「人間、弱味を見せたら負けだと思うのね」
鼻息荒くそう言いのけて、は槍を振るった。藁の的がざっくりと切り取られてぼとりと落ちる。
「おみごと」
濡れ縁に腰掛けて茶々を入れた佐助を眼光鋭く睨みつけた。
「なにが見事なもんですか、思ってもないこと言わないで」
「……へーい」
後片付けお願いねと言い残してはさっさといなくなった。籠手をつけたまま頬を掻いた佐助は首を傾げた。
「なんであんなのが姫様姫様って言われてんのか俺様全く判んない」
普段あまり使われることのない控えの間にささめく女の声に幸村は足を止めた。障子越しに誰何すれば答えの代りに中へ招かれた。隅に控えた侍女には見覚えがある。
「お久しゅうございます、幸村様」
「殿。来ておられたのですか」
頭を上げたに少しばかり居住いを正して顔を綻ばせた。は、女があまり得意ではない幸村が臆さずに話の出来る数少ない知り合いだった。
「父について先ほどお館様の御前へ参りましたところでございます」
「そうでございましたか」
「幸村様の御武勇、わたくしの耳にも届いてございます。武田の一番槍と戦場を駆けておられるとか。先の合戦でも真っ先に功を挙げられたとお聞きしております」
「そ、そのようなこと! 某はまだまだ未熟者、お館様にはとても及びませぬ」
「さように御謙遜なさらずとも」
穏やかに微笑むに、あわあわと言葉を探して幸村は固まった。旧知に会ったはずみで気安く話をしていたが、何より大切な事を忘れていた。
「この幸村、ご無礼をいたしました!」
がばりと頭を下げて平伏する幸村に、はきょとんとしたまま。真っ青な顔をちらりと覗かせて、つっかえつっかえ弁解する。
「その、殿は嫁に、行かれて……。そっ、某、知らなかったわけでは……、まこと申し訳ござらぬ!」
扇で口許を隠したはくすりと笑って可笑しそうに言った。
「嫁に入った家がなくなってしまいました。わたくしは出戻りの身でございます」
「もうしわけござぁああ――え?」
「夫は戦で命を落としました。よくある話でございます」
ゆるゆると顔を上げれば、が柔らかな微笑を崩さずにいた。それがなおのこと痛ましげに思われて幸村は眉を寄せる。
「……そうとは知らず、失礼を」
「いいえ、わたくしが先にお伝えしておくべきでございました。ご無礼、お許しくださいまし」
さらりと流れる黒髪に目を奪われる。碌な手入れもせず日に焼けて傷んだ己の髪とは比べるべくもないつややかなそれに、ひどく女を感じて、ぞわりと寒気がした。震える声を気取られぬよう臍下に力を込めてぴっと姿勢を正した。
「それでは、某はこれで」
がなんと返事をしたのか、はっきりと聞き取る前に部屋を出た。その場からできるだけ離れてから、じわり滲んだ脂汗を拭った。
書室に戻って一息つくと、計ったようにしかめ面をした佐助が天井から垂れ下がってきた。片眉を上げて何事か問えば、不機嫌そのままの声。
「旦那、の娘と話してたろ」
「それがどうかしたか?」
「あんまそういうことするんじゃないぜ。いらぬ噂が立っちまう」
これ見よがしに溜息を吐く佐助は十中八九、何もかも知っているのだろう。しかし、佐助は幸村の目付けとしてとも顔見知りで、そのひととなりは知っているはずだった。
「某は気にしておらぬ」
「あのねえ……。旦那はそうでも周りは違うんだ。そこんとこ知っといてくんない?」
「だが、当人が悪いわけではなかろう」
「あーあ、旦那のお優しさに俺様泣けてきちゃう」
よよよ、とわざとらしい泣き真似をする佐助に苛立った。幸村もも莫迦にしたような言い草も気に入らない。
「佐助。言葉が過ぎるぞ」
「いーや、旦那が判ってないみたいだから言っときますけどね」
佐助は逆さまにぶら下がったまま、眉間を押さえて首を振る。真っ直ぐに向けられた双眸に揺らぎはなかった。
「あれはもう旦那や俺様の知ってる奴じゃない」
「それは、歳月が過ぎれば誰しも同じこと」
「そういう意味じゃない。毒なんだよ。夫を殺した」
「夫を? どういうことだ」
詰問の体を帯びてきた幸村の口調に、佐助の語気も荒くなる。
「初めから相手を殺すために嫁に行ったんだよ。誰の差し金かは知らない。そもそもあの辺りはきな臭いってんで忍を使ってたんだ」
「忍隊がか」
「違う。俺は聞いただけ。これ以上仕事増やしてどうすんのよ」
「それで」
「嫁を取ってから一族郎等次々死んでった。残ったのはだけ。腹を痛めた我が子を亡くしても微笑んでた、ってさ」
へらりと軽い笑みを載せた佐助が跡形なく天井裏に消える。声だけが変わらずに響いていた。
「旦那が大将の上洛に全力を掛けているように、はその身を毒にすることで武田に仕えてるんだよ」
「それでは、あまりに哀れではないか……」
幸村の呟きに答えは返ってこなかった。
夜の帳が下りて、宛がわれた寝室で灯りを消すとは頭上に呼び掛けた。
「降りてきなさいよ、いるんでしょ」
「……あらら、よく判ったね」
隠れる様子もなく現われた佐助に、鼻を鳴らす。
「父とあたし以外に誰を警戒するっていうの」
「アハー。アンタのそういう明け透けなとこ、俺様嫌いじゃないねえ」
にやにやと笑う佐助の声を耳にして、は嫌悪たっぷりに吐き捨てる。
「あんたに好かれてどうするのよ」
「ご尤も」
「昼間は幸村様に悪い事をしたわ。お声に懐かしくなってしまって」
「弁えてくんないと困るんだけど」
「変わらぬお姿に昔を思い出して。あんたがいつ止めに入ってくるか、と思ったのだけど」
が苦笑する。
「昔とは違うのよね」
まーね、と沈んだ声の主が何を考えているのか、には判らなかった。
「あたしの話をちゃんと聞くの、あんたくらいよ」
佐助はくつくつと喉で笑ってそれに返す。聞いてやってる覚えはない、とは言わずにおいた。
「そりゃそーでしょうねえ。誰だって道具に意見は聞かないもんさ」
「道具、ね。あんたが戦の道具ならあたしは政の道具。あんたと違うのは、あたしはそこに在るのが仕事なのよ」
「そのわりにはべらべら喋ってんじゃん」
「それもあたしの価値なのよ。黙ってるだけの女が欲しけりゃ人形でも置いとけばいいのよ」
「辛辣ー」
「褒め言葉として受け取っておくわ。ああ、そろそろ左腕に気を付けた方がいいわよ。古傷が膿んじゃいそう」
「へえ?」
いきなり何を言うのかと佐助が左腕を持ち上げるのを、は白い目で見て溜息を落とした。
「一回切ってくっつけたでしょ、忘れたの? ま、あんたもあたしも生まれる前の話だけど」
左腕が比喩であることを仄めかされて、しばらく考え込む。思い当ったもので間違いはないだろう。
「あー、はいはい」
「酷くなる前に医者にでも見せることをお勧めするわ」
の口ぶりからして情報は確からしい。忍に負けず劣らずの網をどうやって張っているのか知らないが、佐助のように明確な主を持つでも部下を持つでもないが動ける範囲など限られている。半ば呆れ、半ば感心した。
「俺様からもイイコト教えてあげる。次は相模だってさ」
「そう、ありがとう」
なんでもないような素っ気ない返事をしたに、佐助は苦い笑みを浮かべた。
「同情するよ」
き、との表情が厳しくなる。鋭い声が飛んできた。
「同情? 莫迦言わないで。あたしは哀しんだ事も悔やんだ事もないわ。憶測で人を測るのは止めてちょうだい」
「これは失礼。んじゃ俺様はこれで」
「二度と戻ってこないようにするわ」
「できればこっちもそうしてもらいたいよ、姫様」
軽口を叩いてするりと体を天井裏へ持ち上げると、ぴったりと板を戻して埃臭く狭い空間を後にした。
佐助は建物の屋根に立って、ごきごきと首を鳴らす。東に立待ちの月がようやく昇り始めていた。
人も獣も眠る三更に、行燈の小さな灯りを頼りに鏡台に向っていたは、音もなく開いた障子に眉を寄せた。鏡に映る紅を載せる指から目を離さずに言う。
「二度と戻らないとは言ったけど、こんな再会は望まなかったわよ」
「俺様も」
朔の夜に身を溶け込ませるようにして部屋の外に控えていたのは佐助だった。腰に下げた手裏剣も戦装束も汚れひとつないが、死の臭いを纏って隠そうともしていない。はそれを気にするでもなく指についた紅を拭き取って髪を梳る。
「お館様や幸村様はお変わりない?」
「ピンピンしてるよ。今朝だって二人で拳を交わしてた。あー、それで伝言。すまなかった、実家への処分はない、ってさ」
カタン、と櫛を置いたの背がぴんと伸ばされた。出てくる言葉は佐助に対してのものではない。
「身に余るお言葉、もったいのうございます。それだけでわたくしは迷いなく黄泉路を行くことができまする」
「伝えとくよ。アンタもつくづく運のない女だね」
「こういう星の下に生まれたのよ、仕方がないわ」
手鏡も使いながら簪を挿すと、鏡に布を被せて手鏡も台に置いた。箪笥から一枚の着物を取り出して広げる。佐助が嘆息するほど美しく緻密な刺繍の施された打掛けだった。
「潔すぎていっそ怖い」
「そうとでも思ってなくちゃやってられなかったもの。やることやったらさっさと戻って報告なさい。あたしは惨めな姿を曝したくないの、特にあんたにはね」
羽織った打掛けを整えながらは声のする方を睨む。凝った夜気が小さく揺れた。
「あっそ。最期まで強がりだねえ」
「強さがあたしの鎧なの。弱かったらとっくに死んでたわ。さて、あたしはもう行くわよ」
が行燈の火を落として闇の中にひとつ瞬く。輪郭のはっきりと現われた佐助が言葉なく口を開いて、逡巡の末に一言だけ洩らした。
「……またね」
「笑えない冗談ね。いいわ、いつかまた会いましょ」
が、それはそれは奇麗に笑う。
きっちり結わえられた髪に簪を、白粉を載せた肌に眉を刷き紅を引き、豪華な打掛け姿もあでやかに、そして家紋の入った小太刀を手に。
佐助も笑顔を作って見送ると、その場から消えた。
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2009/07/10
こういう、色気の欠片も救いもない話を書くのが、実は好きです。
よしわたり
→補足と言い訳(諸々のバレあり)