忘れない告白



「忘れろ」

 そう言われた時、始めは何のことだかわからなかった。唐突に、前置きもなくただ忘れろと言われても、一体何を忘れろと言っているのか。言われた本人であるゾロは当然わからず、酔っ払いの戯言かと思った。
 何しろそれを言ってきた相手は酒瓶を片手にブラブラさせて、相当飲んだ後だとわかるような顔をしていたのだ。その酔っ払いが、久しぶりに自分の方から近づいてきたかと思ったら、出し抜けに「忘れろ」だ。その行動を理解しろという方が無理だろう。
 だから、何をどう答えていいのかわからず、ゾロはここ数日こちらを見る事がなかった相手をただじっと見返した。すると、相手はバツが悪くなったのかふいに顔を逸らした。
 ほんのりと赤くなった横顔。
 それを見て、思い出す。
 忘れろ―――それは、もしかしたらこの間のことだろうか。この間、今と同じ様な状況で言われたのあの言葉を。



 あの時の酔っ払ったコックは、相当マヌケな顔をしていた。
 真っ赤な顔をして、だらしなく半開きになった口はいつも以上にアホなことばかり喋り、相当ユルくなっているであろう頭は、重心が定まっておらず常に右に左にと揺れていた。
 そんな状態でも全員が寝静まると、もたつく足で一人せっせと散らかり放題の宴会場を片付け始めていた。朝やればいいだろと言ったが、朝は朝でやらなければならない仕事があるから今やるのだと、フラフラしながら甲板とキッチンを行き来する。おかげで、飲み足りないと起きていたゾロは強制的にその片付けに参加させられたのだ。
 空になった酒樽を倉庫へ運び、散乱している皿を三枚だけキッチンへ持って行く。キッチンへ行くと、酔っているはずの男が、酔っているとは思えない手際の良さで皿を洗っていた。持ってきた皿をどこへ置いたらいいのかわからず、ゾロがその背後をうろうろしていると、黙ってテーブルの上を指差したので言われた通りそこに置いてキッチンを後にした。
 そこそこ綺麗になった甲板を見渡し、片付けるものがないことを確認すると、ゾロはマストに凭れて残った酒を呷った。足元にルフィ達が散らかした紙ふぶきが落ちていたが、これはきっと散らかした本人達が明日片付ければいいだろう。
 ラウンジの明かりが消えたのは、ゾロが酒瓶の半分程を空けた辺りだ。
 片付けが終わったんだろうか。自分もこれを飲んだら寝よう、そう思っていたら誰かがフラフラとこっちに向かって歩いてくるのが見えた。誰か、と言っても心当たりは一人しかいない。てっきり男部屋へ行くと思っていたサンジは、何故かゾロの傍まで来るとすぐ隣へ腰を下ろしたのだ。
 隣に座って、当たり前のように銜え煙草に火を点ける。月明かりがない所為か、ラウンジの明かりを落とすと辺りは真っ暗だ。煙草の火だけが光って見える。
 コイツも飲み足りなかったのだろうか。ふとそんなことを思って、ゾロにしては珍しく手に持っていた酒を勧めてみた。だが返ってきたのは、テメェじゃねぇんだから、という素っ気ない返事。
 なら遠慮することはないのだろうと、隣で吐き出される煙草の煙を見ながら、またゆっくり酒を飲んだ。
 それから暫くは静かだった。ゾロは酒を飲み、サンジも黙って煙草を吸う。
 そんな静けさの中、ふいに隣から声がしたのは、ゾロが飲み終わりそろそろ寝ようかと思っていた時だった。
 ぼそりと、サンジが何かを言ったのだ。
 しかし、それは聞き逃す程の小さな声で、ゾロは必然的に聞こえないフリをした。
 すると今度はハッキリした声で言われた。

「好きだ」

 確かにそう聞こえた。
 聞こえたが、どういう意味なのかわからない。何の脈絡もないのだ。主語の伴わないその言葉に、どう返答していいのかわからなかった。
「……好きだ」
 また、声がした。
 けれども、それはさっきよりずっと小さく消え入りそうな声で、震えているようだった。あのいつもナミ相手に「好きだ、好きだ」と連呼する男と同じものとは思えない声で、ゾロを戸惑わせるには十分だった。一瞬、泣いているのかと思って、チラリと横を見たが、前髪が邪魔でどんな顔をしているのか見えない。
「おれァ……本当に好きなんだ」
 見ていた前髪がサラリと揺れて、隠れていたサンジの目がヒタリとゾロに向けられた。泣いているのかと思った顔は泣いてはおらず、けれども今にも泣きそうで、目が離せなくなった。思いつめたような目が、じっとこっちを見ているのだ。
 それっきりサンジは黙ると、やがて短くなった煙草を床に押し付け、そのまま男部屋へ降りていった。
 残されたゾロの胸だけが、トクトクと音を立てていた。



 そんな事があったからだろうか。あの日以来、何故かサンジはゾロを避けるようになった。
 話しかけてくることもなければ、目を合わせることもしない。日常的な会話も極力避けるようにしているのだと気がついたのは、暫く経ってからだ。日頃、向こうから絡んでくることがなければ何かを親しく話し合うような間柄でもない所為か、食事以外顔を合わせようとしなければ出来なくもないのだ。自分と目が合うと慌てて逸らし、そのまま、ラウンジへ逃げて行く後姿を何度も見かけた。
 そのくせ、ウソップ達とはいつもみたく馬鹿なことで笑いあっている。あんな風に笑えるくせに、自分とは目を合わそうともしない。
 今朝もそうだ。朝食の納豆をグリグリと怒りをぶつけるように混ぜていると、サンジがこちらをじっと見つめていた。けれども、ゾロが顔を上げると、慌てるようにして顔を逸らしてしまう。
 何故、こっちを見ていたのかはわからないが、一瞬自分に見せたのはあの夜のような直向きな目ではなく、怯えたような表情だった。
 始めは何も感じなかったそれは、日々積み重なっていくと酷くゾロをイラつかせた。仕舞いには笑う顔を見かけるだけでその横っ面を殴りたくなった。自分に非は全くないはずなのに、どうしてあんな風に避けられなければならないのか。
 だったら放って置けばいいと思う。向こうがそうなら、こっちも無視すればいいのだ。最初から気が合わないと思っていた男で、特別仲が良いわけでもない。
 そう思うのに、どうしても目がサンジの姿を追いかけてしまう。気にするな、と思えば思うほど気になって、どうしようもなくなる。
 好きだと―――あの夜、震える声でそう言ったくせに。
 それなのに、自分には笑いかけようともしない。何もなかったような素振りをする。それが、余計にゾロの神経を苛立たせた。自分一人が拘っているようで、馬鹿のように思えた。
 そんな時に、脈絡もなく「忘れろ」だ。
 悶々とした日々を過ごし、鬱憤という鬱憤を溜め込み、後少しでそれが爆発しそうだと思っていたら、ここ数日、まともに顔を合わせることがなかった相手が近づいてきて、開口一番に「忘れろ」だ。
 向こうから近づいてきたことにも驚いたが、それ以上に言われたことを理解すると本当の意味で言葉を失くした。
 忘れることが出来るなら、とっくの昔に忘れている。それが出来ないから、こんなにも腹立たしいのだ。それなのに、その原因を作った相手はいとも簡単に忘れろ、と言ってきた。
 好きだ、と言ってみたり、無視をしてみたり。そして今度はこれだ。ここ数日、この男の所為で自分は振り回されっぱなしだ。こんな都合のいいことばかり認めることなど出来るはずもない。
 途端、ゾロの忍耐という糸がプツリと切れた。
「フザケンナよ、テメェ……」
 自分でも驚くほど、低い声が出た。
「テメェから好きだって言ったんだろうが! それを忘れろだの何だの、勝手なことばっかり言いやがって! おまけに訳わかんねぇ無視しやがって、こっちだってな、いい加減腹立ってんだよ!」
 腹に溜まってたものを、一気に捲くし立てた。胸倉を掴んで、ついでに一発ぶん殴ってやろうかと思った。
「俺は忘れるつもりなんて、これっぽっちもねぇからな! 覚えとけ!」
 子供じみた反抗心のような言葉。けれども、言っておかなければ気がすまなかった。ここ数日、自分が抱えたストレスは相当なものだったのだ。らしくない、と思っても、どうしようもなかった程だ。
 忘れることなど出来ない。今もはっきりと覚えているのだ。目の前の男が好きだと、言ったあの時のことを。
 しかし、言いたいことを言い終わると、ゾロはひどく驚いた。驚いたというより、狼狽えた。
 サンジの目から涙がボタボタと落ちてきたのだ。涙と一緒に、鼻水まで落ちてくる。そして、その場に突っ立ったまま、ワァワァと泣き出したのだ。
「しょ……しょうがねぇだろ……お、俺にだってコックとしてのプライドってものがあるんだ! か、簡単に認めるわけにいかねぇだろが、コックのくせに納豆が食えないなんて……」
 何のことだと聞く暇もなく、次から次と涙がボタボタと落ちていく。そのあまりの出来事に、ゾロも立ち尽くしてると、泣いていたサンジが顔を上げた。
「お前が俺に訊いたんじゃねぇか、納豆好きなのかって!」
「……は?」
「確かに、テメェに好きだって見栄を張ったさ! だけどな、あんな風に、今朝みたいに見せ付けることねぇだろ! 俺が納豆食えないの知ってて、責めるみてぇな、あんな……。俺だってわかってんだよ、俺だって情けねぇことだってわかってんだよ。だけど、どうしようもねぇんだよ。作ることは出来ても、どうしても食えねぇんだ、納豆だけは。何度も頑張ったさ、頑張ったけど、どうしてもあの臭いが駄目なんだ……」
「納豆?」
「……足の裏の臭いがするんだ」

 言葉の奥深さを思い知る、ゾロ19歳―――青き春の一幕であった。



 ***


(オマケ)

 サンジはその場に蹲るようにしゃがみ込むと、ズビビビッと鼻を啜った。ヒックヒックと、先程からしゃっくりが止まらないらしい。泣いてる姿だけ見れば、小さな子供のようだ。
 そのサンジの背中を、ゾロが優しくゆっくり撫でた。
「なんだよ……同情してんのか、納豆の食えない俺を」
 僅かに怯えたような顔をするサンジに、ゾロは首を静かに振った。
「……好きだって、嘘をついた俺を許してくれるか?」
 今度は静かに頷く。
「お前、見かけによらず優しいよな……ずっと前も俺の分の納豆も食ってくれたし……」
 あれは確か、単に残ってると思った納豆を食べただけだが、それはこの際黙っておこう。
「あんなこと言っちまったのに、そんなに優しくされると惚れそうだ」
 そんなサンジをゾロはそっと抱き寄せた。
「俺は……納豆の嫌いなお前ごと惚れている」
「……ゾロ」
 また涙ぐみそうになったサンジは、ギュッとゾロへしがみ付いた。
 そんな感動的な場面も、人は喜劇と笑うだろうけど。



2006/11/23掲載
※喜劇だよ

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