カラン、と涼やかな音を立ててカフェのドアが開く。午後九時、もう閉店しているから入ってこられる人物は限りがある。キッチンでカップの殺菌をしていた手を止めて、は明かりを落としたフロアに出た。
「ロイヤルミルクティ、ホットでお願い」
ひらりと右手を軽く上げ、緑の非常灯にシルエットを浮かばせて注文をしたのは、背の高い青年だった。輪郭、声、雰囲気。知っている男だとしか考えられず、思い当たる名を口にする。
「佐助?」
「うん、勝手に入ってごめんね。俺様今帰りなの、温かいのが飲みたいなと思って」
悪びれる様子もなくキッチンの明かりが届く所まで歩いてきた佐助はふと目を細めた。
「いい匂いがする。試作品?」
「……キッシュ。甘くないお茶請けはどうかなって」
「そんじゃ呼ばれてもいい?」
「ダメって言っても聞かないくせに。ついでに夕飯も食べてけば」
「へへ、ちゃんってばやっさしー」
ぺろりと舌を出して肩を竦めた佐助に眉を寄せつつも、追い出せないはキッチンへさっさと引っ込んだ。お邪魔しまーす、と言い勝手知ったる我が家のように階段を上がっていく足音に人知れず溜息を吐いた。
「なんで寝てんの」
焼き上がったキッシュを持って二階に上がり、リビングに入ったところで呆然と呟いた。よく見れば気になる点がいくつか。
「なんで着替えてんの、なんで人のタオルケット引っ張り出してんの」
イライラと呟きながらそれを見なかったことにしてダイニングへ向かう。この男に何を言ったところで暖簾に腕押しだとよく判っている。ここ数日現れなかったのは仕事に追われていたのだろうと決めつけて食事の支度にかかった。
三十分もすれば机の上には遅めの夕食が並び、グラスを一つ置いてはリビングのソファに横になっている佐助の腹に踵落としを食らわせた。
「って……! 何すんのちゃん!」
「食べないんなら来るな」
「食べる食べるって!」
片手は瞼をぐしぐしとこすり、もう一方で腹をさすりながら佐助は起き上がった。無感動に見下ろすに佐助の視線が向けられる。
「どうかした?」
薄く笑うその目は探るように鋭く、ひとつ首を横に振っては無言のまま背を向けた。後に続いた佐助が冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出す。
「悪いね、俺だけ飲んじゃって」
きめ細かな泡と黄金色の対比も美しくグラスに注ぎ、ぐいっと一口呷る。うまいなーやっぱ疲れた体にはビールだよなー、と同意を求められたは不承不承頷く。酒を飲まないって知ってるくせに、との言葉は白飯と一緒に飲み込んだ。
「ちゃん、お茶淹れてよ」
「覚えてたんだ」
「キッシュも付けてね」
「図々しい」
チ、と舌打ちをしても佐助が引くはずもなく、わざとらしい溜息を残して立ち上がる。そうだ、と追いかけてきた声にちろりと視線だけで振り返った。
「最後だから、一番おいしいのお願い」
「……わかった」
人に淹れる時は誰であろうといつも最高のものをと心掛けているにとっては余計なお世話だ。けれど、最初に現れたときは突然だったから一言あるだけでもよしとしようと考える。ケトルを火にかけてカップとソーサーを食器棚から取り出す。ミントグリーンの茶器は佐助が持ち込んだものだった。
廊下に出て電話をする佐助の声がぼんやりと聞こえてくる。ときどき楽しげに笑い、たまに怒鳴ることもある。一度電話を始めたら十分は戻ってこない。ガスを止めて、はしばし思案した。どうせなら今まで淹れたことのないものにしよう。小さく微笑んで三、四種類の茶葉をブレンドし、ミルクパンで沸かしはじめた。
「おまたせ」
ソファの前にあるテーブルにペーパークロスを敷いてポットとカップ、キッシュの小皿を置く。使わないとは思いつつも角砂糖と蜂蜜を入れた小瓶も端に添えた。佐助を見れば、きょとんとした表情を浮かべている。ふわりと笑んで口を開く。
「紅茶はアッサムベースのブレンドを煮出したミルクティでございます。お好みで砂糖か蜂蜜をどうぞ。こちらはホウレンソウとベーコンのキッシュでございます。お試しくださいませ」
言い終えるや、それが嘘のようにむっつりと唇をへの字に結んだをまじまじと見つめて、佐助はくつくつと笑った。
「すげー、ちゃんが本気出した」
「いつでも本気だけど」
「嘘だろ」
「半分は。キッシュの感想よろしく」
ふっと笑って隣に腰掛ける。なんだか照れるな、と笑う佐助の顔が見れずに、テーブルの上にあった文庫本を取ってブックマーカーの挿してあるページを捲った。
「ごちそうさま。ミルクティおいしかった」
「おそまつさま。キッシュは?」
カチャンとカップを戻した音に本を閉じて佐助を見た。満足そうな表情から悪くはないようだとほっと胸をなで下ろす。
「最高。文句無しの一品だね」
「ありがと。佐助の評価がべた褒めなんて初めて」
「そんだけうまかったんだ。自信持ちな」
ぽん、と頭に軽く乗せられた手。励ますとき、後押しするとき、いつもこうしてくれる。うん、と掠れた返事をした。
「そんじゃ、俺様は帰るとしますか。――ありがとうな」
佐助の携帯が鳴っている。いつもは数コールで切れるのに、今日は違った。佐助が取るまで鳴り続けるつもりなのか止まる様子もない。とうとう堪え切れなくなって、はボロボロ零れる涙もかまわず声を絞り出した。
「帰るもなにも、佐助、ここにいて。一緒にいてよ、なんで、なんで……。いなくならないで」
「ごめんね、ごめん。でも、判ってるだろ。ちゃんがいちばん」
「判んない、判んない。行かないで。置いてかないで」
佐助にしがみつき、駄々をこねる子供のようにひたすら同じ言葉を繰り返す。一緒にいて、と。
「だーめ。何言ったって聞かない。こんなことならよっぽど旦那の方が聞き分けいいよ」
「真田なんか、知らない。佐助が約束守らないのが悪い」
「それは、ホントにごめん。未練たらたらで、情けなくって、甘えちゃってさ、迷惑かけた。約束、なかったことにしてくんない?」
「絶対しない。死ぬまで一生、ずっと、佐助以外のお嫁さんになんてなってやらない。悪いと思ってんなら、あたしのとこにいてよ!」
言ってから、はっとした。今のは失言だった。なのに、泣きすぎたせいで謝ろうとしてもうまく声が出ない。しゃくりあげながら佐助から手を離す。
「ごめ、ごめん、……引き、とめちゃって。気をつけてね、元気でね、……バイバイ」
いつの間にか電話は鳴り止んでいた。顔を上げられず、膝の上でぎゅうと握った両手にぼやけた視線を落とした。そっと視界に入ったのは佐助の手、優しく労わるようにの頬に添えられて指の腹で涙を拭う。
「……佐助、もう、大丈夫だから。心配、しなくていいよ」
「どこが? そう言って無理するのがちゃんでしょーが。顔上げてみ?」
「……いじわる」
「ほら、まだ泣いてんでしょ。泣きやむまで待ってやるからさ、思いっきり泣いちまいな」
とすん、頭を預けられた佐助の体は温かく、撫でる手は優しく、抱き締める腕は力強く。は声を上げて泣いた。
「さすけ……?」
ぼんやりと呼んだ名に返事はない。見慣れた寝室、カーテン越しに差し込む薄明かり、慌てて飛び起きても佐助の姿はなかった。
「佐助!?」
ベッドから抜け出してリビングに走る。涸れるほど流した涙がまた溢れてきそうだった。
やはり、佐助はいない。テーブルは片付けられて、白い封筒が乗っていた。『ちゃんへ』と書かれたそれは佐助が書いたに違いない。力が抜けて膝をつく。恐るおそる封筒を手に取って出てきたのは、一枚の便箋。
『ちゃんへ。
君がこれを読むとき、俺はもういません。黙っていなくなることを許してください。俺がこれを書いている今、君は泣き疲れて寝ています。最後に見る寝顔が安らかでよかった。起きたらすぐに泣き顔になってしまうんだろうけど。できればあんまり泣かないでほしい。俺が言えたことじゃないんだけどさ。ちょっと不機嫌そうないつもの顔や、楽しくって笑った顔がちゃんには似合うと思うんだ。何書いてんだろ、恥ずかしいな。でも、本当にそう思ってる。
俺もずっと、一生ちゃんを幸せにしたかった。だから泣いて引き留められたとき、すごく嬉しかった。できるもんなら残りたかった。一緒にいたかった。つか、他の奴にちゃんをくれてやるなんて絶対嫌。無理。そう考えるたび、自分が情けなくなる。淋しい思いをさせてごめん。大変な思いをさせてごめん。さっきは泣かないでほしいって書いたけど、我慢しすぎてダメになる前にちゃんと泣いてよ。無理しないように。わざと忙しくして自分を追い込まないように。
夕飯おいしかった。紅茶もキッシュもすごくうまかった。店も順調なようでなによりです。あ、余裕が出てきたら、ちゃんとした店員雇った方がいいと思う。旦那がときどき助けてくれてると思うけど、なーんか心配だからさ。
そんなとこかな。他にもいっぱい書きたいことはあるけど、どうでもいいこと書きそうだから止めとくわ。
さん。愛してくれてありがとう。出会ってくれてありがとう。生まれてきてくれてありがとう。今だから言えます。俺は世界一幸せでした。今度会ったら絶対に離しません。必ず幸せにします。その時まで約束はとっておいてください。それでは、また会う日まで。
猿飛佐助』
しばらく何も考えられなかった。何度も何度も読み返して、ようやく内容が頭に入ってきたようだった。パタパタと紙を濡らす滴を自覚するとおかしくもないのに笑えてしまう。
「佐助の、バカ……!」
洗って片付けてある食器、ソファの上にきちんと畳まれたタオルケット、癖のない字で綴られた手紙。佐助が昨夜ここにいたことのなによりの証明だった。濡れてしまった便箋を拭いて丁寧に折りたたんで封筒にしまう。
そっと唇に当てて、目を閉じる。心はこれ以上ないほどに凪いでいた。
「ありがと、大好き」
カレンダーに書き込まれた週ごとの印は、昨日で終わっていた。
戻る
2009/03/25
まさかこうなるとは。途中で心霊いい話的なまとめを読んだら筆が暴走しました。
最初は友達以上恋人未満なポジションで揺れる女の子と、判っててわざとしてるダメな佐助のお話にする予定だったなんて口が裂けても言えません。
よしわたり