風が穏やかで月のきれいな夜。見晴らしの良い離れからは夜釣りを楽しむ人影がちらほらと見え、我も我もと競い合って鳴く虫の声に、どこかの家の前で獅子舞を行っているのだろう賑やかな音が微かに届いてくる。秋も深まり、月の光にさえ島の木々は赤や黄に燃えているのを誇らしげに見せている。
は一人、月見酒を楽しんでいた。杯に満たされた清酒に弦月が揺れ、ぐいと飲み干す。皿に盛られた柿をひとつ齧って目を閉じれば、鉦や太鼓の拍子が耳に心地よい。と同時に、人が歩いてくる音が聞こえた。訝しむ間もなく届いた久しぶりの来訪の声にそれが誰であるかを知る。
背を屈めて鴨居をくぐる長身の男は肩から紫紺の上着を引っ掛け、躑躅の腰帯に牡丹の袴。海を映しとったような右目を持つ男はどかりとの横に座るとにっと笑った。
「よう、邪魔してるぜ」
「勝手に上がらないでもらいたい。それに迎えの席をお開きにしてから飲み足りぬと数人で町へ下りたのではなかったのか、元親殿」
空いた杯に酒を注ぎながら視線だけを向けてはわざとらしく言って寄越し、軽く肩を竦めた元親がくつりと喉を鳴らして徳利に手を伸ばす。
「ちいと忘れものがあってな」
が徳利を抱え込む前にひょいとそれを取り上げてぺろりと舐めると、元親はわら半紙で包まれた器をへと投げた。包装を解いて月明かりに照らした陶器は南蛮渡来の茶碗で、見たことのない風景に南蛮人が描かれごってりと装飾され、の目にはいささか華美に過ぎた。
「……趣味に合わぬ」
元親の顔を立てて形だけは目を通すとは少々難しい表情を浮かべて器を置き、別の徳利を開ける。ちぇ、と呟いておもしろくなさそうな顔をした元親が仰向けに寝転がる。
「陸に上がるのが久々すぎてまだ揺れてんだ。ここで休ませてくれや」
「ここからならば安芸は目と鼻の先、懇意にしている毛利殿のところで休まれよ」
「俺とあんたの仲だろ?」
「気持ちの悪いことを」
しかめ面を険しくさせたに笑って元親は徳利を傾け、それに大袈裟に溜息を吐いてもまた杯を重ねる。
遠く近く、潮風に乗って聞こえる祭りの先触れ。二人の間に会話はなく、虫の声がいくらか大きくなったようだった。
瀬戸を臨み、視線を交わすこともないままに尋ねる。
「毛利殿は変わりなく?」
「ん? おうよ、いつものようにつっけんどんに追い返されてきたぜ」
元親の仲立ちで休戦の席を設け、顔を合わせた安芸の大名、毛利元就。おそろしく目を引く容姿をした稀代の策略家。氷のような、と掛かる言葉があれほど似合う男もおるまい。
「黙って座っておれば見目麗しいくせに、やることなすことえげつない」
「はっは! 奴に言わせりゃあんたも同じようなモンらしいがな」
対極に位置する者同士だからか、毛利と元親はそこそこ話をするようだった。ときにあの容貌からは想像もつかないことを言うのだと知ってから、それを聞くのが少し面白い。ましてや己のこととなれば興味深いのは猶のこと。
「ほう?」
杯の下に緩む口許を隠しつつ元親に目を遣ると、それは楽しそうな隻眼が向けられた。
「の女は和いだと見せかけて荒ぶる、もののけだとよ」
西海の鬼から聞かされた渾名が物の怪というのも一興か。笑いの波が引いてから、きりりと神妙なおもてを取り繕って思案するように言う。
「……しばらく大人しくしていたからな。近々燧灘の先へ船を出そう」
「やるなら俺んとこのと、癪だが毛利んとこのは見逃してやってくれ」
燧灘の向こうは芸予の瀬戸、三島村上の本拠地である。敵対していた時には襲撃をかけたこともあったが、暗黙のうちに互いの領海には手を出さないようになっていた。
「ふふ、冗談だ」
「なんだ、やらねえのかい?」
先の言と今の拍子抜けしたような声音からして、元親はの演技に引っ掛かってくれていたらしい。月を浮かべた杯を覗いて口角を上げる。
「余計な火種は撒くまいよ」
ふと、あることを思い出した。切り出し方次第でどのような反応があるか、少しは判ってきたつもりだ。
「そういえば、ご自慢のカラクリは無事か? 貴殿があちこち浮浪している間に幾度か狙われたようだが」
「浮浪って言うんじゃねえ! お宝を探してんだ! それに俺が留守の間を狙ってくるような奴らがあれに勝てるわけ……、って知ってたのか!?」
がばりと上体を起こした元親の、予想に違わぬ勢いのよい答えに内心で大笑しながら意地の悪い笑みを浮かべてみせる。
「四国に入るには船を使うしかないだろう? いい儲けになったよ」
「てめえ!」
吼えた元親の隻眼に射竦められて、ふっと息が詰まる。
敵に向けられるのと同じようなそれに少々やり過ぎたことを悟って、動揺に気付かれないように無理やり視線を外へ向けた。早鐘を打つ心音ばかり大きく、他には何も聞こえない。
「なに、長曾我部を敵に回したわけではない」
しかし、纏い慣れてしまった国主という衣は僅かな綻びさえ許しはしない。が何を思おうと、その機微は表に出ることがないのだ。現に今とて顔色ひとつ変えることなく、呼吸ひとつ乱すことなく、言葉は淀みなく続く。
「行き帰りの警固でふっかけて、戦場では長曾我部軍に加勢していれば、どちらも強く出られまい」
「そうかい……」
幾分か勢いのなくなった声がして、元親は再び横になったようだった。
無味になってしまった酒を水を飲むように流し込む。最後の一滴をちろりと舐めて空になった徳利を転がした。
「俺はあんたのそういうふてぶてしさを気に入ってるが、国許の野郎共はそうじゃねえ。……あんまり無茶してくれんなよ」
「ご忠告痛み入る」
呆れたような溜息に、くつくつと笑う。
の変化に気付いているのかいないのか、言葉を選ぶように語りかけてくれた元親。これが野郎共、アニキと言い合う間柄の部下達や、あの毛利とさえ気安く話ができる所以かと薄っすら微笑う。
「元親殿、東国での話はないか?」
それからしばらく、元親が長旅の道中に会った人々や起きた事件を聞き、また、たわいのない四方山話を続けた。
外を眺めていたが、ふと微苦笑を浮かべて振り返った。なにか言いたげなその表情に起き上がって膝を組む。
「私は少し、元親殿が羨ましいよ」
「どうした、急に」
「自由気ままに海を渡って、見たことも聞いたこともないような土地を旅して。船の上で寝起きして部下と騒いで、時々船や村を襲ったりたまに陸に上がったり。話に聞くだけで充分だと思っていたが、元親殿と話をすると、な」
困ったように微笑む。意外だと隻眼を見開いていたが、にっと口端を上げて手を叩いた。
「少し国を空けるくらいの余裕はあるんだろ? 乗ってけよ、歓迎するぜ」
「――――いや、いい」
ぱちくりと瞬いて、それからすうと目を細め口許に薄い笑みを刷いて、はゆるく首を振る。威風堂々とした姿しか知らない元親にとってそれは、家当主という衣裳を取り去ったの姿に見えて思わず、、と呼び掛ける。
「さて」
元親が声を出すよりも早く、は襟を正していた。
「もう夜も晩い」
火打ちで手燭を点してが立ち上がる。陰影の強くなった青の着物に蘇芳の帯、ぬばたまの、とは形容し難い髪は色目を活かすためか簪で巻き上げている。少し冷えたのか腕をさすって雨戸を閉めながら言う。
「二の館に床の支度はできているが、湯を使うも茶屋へ行くも好きにしてくれていい」
徳利をぐいと呷って空にし、目を上げた。
「あんたはどうするんだ?」
「どうする、とは?」
「あー、その。……独り寝か?」
目を逸らし、頬を掻きながら呟いた言葉にが噴き出した。笑うんじゃねえよ、とばつ悪く顔を背けた元親にもう一度笑って、退室を促す。のそのそと出ていく背中に追い打ちが掛けられた。
「共寝の誘いなら断るぞ」
「ちげえっつってんだろ!」
振り返った部屋にの姿はなく、からからと笑う声だけが聞こえていた。
おもては離れの中よりも冷えていた。数回くしゃみをして鼻をこすり、上着に袖を通そうとしていたところにばさりと布を投げられた。広げてみればそれは綿の入った胴服で、向こうに呆れ顔をしたが立っていた。
「そのような格好をしているからだ」
「すまねえな」
羽織っている間にはさっさと歩いて行ってしまう。距離を置いて後を追いながらその後ろ姿を眺める。
ゆらゆらと揺れる灯りに陰は深く、元親よりも随分小柄な体に女であったのだと知る。一国の主として見ているからかがまとう覇気の強さにか、かつて刃を交えた相手がこれほど頼りない背をしていたと気付きもしなかった。国と民を背負ってしっかりと地に立つは生半な男よりもよほど好感が持てた。が、それとは違うなにかが今や隠れきれずにいる。
「」
前を歩くの手を掴む。思ったよりも冷たい指先に、考えるより先に引き寄せていた。
「なんだ、元親殿」
見上げてくる双眸に宿る、対峙する者に畏怖の念を覚えさせんばかりの気魄。きりりと張られた弦のような目許、三日月のように弧を描く唇。目眩がした。
「話がしたい」
「今までしていただろう?」
「……わかってんだろうがよ」
「すまない」
くすりと微笑んだに、茫洋としていた気持ちが何であるかを確信する。引く気は、もうない。
は、と息を吐いて空を仰ぐ。片割れの月がやけに明るく見えて右目を細める。
「なあ、――月が奇麗だな」
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2009/10/11
2009/10/17 訂正
羽休めでもいいじゃない! 女は港ってばっちゃが言ってた! と開き直った結果がこれです。「知らない名前」と根っこは同じですが、あれが一葉ならこれは地下茎の一本な感じです。
最後のセリフは夏目漱石によるかの有名な和訳より。粋なことこの上ないと思います。
よしわたり
→言い訳と元ネタ(諸々のバレあり)