■遠い、約束の時へ。■ □第2章 夢、鮮やかに −1− 何が起こったのか解らなかった。 視界から、全ての景色が消えて。 次の瞬間には、眩しくて目を開けていられないほどの光が襲った。 やがて、その光も……。 弾けて、消えた。 僕の意識も、同時に消えていった。 最後に、波の音が、聞こえた。 「……う……ん……」 唐突に、目が覚めた。 今まで夢を見ていたような気がする。 頭がぼんやりしていて、すぐにはどんな夢だったか思い出せないけれど。 身体を起こすと、何かが落ちた。 と同時に、頭に鋭い痛みが走った。 身体も何だかだるい。 動かすのも億劫だったけれど、落ちたものを拾わなければと手を伸ばす。 それは、真っ白な手拭いだった。 僅かに濡れているそれは、温かかった。 それを手に持ったまま、辺りを見回す。 僕は、固いとは言えないけれど柔らかいとも到底言えないような、少し色の褪せた白い布団の中にいた。 枕元には水を張った桶が置いてあり、その縁に手拭いが掛けてあった。 手の中にある手拭いと全く同じものだ。 他に目立つものといえば、小さな囲炉裏があるくらいだ。 もっと何かないかと首を巡らせようとしたけれど、だるさと痛みに断念した。 けれど、見えた部分だけでも言えることがある。 それは、ここが随分と質素な部屋だということ。 そして、僕には全く見覚えのない場所だ。 薄暗いその場所に、僕は寝かされていたらしい。 がたっ。 突然、物音がして、反射的にそちらを見た。 「痛……」 勢いよく振り向いたため、再び頭に痛みが走った。 眩暈がして頭を抑える。 それでも、物音の原因を確かめようと視線だけをそちらに向ける。 開いた戸口から、陽の光が部屋の中に射し込んで、薄暗かった部屋が少し明るくなる。 少し眩しくて目を細めて見ると、誰かがいるのが解った。 ――子供だ。 部屋の中を、何やら心配そうな顔で覗いている。 目が合った。 「あ! 兄ちゃん、目が覚めたんだ」 途端に、顔から心配そうな表情が消え、嬉しそうに笑った。 「嘉壱ーっ。あの人、起きてるよーっ!」 そしてすぐに僕に背を向けて、元気の良い声を張り上げて、外に向かって叫んだ。 「早くーっ」 飛び跳ねながら、手を振っている子を、僕はぼんやりと眺めていた。 しばらくすると、足音が聞こえてきた。 それは段々と近づいてきて大きな音になっていく。 戸口の外から、男が走ってくるのが見えた。 子供を押し退けるようにして、中へと入ってきた男は、立ち止まらずにまっすぐ僕に向かってきた。 近くまで来ると、手を伸ばされる。 呆気にとられている僕を無視して、その手がそっと額に置かれた。 「熱は下がったみたいだな。気分は? どこか痛いところはあるか?」 安堵したようにひとつ息を吐いて、男は早口にまくし立てる。 熱――? 手元にある手拭いを改めて見る。 これは、そのために――? 「ああ、まだもう少し、横になっていた方が良い」 そう言って、僕の手から手拭いを離させると、布団に寝かされた。 僕は戸惑いながらも、再び身体を起こそうとする。 少なくともこの人たちは、熱を出していた僕を看病してくれていたようだから、これ以上世話を掛けるわけにはいかないと思って。 けれどそれは、思いの外に強い力で押し止められた。 男が慌てて、布団を抑えていたからだ。 「う……」 胸が圧迫されて、少し苦しくなった。 「嘉壱、兄ちゃん辛そうだよ。もっと落ち着いたら? 心配なのは解るけどさー」 いつの間に近くに来ていたのか、さっきの子供が嘉壱と呼ばれた男の背から顔を覗かせた。 「あ、ああ――すまなかった」 子供の言葉を聞いて、布団を抑えていた手をようやく退けてくれた。 僕は、ほっと安堵の溜息を漏らす。 それを見て、子供は満足そうに頷く。 「そうそう、兄ちゃんごめんな。嘉壱ってがさつだから」 「いい加減にしろ、弥太」 「はいはい、ごめんなさーい」 子供――弥太は、とても謝っているとは思えない口調で嘉壱に答えている。 良く解らない状況に置かれながらも、2人の会話を聞いていると口元が綻んでしまった。 「それで、気分は? 大丈夫か?」 弥太との会話を終わらせた嘉壱が、僕の方に向き直る。 「あ、大丈夫です……」 「本当か?」 「……いえ、その……頭が痛いです。身体も少しだるくて……」 心配を掛けないようにと言った言葉だったけれど、嘉壱に疑わしそうに見られてたじろいでしまった。 だから、あっさりと本当のことを伝えた。 「そうか……やっぱりもう少し寝ていた方が良いな。3日間も熱でうなされていたから体力も落ちているだろう」 「3日……?」 そんなに……? 「そうだよ。兄ちゃん、海に急に現れてさ。海水でびしょ濡れだったんだよ!」 確かに、その状態なら、熱を出しても不思議じゃないかもしれない。 けれど……。 急に、現れた? どういうこと……? 「弥太。その話はまた今度だ。快復してからゆっくり話せば良い」 問いを返す前に、嘉壱の言葉が先に発せられた。 「えー」 「弥太」 不満そうな声を上げた弥太だけれど、嘉壱の少し厳しい声に肩を竦める。 「……はいはい、解りましたっ」 拗ねた口調でそう言うと、ふてくされたように弥太は寝転んでしまった。 嘉壱はそれを見て溜息をつく。 それから、こちらを見て改まったような口調で話しかけてきた。 「俺は嘉壱(かいち)だ。そして、これは、弥太」 最後の言葉は弥太を振り返って言う。 さっきからお互い呼び合っていたように、嘉壱と弥太というのが2人の名前だとはっきり解った。 が。 「あーっ。勝手に名前教えんなよ。自分で言いたかったのに……。それに、おれは弥太じゃなくて弥太郎(やたろう)!」 寝転んでいた弥太――弥太郎が、急に飛び起きて嘉壱を睨んだ。 「……悪かったな」 「もう良いよ……で、兄ちゃんの名前は何て言うの?」 「……篤紀……」 「ふーん。じゃ、篤紀兄ちゃんだ」 「弥太……何で、篤紀は兄ちゃんで俺は呼び捨てなんだ?」 「ずっと嘉壱って呼んでたんだから今更元に戻せないよーだ」 2人の会話に、自分の名前を言う以外、口を挟めなかった。 黙って、2人の会話を聞いているだけだ。 ふと、この2人はどういう関係なんだろうと思った。 兄弟、かな? けれど、全然似ていない。 「おれと嘉壱は、兄弟だよ」 「あ……」 訝しげに見ていたのに気付いたのだろうか。 弥太郎が、教えてくれた。 似ていないけれど、やっぱり兄弟なのか……。 嘉壱は大人のようだし、弥太郎は見て解る通り子供だ。 いくつ離れてるのかな? そんなことを思っていた時。 「……義理のな」 嘉壱が不意に発した言葉に、弥太郎の身体が強張った。 哀しそうに、嘉壱を見る。 唇を噛み締めて……今にも泣き出しそうな表情だ。 嘉壱はそれを見もせず、桶を持って立ち上がった。 弥太郎は、黙って嘉壱の所作を見ている。 哀しそうな表情はすぐに消えたけれど、僕はどうしても、さっきの弥太郎の様子が気になって仕方がなかった。 義理の兄弟……。 弥太郎は、その言葉が哀しかったんじゃないかと思う。 嘉壱のことを本当の兄のように思っているみたいだから、尚更――。 ……じゃあ、嘉壱は? わざわざ、義理のって付け足したってことは、弥太郎のこと弟として見ていない……? けれど、2人とも仲良さそうなのに――。 「――篤紀」 「……えっ?」 上の空だったところへ、急に名前を呼ばれて驚いた。 「篤紀、何か食べるか?」 その言葉に、首を振る。 頭は痛いし、身体はだるいし、とても食べられそうにない。 現に今、首を軽く振っただけでも、少し頭が痛かった。 「……食欲ないから……」 「じゃあ、せめて水くらい飲め。汲んでくるから。弥太、行くぞ」 「……うん。篤紀兄ちゃんは、大人しく寝ててね」 2人が慌ただしく出ていくと、途端に静かになる。 急に、寂しくなってきてしまう。 すぐに戻ってくると解っていても。 心許ない、今の自分は不安に陥っていってしまう。 ひとりきりは……苦手だ。 かといって、何か考えようとしても、思考が、流れていく。 考えなければいけないことも、知りたいこともたくさんあるはずなのに。 今は……何も、考えられない。 考えられなかった。 疲れた……。 そうして僕は、ゆっくりと眠りに落ちていった。 2003/06/28
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