チチバナ



「そもそも、あの野郎があんな顔して実はオッパイ星人で乳首マニアだってことが悪いんだよ。むっつりもいいとこだぜ」
「それはお前のことだろ、巨乳好き。歩く猥褻広告塔」
「何を言うか! ナミさんは本当に素晴らしいんだぞ! 胸の形といい、大きさといい」
「誰もナミのことなんか言ってねぇし……っていうか、お前はそれ以上その口を開くな」
 言った途端、「なんだと!」とお約束のように喚く友人を前に、ウソップは泣きそうになる。いや、心は既に泣いていた。気の抜けた苦いビールを飲み干し男泣きする。手元の時計は、深夜二時を過ぎているというのに、この友人の愚痴はまだまだ終わりそうになかった。
 しかも、ただの愚痴ならまだいい。仕事が大変だとか疲れたとか、そういうことなら労いの言葉くらいかけてやってもいい。明日への活力に繋げる励ましの言葉など、この自分にかかれば口先三寸でいくらでも言えよう。
 だが、この友人の愚痴の場合―――
「見ろよ、これ。全部、あの野郎の仕業だぜ。乳首なんて真っ赤になっちまって、擦れて痛ぇし」
「何脱いでんだ、クラッ! 変なもん見せんな!」
 大抵が痴話喧嘩の末の愚痴と相場が決まっていた。おまけに、その相手をウソップはよく知っていた。だから、サンジとすればわかっている相手の愚痴を言いに来ているつもりなのだろうが、ウソップにしてみればそんな顔見知りである二人の生々しい経緯など当然聞きたくないのだ。愚痴の内容が下世話なことなら尚更だ。差別している訳ではないが、自分は真っ当な人間なのだ。出来ることなら、耳を塞いでいたい。
 なのに、そんなウソップの心情はほとんど理解されることなく、酒の勢いも手伝ってサンジは更に饒舌になるのだ。
「無理な体位の所為でケツも痛ぇしよ。この間なんか松葉崩し試したのはいいけどよ、ほら、俺らの場合ケツ使うから、こう横になると―――」
「……マジで勘弁してくれ」
 想像したくない。
 否応なしに耳に突き刺さってくるその言葉に、心優しい友人は今にも倒れそうになっていた。



 サンジがこの部屋に押しかけてきたのは、ウソップが布団に潜り込んで部屋の明かりを消そうと、ぶら下がっている紐に手を伸ばした、まさにその時だった。突如、ドンドンドンと近所迷惑も甚だしい音で玄関のドアを叩かれ、何事かと玄関へ駆け寄れば
「おい、ナガッパナ! いるんだろうが、さっさと此処を開けろ!」
 悪質な借金取りと見間違うような声が聞こえてきた。
 その声に非常に嫌な予感を憶えつつも、玄関のドアを開けてみると、そこには思った通り不機嫌な顔をした友人が買い物袋一つ提げて立っていた。
「ったく、さっさと開けろって」
「サンジお前なぁ……何時だと思ってんだ。隣にめいわ――って何やってんだ、コラァ!」
 しかも、この非常識な訪問をした相手は、家主の了承もなしに勝手に部屋へと上がると、敷いていた布団を蹴飛ばし始めた。そして、部屋の中央に座るスペースを確保すると、これまた家主の了承なしに勝手に持ってきた買い物袋の中身を広げ出したのだ。
「何って見りゃわかるだろうが。酒だ、酒。折角買ってきたんだから、一緒に飲もうぜ」
「だから、今何時だと思ってんだ! 俺ァもう寝るんだよ、明日早ェんだよ!」
「なんだテメェこのクソ野郎、俺が持ってきた酒が飲めないってのか?」
「いや、だからそうじゃなくてだな……っておい!」
 しかし、ウソップが止めるのも聞かず、サンジはプシュッと二本缶ビールのプルトップを開けると、その内の一本をウソップに手渡し
「はい、カンパーイ」
 ゴンと鈍い音を立てて、二つのビール缶をぶつけた。ゴクゴクと一気に中身を呷るサンジの姿を見て、ウソップはその場でガックリと項垂れた。
 こうなると、何も言っても無駄だと経験上学んでいるからだ。しかも、心優しい自分はこの身勝手な友人の言い分にいつも負ける。
「いつまでそこに突っ立ってんだ? 俺のおごりだから、好きなだけ飲めって。遠慮すんな」
「……お前はもう少し遠慮ってものを学べ」
 その場で自棄酒のようにウソップが一気にビールを煽ると、サンジが「お〜」なんて呑気な声を出して拍手をした。
 長い夜になりそうだ。



「つうか、お前、今日誕生日じゃなかったか? いや、もう昨日か……」
「そうそう、誕生日なんだよ、誕生日。そうだ、そうだ誕生日。おい、ウソップ、プレゼントは?」
「ある訳ねぇだろ」
「友達のくせに、冷たいヤツだなぁ」
「しょうがねぇだろ、お前がいきなり来るから……って、だからそうじゃなくてだな。ゾロはどうした、ゾロは。一緒じゃなかったのかよ?」
「それがよー、聞いてくれよ」
「いや、やっぱり言うな。俺のシックスセンスが話しを聞くなと告げている。それに持病の『話を聞いてはいけない病』が」
「あの野郎、俺がいくらやめろって言っても、乳首舐めるのやめねぇんだよ」
「……言いやがった……」
「男の乳なんぞ面白くねぇんだから、やめろって言っても聞きやしねぇ。しかも、近頃じゃ調子にのって隙あらば俺の乳首を触るわけよ。こう……平らになってるのが徐々に立ってくると興奮するとか、赤くなる感じがいいんだとか。摘んだり引っ張ったり、舐めたり噛んだり。変態だぞ、変態。そんなに乳首が好きなら自分の吸ってろって。なぁ、どう思うよ?」
「……俺にそれを答えろと?」
「海より心の広いこの俺でも、四六時中そんなことばっかされれば流石にキれるって」
「……お前の心の広さが海なら、俺の心の広さは大気圏にまで届くな」
「それでまぁ、ガツンと一発殴って……途中は省くけどよ、此処へ来たってわけだ」
「わけだ、じゃねぇよ。なんで途中省略してんだ、意味がわからねぇよ。つうか、それでなんで俺んとこに来るんだっ、しかも、こんな時間に!」
「こういうの、何て言うんだろうなぁ……乳首への見解の相違?」
「知るか!」
「早いとこ、乳離れしろってんだ」
「だから、人の話を聞けよっ」
 そして話は冒頭へ戻るわけだ。



 ***



「なぁ……お前知ってたか?」
 サンジがそう呟いたのは、ウソップが三本目の缶ビールを空にした頃だった。瞼が限界を迎え、うつらうつらしていると、さっきまではしゃいだようにしていたサンジが急に静かになったのだ。
 どうしたのかと瞼を上げれば、サンジは空になった缶を持て余すようにしながら、じっとどこかを見ていた。
「知ってたか? アイツの転勤の話……」
「へ?」
「転勤」
 そこにきてウソップはようやく合点がいく。今夜、此処へサンジが来た本当の目的がなんなのか。
「どうなんだ?」
「ああ……まぁな……」
 ウソップは困ったように頭をガシガシ掻くと、言葉を濁した。
 全く、あの男は何やってんだか。
 確か、ゾロがその辞令を受けたのは先々週も前の話だ。以前からそういった話はあったが、丁度移動の時期と重なって急遽決まったと、ゾロから聞かされた。一年間、本社へ行って研修を受けるらしい。
 そして、おそらくあの物臭な男のことだ。移動までの日時がまだそれ程差し迫ってないのをいいことに、今日の今日まで、サンジに何も言わなかったのだろう。あれほど、そういうことは早めにサンジに伝えておけと忠告したにも関わらず、だ。
「なんだよ、知らなかったのは俺だけってわけか」
「いや、俺も直接聞いたわけじゃねぇけど。ほら、同じ会社内のことだからな。話ぐらいは聞こえてくるっていうかな……」
 あえて、ゾロから聞いたとは言わず誤魔化すように答えると、案の定サンジが胡散臭そうな目でこっちを見てきた。
「えっと……そうだ! 新しいビール持ってくるな」
 ウソップは慌てて立ち上がると、そそくさと冷蔵庫の方へ逃げることにした。
 頼むから自分を巻き込まないで欲しい。教えなかったことに自分は責任がないのだ。むしろ、忠告してやった立場であって、感謝こそされ恨まれる筋合いはない、はずだ。それなのに
「ハァ……」
 先程から、溜息しか出てこない。



 ウソップが冷蔵庫から冷えたビールを持ってくると、サンジはまだ自分の方を恨めしげな目で見ていた。おそらく、今日ほどゾロを恨んだことはない。
「……それで喧嘩して出てきたのか?」
「違ェよ、乳首だって言ってんだろ」
「でも、そのことも怒ってんだろ?」
「怒ってるわけじゃねぇよ、あいつが決めたことだ。それに口出しするつもりはねぇし、頑張りてぇなら応援してやるのは当たり前だ。ただ、今日まで黙っていたことが、少し腹立つな……ぐらいで」
「やっぱり怒ってんじゃねぇか」
「怒ってねぇって。大体な、あの馬鹿が大袈裟なんだよ。たかが一年やそこいら離れる話を、まるっきし今生の別れみたいな顔で言いやがるから。だから、俺もだなぁ……」
「俺も?」
 下を向いた顔を覗き込めば、剥れたようにサンジがそっぽを向いた。それを見て思わず笑い出しそうになった。相変わらず素直な男じゃない。寂しいなら寂しいと素直に言えばいいのだ。強情だと知ってはいるが、こんな時くらい本音を言えばいいのに思う。
 それがこの男らしいといえば、そうだが。
「まぁいいじゃねぇか、お前に一年間の乳首休暇が出来たと思えば」
 そう言って、いつも通りウソップは激励も込めてサンジの背中を叩いてやった。激励の言葉が乳首休暇というのも、アレな話だが。
「そうだな、ゆっくり休ませてやるか」
「おう」
 ただし、帰省した時にどうなるかは保障しねぇけどな、とだけ付け加えると、それはそれで困るなと、サンジが本当に困ったような顔をした。
「さとて、そろそろ帰るな。早く行かねぇと、乳離れ出来てないあいつが泣くかもしれねぇし?」
「そうだ、そうだ。帰れ帰れ」
「お前、追い出そうとしてるだろ?」
「当たり前だろうが! 今何時だと思ってんだ、さっさと帰れ」
「そう言われると、帰る気失せるな」
「失せるな、失せる前に靴履いちまえっ」
 本当にその通りだ。気が変わらない内に帰ってもらわねば。時計は既に三時を回っているのだから。



「そういや、お前誕生日だったよな」
「今更何言ってんだ?」
 帰り際、急に何かを思いついたのか、ウソップはサンジにちょっとだけ待ってろと言って、部屋へ戻っていった。そして、キャビネットの引き出しをガタガタ開ける。疲れた時は甘い物が一番と、カヤに貰ったモノを確かこの引き出しに入れておいたはずなのだ。
「おお、あったあった」
 目当ての物はすぐに見つかった。ウソップはそれを持ってくると誕生日プレゼントだと言ってサンジに渡した。
「一年間だからな。ゾロに乳首が恋しくなったらそれを食えって言えばいい」
 ウソップが渡したのは、赤い袋に舌を出した女の子の絵が描かれている、あのミルクキャンディだ。
「ほら言うだろ、ママの味って」
 その言葉に思わずサンジが吹き出すと、言った本人もつられて吹き出す。ウソップなりの選別は大層受けた。中々笑いが止まらず、しばらく二人で笑い続けるはめになったが。
「それじゃ、アイツがいよいよ行くって時になったら、ごっそり買い置きしてやらねぇと」
「そうしてやれ。ママの味は偉大だからな。乳首ホームシックに最適だ」
 そして、また二人で笑う。ただ、お前の場合はパパの味なんだろうが。なんていう、その手の突っ込みはこの際なしだ。
「そういや、今度はウソップの誕生日だったな」
「おう、四月の一日だ」
「じゃあ、送別会と一緒に盛大に祝ってやるか」
「当然だな」
 胸を張って答えると、サンジは笑いながら「ありがとな」と言って、今度こそドアを閉めた。
 閉まったドアをしばらく眺める。全く、困った奴らだと思う。巻き込まれる自分は、本当に人がいい。
 ウソップは部屋に戻ると、袋から取り出してた飴を一つ、自分の口に放り込んだ。
 甘いような、なんとも懐かしい味がした。



2006/03/15発行
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