「あー、やばい、これどうなってんの」
自転車が壊れた。いや、故障したというべきか。修理してもらえばすぐに直るのだろうけど、あいにくと周囲は青々とした麦畑が広がっているばかり。農家が遠くに見えはするが、押していくこともできない。不運は重なるもので、午後を回ったこの時間に外を出歩く人間の姿もなければ、離れた所に走る細い車道を通る車もない。自転車を置いて修理道具を借りに行くべきか。その場合は大量に買い出してきた荷物をどうすればいいのだろう。
考えれば考えるほどどうしようもなくなって途方に暮れる。動かせばガリガリとチェーンを巻き込むような音がするが、外れているようには見えない。ペダルもちっとも動かないし、諦めてスタンドを立てると畦に座り込んだ。買い物袋からペットボトルのお茶を取り出してキャップを開けた。陽気な天気が気持ちいいと思っていたのはさっきまで。今はもう土砂降りにでもなってしまえと何の罪もない天候を恨んでやりたい。
「もういいよ、知らないよ、好きにしなよ」
ひとりごちて仰向けに寝っ転がる。ただの買い出しだったからパーカにジーンズ、汚れたって構わない。朝夕には犬の散歩をさせている人をよく見かけるなあと思ったけれどもうどうでもいい。ペットボトルを瞼に乗せて思いきり息を吐いた。
「おい、あんた大丈夫か!」
遠くで男が叫んでいる。事故でもあったのだろうか。それにしては大きな音もしなかったし、年寄りでも引っ掛けでもしたか。よいせ、と体を起こして声のした方を見た。
「無事か! 待ってろ、今行く!」
「はい?」
大型二輪に跨った青年が、こちらを見て叫んでいた。つまり、声を掛けられていたのは自分だったらしい。呆けている間に男はバイクを停めて畦道を走ってくる。誤解だ。慌てて手をぶんぶんと振れば、何か勘違いされた。
「救急車呼んでやるからもう少し辛抱しろ!」
「いえ! 結構です大丈夫寝てただけです! ごめんなさいー!」
少し息を切らせて走ってきてくれた彼には申し訳ないが体は至って健康だ。両手を合わせてめいっぱい頭を下げて叫んだ。パッと見、明らかにヤンキーだ。心根は優しいかもしれないが勘違いだと判って何を言われるか判ったもんじゃない。すみませんと謝罪を繰り返した。それでも覗き込んでくる青年はどれほど面倒見がいいのか。そのナリで。もう止めてほしい。
「無事なんだな? 本当に事故なんかじゃないんだな?」
「もちろんもちろんです、ご心配お掛けしました! どうぞお気になさらずにお戻りください!」
「ん? なんだチャリがイカレてんじゃねえか?」
「そんなまさか! 天気がいいなあと思って買い物帰りに昼寝してただけですよ!」
「いや、チェーン巻き込んでるぞ。後輪動かなかっただろ」
屈み込んで自転車を検分するとすぐに原因を言い当ててこちらを見た。片目を布で覆い、眩しいほどに銀の髪をした体格のいい青年だった。こんな目立つ奴、見たことがない。ぼうっとしていると彼は微かに眉を寄せた。
「本当に大丈夫か? 事故ってないか?」
「あ、……はい。急に走れなくなったからどうしようかと思ってたところで」
「そうか。こんくらいならすぐに直せる。ちょっと待ってろ」
「え、悪いですよ」
「直さなきゃあんたここから動かないだろ」
にかっと笑ってそう言われた。確かにそのつもりだったから恥ずかしくなる。ええまあ、などと言いながら俯けばからからと笑われた。なんとなくつられて引きつった笑みが出る。見かけはアレだけどいい奴なんだな、と早速チェーンに手を掛けた青年の背中に胸中でこっそり謝った。
「よし、これで走れるようになったぜ」
ふう、と息をついて青年はペダルを手で回す。動かなかったのが嘘のように滑らかにチェーンも回るようになっている。どうしようもないと思っていたのに、五分ほどでちゃちゃっと直してしまった青年に嘆息する。
「すごい。本当にありがとうございました。助かりました」
「いいってことよ。初めは倒れてるのかと思って焦ったけどな」
「ええと、それは誠に申し訳ございませんでした……」
はは、といたずらっぽく笑う彼にバツが悪くなる。深々と頭を下げてそのまま穴があったら入りたい気分になった。
「そんじゃ、気をつけてな」
「え、ちょっと、お礼させてください」
心配してくれて自転車を直してもらって何もしないというのはさすがに人としてどうなのか。引き留めると彼はきょとんとしたようだった。
「手だってオイルで汚れてしまってますし、少し行ったところにウチあるんで、水道使っていってください。お茶も出しますから」
「おいおい、あんた警戒心ってのはないのか? 若い女が男を引っ張って行こうとすんな」
急に険しい顔になった青年は真っ当なことを言う。負けじと彼を見上げてきゅっと唇を噛んだ。
「あなたが悪人で私を殺すっていうならどうぞ。助けていただいてお礼をした上でなら、思い残すことなんかないですから」
「どういう理屈だよ、そりゃ……」
「恩着せがましくしろってのが家訓なんで」
「へっ、ひどい家訓があったもんだな。そこまで言うなら手だけ洗わせてくれや」
折れた、と言わんばかりに黒くなった両手をぷらぷらとさせた青年は苦笑した。そんな彼に、喜んで、と頷き返した。
自転車は鍵を掛けて畦道に置いてきた。どうせすぐに取りに行けるし、一帯の田畑はうちの一族のものだから様子を見に行った親戚の誰かが忘れてたよ、と言ってくるかもしれない。そう判断して、青年のバイクに買い物袋をぶら下げさせてもらって押していくことにした。こちらは取られては敵わない。
道すがら話したところによると、彼は長期休暇を利用して独り旅をしているところらしい。あちこちの話を聞かせてもらった。あまり遠出をしたことのない身からすればとても面白く、飽きることがなかった。話が盛り上がって、二人してけたけたと笑っているうちに家に着いた。
小さな山を背負い、守るかのように建つ屋敷。母屋以外にも幾つもの建物があり、無駄に広い。そのせいで少しばかり荒れているところもないわけではないのだが。端から端まで見渡した青年は溜息を吐いて驚いた、と呟いた。
「あんたの家、でけえな」
「なんか先祖が偉い人だったらしくて。江戸時代には地主程度だったらしいんですけどね。この山を祀るお役目があるから一応まだここらでは本家のウチが力持ってるみたいです」
「、ってのか? あんた」
「あ、名前言ってませんでしたね。そうです。……どうかしました?」
表札を見た途端に難しそうな表情を浮かべ、なんでもないと言いながらも明らかに言葉少なになった。昔の彼女の姓と同じだったのだろうか。しょうもないことを考えて沈んだ空気を払拭しようとわざと明るい声を出した。
「ここ、海に近いじゃないですか。この山、昔はお城があったそうで苔生した石垣がちょこっと残ってるんです。そしてなんと私が城主の末裔なんですよ。ふふふ。ま、無名すぎていつできてなくなったのか全然判らないんで、ウチにあった胡散臭い古文書を解読してみたけどさっぱりだったそうで。嘘か本当か判らないからロマンなんです、って話ですよね」
偉そうに言ってはみたものの、自分でも信じていない。驚かせればしめたものだ、と青年の方を見れば全くの無表情で――少し青ざめてさえいた。人が好くても、外見はヤンキーだ。ヤバイ話題間違えた、と微妙に頬を引きつらせて小首を傾げてみたところ、一度視線を落として彼はゆっくりと口を開いた。
「……ここに城があったのって、戦国時代じゃねえか?」
話は間違えていなかったらしい。焦りを隠しつつ大げさに頷いた。隻眼が射抜きそうなほどにこちらを見据えている。挙動を一切見逃さないとでも言わんばかりだ。
「よく知ってますね! ウチにはそう伝わってます!」
「この辺りは島が多い海だ。水軍だったか商いだったか、だろ」
「そうそう、海上交易で財をなしたらしいんですよ!」
「四国平定に長曾我部が乗り出した時、内紛が起きた」
「それは知りませんでした。戦国時代に長曾我部氏に下ったそうですけど、その前後は資料がなくて判らないんですよ。江戸時代になった頃にはもう何の権力も持たない地方の有力者程度だったんじゃないか、って言われてます。けど、よく知ってますね。こんな田舎なのに。もしかして何かで有名になってたりします?」
本が出たりテレビで紹介されたりしたのだろうか。それにしては取材の類はなかったし、なにより地元の人間ではないこの青年が詳しく知っていることをその家の人間が知らないことがおかしい。分家筋なら一度は見たことがあるはずだから彼は絶対に違う。
真っ直ぐに向けられた瞳に捉われて息をするのも困難な錯覚に陥る。
「俺は、あんたを知ってる。……、」
「知らない。違う。私はそんな名前じゃない。人違いです」
わけがわからないことを言われ、混乱した。じりじりと後ずさりをしながら彼から距離を取る。青年は少しだけ悲しそうに目を伏せ、悪い、と首を振った。次の瞬間には汚れた両手を広げてからりと笑顔を見せた。
「すまねえ。水道と、できれば石鹸も貸してくれるとありがたいんだが。欲を言って悪いな」
「あ、いえ、こちらが助けてもらったんですし。いくらでも貸しますよ」
バイクを適当に止めて買い物袋をひったくると家の中に駆け込んだ。玄関に荷物を放って洗面所から石鹸とタオルを取ってきた。所在なさげに突っ立っていた青年を水場まで案内して蛇口をひねる。何故だか、互いに言葉少なになってしまっていた。
「ありがとうな。それじゃ、俺はこれで」
手を拭いた彼はにかりと笑う。改めて頭を下げた。
「助けて下さってありがとうございました。あの、これ、どうぞ」
冷蔵庫に冷やしてあったスポーツドリンクのペットボトルと、ガムやら栄養補助食品やらを心ばかりのお礼としてナイロン袋に入れてきた。このくらいなら荷物にならないだろうと考えてのことだったが、青年は片目を細めて首を振った。
「いいって。気にすんな」
「そういうわけにはいきません。どうか受け取ってください」
「このくらい普通のことだろ? 気にするんじゃねえよ」
「あなたにとっては普通でも、私にとっては時間を割いて助けて下さった恩人です。はいさようなら、なんてできません」
押しを弱めないこちらの相手をするのが面倒くさくなったのか、彼は渋々といった様子で袋を受け取ってくれた。嬉しくなって頬が緩む。家の前を走る道に出て、田畑を貫いて峠に続く先をビッと指差した。
「この道をまっすぐ行けば国道に出られますよ」
「もしかしてそっちの方が海沿いを走るより近かったりするのか?」
「あ、そっち使いました? かなり違いますよ、峠越えたらすぐ国道ですし」
「なんだよ……。それ知ってりゃここに来るのに迷ったりしなかったじゃねえか」
がっくりと項垂れる青年にくすくすと笑うと、じっとりと恨めしげに睨まれた。慌てて真顔になろうと試みたら彼も小さく吹き出して、結局二人で笑い合った。
「でも、そのおかげで自転車直してもらえましたし! 助かりました。道中お気をつけて」
「あんたこそ」
大きなバイクに跨って、フルフェイスのメットを被る。黒いジャケット、履き慣らしたふうのショートブーツに裾を入れたカーゴパンツ。こうしてみると、暗めの色合いに銀の髪と片目を覆っていた柔らかな紫の布がひどく目立っていたように思う。もう、隠れてしまったけれど。
キーを回し、ドルン、と大きく鳴かせてひとつ頷くと、彼はエンジン音に負けないように声を張り上げた。
「俺は、――昔、長曾我部元親だった。元親だった時にだったあんたに会って、あんたに惚れた。俺が元親だった記憶が少しだけあってな。あんたに会えるなんて思いもしなかったが。ま、戯れ言だと思ってくれてかまわねえよ。達者で暮らしてくれや」
言うだけ言うと青年は、長曾我部元親だった男は、振り返りもせずに片手を上げて走り去った。
――待って、私も言いたいことがある、お願いだから待って。
必死で走っても人の足でバイクに追いつけるわけもない。すっかり姿が見えなくなって道の真ん中に座り込む。あふれてくる涙のままに、ただ泣いた。
「どうして、いつも私の前からいなくなるんですか……!」
戻る
2009/05/18, 2010/03/12 訂正
四国の瀬戸内海側のどこか田舎の海辺の町の話だと思われます。
彼に関する話はいくつか案があるのですが、どうしても荒海が想像できずに羽休めの話になってしまうのが目下の悩みです。
夏頃に草迷宮的な話を、地理歴史民俗を調べて書こうとしていますが予定は未定なのと、まあBASARAだから、と。
よしわたり