呼ぶ声 「何笑ってやがる」 「いや、別に……」 気がつけば、意味もなく一人笑いをしていたらしい。事の最中にも関わらず、サンジは不意にこみ上げてきた笑いを止められずにいた。 この男とこんな事が出来るのも後少し。それを名残惜しいと思ってしまった事があまりに滑稽過ぎて笑えてきたのだ。そんな事を思う資格などないくせに。余りにも今の自分には不釣合いな感情だ。 だが、そんなサンジの胸の内などわからない男は、自分が組み敷いた相手がケタケタと笑い出す様を見て明らかに不機嫌になっていった。それを見ると、別の意味で笑いが込み上げる。辛うじて噴出すのは堪えたが、クツクツと声に出して笑うと、男の不機嫌さが更に増した。 「今日は随分冷えるよな」 毛布を敷いた上からでも、床の冷たさを感じる。春島が近いと聞いていたが、気まぐれなグランドラインの気候ゆえか、夕暮れ時から急激に気温は下がっていた。 「明日、雪降らねぇかなぁ……」 「……雪?」 「これぐらい寒かったら、降ってきても良さそうじゃね?」 「次は春島だって聞いたぞ」 「春島でも、季節が冬だったら降らねぇかな? 俺が生まれたノースじゃ、一年のほとんどが雪だったからさ、たまに恋しくなるっていうか」 「ノース? イーストの生まれじゃねぇのか?」 「ああ、11ぐらいまではノースにいたから」 船の小さな窓に目を向ければ、そこに幼い頃見たあの真っ白な景色が映っている気がした。雪が降った翌日、見慣れた家も道も真っ白になるあの景色がサンジは好きだった。 「……どこ見てんだ」 「外」 答えると、いい加減痺れを切らせたのか、集中しろとばかりに顎を掴まれ唇を塞がれた。熱い舌の感触が歯列を割って入ってくるのを感じると、ゆっくり目を閉じた。 もう少し、もう少しだけ。 何度その言葉を心の中で唱えただろう。 例え偽りでも、憎まれるとわかっていても、あの時殺したはずの心が、もう少しだけと叫んでいた。優しくて温かくて夢でいっぱいのこの船に、もう少しだけ乗っていたい。仲間達と一緒にあの海を夢見ていたい。 それから――― 「ゾロ」 背中へ回した腕に力を込めた。 もう少しだけ、この男の温度を感じていたかった。 自分が海軍の犬へと成り下がったあの日のことを、サンジは昨日の事のように思い出すことが出来る。 いつもと変わらない日常が始まると信じて疑わなかったあの日、その男は大勢の部下を引き連れてサンジ達の前へ現れた。 海軍の大佐だと名乗った男は、ゼフに店を手放しなくなければ、海賊時代に集めた情報の全てを自分達に渡せと言ってきた。その情報がなんであるのか、サンジは未だ知る由もないが、重要なものである事は確かだろう。盗み聞きした大佐の言葉の端々にオールブルーという言葉を聞いたが、ゼフは店を引き換えにしても情報は渡せないと言い、海軍は元より店の従業員達にもその真相の一切を教える事はなかった。 しかし、ゼフが拒否をすればするほど、大佐と呼ばれるその男はあらゆる汚い手を使って脅迫をしかけてきた。次第に店の評判は悪くなり、当然のように客足は遠のいていく。店の従業員と大佐の部下達は毎日小競り合いのような争いを繰り返し、その度に店のあちこちが壊れていった。 そうして、あと一歩で海軍と全面戦争突入かと思われたその時、大佐が最後のチャンスだとばかりにある条件を店の人間達へ提示してきた。 それが「従業員の誰かが海軍の諜報員になれ」だ。ゼフから情報を引き出せないのであれば、代わりになる情報を別の誰かが引き渡せというわけだ。 最初は誰もが鼻で笑った。好き好んで自分から海軍の犬になる物好きなどいない。海賊は元より海軍の中でも毛嫌いされる事が多い職種だ。勿論、命の保障などどこにもない。 だが、誰もが相手にしないと思われたその条件を、サンジは自ら進んで引き受けたのだ。 ゼフは、サンジの養い親でもあり恩人だ。そして、海上レストランは、ゼフの夢だ。そんな大切な店がこれ以上壊れていくのを見るのが嫌だった。くだらない男の所為で取り上げられるなど、我慢ならない。ただそれだけを思い、皆の反対を押し切り前へ進み出た。 それがどういう意味を持ったことなのか、どれだけの覚悟が必要だったのか。 身を持って知ったのは、それからすぐの事だった。 「くそったれ! 殺してやる!」 「お前なんか、さっさと死んじまえ! 裏切り者がっ!」 ターゲットの海賊達に近づき、コックとしてその船に乗り込む。そして、周りに馴染んだ頃、密かに海軍と接触し、引き渡す。 裏切り者―――それがサンジの背負った罪の称号だ。 嘘をつき続け、じっと息を殺して待ち続ける生活は、想像以上に疲労が大きく、そしてサンジ自身を傷つけた。仲の良い仲間の振りをして、白々しく笑ってみせる自分を何度憎悪したかわからない。唾と一緒に吐き出される呪いの言葉を聞くたびに、自分がどれだけ最低な人間かを思い知った。 それでも、店を守る為には仕方がないことだと、そう思ってやってきた。所詮、相手は海賊だ。裏切ったところでたかが知れている。行き着く先が縛り首だろうと、自分には関係のない事だ。罵倒する声には耳を塞ぎ、憎悪の眼差しは見ない振りをする。 全ての現実から目を逸らし、淡々と任務をこなす日々が続いた。 その内、騙す事にも戸惑いが無くなり、相手への笑みも皮肉なものへと変わる。斜めに構えるそれが様になる頃には、サンジの中で裏切るという罪の意識はすっかり薄れていた。 そのはずだった。 それが此処へ来て、この船に乗って、初めてその事にサンジは恐怖を覚えていた。 裏切る事への代償が何なのか、何を失うのか。 わかっているようで、わかっていなかったその事実を目の当たりにしたから。 それでも自分は必死にしがみ付くしかないのだろうか。あの店の事をただ思って。青い海の夢を見て。 「……雪、降らねぇかなぁ」 雪が全部隠してくれるといいのに、嘘も真実も。 もし、明日が運命の日であるなら、その全てを真っ白に覆い尽くして欲しいと、そんな事を願いたくなる。 顔のすぐ傍でシャラリとピアスの重なる音がする。 この男は、その時が来たら自分をどんな顔して見るのだろう。多分、自分はそれを見たくないのかもしれない。 「ゾロ」 もう一度、その名前を小さく呼んだ。 *** 真っ暗なはずの海が、突如明るくなる。強烈な光が、自分達の船へ目掛けて放たれている所為だ。眩しさに目を細めながら船を照らし出す光の向こう側をみると、海軍の旗を棚引かせた船がずらりと並んでいた。 誰もが混乱し、今や船の上は一時間前とは比べ物にならない程騒然としていた。 ただ一人を抜かして。 「なに言ってるの、サンジ君?」 「そうだぞ、サンジ! ふざけてる場合じゃ……、か、海軍だってすぐそこまで来てんだぞ!」 「おい、みんな大変だ! 舵が利かない、壊れてる!」 「なっ?! ホントか、チョッパー!」 「あとオールも全部無くなっているよ、どうしよう!」 「……だから言ったろ? もう逃げられねぇって」 溜息と一緒に白い煙を吐き出す。 慌てふためく周囲とは逆に、サンジだけがいつもと変わらぬ様子で悠然と煙草を吹かしながらそこに立っていた。 「全部俺がやったんだよ、テメェらが海軍から逃げられないように」 そして、全員の視線がサンジを捕らえると、低く穏やかな声で最後通告とも言うべき台詞を口にした。信じられない、と声にならない声が聞こえる。 「なんで……」 「先程、説明した通りですよ、ナミさん。仲間の振りをして海賊船に乗り込んで、時期が来たらその海賊ごと海軍に引き渡す。それが俺の仕事なんです」 すみませんね、とそう付け加える。 「どうやら、近々もっとデカい事が起こるらしくってな。そっちの方に潜入してくれって言われたんだ。だから、その前にお前らの事片付けろって。まぁ、ルフィもゾロもそれなりの賞金になってきたからそろそろだろうと思っていたが、意外に早かったかもな」 「ずっと……私達のこと、騙していたの?」 「まぁ、結果からするとそうなりますね」 「う、嘘だろ?」 「嘘じゃねぇよ、長っパナ。本当の事だ」 「本当って……な、何が本当だって言うんだよ! 嘘だったっていうのよ、あんなに楽しかったことも、全部!」 「ああ……そうだな。お前らのメシ作った事も、馬鹿やって遊んだ事も、一緒に戦った事も」 大切な思い出を指折り数える。 「本当に楽しかったよな」 いつか懐かしく思う時がくるんだろうか。 「ただ、騙していたのも本当の事だ」 「……っ、ふざけんな!」 しかし、ウソップがサンジに掴みかかろうとしたその時、横から伸びてきた腕がそれを止めた。 「ルフィ?!」 「よぉ、船長」 腕の先を辿ると、見慣れた黒い瞳がサンジを正面から捉えていた。目線の少し下にある麦わら帽子の影から、じっとこっちを見る真っ直ぐな視線。 「後少し後少しって、何度思ったかもう数えてねぇけど……、悪かったな、ルフィ。折角誘ってくれたのによ」 「謝るな」 「……」 「悪いと思ってねぇくせに、謝るな」 「……そうだな」 その時、大きな轟音と共に、大量の水飛沫が船の中に雪崩れ込んできた。 「おい、やべぇぞ! 海軍が砲弾打ってきやがった!」 「どうする?」 「そいつのこと、人質にでもして逃げるさ」 「ちょっと、ゾロ?!」 「そいつは無理だと思うぜ。俺は海軍の諜報員でも、命の保障なんてされてねぇからな。事が上手く運んだら金は貰えるが、死んでも関知されねぇし。ほら、その証拠に俺がどこに居ようが関係なく砲弾打ち込んでるだろ?」 再度、近くで大きな水柱が上がる。 「やべぇよ、ルフィ!」 「ウソップ、とりあえず舵をどうにかするから、直すのを手伝って! チョッパーも!」 ウソップとチョッパーがナミの声に続いて、その場から動き出す。そんな三人の後姿をサンジは黙って見送っていた。 「止めねぇのか?」 「しょうがねぇだろ、船長がこの手を離してくれねぇみたいだし……」 「……テメェはこの後、どうするつもりだ?」 「決まってるだろ、このクソ寒い中で寒中水泳さ。向こうの船まで泳いでいけば、とりあえず助かるだろうからな。テメェもやるか? 寒中水泳」 「ああ……でも、その前にケリつけねぇとな」 ゾロがゆっくりと刀の鯉口を切る。 「―――なんで言った?」 その動きを制したのは、麦わら帽子の下から聞こえた小さな問いかけだった。 「別に俺達に言う必要はねぇだろ、そのまま黙って行けばよかったじゃねぇか。なんで、わざわざ嘘だ本当だって、そんな事言ったんだ?」 「……」 ルフィの言う通りだった。 別に秘密裏に動いて、やるべき事を終えたら黙って消えれば良かったのだ。わざわざ皆の前へ出て行く必要などなかったはずだ。実際、今までもそうして来たのだ。 なのに、まるで自分の罪を告白するような真似をした。 「……雪が降らねえからだよ」 そんな子供じみた言い訳に苦笑いする。雪が情けない自分を覆い隠してくれると思ったから、なんて。 ぼんやりと空を見上げると、白く光る星が雪のようにみえた。 本当は失いたくなかったと言えばいい。裏切りたくないのだと。一緒に居たいと。 だが、それが出来ない事は自分が一番よくわかっていた。だから、罵られる事で少しでも罪の意識を減らしたいのだ。謝る事すら、許されないとわかっていても。 「ルフィ」 何度も呼んだ、その名前を口にした。 「ナミさん」 ゆっくりと。 「ウソップ、チョッパー」 きっとこれが最後だから。 そう思ったのに、あと一人の名前が言えない。 ずっと傍で、その背中を見ていたかったと、叫んでしまいそうだ。 砲弾が作り出す水しぶきの中、自分はきっと泣いていたのだろう。霞む視界の向こうで、誰かが自分を呼んだ気がした。 *** 「にしたって、ホントお前らってめちゃくちゃだよなぁ」 「今更だろ」 「普通やるか? あんなこと」 「ウチの船長に普通を求める方が間違ってんだろ」 「……そりゃそうだが、もう少し加減ってものを学べよ」 「無理だろ」 「だろうな……」 「それより、大丈夫なのか?」 「何が?」 「色々、ジイさんの事とか」 「あー、まあ、なんとかなるんじゃね?」 「……適当だな」 「適当じゃねえよ、ちゃんと考えてるさ。ケジメはつけねえとな」 「そうかよ」 「ああ」 見上げた空からは、雪が降っていた。 ふわりと白い欠片が掌にのると、すぐに溶けて消える。 「……一つ聞いていいか?」 「ん?」 「なんで残った?」 「なんでって……」 「自分の首絞めることになるってわかってて、なんで残った?」 「そりゃお前、決まってんだろ」 あの時の光景を思い出す。 砲弾の衝撃で海へ投げ出されそうになり、そのまま消えようと思っていた自分の名前をこの男が呼んでいた。 「あまりにも誰かさんが、必死で人の名前を叫ぶもんだからさぁ」 後にも先にも、この男が自分の名前を口にしたのはその時だけだ。 急に笑い始めたサンジに、ゾロが不機嫌そうな顔をした。その顔を見て、そういえば前にもこんな事があったなと思い出す。 「てめぇこそ、ピィピィ泣いてたくせに」 「泣くかよ」 「泣いてたね」 「泣かねー」 あの頃と変わったようで、変わらない。変わったのは、あの時守れなかったものが、今なら守れると思える事だ。この仲間達となら、どこへでも行ける。 「泣くのはベットの中だけ、ってか?」 今度は笑いながら大切なその名前を呼んでみた。 2009/12/15掲載 ※しぐれさんからの前サイト8000打リクで「ゾロかサンジを泣かす」です。 随分昔に書いた話の為、仲間の数が少ないのですが、その辺りは、パラレルということで目を瞑っていただければ、と。 今更で申し訳ないのですが、リクエストありがとうございました! |contents| |