佐助が一つの戦忍を拿捕し、己が主と為り替わって忠実な駒に仕立て上げてから幾星霜。名も衣食住も与え、その代りに佐助の一の駒と為って動けと主命を下した。
かつては名の知れた戦忍だったそれは佐助によって名で縛られた為、彼の意のままに使うことができた。力量はもちろんのこと問うまでもなかった。忍の身体には重量のある甲冑を音も立てずに動かし、真田忍隊の他の者に遅れを取る事はほとんどなく。忍と言えば容易に切り裂けると思って油断している相手の兵刃を、がちりと薄く硬い鋼で防いで難なく事を済ませてしまう。
猿飛佐助が得た駒は、遣い易く主に反抗の素振りも見せない、意思を全く持たぬ人形の如きでありながら――愉快な玩具だった。
幾つか、草木も寝静まる三更の時を狙って城内に潜り込むものがあった。おやすみだったのになあと溜息を吐いてから、佐助は名を呼ぶ。
「――」
どれだけの声量でもこの駒はすぐに馳せ付けた。甲冑を纏いながら音もなく、忍隊よりも早く。
「ここに」
「追え。すぐに戻って来い」
「は」
もう、いない。
軽い身支度を整えると、佐助は真田忍隊を呼び寄せて城外の四方八方に散らせた。外に媒がいる可能性は高い。城内のものは既に捕縛なり始末なりされているだろう。報告を焦れたものがいるなら都合もいい。
――ま、いたとして一、二。恐ろしく足に自信のあるのだろうがな。
「それでも俺様自慢の部下だし捕らえてくるだろ。――なァ、?」
佐助は、くいと顎を自室の明り取りの小さな窓に向ける。外には息を殺したが戻ってきていた。首を三つ落として参りました、淡々と報告する声に変わりはなく呼吸の乱れもない。
「全部だろうな」
「は」
「逃したなんて無様な事、してないよね?」
「断じて。蓋し城外には媒が」
「それはアンタじゃない、真田忍隊の仕事だ。アンタは俺の駒。言うことだけ聞いてりゃいいの。旦那には明朝、これから大将の所に報告へ向かう。ひとまず検められたこと全部言いな。首は残さず片付けて来い」
言え、と命じられながらも、無言。は忍だけが携帯している城内の地図に逃走経路、それらの所持品から解る所属、首二に昏倒一の理由、それらを簡略に記すと佐助へと預けるべく窓から差し入れた。そちらの方が効率がよいと判断しての事。
さ、と目を通してふうん、と一つ息を吐いた佐助が再びに目を遣った。
「殺していないそれだけ必要だな。後は忍隊に任せるからそこへ置いておけ。誰かに運ばせる」
「は。噛ませた布と手足の縄はそのままでよろしいのですか」
佐助とは違う方法を取っている、ということを暗に言うに、んふ、と佐助は愉快そうに笑った。
「忍隊は俺の駒の存在を知ってる。そんじゃ、その首の始末、任せたよ」
「は」
姿はない。濃く漂った薬か毒か、血の臭いも消している。そういえば首だというのに、一切の血を流していなかった。感心すれども方法を知ろうとは思わない。さすがだねえ、と半ば呆れ、半ば感心しながら、佐助はさっきまでの居た陰の落ちた庭を見下ろした。
「佐助! 昨夜賊が入ったというのはまことの話であるか!」
朝飯を食べる前、真田幸村におそろしく気合の入った声を耳に入れられて、佐助はそれを右から左へ流した。食膳を運んできた女中は哀れ耳を押さえてしかめ面をして出て行ったが。
「旦那、飯食わせてよ。報告はその後」
「む、そうか。早朝修練の後、お館様から深夜に侵入者あり、と聞いた時には何故気付かなかったものかと悔やんだが」
「あのね、相手が忍だったの。旦那では対処できない相手だったから忍隊が動いていたわけ。ま、詳細は追々。前田の旦那じゃないけど、今は飯!」
ほぼ払暁まで報告に尋問に、と動いていた佐助が大欠伸を隠しもせずにひとつ。ゴキゴキ、と凝り固まった筋肉を鳴らしながら真田隊の主、幸村に答えて返す。いっただきまーす、と佐助は茶漬けと香の物だけの食事をさらりと喉へ流し込んでいく。
「しかし、佐助がこうして飯食を取っているということは、」
途絶えたままの幸村の言葉に、旦那続きを言ってくれないと、と食事中に顔を上げた佐助はあわや箸を取り落とさんばかりだった。
「――そなた、殺気はないが。何者だ。ここには武田の者以外おらぬはずだ」
戦と同じ程に気迫の強い幸村の声。それが向けられているのは、黒い装束に白い伎楽面を付けた人、らしきものだった。いつの間にか少しだけ空けられた障子の隙間からそれは室内に入り込み、板間で控えていた。
堂々と未だ低い朝日の差し込む中、しかも、佐助の主の前に姿を晒した陰の者。よほど火急の件なのだろう。溜息を落とした佐助は、かかっと残った飯粒をかき込むと箸を置いて膝でそれの近くへ寄った。
「旦那、安心して。俺のだから」
んふ、とその忍を人形遣いのように背後から腕を、頭を動かして、意のままに操れることを証明した佐助に、幸村はふ、と詰めていた息を吐いた。
「佐助の駒か。新しく入れたと言っていたな、いつぞや。それがそうか」
「そ。昨夜もこれ動かしちゃったからその件で来たんじゃないの? ちょっと旦那、外しててもらっていい? これから話を聞いてから鍛錬所に行くわ」
「……わかった。では、しっかり報告を入れてくれるか。それに俺の相手も頼むぞ」
「ええっ、また!? しかも朝からって碌に寝てないんだけどさ」
「言い訳無用! 佐助も偶には朝から体をしっかりと動かすとよい! お館様や俺のように朝起きてすぐ修練に励むようにならねばな」
「あんたらがおかしいんだって! 普通は朝から全力で殴り合いなんかしないよ!」
「佐助っ! 俺だけでなくお館様まで侮辱するか!」
「侮辱してないじゃない! 大将も旦那もお強いですねえ、って誉めてんでしょうが!」
しばらく考えるようにしていた幸村であったが、脳裡では何を思い立ったのか、顔全体を緩めつつ、ちらりと佐助を窺うような視線を遣した。
「そうとは取れぬ物言いであったが、まあ、そういうことにしておこう。――そういえば、少しばかり団子が食べたいな」
呆れを満面に浮かべて、佐助はげっそりと息を零した。
「はいはい、昼下がりにでも買いに行かせますよっと。全く旦那は忍を何だと思ってるんだか」
「佐助が行かぬのか?」
「昼から軍議でしたでしょうが。昨夜の件についての。だからこれに命じて行かせるから安心して。店の場所も旦那の好きな団子も覚えさせればいいだけの話」
しかし、と幸村が怪訝な目で黒い忍を見る。ああ、と佐助が主の言わんとする事を解して苦笑した。
「大丈夫。これも優秀な忍だから、さ。変装なんてお手の物。甲冑と面さえ取れば只人と変わらなくなるんだ」
「これは取れるのか。まこと忍とは理解し難き者である」
布装束の下に着込んだ甲冑に気付いていた幸村は驚嘆に率直な感想をもらしていた。確かにそれは、初めに佐助も思ったことなのだが。
「なんならここで脱がせてみせようか、旦那? 俺が一声命じればこれは従う。――あ、でも中身は女だった」
「な、な、なんと! おなごの身で真田忍隊ではなく佐助の駒を単独するほどに……、いやいや、破廉恥ではないか!」
かあ、と顔に朱を上らせた幸村に意地悪げな笑みを浮かべて、佐助は駒を立たせて布を取り払う。破廉恥、と言いながらも、しっかりと着込まれた甲冑に目が向いているのはやはり幸村が戦人だからであろう。
薄く、場所によっては軟く、けれども硬い鋼。何があってもその素材については口を割らない。追求しようとも思わない佐助に、駒はどうにも調子を狂わされているようではあった。面の下の目から訴える物があったが、佐助はそれに気付かぬ振りをして主に声を向けた。
「そ? でもこの甲冑さ、旦那も見習ったら?」
こつこつ、手の甲で鳴らす肩から首筋を伝って佐助の手は楽面の顎にかかる。
「あまり着込むのは好まぬ」
「だからってさ、その上半身ほぼ剥き出しの姿で戦に出陣するのもどうかと思うけどなあ、主君の命を守る従者からしてみれば」
「武将たる者、敵に命を狙われるほどに目立てば他の自軍の兵に目は行かなくなる、そうは思わぬか」
派手すぎる武田信玄といい、真田幸村といい。それに自分も含まれるのだろうな、と自嘲して、佐助は小さく肩を竦めた。
「ま、俺が言っても旦那は聞かないんだって知ってるけど。――そんじゃ、無駄話もこの辺で」
女中が膳を下げてしばらく経ち、周囲に三人以外の人気がなくなってから佐助の顔から笑みが引いた。
「うむ。頼んだぞ、佐助。それに、」
「これは『』って名。いいでしょ、俺様が付けたんだ」
薄く口許だけで笑った佐助の内面には一切気を払うことなく、幸村は上に立つ者の姿を見せた。
「では、。よろしく頼む」
す、と音もなく平伏した佐助の駒――。驚きからか僅かに瞠目した幸村に向かってそれは礼を述べた。面越しに更に布を重ねた聞き取り難い声で。
「真田様にお会いできるとは思ってもおりませんでした。先程の非礼はどうかお許しください。団子は猿飛様からお聞きして買いに行って参ります。――以後、ほぼ見えるはなき事かと存じますが、お見知り置き下されば」
「堅苦しくせずともよいぞ、。駒、と佐助は言うが、それは佐助が認めたと言うことであろう? ならば某も信頼しよう」
「ありがたき、お言葉」
拳を握った右手を左手で包み、それを平伏して下げた頭上に掲げた。それが古式な上級礼だと知る者はここになく。満足したように頷いた主と、この鷹揚さは絶対大将譲りだと悩みを増やす忍一つ。
「では佐助。先に行っている」
「了解」
それだけの短い言葉で済む。その主従関係がひどく羨ましい、と仕えるべき主を守りきれなかった忍の心裡をしくりと痛めた。
「それで、何の用? わざわざ真田の旦那に顔見せに来た訳じゃあ、ないよね?」
「首二つ、深懐と口腔、胃に密書を隠しておりましたので至急届けに参りました。洗浄はしてございます、ご安心を」
つ、と佐助に差し出されたのは固めの油紙に包まれた密書とやら。
後始末に体を分解する前にそういった所を検めるのは慣れぬ忍ではできない。体を、文字通り微塵切りにしてしまうのだから。それを淡々とやってのけ、しかも盛大に血塗れただろう体からは何の臭いもしない。佐助がひゅう、と楽しげに口唇から音を鳴らした。
幸村の気配がすっかり遠ざかってから、佐助は彼の駒の呉女をつい、と上げる。下から現れたのは、かすがにも負けず劣らずの美しく白いかんばせだった。それこそが面であるかのような。
「この顔、まだ他の誰にも見せてないってホント?」
至極楽しそうに佐助は問う。こくり、と肯く駒は不本意極まりないといった様ではあるが。
「父母と猿飛様以外に面を取られた事はございませぬ」
「俺様、すっごい優越感! あは、この奇麗な顔も肌も、忍には必要ないねェ。くノ一としての任務に就かせるには戦慣れしすぎてダメだしなあ。――俺の為だけに見せるんだ、いいね」
「は」
するすると佐助の両手がの顔の輪郭を、頬を、額を、眉を、目許を、そして震えて閉じられた瞼を、鼻梁を、唇を。ゆっくりと丹念に辿っていく。
「戯れが過ぎるのでは。報告に参った次第でありますれば」
「駒をどう扱おうとそれは俺の勝手だぜ? 駒が口出しすべきことじゃあない」
「……は」
そうして、きゅ、と結ばれた唇に、にい、と笑うと佐助は己の指を舐めてそこへと当てた。ひくりと湿り気を帯びた感触にが震えた隙、だった。
佐助が両手での頬を掴み、齧り付くように口付けながら呉女を投げ捨てた。
「ん!」
声を出そうと口を開ければ熱を帯びた舌がの口に押し込まれる。幾度も経験したそれを忘れるはずもなく、は無言の抵抗を続けること数分。口内へ侵入を防がれた佐助は不満げに瞳を揺らし、その奥に見え隠れする劣情を隠しもせずに笑った。
「知恵つけちゃって、まあ。――駒は絶対服従。言ったよね、俺様」
「ですが、報告がございます。それに真田様の命もお受けしなければならぬはず」
顔色一つ変えずに駒の持ち主たる佐助に口答えした。佐助の嗜虐心はそれだけで燃え上がった。板間に鋼鉄の体を組み敷き、にいい、と笑う。
「甲冑の外し方も判っていることだし? 少しくらい言う事聞きな」
あ、言う事じゃないか、とからりと笑う佐助には感情が見えない。ただ、腹を空かせた獣のような瞳に映る劣情の炎だけが唯一の感情といって差し支えなかった。
駒としてから、佐助はこの鋼鉄に包まれた体を何度か蹂躙した。が甲冑を着ている状態で、且つ、時間に余裕のある僅かの間。支配感だけで高みに上り詰め、精を吐き出せばそれで終わり、だった。駒は一切声も出さずに佐助の下で耐えている。それがまたそそるのだ。舌なめずりをする獣はこういう気持ちなのか、と佐助は笑う。あは、と。それはそれは常のように。
面の下で唇を噛んで声を堪え、悔しがっているだろう姿はまた、劣情を煽るのだ。そして、今回はそれを外して決して駒の手の届かぬ所へ投げた。辛苦にか憎悪にか後悔にか、歪められた顔を堪能したい、と佐助は思ったのだった。
だが、それは――佐助の思っていたどの表情とも感情とも結びつかないものだったのだ。
「……」
「は」
「なんでそんな悲しそうな顔してんのさ」
「しておりませぬ」
佐助は半眼になる。己に巣食った獣を追い遣ると、立ち上がった。すぐさま控える姿勢をとった駒に底冷えする声音で言い吐く。
「興醒め。憎みな、俺を」
「命を救われてどうして憎めましょう」
「救った? 勘違いってのは怖いもんだ。俺様はあんたから総てを奪って主に成り代わった。そんで、あんたは駒。――その顔、二度と見せるな」
見下ろす形になった佐助からは、伏せたの表情がどんなものかは窺い知れない。ただ、今しがた見せていた悲哀を湛えた顔だけが焼き付いていた。
「申し訳ございませぬ。なれば面を取らずに事を」
「今度からはそうしようっと。その表情、大嫌いなんだよね。……かすがみたいじゃん」
言って佐助はあからさまな舌打ちをした。かすが――上杉の戦忍であり彼の同郷の者である、程度にしか知らぬは佐助の心情など欠片も判らなかった。ただ、主の命には絶対、だから従い、余計な口出しをしない。諫言できるのは表の者のみ、陰の者は諌める事も従わないこともできない。
これまでもそうして生きてきたというのに、「」の名を与えた主はどこか不思議な忍だった。これまで彼女が教えを乞い、共に戦い、相手としてきた者達とは、彼は根本が異なっている。彼女は戸惑っているのだが、佐助はそれに関しては一切触れてこない。むしろ愉しんでいるかのようだった。戯れだろうと踏んでも惑う心を隠しつつ応じていた。
「申し訳ございませぬ」
「もういい。茶屋の場所と団子の数、覚えて行って来て。旦那には俺から渡す。あんたを直接旦那に会わせるのはまだ早いと思ってたんだけどなあ、俺様の計画台無しにしてくれちゃって」
一回しか言わないぜ、と佐助が早口に茶屋と団子の種類、そして一人で食すには少々多いかと思われる数を口頭で伝えると、復唱を求めた。はその通りに答えて返し、興味を無くした佐助の生返事を受け取った。
「では、行って参ります。――猿飛様、どうかお許しくださいませ」
つと指をついて武家の女が如くに頭を垂れたを見下ろし、佐助は大仰に溜息を吐いた。
「なァにに謝ってんの」
「――何、と受け取って頂いても結構でございます。それでは」
隙間、としか言い様のない障子の間からは退出した。
「はー、疲れたぁ……。そもそも大将や配下の武将様、それに旦那が頭つき合わせて議論するような所にお呼びが掛かったのなんて数えるくらいしかないって。ったく、緊張したー!」
自室に戻り、儀礼用と言っても差し支えない上下の衣裳をそのままに佐助は寝転がった。悪態を吐くのも相応の仕事をしたから多少は見逃してくれるだろう。もっとも、佐助自身は指示を飛ばし、捕虜や密書から得た情報を表向きに話しただけだったが。それでも真田忍隊長、猿飛佐助の情報処理あってこその報告だと、武田信玄直々に公の場で評価されたのだ。
自分の事でもないのに狂喜乱舞しそうになった幸村を他人に見えないように大慌てでこっそり抑え込んだり、真田忍隊の働きぶりが他国にも広まっている事を懸念する意見に佐助が同意しては叫びそうになった幸村をまたがくんと押さえつけたり、と自分の報告以外の情報は議事録に目を通さなければ全く判らない有様だった。
「面倒なんだよなあ、手続きもさせられるし……。入りな、」
大の字に寝転んだまま、障子の向こうに座していた影に視線だけを向けて、佐助は声を掛ける。
「失礼いたします、猿飛様」
す、と面を軽く伏せつつ静かに開く所作、着ている衣服、結っている髪、傍へ控えめに置かれた荷物。女中そのままだった。ふ、と上げた顔は先日化けた時とは別だった。変化とはまた違った忍の変装術は、個人によって差が大きい。は変装術に関しては佐助を上回る技術があった。佐助の場合、髪色と言動をあまり変えようともしないのが原因かもしれない。よほど重要な仕事でない限り特に変えていない。
転がったまま、ぼんやりと視線を女中に向けていた佐助を、彼女は疲弊しているのだと思ったのか、深く頭を下げた。
「お疲れの所、大変申し訳ございません。依頼されていた品はこちらに。――出過ぎた事を申し上げますれば、衣裳が皺になってしまいます。どうかお着替えくださいませ」
が面を伏せたまま、漆塗りの平盆に載せられた風呂敷包みを、すう、と前へ出した。包みの中は竹ワッパに詰められた幸村の為の団子。毒見をするのも面倒くさい、と佐助は主に仕える忍としてあるまじき思考を巡らせつつ、彼女の発言――曰くに、出過ぎたそれ――、に表情を無くした。
「旦那の所へは女中姿のまま俺についてきな。一度あんたが信用に値するかどうか、旦那に見極めてもらわないといけないしね。団子に毒を入れるなんて莫迦な真似はしないということを証明してもらう」
「は」
まあそれはいいいや、と呟いて、佐助はうふ、と笑った。
「着替えさせてくんない? 丁度女中なんだし」
「――は」
一瞬、間があった。男物を着脱できない、ということはないだろう。ならば何を思うのか、と佐助の笑みが深くなる。
「何? 俺様の体見んの恥ずかしい?」
戦忍として戦に明け暮れたこの女は、男に対する忍の術を何一つ学んでいなかった。を己の忠実な手駒に仕立て上げはしたものの、佐助はわざとそれだけは矯正しなかった。
「いえ。では、着替えを手伝わせていただきます」
短い返答だが、ほんの僅かの動揺が滲んでいた。質素な箪笥から佐助の着物を取り出すとは視線を落として訊いた。
「こちらでよろしいでしょうか。それとも戦装束にいたしましょうか」
「今日はもう休みだって大将に言われちったからねえ。んー、着流しはちょっと忍として警戒がなさ過ぎるか。そこそこの暗器を隠せるのにしてくんない? あんたなら判るだろ」
まだ仰向けに転がったまま天井を見ながら声を出す佐助に、駒は言われるがままに従った。
「は。では……、古めの衣裳ではありまするが、こちらはいかがでしょうか」
畳の上に丁寧に並べられた暗緑色の衣服。ちらりと視線を向けた佐助は呆れ声を出して、の顔を見上げた。
「なに、それ」
「箪笥の底に埋もれておりました。虫には食われておらぬ様子、着られぬことはござりませんでしょう」
「そうじゃなくてさ、なんで俺様がそんな下働きの奴らみたいなの着ると思うわけよ? 躾が足りないかな」
厭味を込めて言葉に乗せても、は引きはしなかった。
「確かに猿飛様のお召し物としては相応しくありませぬ事は重々承知。ですが真田忍隊の長としては休暇を頂いたと。なれば何を着ようと同じでございましょう。着崩してしまえば猿飛様らしゅうなるかと思いまして。――それに、常の戦装束に似た色にてござります」
は佐助の忍らしからぬ戦装束を好んでいる、と彼は薄々感付いていた。佐助がの甲冑に興味を示すようでありながら、そうでないように。明るい飛ばした髪も、時折ふと見ていることがあった。そうして、頭の形が判るほどに短く切ってある自分の髪を哀しげに触れていた。
「あんた、俺に何求めてる?」
不意をついて出た佐助の言葉に、何も、とは感情なく答えてみせた。
「今更求めるものなどござりませぬ。我が主、猿飛様の命に従う駒、戦忍が一」
沈黙が下りて、佐助はまた天井を見上げた。そのまま、これは俺の独白だ、そう言ってやけにゆっくりと呼吸をする。が、息を潜めて存在を殺した。
「あんたを手放すわけにはいかない。余所で雇われちゃ厄介だ、それもある。だけどな、俺はあんたを気に入ってる。気に入ったから側に置いて駒にした。我侭なんだよ俺、忍だってのにな。旦那も大将も守らなきゃならないし、忍隊隊長としての務めも果たして、更に単独で動く事だってある。忍なら、いつ死ぬかどこで死ぬか判らないような中、主の為に粉骨砕身働いて、死んだら代わりは補充されてお終い。俺なら旦那が悲しむくらいのもんさ。……かすがも、なんだかんだで悲しむだろうが、あいつの心の中での比重は俺より軍神様だ」
一度、話を切る。佐助の瞳が動いてを捉えた。
「もう少し、俺が消えても悲しむ奴が欲しかった。猿飛佐助の不帰だけを悲しむ奴が欲しかった。我侭だからな。主を亡くそうとも強くあり矜持を捨てない女の戦忍、こいつが悲しむんなら満足だと思ったね。あの夜、ほんの僅かの接触で俺は決めた。初めてあんたの面を取った時の興奮はたまらなかった。そりゃ俺だって男だぜ、別嬪が良いに決まってる。ぞくりとしたなァ、あんたの顔は戦忍とは思えない、ただ双眸だけが戦の色に染まる。その面のせいだろうな、忍でない奴は騙せたろうが、忍にゃわかるんだよ。――あんた、感情が顔に出すぎてソレなしじゃ使いもんにならないんだよね」
の表情が厳しくなるが、視線だけは変わらない。ほら見ろ、と言わんばかりに佐助は口の端を引き上げた。
「だから、あんたはいつまで経っても俺の駒。羨ましいんだろ、俺が。忍の中の忍、この猿飛佐助を欲しくて欲しくて仕方ないって顔してる時あるぜ? だけど俺は真田の旦那の忍だ。あんたにゃ一欠けらもくれてやらない。せいぜい、そうやって望んで羨んで悔しがればいい。……そんで、俺が死んだら、あんたのもんになってやる。旦那には報告だけ入れて、あの夜の場所に誰にも言わず葬ってくれよな。時々、変装ナシの戦忍の姿で、面だけ取って参りに来い」
主命だから取り消さないぜ、と笑う佐助は、また顔を仰向けていた。膝の上できつく拳を握り締め、今にもぐずり出しそうなを視界に入れない為に。
「……猿飛様は、何もかもご存知でいらっしゃった」
必死に嗚咽を堪えているかのようなの声。
「判らないわけないだろ、手駒の求めることくらい」
「私は、忍として未熟に過ぎると思い知らされました」
「ま、俺相手だからね。戦忍としては充分だぜ」
よ、と上体を起こした佐助は、女中姿をしたの腕を引いて引き寄せる。体勢を崩されたが落ち着いたのは、佐助の腕の中だった。
「俺を憎め、って言ったけど。前言撤回。俺に対して何を思ってもいい。……けど、いつかその面を取らせて素顔を見せてくれ」
俯いて佐助の腕にしがみつくがどのような表情をしているか、佐助には判らない。しばしの後、小さな返答があった。
「かしこまりました。猿飛様を憎んではおりませぬ。いつか、いつか必ずや私の顔を猿飛様にお見せいたします」
「ありがとさん、」
佐助も見られていないのをいい事に、にへらと笑んでいた。
主と駒。一線を決して越えなかった佐助とが、一歩だけ線を踏み越えてしまった。互いに優秀な忍であるからには領分を侵してまで触れようとしなかった。先に線を踏み越したのはどちらだったろうか――。
「さて、そろそろ着替えさせてくれない? 旦那が遅い遅いってうるさくなるからさ」
「は」
佐助は立ち上がってを促した。がするすると佐助の衣裳を脱がして、もはや飾りとなりかけていた衣文掛けにそれを吊るす。木綿の単衣だけになった佐助は忍らしい体型をしていた。細身でありながら柔軟で無駄のない筋肉をつけている。の視線が瞬間だけ落ちたのを佐助が見逃すはずも無く、んふ、と笑って告げた。
「また羨ましがってるでしょ、。女はこうなれないねェ、残念だけど」
「はい……」
手許に替えの衣服を持つと、は黙って佐助に着付けていく。一度しっかりと着付けてから、軽く緩めていく。苦無や短刀を忍ばせていても違和なく、且つ、佐助らしく。
「いかがでしょうか」
「んー、いいんじゃね? ちょっと帯を組替えさせてもらうぜ」
手早く結び目を前に持ってくると、ささっとより楽な結び方にして元に戻す。
「申し訳ございませぬ」
「いいって。俺の好み。覚えといて」
「かしこまりました」
微笑がのせられているのは佐助もも同様だった。小さめの暗器を幾つか仕込んで、佐助が障子を開ける。彼に従って風呂敷包みを載せた盆を手にした女中が付くが、二人の間に会話はない。音も立てずに歩く忍と、しずしずと足を進める女中が向かうは、真田幸村が私室。
新たな関係を築いた忍に彼は気付くだろうか。団子が遅かったと愚痴を零すだけかもしれない。だが佐助の駒、というだけであっさりと信頼を寄せた彼の事、器の大きさならば武田信玄に勝るとも劣らないだろう。
考えていた事は佐助もも同じだったのだろうか、佐助が口唇だけを動かして言葉をのせた。
「旦那にはさっきの話、するんじゃないよ」
「は」
「俺が恥ずかしいし、旦那は破廉恥、って言うに決まってるからね」
「はい」
くすり、と微笑むは女中の姿で、戦忍のではなかった。残念、と唇を尖らせた佐助に、いずれまた、とも音無く答える。
「旦那ー、遅くなっちまってすまない。団子、持って来ましたよっと」
軽い口調の佐助の言葉が終わる前にすぱん、と障子は開かれていた。
「佐助か! 待ちくたびれていたのだぞ!」
「すみませんね、ちょいと着替えに手間取ってさ。あ、この女中、ね。朝いたでしょ」
ずい、とを押し出す佐助に、幸村は目を瞠ってまじまじとを見ていた。はあ、と溜息を吐いて首を振る。
「……まこと忍の変装とは驚きの言葉しか出ぬな」
「ありがたきお言葉。それでは私は茶を点てて参ります。こちらがご所望の団子ですが、何分真田様とは今朝見えましたばかり。毒見をいたしますので申し訳ございませぬが私が食するまでお待ちいただいてもよろしゅうございますか」
「うむ。形式ではあるが守らねば」
「では一度、失礼いたします」
幸村が手を出さないように風呂敷包みごと盆を持って茶器と湯を取りに行ったの後姿を悲しげに見つめる主に、佐助は盛大に溜息を落とした。
「旦那、つまみ食いしてあいつが毒入れてたらどうするのよ」
「しかし佐助、目の前まで来た団子が遠ざかっていくというのはなかなかにきついものがあるぞ」
「はいはい、旦那の甘味好きはもう病気だねェ。ほら、先に中入ってを待とうよ」
「……そうする他ないではないか」
「わかってんなら早くしてくんない? いつまでもその情けない顔見るの辛いんだぜ。これが日本一の兵、真田幸村だなんてとてもじゃないけど言えない」
「今はただの甘味好きの源二郎がよい……」
「ああもう判ったから! ほら座ろう!」
呆れが頂点に来た佐助は、ぐいぐいと項垂れた幸村を部屋へと押し込んで、畳に転がすようにして座布団に座らせる。机に顎を乗せるという子供のような主の姿に心裡で涙しながらが早く戻ってくるのを待つのだった。
佐助、と幸村がぼそりと忍の名を呼んだ。
「なんですかね」
「、とはよい名だ。よき目をしていた。――死なせるでないぞ」
「承知。言われずともそうするつもりだったんだけどね」
佐助が声を上げたのと満足げに幸村が笑んだのと、お待たせいたしましたとが座して障子を引いたのは同時だった。
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2008/08/28
2009/10/31, 2010/01/06 訂正
かつて、名は人を支配するものと考えられていました。貴族や将軍など、一定以上の地位にいた人間がたくさんの呼称を持っていたのはそういう理由もあるそうです。
だから、佐助は名前を付けることでヒロインを支配している、と。
「鋼鉄の忍」と同設定ですが、あちらでは能面だったものを妓楽面に変えています。能が広まったのは室町以降、貴人の遊びとして発達したそれの面を、忍ごときが用いるはずもないという理由です。
よしわたり