■闇に惑う心を抱いて■


−3−


「…………」
 部屋のドアを開けると、男が玄関に立っていた。
「戻ってきたか」
 見透かしたように、俺を見る。
 いや、実際、俺が戻ってくるのを知ってたんだ。
 含んだような物言いは気のせいじゃなかった。
「……ここ、どこだよ」
 男を睨みつける。
「住所が解るようなもんはねえし、人通りは多いしっ」
 エレベーターで1階まで降りて、マンションを出た途端、人にでくわした。
 慌てて避けたは良いけれど、辺りを見回してみても看板とかは何もない。
 裏路地からマンションまでの道をきちんと見ておけば良かった。
 身動きが取れなくても、どうにかして見ておけば。
 マンションの前を通る人は多かったが、俺に道を訊けるはずもなかった。
 とにかく、他の人間に訊けない以上、目の前の男に訊くしかない。
 が、男は何も言わない。
「なあ、ここどこだよ?」
 男は無言で、俺に近づく。
 何だか、圧迫感を感じる。
 俺の隣に来ると、男は俺の背中を押した。
 部屋の中に押し込められる。
 後ろでドアが閉まり鍵がかかる音がした。
「……おい?」
 俺は振り返って訝しげな声を投げかけた。
「……泊まっていけ」
「はあ……?」
 男の突拍子もない言葉に、唖然とする。
「ここがどこだか解ったところで、どのみち帰れないだろ」
 確かに、ここがどこだか解らない以上に、人通りが多いことで戻ってきたんだけれど……。
「じょ、冗談じゃねえよ! 何で、こんなとこに泊まらなきゃいけねえんだよっ。ここがどこか教えてくれれば、どうにかして帰れる!」
 俺はそう怒鳴る。
 こんな見ず知らずの男の家に、何で泊まらなければならないのか。
 大体、さっきみたいなことをされたらどうするんだよ。
「別に、何もしない」
「……っ」
 俺の考えを読んだかのような言葉に、俺はつまった。
 言い当てられて、動揺する。
 だから、咄嗟に口を開いてしまった。
「そ、そんなこと考えてない! 泊まれば良いんだろ、泊まればっ」
「そうか。じゃ、来いよ」
 男がリビングに戻っていくのを、忌々しげに追う。
 俺は、自分の言ったことを既に後悔していたけれど、今更取り消せない。
「もう遅いからな、風呂入れよ。着替え、俺のだけど出しておく」
「…………」
 俺は黙って、男に示された浴室に向かう。
 服を脱ぎながら、溜息をつく。
 ……何で、こんなことになったんだろう……。

 今日は、満月。
 自分が吸血鬼であることを、もっとも思い知らされる日だ。
 忌むべき日だと、そう思っている。
 両親や勇士兄、そして柏原家のみんな。
 一族全て。
 彼らは、それぞれ吸血鬼であることを受け入れて生活している。
 満月の夜に人間の血を吸うことも、身体の強靱さも全て。
 けれど、俺には理解できないことだった。
 どうして、血を吸わなければいけない?
 血を吸わなければ、死ぬのか?
 そんなことはない。
 現に、俺は生きてる。
 血を吸わなくても、生きてる。
 吸血鬼と人間の、一体どこが違うというのか。
 ただ、人間よりも少し強いだけのことだ。
 その代償に、人間の血を必要とする、ただそれだけのこと。
 俺は、強さはいらない。
 他を必要とする強さなどいらない。
 そのための人間の血など、欲しくない。
 だから俺は、吸血鬼でありながら人間に近い。
 両親や勇士兄のような強さはない。
 長時間運動すれば息が上がるし、体力も劣る。
 けれど、人間と比べれば、まだ遙かに強いのだ。
 17年間、一滴も人間の血を吸っていない身体でも。
 その俺よりも強い彼らは、それでも満月の度に血を欲する。
 それはどうしようもない、吸血鬼にある本能だということは解ってる。
 要は、その本能を受け入れられるかどうか。
 俺は、受け入れられなかった。
 だからといって、彼らにもそれを求めはしない。
 これはただの俺ひとりの気持ちだから。
 それでもやっぱり、彼らに嫌悪を感じてしまう。
 一緒に暮らす家族にさえ。
 それが、嫌だった。
 だから思ってしまう。
 俺が普通の人間だったら。
 両親も勇士兄も人間だったら。
 そうすれば俺は、大切な家族を嫌悪しなくてもすんだのに。
 俺が、人間だったら……。
 満月の夜に、怯えて苦しむ必要もない。
 俺の中にある吸血鬼の本能が疼くこともない。
 ……ただの、空想。願望。叶えられることは決してない。
 それでも、願わずにはいられない。
 人間に、生まれたかった。
 今からでも人間になりたいと。
 だから、せめて。
 せめて、自分から吸血鬼になるようなことだけは、したくなかったのだ。

 満月の日は否応なしにやってくる。
 例え月が雲に隠れていようとも、血を欲することには変わりはない。
 満月の夜は、いつも家にいた。
 人間と接触しないように。
 目の前に人間がいなければ、本能も大分抑えられる。
 皆無ではないけれど、俺にはそうすることしかできない。
 家で、ひとりで苦しむのだ。
 その時俺は、孤独だった。
 家族は、満月の夜には家にいないから。
 両親も勇士兄も、自分の本能を満たすために家を空ける。
 両親は、片方が人間であれば、相手の血を吸ったかもしれない。
 けれど、父と母は従兄弟同士で血のつながりがある。
 どちらとも吸血鬼だった。
 柏原家は、近親婚を好む。
 吸血鬼の一族に、人間を入れたくないのだろう。
 勿論、親兄妹では結婚できないから、それはしないけれど。
 両親のように従兄弟同士というのが多いんだと思う。
 俺は、それも嫌だった。
 どこまでも途切れることなく、吸血鬼のままなのだから。

 ……けれど、実は従兄弟の基には、ちょっとだけ心を許しているところがある。
 基は、ただひとり幼なじみの彼方だけを想っていた。
 俺と同じ理由で基が他の人間の血を吸わなかったわけではなかったけれど、基の彼方に対する想いだけは認めていた。
 認められた。
 基にだけは、嫌悪を覚えることもなくなった。
 基はこれからも彼方だけを想っていくのだろう。
 未来がどうであれ、一族がどうであれ。
 彼らに何を言われようとも。
 そんな基が、時々羨ましくなる。
 みんなが基のような想いを持っていれば、これほど吸血鬼や家族、一族に嫌悪することもなかったのに。
 家族に対して、こんな想いを抱えることもなかったのに。
 ……そういえば、基の想いが成就するきっかけを作ったのは、勇士兄だと基が言っていた。
 少し、意外だった。
 勇士兄が、そんなことをするとは思わなかった。
 人の恋愛に口を挟むような兄貴ではなかったから。
 けれど、本当のことなんだろう。
 ちょっと、見直したかもしれない。
 かもしれないけれど……。
 俺が今、こうして見ず知らずの男の家で風呂に入ってる原因は勇士兄だった。
 勇士兄が家に恋人を連れてくるから。
 正確には恋人じゃないけれど、俺には関係ない。
 とにかくそういう相手を連れてくるということは、することは決まっている。
 今まで一度も家に連れてきたことがなかったので不思議だったけれど、もしかしたら、本気の相手なんじゃないかと思う。
 勇士兄は何も言わないけれど、そんな気がする。
 そういうことなら構わないとは思った。
 一夜くらい、どうにかなるだろうとも。
 ……けれど、甘かった。
 甘すぎた。
 無事に、家に帰れるんだろうか?
 そんな考えまで浮かんで、ぞっとする。
 ここがどこだか解らなくて、わけの解らない男の家に泊まることになって。
 心許なかった。

 そんなことを考えながら浴室に入る。
 迷ったが、シャワーだけ浴びることにした。



2003/4/4



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