隣の部屋の気配がすっかり眠りに落ちたのを感じ取ってから、衣裳箱を開ける。ひとかかえの風呂敷包みを取り出して広縁に出た。結び目を解けばさらに小分けにした包みがいくつか。扱いに注意しながらそれを広げ、薄く平たい包みを開く。大型で三枚刃の手裏剣が一対。風呂場から持ってきた手桶に浸していた砥石を出して刃を当てた。
目を瞑ってゆっくりと呼吸する。指先に意識を集中して感覚を呼び起こす。再び開けた視界に映るのは己の手と、命を預ける愛用の得物。
――よし。
心中で呟くと、刃を砥石に走らせた。
全ての刃の手入れを終わらせて軽く息を吐いた。首を回せばごきりと音がする。こちらでは使うことがないために、刃は潰れもせず取り換える必要もなく、手入れの頻度は自ずと下がる。だからといって曇らせることはできなかった。持っているだけで法に反するらしいが、これは譲れない。守るべき主も戦うべき敵もいないこちらで、おのれの存在を支える数少ないものだ。
新しく汲んできた水で研いだ部分を流しながら、隣室の出入り口に目を向けた。ガラス戸の内側はカーテンが引かれていて、見えない。時々寝返りをうっているのだろう動きはあれど、夢から覚める様子はない。
――こんなものを支えにしているなんて知ったら、どう思うかな。
水を拭き取った手裏剣を眼前にかざして傾けると、夜の光を含んで鈍く輝いた。忍を卑下するつもりではなく、佐助のことを大きく勘違いしたままのを思って少しだけ口端を上げた。
どうやらは佐助を武士か何かだと思っているらしかった。出会ってすぐの頃に二、三話しただけでそれ以降あちらについては話をしていない。あれこれ詮索してこないのはやり易かったから、そのままにしておいた。ただ、が佐助の事情を追求しないのと引き換えに、佐助はのことを何一つ訊くことができなかった。案外、佐助もを勘違いしているのかもしれない。
手裏剣の水気を完全になくしてから、一枚ずつ布に包む。解けてしまわないことを確認して風呂敷の上に置いた。その上に他の包みも重ねて口を結ぶ。部屋に戻って風呂敷包みを衣裳箱に仕舞おうとしたところで、底の方に入れていた斑の戦装束がちらりと目に入った。
――まだ、全部は言えないか。
ふっと笑う。
使った道具を片付け終え、布団に入るとすぐに瞼が重くなって、それに抗うことなくするすると眠りの底へ沈んでいった。
マンションというやつは人をたくさん住まわせるために適した形をしていて、角でなければ上下左右のどこを見ても人が住んでいる。それが顔見知りならまだしも見知らぬ他人ときては、陣中の方がまだ落ち着けるだろう。ここは独り身が多いマンションだから平日は大体の奴が仕事へ行っていて留守にする。初めは独りになれる時間を取るつもりで平日を休みにした。それを失敗だったと思ったのはこの家で暮らすようになってすぐで、やっぱり正解だったと思ったのは最近になってからだった。
午前はそこそこすることがあるけれど、それを済ませると急に暇になってしまう。食料を買いに行くなら日暮れ前に行けばいいから日中外へ出る気はないし、テレビを見たところでおもしろい番組もない。平日の午後は退屈に殺されてしまいそうだった。
そうやって考えて行き当たるのは、七夕のこと。
あちらと似ているようで違う、こちらの風俗を佐助に楽しませるのがは好きなようだった。説明するのはすごく下手だが。その日もいきなり笹を持って帰ってきて何をするのかと思えば、願い事を紙に書いて飾るのだと言った。生憎仕事柄、願い事と言われてすぐに何か思いつくような幸せな頭を持っていないから、少し悩んだ。言い出し手のの願いはといえば賞与を増やしてほしいというバカらしいもので、思わず笑ってしまった。だから、そのバカらしさに乗っかることにした。
――そろそろこの暮らしを終わらせてくれ。
叶いもしない願いをするなんて初めてのことだったが、別段気に留めることもなかった。笹を飾った時に見た空は時折薄い雲が流れるくらいの晴れ、雲の合間を牽牛と織女に鷺の姿が見えた。そういえば外でもあちこち笹を飾って浮かれた様子だったからまた何か目出度いものでも食べるのだろうか、とかどうせならビール飲みてえな、とかバカらしいことを考えていた。のことを笑っていられないな、とこっそり詫びておいた。その時はまだ、少し浮かれていたかもしれない。
翌日、仕事を終えて帰って来て夕飯を拵えていつものようにテレビを見ながらの帰りを待っていた。しばらく待っても帰ってこないようだったから先に一人で食事を済ませ、それでもまだだったから風呂も済ませた。帰りが遅くなる時は前もって互いに知らせておくようにしているが、はたまに何も言わず夜更けに帰ってくることがある。滅多に仕事の話をしないがそういう日だけはほんの少し愚痴を漏らす。普段なら仕事が長引いたのだと思っていただろうが、その日は何か引っ掛かっていた。
突然、笹に吊るした紙が頭を過ぎった。願い事といわれて何を書いたのだったか。
嫌な考えが浮かぶのを追い払おうと広縁に出て笹飾りを見た。飾りはゆうべのまま、なんら変わらずそこにあった。よく判らない安堵から息を吐くとバカらしくなってきて、欄干に身を預けて空を仰いだ。きれいに晴れ渡った中に煌々と輝く円い月によって星の明かりが弱くなってしまっていた。ただでさえ地の光が明る過ぎるせいで見える数は少ないのが月のために更に減っていた。
目が慣れれば、あちらと変わらない星空が見えてくる。
なにがどうして今の状況に置かれているのか、この日々に終わりはあるのか、何故佐助だけが異郷にいるのか。日頃考えないようにしていることが次から次に浮かんでは消えていく。こちらの暮らしにも順応して随分経つが、馴染んだつもりはなかった。が佐助に対して不用意に近寄らず干渉を極力避けているのと同様に、またはそれ以上に、佐助は一番近くに居るはずのからして理解を拒んでいるのだった。
考え出すと止まらなかった。ざわざわと落ち着かない心地が広がって、気分が悪い。深酒をしてさっさとこちらから離れてしまおうと家中の酒を出してきて、部屋の灯りを消し月を肴に独酌を始めた。忍の仕事に害が及ぶわけではないと判ってからは酷い酒の飲み方をするようになったけれど止めようとしなかった。体に悪いと悪し様に言われている煙草にも手を出して、もしかすると――。
不意に風が笹の葉を揺らし、佐助との願いを書いた短冊をひらりと撫でていった。
と、少しずつ話をしてみようかという気になった。佐助のこと、のこと、それぞれの後ろにある奇妙な二つの世界のこと。素性を知られないで暮らせるよう偽りのおのれを作り上げるためではなく、今の暮らしを続けていくために知っていきたいと思った。
そうして独りでいる間にすることがたくさんできて、これまで暇を持て余していた休日の午後がとても忙しい。目下の目標はこちらで使われている文字を覚えることだ。書物を相手にすることなど一生ないと思っていたから、仮名の解説本を積み上げて机に向かうのが新鮮で可笑しかった。自ら望んでやっているとはいえ、進まなくなってしまうと途中で逃げ出したくなるというのも身に沁みて判った。ぶつぶつと文句を垂れながら書き物をする赤茶けた尻尾髪の後ろ姿へは、今度から爪の先くらいは温情を見せないといけないなと考えて笑ってしまう。自然と緩んでくる頬を取り繕うのは止めた。
そろそろが帰ってくる時間だ。机の上を片付けて本を衣裳箱にしまう。に一度も見せたことのないこの中身はあちらの色が濃いが、説明をするのだってもう巧くやれるはずだ。少なくともよりは。
――さて、何から話そうか。
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2009/08/30
むつかしい……。
よしわたり