導きたるその長き道標を それは初めて見る夢ではなかった。 子供の頃から、何度も何度も見ている夢――― サンジは、青い海の上で仰向けになってチャプチャプと浮かんでいる。波も風も穏やかで、見上げる空は雲ひとつなく澄み切っていて、照りつける太陽は眩しかった。 始まりは大体いつもこんな感じだ。何もせず、ただぼんやりと空を眺めて海の上に浮かんでいる。泳ぐわけでもなく、沈むでもなく。 ただ、一つだけ不思議なことがあった。 音がないのだ。周りから何も聞こえてこない。空も海も太陽もあるのに、波の音も風の音も聞こえない。生きている音が全くしないのだ。 はじめ、サンジは自分の耳が聞こえなくなったのかと思った。だが、どうもそうではないらしい。「あー」と声を出すと、はっきりと自分の声が聞こえる。聞こえないわけではない。何も聞こえてこないのだ。 もしかしたら自分は今、この音のない奇妙な世界で一人っきりなのだろうか。動かずにジッとしていると、キーンを耳鳴りがしてきた。 もう一度声を出してみた。 「あー」 すると、急に身体が重くなった。 「あー」 また声を出す。 気がつくと、海に浮かんでいたはずのサンジの身体は、音もなく海に沈んでいた。 海の中は思った以上に温かかった。身体を包み込む海水はひどく心地よく、目を閉じると、水の中なのにそのまま寝てしまいそうになる。きっと胎児を包む羊水は、こんな感じなんだろうと思った。水というよりフワフワと空気に浮かんでいるような、それでいて全てを守られているような、そんな感覚がした。 閉じた目を開けてみた。さっきまで目の前に広がっていた空の代わりに、キラキラ光る水面と、空の色よりもっともっと深い青色が見えた。 しかし、その青い世界には生き物の影がどこにも見当たらなかった。綺麗な青色だけが延々と広がっている。ただ一色に染まった世界。 サンジはその中を漂うように、静かに下へ沈んでいった。意識はあるのに、何故か指先一つ動かせないのだ。黙って流れに身を任せ、沈んでいくしかない。 ゆっくりと瞼を下ろした。 眠くなってきたのだ。ゆらゆらと身体を包む水が、どうにも眠りを誘ってしょうがない。そして多分、眠ってしまったら最後、自分は二度目を覚ますことがないような気がした。 このまま死ぬのだろうか。 けれどもその考えは、ひどく他人事のように思えた。これは夢だ、という事をサンジ自身がわかっているからだろうか、「ああ、死ぬのか」とやけにあっさりと受け入れている自分がいる。 それに、海で死ねるなら本望だ、とも。 だが、どうしても一つだけ。死ぬ前に一つだけ、あの海が見たいと思った。心にいくつも思い描いた憧れの海。心残りがあるとするなら、それだった。 「オールブルー」 突然、サンジは瞼の上に眩しい光を感じた。 驚いて目を開けると、深い青ただ一色だけだったはずの世界が、いつの間にか違う景色へと変わっていた。 そこにあるのは、様々な濃淡の青がグラデーションを作り上げる、美しい海。おまけに、さっきまでいなかった筈の魚が、群れを成して泳いでいる。見たことのある魚も、見たことのない魚も。 咄嗟にサンジは手を伸ばした。夢の海に触れたくて、動かなかったはずの身体を動かして、力いっぱい手を伸ばした。 しかし、次の瞬間、目の前の世界は掻き消え、サンジは固い地面へと落ちた。辺りが急に暗くなる。青の世界が一転して、暗闇へと変わった。 身体を起こすと、手が何かで濡れていた。なんだろうと思い、その手を顔の近くへ持っていくと、微かに血の臭いがした。 もしかして。 それは予感ではなく、確信だった。 暗闇の中で目を凝らしてみると、案の定、それはサンジの近くに落ちていた。 人間の足だ。 これがあるという事は、やはり、これはいつもの夢の続きのようだ。子供の頃から何度も見る夢。なのに自分は、何度も見てもその夢で同じ事を繰り返してしまう。海へ沈む途中、憧れの海を垣間見て、それに少しでも手を伸ばすと、奈落の底へと落ちる。それがわかっているのに、どうしようもなく心を躍らせてしまう。そして、絶望するのだ。 だから、この次の展開はわかりきっていた。 自分はあの足を食べるのだ。この夢は、自分の罪は自分が償うしかないのだと、確認する為の夢なのだ。食べなければ、闇から抜け出せない。そういう夢だ。 だから、サンジはいつものようにその足を持って食べることにした。全部食べて、早くこの夢から覚めてしまいたい、終わらせたい、ただその一心で。 早く、早く、早く。 だがその時、いつもと違ったことが起きた。 手に持っていたそれが、ボンヤリと光り出したのだ。その光は徐々に強くなり、やがてサンジを包み込むように広がった。 サンジは、恐る恐る手の中にある光を握ってみた。すると、光は一気に明るさを増し、辺りの闇を飲み込んだ。 なんだろうこれは。 サンジが握り締めたその光は、温かかった。温かくて、優しくて、泣きそうになる。暗闇ではなく、明るい場所へ自分を導いてくれるから。 なんだよ、どこへ連れて行く気なんだ。俺は足を食わなきゃならねぇのに。 そう思ったのに、持っていたはずの足は何時の間にか消えていた。 サンジは光が導くままに前へと進む。自分を呼ぶ声がするのだ。光の向こうでよく知っている声が自分を呼んでいる。 だから、どこへ連れて行く気なんだ。わかってんのかよ、どっちに行くのか。わかってて進んでるのかよ。まっすぐ進めばいいってもんじゃねぇんだ、おい、聞いてるのかこの方向音痴、馬鹿マリモ。 それでも、サンジが握り締めたその光は、迷うことなくサンジを前へと導いていった。 目が覚めた。 覚めてすぐ、サンジは揺れるハンモックから身体を起こし、かけてあった毛布をはがした。そして、股間の辺りを触ってみた。 良かった。 小さな頃から、この手の夢を見ると何故かおねしょをしたのだ。海とか水とか、それらに関連した夢を見ると必ずと言っていいほどおねしょをしてしまうのだ。 流石に、この歳でおねしょはないだろうとは思ったが、久しぶりに見た夢で内心かなり焦ってしまった。 そういえば。 ふと、夢の最後がいつもと違っていたことを思い出した。いつもと同じであるなら、自分はあの足を食べなければならなかった。サンジにとって、あれは悪夢みたいなものだ。逃れようもない、救いもないそんな夢。 だからいつもと違う最後が、尚更不思議だった。 あの光はなんだったんだろう。温かくて優しい、不思議な光だった。それに、声も聞こえた。 あれは、あの声は間違えるはずがない。ゾロの声だった。なんで勝手に人の夢に出て来たのか知らないが。 勿論、嬉しいとか、そんなことは絶対に思っていない。むしろ余計な事しやがって、とか。そんな思いの方が強い。あの不思議な光とゾロの関連性はさっぱりわからないが、夢の中での出来事とはいえ、借りが作ったみたいで気分が悪いのだ。そう、自分は不愉快なはずだ。 だから何故か顔が火照ってしょうがないとか、そんなのは全部気のせいだ。 クソ……とぼやくと、誤魔化すように煙草を吸おうとした。 その時になって、サンジは自分の左手が何かを掴んでいることに気がついた。 ドキッと心臓が跳ね上がる。まさか。だってあれは夢の話だ。夢の話のはずだ。そのはずなのに、サンジの手は何かをきっちりと掴んでいた。 まさか、まさか、まさか、そんな。ドクドクと心臓が鳴る。心の中で「ゾロ」と呟くと、一気に頭へ血が上った気がした。顔が熱い。 サンジは暫くの間、その状態で固まっていたが、やがてゆっくりと顔を上げると、自分の握り締めた左手を見た。 手の中にあるそれはやはり温かい。 ありがとう、自然と口からその言葉が零れたはずなのに。 「……へ?」 あれ、なんか今、ちょっと、変なものが。 っていうか、あれ? 軽い混乱を起こしつつ、ぎこちない動きでサンジは首の向きを戻した。 なんでこれが。まさか、そんなはずが、だってあの声はゾロのはずで、でも、だってまさかそんな馬鹿な、いやいやいやいや、ちょっと落ち着け、俺。 サンジはもう一度、自分が掴んでいるものを見た。 「なんでウソップの鼻が……」 ということは、夢で自分が握り締めていたのは―――――鼻? ウソップは鼻を掴まれたまま、ぐっすり寝ている。その横でゾロも同じようにぐっすり寝ていた。サンジ一人だけが起きている。 なんで鼻……なんで鼻……と一人ブツブツ呟いていると、ゾロが何か寝言を言った。 「だばだ……」 わけがわからない、そんな夜。 2004/10/21掲載 ※そして、ゾロの出番がないまま終わる |contents| |