■満月に願うこと■

*『月に惑いて』番外編*


 基が隠していたことを知った、あの満月の夜。
 あれから約1ヶ月が過ぎた。
 そして。
 再び、今日。
 月が満ちる日が、やって来た。



「お邪魔しまーす」

 弾んだ声で、基の家の扉を開け、中に入る。
 家の中には誰もいないはずなのに、それでも、そう言ってしまった。
 彼方は、いつになく浮かれていた。
 今日は、満月。
 いつもなら―――この17年間、基と一緒にいられなかった日。
 けれど、今日からは。
 満月の日でも、こうやって基の家に来て、ずっと一緒にいられるのだから。
 満月の日に基の家を訪れるのは2回目だったけれど、初めての時はこんなに気分は晴れていなかった。
 だから今日が、すごく特別に思えてしまう。


 軽い足取りで、居間へと向かう。
 そして勢いよく扉を押す。
「お帰り」
 と、中から声をかけられた。
「うん、ただいま」
 彼方はそれに軽く返し―――
「えっ?」
 何で、中から声をかけられたのだろう?
 基の両親は今日はいないと言っていたし、基は用事があってまだ学校にいるはずだ。
 彼方は待ってると言ったけれど、基に家で待っててと鍵を差し出されたのだ。
 それで、一旦家に帰って着替えてすぐに基の家に飛んできたのだった。
 なのに、誰かいる―――
「座らないの?」
 突っ立っている彼方に、再び声がかけられる。
 良く聞いてみると、その声に聞き覚えがあった。
 ソファーに座ってひらひらと手を振っていたのは。
「ゆ、勇士!? 何で……」
 ……そういえば、浮かれていて気にもしていなかったけれど、鍵が開いていた。
 従兄弟が鍵を預かっているものなのかどうかという疑問はある。
 けれど、この状況では実際に勇士が鍵を持っていたことは確かだった。
 それにしても、前の満月の夜以来、勇士は基の家には来ていなかった。
 それが、何で今日に限って、ここにいるのだろう。
「様子見に」
 そう言って立ち上がると、彼方の傍まで来て、腕を引く。
 ソファーに座らされ、その前に勇士が座った。
「何もかも解っていて過ごす初めての満月の夜だろ? うまくやってるかなと心配して見に来たってわけ」
 言っていることは真面目で良く解るものだったけれど、勇士の表情は悪戯っぽく笑っていた。
 彼方は何も言い返せず、勇士を見る。
 不意に、その表情が引き締まった。
「……ま、お前のその様子見てりゃ、うまくいってるってすぐに解ったけどな」
 様子と言われて、彼方は赤くなる。
 自分でも良く解ったのだ。
 これまでの不安や憂鬱を取り除かれて、必要以上に浮かれていることが。


 それからすぐに、再び居間の扉が開かれた。
「ひさしぶり、勇士兄」
 中にいる勇士に驚いたふうもなく、基が入ってくる。
「彼方、遅くなってごめん」
「べ、別に……」
 彼方は、赤くなった顔を隠しながら、それだけを呟いた。
 基が微かに笑う。
「今日は、どうしたの、勇士兄」
「いや、さっきも彼方に言ったけど、様子見に来ただけ」
 すぐに帰る、と勇士は立ち上がった。
「ま、仲良くな」
 彼方を見遣って、そう言う。
「…………うん」
 照れながら、けれど正直に頷く。
 基とこうして一緒にいられるのは、勇士のお陰でもあったから。
 勇士は満足そうに笑うと、扉に手を掛ける。
「俺は俺で楽しんでくるから」
 勇士が振り返ってそう言うと、基が勇士を見た。
「勇士兄……」
「1ヶ月も前から今日を楽しみにしてたんだよ」
 基が言いたいことが解ったらしく、そう答える。
 彼方には全然解らなかったが。
「1ヶ月も前から? 珍しいね……」
「自分でもそう思うよ」
「勇士兄……」
「んじゃ、俺行くわ。待ち合わせの時間に遅れるし」
「ま、待ち合わせ……!?」
 基の目が大きく見開かれる。
「じゃあな」
 そう言って勇士は居間を出ていった。
 足音が遠ざかっていく。
 基は呆然といった様子で、扉を見つめていた。
「基? どうしたんだよ」
 そんな基に、訝しげな声を向ける。
「うん……勇士兄が待ち合わせするなんて珍しいなって。楽しみだとも言ってたし。俺たちみたいに……勇士兄も変わっていくんだ……って」
 そう言われて、解ったような解らないような気分になる。
 彼方は、基ほど勇士のことを知らないからだ。
 けれど。
「そう、かもな。今日の勇士って何か、真剣っていうか……うまく言えないけど」
「うん……」
 2人、向かい合って笑う。
 そんな穏やかな時間――。
 陽が落ち、薄闇が深くなっても、飽きるはずもなく、ただ2人だけの時間を満喫した。
 何にも代えることのできない、2人だけの時間を。

 やがて、月が綺麗に見える頃。
「部屋、行く……?」
「うん……」
 優しい基の問いかけに、彼方は躊躇わず頷いた。




「良い?」
「……うん……」
 一瞬、強く抱きしめられたと思ったら、すぐに力は弱められた。
 そして、首筋にかかる基の息づかい。
 彼方の身体が強張る。
 1ヶ月前の、基に初めて血を吸われた時のことを思い出してしまう。
 噛まれる瞬間の痛み。
 痺れ。
 力が抜けていって―――
 ぎゅっと目をきつく瞑って、額を基の肩に押しつける。
 ……嫌なわけじゃない。
 嫌なわけじゃないけれど、やっぱり……少し、怖かった。
 基のことは信じている。
 だから大丈夫。
 ……けれど、何故か初めての時よりも、怖かった。
「彼方……」
 そんな気持ちを、基は十分解っていたのだろう。
 すぐに牙を立てたりはしなかった。
 一言、名前を呼び、強張りを解くように、優しく首筋にキスを落とす。
 ああ、やっぱり。
 大丈夫、大丈夫だ。
 だって、触れているのは基なのだから。
「……大丈夫……」
 小さく言って、力を抜いた。
 基はもう一度キスをした後、そっと彼方の首筋に牙を立てた。
「ん……っ」
 微かな痛みを感じる。
 けれどそれは、初めての時よりも大分ましだった。
 この後は、だんだん力が抜けていって、意識が薄れていく――

「あ……?」
 彼方は、思わず声を漏らした。
 自力で立っているし、意識もはっきりしていたからだ。
 この前とは、違う。
 ぼんやりと基を見ると、既に彼方の首筋から離れていたのだ。
「何、で……?」
 基は微笑むと、彼方を抱きしめる。
「この前は、気を失わせたから……もう、そんなふうにはしたくない」
「基……」
 言葉に出来ない色々な基への想いが、全身に溢れて満ちていく。
 そっと、基を抱き締め返した。
 何だか照れくさい。
 そんな彼方に、基は微笑した。
 そして、躊躇いがちに、彼方の胸元に手を伸ばす。
「基……?」
「嫌、かな……? こんなの」
 優しく、けれど少し怯えたような声で、基は呟いた。
「こんなの、って……」
 彼方は、一瞬何の事か解らなくて首を傾げた。
「その……」
 自分の言葉に困ったように口ごもる基を見て、彼方は朧気に理解した…ような気がした。
 慌てて顔を俯けてしまう。
 何と答えて良いか解らない。
 自分が基と……したいのかも、したくないのかも、解らなかった。
 どうしたいのか、解らなかった。

「ごめん! やっぱり今のなし!」

 突然、基が上げた声に、彼方は驚いた。
 今まであれやこれやと考えていたも吹っ飛んだ。
「基?」
「本当にごめん。急にこんなこと……」
 彼方の沈黙を、拒絶と取ったらしい基は、ひたすら頭を下げんばかりに謝ってくる。
 そんな基の姿を見ていたら、自然に彼方の口元に笑みが浮かんだ。
 何故だろう。
 不思議なことに、基のすることなら何でも許せそうな――そんな気がする。
 だから、自然な笑みと共に、自然に言葉が紡ぎ出せた。
 ついさっきまで、どうしたら良いか解らなかったのに――。
「良い、よ」
「えっ」
「だから、良いって」
 言葉と同時に、自分から基に抱きついた。
 感じるのは、基への愛しさと、基の温かさ。
 それだけで、十分だった。
「彼方……」
 基の嬉しそうな声と、優しい腕が、彼方を包んでいった。





 カーテンの隙間から見える満月が、部屋の中を薄く照らす。
 その月明かりを全身に受けて。
 その満月に願いを込めて。

 来月も、再来月も……そのまた先も。
 何年先も。
 2人、一緒に居られますように。
 2人の関係が変わっていったように、他のいろんなことが変わっていっても、この想いだけは。
 ずっとずっと、変わりませんように。

 この温もりを、大切に出来ますように――。



2004/12/01



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