葉に、一瞬、身体が強張った。
 その瞳の力強さに、圧倒されそうになる。
 けれどそれは一昨日のような危険な瞳ではなく、ただただ真剣さを訴えてくるだけのもの。
 だから和都も、真剣に聞こうと耳を傾ける。
「それでも……逃げられても、考えるのはお前のことばっかりだ。今まで、一旦逃げられた相手なんか二度と思い出しもしなかったのに、毎日でも顔を見たいほど、お前だけは忘れられなかった」
「…………」
「だから、楽しいとか楽しくないとか、そういう問題じゃねえんだ。お前と一緒にいられる、ってこと自体が重要なんだからな。もっとお前と会って話をして、お前のことを知りたい、お前のことならどんなことでも。それで……いつか、俺のことも、知って欲しい」
 最後のひとことは、随分と重い響きをもって和都の耳に届いた。
 そこにどんな思いが込められていたのか、それは解らなかったけれど――。
「人を本気で好きになったことなんかなかったから、最初はこれがどういう感情からくるのか悩んだけど、これが、好きって感情なら、そうなんだろ。……これで、解ったか、俺の言った意味」
「あ……はい、何となく。……何だか、こ、告白みたい、ですね……」
「…………」
 そう言った途端、勇士が憮然とした顔で押し黙ってしまったので、和都は慌ててかぶりを振る。
「あっ、すみません。ち、違いますよね。えっと……」
「……“告白みたい”、じゃなくて告白してるんだ。……俺は、お前にははっきり言わないと通じねえってことが良く解った……」
「あ、あはは……すみません……」
 脱力して言う勇士に、和都は乾いた笑いを返すだけだ。
 正直言って、いきなりの展開についていけない。
「……笑いごとじゃなくてだな。どうなんだ」
「え……」
「告白に対する返事を聞いてるんだ」
 口を「え」の形に開いたまま、和都は固まった。
「俺のことを好きか、嫌いか。これからも会ってくれるのか、会ってくれないのか。それを聞いてる」
 そんな――勇士を好きだとか嫌いだとか、考えたことがない。
 第一印象は恐怖しかなくて、あまりにも悪い。
 その次に会った時は、恐怖の対象と再会してしまったことに更に怯えて――けれど、普通に一緒に夕飯を食べられるほど、恐怖のひとかけらすらも感じなくなっていた。
 そして、今日だ。
 印象の変わった昨日の今日で、いきなり告白されても、返事のしようがない。
 好きや嫌いといった感情を考えられるほどの余裕は全くなかったし、何より印象が変わったといってもその輪郭は曖昧すぎて本当の勇士が見えてこない。
 そもそも、自分が告白されたことそのものが、信じられないほどだというのに――。
 ふと、すぐ隣で、軽い溜息が聞こえた。
「そんな深く考え込むな。今すぐ答えを出せって言ってるんじゃねえよ」
「……でも」
 答えを聞かせろと言ったのは、勇士だ。
「俺が好きか?」
「…………」
「じゃ、嫌いか」
「嫌いじゃない、ですけど」
 好きかと聞かれると解らなくても、嫌いかと聞かれればそうではないとはっきり言える。
 一昨日の勇士しか知らなかったのなら、それ以前の問題だけれど、今は少なくとも嫌いではなかった。それは確かだ。
「それなら良い」
「えっ、それで良いんですか?」
 和都の答えに満足そうに頷いた勇士に驚いた。
 本当に、そんな答えで良いのだろうか。
「今はな」
「今は……って」
「そりゃ、いずれは好きになってもらいたいからな。それも出来るだけ早く」
「で、出来るだけ早く……って言われても……」
 和都は何とも答えられずに口ごもる。
 けれど勇士は、畳みかけるように言葉を続けた。
「まあ、そんなわけでな、明日からも会ってくれるよな?」
「えっ? それは――……」
 どうしても会いたくないわけではなかった。
 けれど、一昨日の出来事が邪魔をして、あっさりとは頷けない。
「……嫌か?」
「い、嫌っていうか……」
 はっきりしない自分が、我ながら情けない。
 このままでは、いつまでも答えなど出ないとも思う。
 だから――。
「あの……一昨日のこと、ちゃんと説明してくれませんか。でないと、どう答えて良いか自分でも解らないんです」
 今までどうしても訊けなかったことを、勇気を振り絞って訊ねた。





−6−



「…………」
 長い沈黙が落ちる。
 夜の闇が一層深まり、それでも和都は身動ぎひとつせずに勇士の返事を待つ。



「一昨日のこと、か……」
 しばらくして、勇士が呟いた。
 和都は、はっとして勇士を見つめる。
 ここに来たばかりの時のように再び夜空を見上げている勇士は、今何を考えているのだろう。
「……今日は、月は見えねえな……」
 つられて、和都も夜空を見上げた。
 雲に覆われた夜空には、月も星のひとつすらも見出せない。
 ふと、あの日は満月だったと思い出す。
 夜の闇を照らし出す、淡い満月の光。
 夜の全てを抱くような、灯火。

「……和都。あの時のことを謝るのは簡単だけど、俺は謝らねえ。ただ……」
 逡巡するように言葉を切った勇士の表情には、迷いの色が浮かんでいる。
 けれど、やがて迷いを振り切ったのか、ひたりと和都を見据えた。
「……あの時の俺は、今の俺じゃなかった」
「……はい」
「それでも、あの時の俺も俺のうちだ。今言えるのは……それだけだ。それ以上は――」
 言えない、と。
 それきり、勇士は固く口を閉ざしてしまう。
「柏原さん……」
 和都の方も、そう言うしか言葉が出ない。
「それだけの説明じゃ、もう会ってもくれなさそうだな」
「…………」
「でも、お前を諦めるつもりはねえから。俺は勝手に会いに行く」
「え……」
「会いに来た俺をどうするか、それはお前の自由だ。――時間取らせねえって言いながら、長居しちまったな。帰るか。……嫌じゃなければ送ってく」
「…………」
 立ち上がった勇士を、和都はただ眺めていた。
 自分も立ち上がろうとするけれど、何故だか身体が動かなかった。
「和都? 帰らねえのか?」
「……柏原さん。僕は……」
 何を言おうとしたのか、和都は口を開いて、けれど、その先を言葉にすることはできなかった。
 色々な感情が、頭の中で渦を巻いている。
 一昨日の夜のこと。
 勇士の言う通り、謝ってもらって納得できるのなら話は簡単だ。
 けれど、和都はそれでは納得できない。
 何故、自分にあんなことをしたのか、その理由を知らないまま謝ってもらっても、わだかまりは溶けない。
 勇士は自分を好きだと言うけれど、あの時はそうではなかったはずだ。
 出会い頭のあの出来事の後のことだと、勇士自身がはっきりそう言った。
 それに例え好きだからだとしても、いきなりあれはないだろう。
 あんな――あんなこと、を。
 今とは別人のようなあの夜の勇士が脳裏に甦る。
 ――けれど。
 昨夜、勇士といる時間が居心地が良いと感じたのもまた、嘘ではなかった。
 積極的に会いたい相手ではないと思ったのも、会えば自分の中にあるその矛盾が更に大きくなりそうで怖かったから――。
「い、良いです」
 思わず、口走ってしまっていた。
 勇士は不思議そうに、和都を見遣る。
「良い? 何が?」
「……柏原さんと会うこと……良いんです。嫌じゃ、ないです……」
「和都……」
 勇士の瞳が、驚きに見開かれる。
 次いで、安堵したように、表情が綻んだ。
 それを見て、今までのわだかまりが薄れるのを和都は感じた。
 ベンチから立ち上がり、勇士の隣に並んで、夜の中を歩き出す。


 やがてぶつかるだろう、勇士との間に立ち塞がる壁の存在には全く気付かずに。
 勇士と新しい関係を一から築けるのだと疑いもせずに。

 この時、和都は一番大事なことに蓋をして、その一歩を踏み出してしまったのだった。







To be continued...



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