■遠い、約束の時へ。■ □第1章 記憶 −3− 寄せては返す波の音を、ここからどのくらい聞いただろう。 記憶の糸を手繰り寄せて、手繰り寄せ続けて……。 けれど、結局、思い出せることなどありはしなかった。 今日も僕は、海を見つめていた。 思い出せるまで、何度でも来るつもりだった。 何度でも。 それでも、溜息をつかずにはいられない。 美作君は、あの時以来、僕に思い出して欲しいとは言わなくなった。 けれど、きっと心の中ではそう思っている。 僕のためを想って言わないのだろう彼に、胸が痛くなる。 そんな彼に、何も言えない自分が嫌だった。 鞄の中から、あの巾着袋をそっと取り出す。 ……最近、これを見ていると、美作君を思いだしてしまう。 そのことに、気付いてしまった。 だから余計、辛かった。 美作君が、僕以上に辛いだろうことが解ったから。 思い出せない僕と、忘れられた美作君。 どちらが辛い? 苦しい? 「……そんなの、美作君に決まってるよ……」 膝に顔を埋める。 泣きそうになる……。 「……篤紀!」 突然飛び込んできた声に、びくっと身体が震えた。 零れそうだった涙も、止まってしまう。 顔を上げて、視線だけ声がした方へと向けた。 そこにいたのは。 その人物を認めた瞬間、頭の中で何かが音をたてたような気がした。 心臓が早鐘を打つ。 それは、良く知っている人で。 すごく、懐かしい人で―――。 『 』 紡ごうとした名前。 知っているはずの名前。 ……思い出せない。 喉元まで出かかった声を、頭の中で確かに覚えているはずの名前を。 オモイダセナイ……。 「今何時だと思ってるんだ? もうとっくに日暮れてるんだぞ!」 すぐ頭上で、声がした。 僕は、それがどこか遠いところから聞こえてくるような気がしていた。 「……篤紀? どうかしたのか?」 反応がなかったのに驚いたのか、訝しげな声を投げかけてくる。 「おい、篤紀?」 両手で僕の頬を包み込むようにして触れ、頬を軽く2、3度叩かれる。 「あ……」 そこでようやく、焦点が合った。 「りゅ、隆ちゃん……?」 あれ……? さっきは確かに、すごく懐かしい人だと思ったのに。 けれど、ここにいるのは隆ちゃん……。 見間違い? さっきのあれは、何だった……? 「“隆ちゃん……?”じゃないだろう!」 唖然としていると、隆ちゃんが僕に怒鳴る。 珍しく本気で怒っているようだった。 「お前いつもここにいたんだな?」 「う、うん……」 ばつが悪くて、しどろもどろな答えになってしまった。 僕は、思い出すためにここにいるのだ。 けれど、隆ちゃんは、無理に思い出すことはないと言っていたから……。 だから、何となく気まずかった。 「……思い出そうとするのは良いけどな……麻那が、心配してるんだぞ」 「麻那……?」 意外にもそんな風に言った隆ちゃんを見つめながら、麻那……妹のことを思い出す。 そう、病院でも家でもすごく心配していた……。 僕が行方不明になっていたことで、1番心配していたのは多分麻那だろう……。 いつも僕に甘えてたんだから……。 「毎日、家に帰るの遅いんだってな。……もう少し、麻那のことも考えてやれ」 ああ、そうか。 隆ちゃんがここに来たのは、麻那が心配しているのを知って。 そして、僕が毎日ここに来ているのを初めて知って。 隆ちゃんも、心配してくれて、いた……。 「ご、ごめん……」 唇を噛み締めて、絞り出すように言った。 真っ暗な道を、誰もいない帰り道を、隆ちゃんと2人で歩く。 そう……日が暮れてるなんてものじゃなかった。 既に、日付が変わりそうな時間だったのだ……。 「あのな、篤紀」 僕はただ申し訳なくて、声を掛けてきた隆ちゃんを伺うようにして見た。 「……別に、怒ってるわけじゃないぞ?」 「……うん、……え……?」 「“え?”ってお前……怒れるわけないだろう? 俺は、お前が今、どんな気持ちでいるのか解ってるつもりなんだから」 「隆ちゃん……」 口では無理に思い出すことはないと言っていても、結局、隆ちゃんは僕のことを1番解ってくれてるんだ……。 反対されるかもなんて勝手に思って、隆ちゃんに黙って毎日ここに来て……。 結局、僕は余計に心配を掛けてしまったんだ。 「ただ、麻那のことを考えるとな……」 「うん……それは、ごめん……帰ったらちゃんと麻那に謝るから……」 「おじさんとおばさんにもな」 「ん……。……あ、でも、もしかしてお父さんたち、今頃僕のこと探してる……?」 「いや。俺が心当たりがあるって言って、家で待っててもらってる」 「そっか、ありがと……」 少しほっとして、微かに笑う。 それ以降の隆ちゃんは、何事もなかったかのように普段通り僕に接してくれていた。 だから僕も、それに応えた。 家に着いた頃には、日付が変わっていた。 にもかかわらず、家は明るかった。 皆、寝ずに待っていてくれたのだ。 家の明かりを見ていると、隆ちゃんが僕の頭をぽんと軽く叩いた。 皆、心配してたんだぞって改めて言うように。 「隆ちゃん、家寄ってかないの?」 僕が玄関のドアに手を掛けても隆ちゃんが門の所から動かないのを見て、呼びかけてみた。 「ああ。もう遅いしな」 「そう……」 お父さんたち、隆ちゃんに御礼を言いたいんじゃないのかな。 そう思ったけれど、隆ちゃんが寄らないと言うのなら、それはそれで仕方ない。 あ、そうだ。 僕もちゃんと言わないと。 「隆ちゃん。……その、心配掛けてごめんなさい。それから、迎えに来てくれてありがとう……」 「……ああ。どういたしまして」 そう言って、隆ちゃんは僕に背を向けて歩き出した。 家に帰るのだろう。 と思っていたら、突然、隆ちゃんが足を止めた。 「……篤紀。少しでも記憶、戻ったか?」 「えっ……あ、ううん。戻ってない、よ」 「そうか……」 それきり、黙り込んでしまう。 「隆ちゃん……?」 僕は、困惑して、それしか言えなかった。 「何かが足りないのかもしれないな」 「えっ?」 何を言っているのか解らなくて、聞き返す。 けれど、隆ちゃんは何も言わずに再び歩き出してしまった。 次第に、その背中が小さくなっていく。 「ちょ、ちょっと待って、隆ちゃん! 今のどういうこと―――」 「お兄ちゃんっ!!」 「わっ」 慌てて隆ちゃんを追おうとしたが、それは叶わなかった。 背中に軽い衝撃。 「……麻那」 後ろを見ずに、そう言った。 抱きついているのが誰か、解っていたから。 「おかえり、お兄ちゃん」 「……ただいま」 ずっと泣いていただろう麻那は、僕の帰りが遅くなったことを責めなかった。 それは後から出てきた両親も同じで。 ただ、「ありがとう」とだけ、僕は言った。 ……麻那は、しばらく僕にしがみついたままだった。 いくら言っても離れなくて、結局、僕の部屋で一緒に寝ることになった。 麻那と一緒に寝るのは久しぶりだった。 小さい頃は毎日一緒に寝ていた。 今、改めて麻那を見ると、随分と変わったなと思う。 もう中学生なんだから当たり前なんだけれど。 それでも相変わらず麻那が僕に甘えてくるのは嬉しかったりする。 それなのに、僕は。 「ごめん、麻那……」 麻那は泣き疲れて、あっさりと眠りに落ちてしまっていた。 腫れた目元が、僕の胸に突き刺さるような感じだ。 「ごめん……」 結局、その夜は一睡も出来なかった。 一晩中、麻那のことと隆ちゃんの言った言葉が頭から離れなかった……。 2003/4/24
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