■闇に惑う心を抱いて■ −6− あいつと別れて歩くこと数十分。 俺の家の前に、着いた。 俺は、深呼吸をして、ドアノブに手を掛ける。 躊躇いがちに。 家の中に入り、リビングのドアを開けると、ソファに勇士兄が座っているのが見えた。 「……勇士兄」 声を掛けると、勇士兄が振り返った。 「……ただいま……」 自分から話しかけたくせに、俺は既にここから逃げたい気分になっていた。 いつも、そう。 満月の次の日は、顔を合わせ辛い。 俺は自分の決めたことを後ろめたくなんて思っていないし、勇士兄に何を言われても人間の血を吸う気はない。 だから、逃げる必要なんてないのだけれど。 どうしても、顔を合わせるのが苦痛だ。 「……どうだった」 しばらくの沈黙の後、案の定、勇士兄が訊いてきた。 いつも訊くことだ。 特に昨夜は、外に出ていたわけだし。 「……別に何も」 そして、俺の返答もいつも同じ。 実際、何もないのだ。 ただ、満月の夜が過ぎるのを待っているだけなのだから。 俺は、勇士兄や他の吸血鬼みたいなことはしないのだから。 ……ただ、今回は何もなかったというわけではなかったけれど。 あの男のことを言う必要はないと思ったので黙っていた。 「瑞希、いつまでそうやってるつもりだ?」 不意に、勇士兄がいくらか怒ったように言った。 「血を吸いたくないならないで仕方ねえとは思ってたけど、いつまでもこんなんじゃ駄目だろ。そろそろ、考えを改めたほうが良い」 あれ、と思う。 普段はこんなこと言わないのに。 今までだって、あれこれ言われたことはあったけれど、こんなにはっきりと俺の意志を否定されたことはなかった。 ここまできついことを言われたことすらなかったのに。 「解ったな」 俺は何も答えていなかったのに、念を押すような物言いと明らかな命令の言葉に、沸々と怒りがこみ上げてきた。 「……だろ」 「瑞希?」 「俺がどうしようと俺の勝手だろ! 勇士兄にそんなこと言われる筋合いはねえよっ」 「瑞希!」 ぱん、と音が鳴った。 頬が熱を持って、じんじんと痛む。 ――叩かれた……。 そう解った途端、俺は勇士兄を叩き返していた。 だって理不尽だ。 何で、俺が叩かれるんだよ? かつてないほど、勇士兄を睨み据える。 「……お前は解ってない」 静かな、けれど威圧感のある勇士兄の声がすぐ傍で聞こえる。 俺の睨みなど、意に介していないというように。 「吸血鬼が血を吸わないとどうなるかなんて、全く考えてねえんだろ?」 「……どうなるって言うんだよ! 俺は、平気だろっ」 勇士兄たちとは違うだろうけれど、今の俺に何の問題があるのだろう。 「勇士兄たちよりも、ちょっと人間に近くなってるってだけだろ!?」 「……それが問題なんじゃねえか……」 激昂する俺に、勇士兄は溜息混じりにそう呟いた。 そして、俺を見据えて、一言一言を確かめるようにしながら、ゆっくりと言ったのだ。 「今はそれで良いかもしれない。だが、その先は? ずっとお前がそのままでいられる保証がどこにあるんだ?」 衝撃が走る。 「俺が知っている限り、人間の血を吸わない吸血鬼なんてお前だけだ。誰も、血を吸わなければどうなるかなんて解らねえんだよ! お前は……この先、人間よりも衰えていって……最悪、死んだりしたらどうするつもりなんだ」 死ぬ……? 血を吸わなければ……? 考えたこと、なかった。 俺は、このままいけば、人間になれるかもしれないなんて、そんなことばかり考えていて。 もしかしたら、死ぬかもしれないなんて、考えたこともなかった……。 「俺だってこんなこと言いたくねえけど。でも……はっきり言う。俺は、お前の意志よりも、お前の命の方が大事だ。俺だけじゃねえ、親父たちだってそうだ。他の一族はどうか知らない……だが、俺たちはそう思ってる。お前の意志を曲げてでも、な」 「ゆ、勇士兄……」 「この先、血を吸わなくても普通に生きていけるという保証がない限り、俺は今言ったことを取り消さないからな」 ……なんてことだろう。 全然知らなかった。 気付かなかった。 勇士兄が、こんなことを思っていたなんて。 俺を、案じていてくれていた、なんて。 俺は、家族に嫌悪すら感じていたというのに。 それなのに……。 俺は、自分のことしか考えてなかった……。 項垂れる。 頭が、痛い。 胸が、苦しい。 俺は、どうすべきだろう? これまで通り、自分の意志を貫くのか。 ……けれど、そうすると、命の心配があるかもしれないのだ。 それならば、自分の意志を曲げてでも生き延びることを選ぶのか……。 唇を痛いほど噛み締めた時――。 「俺の言うこと、解ったよな? だから、次の満月には血を――」 勇士兄のこの言葉に、はっと我に返ったように、顔を上げた。 次の満月には、血を――。 血を、吸えと。 そう、言ったのだ。 「俺、は……俺は、それでも、嫌、だ――」 言われた瞬間、俺は何も考えずに……何も考えられずに、反射的にそう言っていた。 だって、突然そんなことを言われても、自分の意志を簡単に変えることなどやっぱりできない。 けれど、このままだと、俺はどうなるんだろう? 今まで通り、過ごせるのだろうか? 俺は、何を選ぶべきなのだろう? 自分の意志? 命? けれど、命なんて――そんなの、確実に死ぬと決まったわけでもないのに。 確実にそうなると、決まったわけでもないのに……。 ――だけど、もしも。 本当に、死ぬなんてことになったら……。 どうしたら……どうしたら、良いんだろう? 解らない……。 解らない……っ。 頭のなかが、ぐちゃぐちゃで。 考えても考えても、渦のなかに消えていくような感じで。 立っていられるのが不思議なほどだった。 「瑞希……」 近くにいるはずの勇士兄の声が、遙か遠くから聞こえたように思える。 そうやって、勇士兄の声だけが聞こえる最中、俺はふと、あの男のことを思いだした。 あいつは、自分のことを吸血鬼かどうか解らないと言っていた。 けれど、俺に会ったことで吸血鬼だと確信してしまった。 そして、俺も。 あいつのことを、吸血鬼だと思っている。 牙もあったのだから。 それならば――。 「あいつと同じ歳になるまでは、大丈夫ってことじゃ――」 「あいつ?」 「あ……」 思わず、口に出してしまっていた。 勇士兄が怪訝そうにこっちを見ている。 「あいつって……瑞希、何かあったのか」 「な、何でもない! 俺、ちょっと出てくるから」 勇士兄を振りきって、慌てて家を飛び出す。 あの男のことを言えば、更に話がややこしくなりそうだったから、追及されたくなかった。 それに、混乱しすぎていて、これ以上勇士兄と会話することが嫌になっていた。 俺は、宛もなく走り続け――。 どこをどう走ったかも覚えていなかった。 それなのに、気がつけば、さっきまでいた所に戻っていた。 あいつのマンションの部屋の前に。 本当に無意識だった。 ここにくるつもりはなかったのに。 大体、あいつは今いない。 仕事中なのだから……。 それでもここに来てしまったのは、何故なんだろう。 俺のことを知っている数少ないひとりだからか。 あいつの話を聞いてしまったからか。 あいつの意見を聞きたいのか……。 解らなかったけれど。 俺は、ドアの横にある『衣笠』という表札を黙って見上げ続けていた。 当たり前だけれど、あの男は帰ってこない。 解っていながら、小1時間ほども待っていた自分が不思議で仕方なかった。 いつまでもここにいても仕方ないし、どこかに行こう。 といっても、行く宛はないのだけれど……。 しばらくマンションの辺りをうろうろとした後、公園を見つけたのでそこに行ってみた。 ベンチに座る。 ひとり、ぼうっとしながら。 甦るのは、勇士兄の言葉だけだった。 頭のなかのすべてを占めている、あの言葉だけ。 「はあ……」 自然、溜息が零れる。 言い様のない、不安が押し寄せてくる。 そんな、どうしようもない思いを抱えていると。 「瑞希……?」 突然、聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。 驚いて、顔を上げた。 その声の主を認めて、目を見開いた。 「……基……」 掠れた声が、喉を突いて出た。 いくらか安堵の声音を滲ませて。 何故ならそこにいたのが従兄弟の基、だったから。 「やっぱり瑞希? 何してるの、こんなとこで……どうか、した?」 それまで穏やかだった表情が、俺の顔を見た途端、曇った。 余程、酷い顔をしていたのだろう。 「大丈夫?」 心配そうに訊ねてくれる基に、何の返事も返せないまま、俺の意識はそこで途切れた。 2003/05/20
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