七夕の夜に一緒に帰ってからも佐助も、今まで見て見ぬふりをしてきた二人の間の隔たりをほんの少しずつ、縮めていくようになった。


 たとえば。は洋室で佐助はリビングで寝起きしているため、佐助は絶対にの部屋には立ち入らないしは食事やテレビを見る時以外できる限りリビングに出なかった。間取りのせいで、の部屋はどこへ行くにも隣接するリビングから出ていかなければならないことはどうしようもないとして、基本的に二人とも一人の空間を作っていた。
 それが、時々部屋を隔てている引き戸を開け放して空間を共有するようになった。佐助はテレビを見ていたり、は雑誌を読んでいたり、それぞれに関係ないことをしていてもふとそちらに視線を向ければ目が合い、気恥かしさに笑ってごまかすようなこともある。の視線に気付いた佐助がへらりと困ったように笑うのや、なあにというようにくりっと目をきらめかせるのが、初めの頃とは別人のように穏やかになっていた。離れていても隙を見せないぎらぎらとした気配を感じていたのが嘘のようだった。

 今日も夕食を終えて、戸を開けたままがベッドにもたれかかってメールを打っていたところに皿洗いを終えた佐助が声を掛けてきた。
「ねえ、ちょっと気になったことがあるんだけど」
「なに?」
 顔を上げれば、佐助は何か考えているふうだった。
「子供が字を覚えるのはどうやってるの?」
「はい?」
 意味が判らずに思わず聞き返してしまった。の反応を予想していたのか、佐助が気まずそうにテレビを点けながら唇を尖らせる。
「俺様、ちゃんと字が読めてるわけじゃないからさ、読めるようになりたいんだ。その方が何かと便利じゃん。だからどうすればいいのかなー、って思って」
「え?」
「悪い?」
「そういうわけじゃなくて……」
 拗ねたような表情の割に佐助の声は真剣味を帯びていて、は驚いてしまった。かな文字が苦手というのは知っていたが、新聞を読んでいるし書くのに不自由していないから、まさか読めていないとは思っていなかった。そんな素振りは一切見せていなかった内心で何が書いてあるのか読めずに困っている佐助を想像すると、やっぱり少しおかしかった。
 はパチンと携帯を閉じて、ううん、と考え込む。字を覚えたのは物心つくかつかないかの幼い時で、しかも当たり前すぎてどうやっていたのかと改めて訊かれると非常に答えにくい。の説明はいつもどこかずれていると佐助が言うせいで、あまり説明するのが好きではないというのもある。
「小学校に入ってすぐ、ひらがなから勉強して覚えるの。それからカタカナや漢字も勉強していって……。初めの頃は『さ』と『ち』とか『め』と『ぬ』とか『ね』と『れ』と『わ』とか、形が似てるのはよく間違えて書いちゃったり。なんなら練習帳買ってこようか?」
「へー……。練習帳?」
「お手本が書いてあって、それのとおりに書いて練習するやつ。子供が使うやつだから判りやすいと思う。明日帰りに大きめの本屋寄って見てくるよ」
「待って。それなら一緒に行く。自分で見てみたい」
「それは別にいいけど……」
「じゃ、決まり」
 楽しみだなー、などと鼻歌まじりにテレビに向き直った佐助の背中に、は首を傾げた。今まで問題がなかったのなら別に無理して覚えようとしなくてもいいのではないだろうか、と。
 そう考えて、ははっと息を呑んだ。この間までなら、ここで話は終わっていたはずなのに、小さな小さな疑問が抑えきれなかった。どうして、という。
 ――佐助のことを、知りたい。

「……でも、急にどうして?」
 意を決してさりげなく訊ねてみた。ちらりとを振り返った佐助はにんまりと裏のありそうな笑みを浮かべて、ウインクひとつ。
「アハー、秘密。ま、もう少ししたら判るから待ってなさいって」




 翌日、大型書店の中の案内板を見ながらは難しい顔をしていた。漢字練習帳がどこにあるのか判らない。小学生の時は学校からもらって、本屋で買うことはなかったような気がする。
 子供向けの本、学習補助教材、育児、語学。それらしいと思われるところに目星を付けて絞り込む。
「学習教材のところかな……」
 きっとそこだ絶対そう、と自信のなさをごまかすように呟いて、後ろにいた佐助を見るとエプロンをつけた女性店員を笑顔で呼び止めていた。
「すいませーん、子供が文字を覚えるための本ってありますか?」
「はい、ございますよ。英語ですか? 日本語ですか?」
「日本語で」
「お子様がお使いになるのでしたら『こどものほん』の学習コーナーに、親御様がお教えになるためのテキストでしたら『語学』の日本語学習コーナーにございますよ」
「そう」
「はい。判らないことがございましたらお気軽にお尋ねください」
「ありがとう」
 ぺこりとお辞儀をして去っていく店員をぽかんと見ていたら、だってさ、と佐助が言った。も初めから店員に訊けばよかったのだ。ニマニマと意地悪げに緩んだ表情がそう言っているようで、癪に障った。
「じゃあ佐助は子供向けの方見てきて。私は語学のとこ探してくるから」
「手分けする必要ないじゃん。それに俺様一人じゃどれがいいのか判んないし」
 幼稚だと思いながらも軽く突っ掛かると、佐助はの心情を読み取ったかのように小さく肩を竦めて言う。真っ当なことを言われては返す言葉がない。は諦めて溜息を吐いた。
「そうだね……」

 こどものほん、とひらがなで書かれたプレートが下がった一角は、大小様々に色とりどりの本が並んでいた。何人か、親と一緒に絵本や図鑑を選んでいる子供がいて微笑ましい。普段はそれほど目にする機会のない子供向けの本に、佐助がどことなくわくわくしているようだった。棚に平積みにされた絵本を一冊手に取ってパラパラとめくる。
「おっ、この本すげー!」
 ずい、との目の前に差し出された本から、話の一場面が精巧な作りで立体的に飛び出している。仕掛け絵本につい驚いたり喜んだりしてしまうのは判るけれど、一人の子供が佐助を指差して母親に窘められていて、他の人の視線もさりげなく痛い。いい年をした大人の男なのだから、無理にでも場を弁えてもらわないと一緒にいるが困るのだ。慌てて本を閉じさせて小声で怒る。
「わかったからちょっと落ち着こう! 恥ずかしいよ!」
「ごめんごめん。でもコレ、楽しいね」
 謝りはしたものの、佐助はさっぱり反省していない様子で次々にページをめくっては飛び出す仕掛けを興味深そうに眺めている。はわざと大きく溜息を落とした。
「何しに来たか判ってるよね?」
「もちろん」
「じゃあ遊んでないで探してよ」
「はいはい」
 微苦笑を浮かべた佐助が絵本を棚に戻し、別の本棚を見る。もそちらを見ればひらがな、と大きく書かれた大判の本が数種類置いてあった。
「あれじゃない? なんて書いてあるの?」
「『はじめてのひらがな』。中、見てみる?」
「初めての……? いや、いい」
「どうして? こういうのが欲しいんじゃないの?」
 どこか引き気味に首を横にした佐助を尻目にはその本をめくっていく。遊びながらひらがなを覚えていくように作られていて、悪くないように思う。
「文字を知らないってんじゃないからねえ。俺様の知ってる字と、こっちの字を比べてくれるだけでいいんだ。そうしたら読めるようになるから」
「あ、そっか」
「ってことで、ここには用がなくなっちゃったね。語学、どこ?」
「下の階みたい」
「んじゃ、下りようか。……あのさ、それ買うの?」
 佐助に言われては自分が先ほどの本を持ったままだったことに気付いた。はっとして棚に戻せば、佐助は腕を組んでニヤニヤとを見る。
「付きっきりで教えてくれるってんなら、俺様それ買ってもいいけど」
「嫌だよ、私そんなに暇じゃないもの」
「そーいう意味じゃないんだけどね。ま、いいや」
 即答したに苦笑しつつ佐助が先に階段を下りる。その背中を見ながらは、もう少しかわいい反応はできなかったのだろうか、とこっそり落ち込んだ。




「語学はなんか違うんじゃないの?」
 ずらりと並んだ外国語習得のテキストや検定対策本。一見して佐助がそう言った。
「私もそう思う……」
 語学と言えば誰だってここにあるような本を思い浮かべるから確かに間違ってはいないのだけれど、今欲しいのは日本語の本だ。残念ながら、には外国語と日本語で何が違うのか判らない。二度も当てが外れてしまうと、もう探すのが面倒くさくなってきてしまった。
「一応見て回ってもいい?」
「ないと思うけど、一応ね」
 がやる気をなくしつつあるのに少し申し訳なさそうな表情を見せた佐助が、見てくるから待ってて、とを置いて本棚の間へ消えていった。
「このあたりどう? 日本語の勉強するための本じゃないかなって思うんだけど」
 戻ってきた佐助の手には、外国人が日本語を学ぶためのテキストが数冊。よく見付けてきたものだと思うけれど、は無言で首を振った。
「違うんだ……」
「これだと外国語と日本語を比べることになっちゃう」
「難しいねー」
「うん……」
 二人して大きな溜息を落とす。
 それでもは諦めようとは言えなかった。佐助がこの世界に馴染もうとする努力を今までに見せたことがなかったから、歩み寄ってくれたことが嬉しい。今は理由を教えてくれないけど、そのうちに判るだろう。どうにかして、佐助の力になりたかった。

 ふと、は佐助を見上げた。どこにでもいる、普通の人にしか見えない。普通の人より、かなりカッコいいけれど。
「佐助って昔の日本の人だよね?」
「たぶん、ね。なーんか違うみたいだけど」
 佐助は苦々しい笑みで、否定はしない。今はそれを信じてみようと、はこくりと喉を鳴らして思いついたことを話し始めた。
「日本文学とか日本史とかで見るような昔の本なら読めるんだよね?」
「それが何を指してるのか判んないけど、昔の本というか書物なら読めるよ。なんだっけ、たまにテレビで歴史なんとかってのやってるときに出てくる巻子本くらいなら」
「カンスボン? 漢字は読めるよね?」
「ほとんど形が変わってないやつは」
「ひらがなは形変わってる?」
「違うのが多過ぎて読めない。並びも違うし」
「いろは、だっけ」
「うん。いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす。今はなんだっけ、あいうえお?」
「もしかしたらだけど……、歴史の本の辺りを探したら佐助が読める字で書いてあるのを今の言葉に直して、しかも両方載せてる本があるかも」
 言いながら興奮してきて早口になってきてしまう。落ち着いて、と言う佐助もどこか落ち着きがなくなってきていた。じわじわと頬が緩んでくる。
 佐助がぱっとの手を掴んで、ひどく楽しそうに口端を上げる。
「何階?」
「この下」
 走り出す勢いで、二人は階段に向かった。




 ほどよく混みあった電車に揺られながら、佐助が書店のロゴのプリントされた紙袋を大事そうに抱えている。普通の人、とはちょっと違う佐助の姿はいつみてもおかしい。くすりと微笑んだは窓越しの佐助と目が合って、ぎこちなく視線を逸らした。
「……何笑ってんの」
「なんでもない」
 むっとしたような声で訊かれて、顔を逸らせたままは答える。それにひとつ息を吐いて、佐助がへらりと相好を崩した。
「しょーがないでしょ、嬉しいんだから」
 の予想は当たっていて、昔の文字――くずし字や変体かなというらしい――を読み解くための本は日本史と古典文学のところにひっそりと置かれていた。勢いのままよく値段を確認せずに数冊まとめてレジに持って行ってぎょっとしたのだが、佐助は迷うことなく支払いを済ませてほくほくしていた。
「でもよかったね、いい本が見付かって」
「うん。すっげーひらめき。いつもおバカさんだなーって思ってたけど、今日のでかなり見直したよ」
「ひどい」
「だって何か訊いても見当外れな答えだったり要領得ない説明だったりするでしょーが」
「佐助が訊いてくるのが変なことだから答えられないだけだってば」
「えー? 言い訳すんのー?」
 ひとしきり笑い合った後、メールの着信にが携帯を取り出した時に佐助はじっとその手許を見ていた。なんだろうと思いながらも返信してから顔を上げると、本の袋に視線を落とした佐助が瞼を伏せて小さく微笑した。
「ありがとね」
「どういたしまして」
「できるだけ早くひらがなもかたかなも読めるように頑張るからさ、期待してて」
 ぱちりと開いた瞳がを捉えて、きれいに細まる。慣れているはずなのに、どきり、とした。声が喉に絡まって出ない。
「……なにか、あるの?」
「んー、それはまあ、そのうちね」
 ほら、もう駅に着くよ。佐助が言い終わると同時に車内アナウンスが入って、会話はそこで終わった。


 が佐助の真意を知るのは、まだ先の話。








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2009/08/04
2009/09/02, 2009/10/30 訂正
どんどん長くなって終わらなくなってしまったのでもう一つ続きを書かねばなりません。おかしい。
ちょっとヒロイン視点強めになったのは、まさかの展開になってきたからです。話を書いていると、自分でも予測しなかった方に転がっていくのが楽しいのですが、同時に制御できていないということでもあって……。難しい。
よしわたり



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