「ああ、もう秋だ……。どうしよ、赤本ほとんど手つけてない」
窓の外、グラウンドで練習する陸上部を見ながら、学校のいたるところから聞こえてくる吹奏楽部の音を聞きながら、はひとりごちた。高校三年生、つまり大学受験を目前に控えた生徒の一人。そのくせ、椅子だけを窓際まで引っ張っていってぼんやりしているのだからどうしようもない。
「よく言うよ。模試の点数がいいから、ってセンセにセンター入試勧められたくせに」
独りきりだと思っていた教室に、以外の声がして、彼女は振り返る。罪悪感もなく教卓に腰掛けた男子が、呆れたようにを見ていた。
「猿飛君。……何で知って？」
「あのね、このクラスで県内・全国模試で上位に食い込んでるのは俺様とちゃんだけなの。だから噂になってるよー、職員室で」
さっきまで職員室に行ってたから、そう言って彼は笑った。人好きのする笑み、だが、はどうしてもこの男子が苦手だった。気がついたらいる、それが怖かった。
猿飛佐助は顔もいいし、人当たりもいいから、男女問わず人気者だった。現にの友達の一人も彼に恋心を抱いている、と打ち明けてくれた。けれど、はその子に対して話を聞いてあげて、難関だね、としか答えることができなかった。は、猿飛佐助が怖い。まさかそのようなことを友達に言うこともできない、しかも彼に好意を持つ子に対しては。
ぼんやりしていたのだろうか、気付けば猿飛はから二つほど離れた机に座って同じように窓から外を見ていた。内心で驚きながらも、彼の横顔を窺う。視線に聡いのか、彼はすぐにの方を向いてふと笑った。
「ねえ、ちゃん。大学どこ行くつもりなの？」
突然の質問に、ぽかんとしていると、彼はもう一度、大学どこにすんの、と苦笑しながら訊いてきた。
「あ、うん。東京の大学に行きたいの。私立なんだけど、私のやりたいことができそうな学科があるから……。下に兄弟がいるから私立で両親には申し訳ないんだけど、絶対そこへ行って勉強したい」
「へー、立派だね」
「そういう猿飛君は？」
「ん？ 大学って遊ぶところでしょ？ だから就職に有利な国立に入って、遊び倒すよ」
へらっと笑って彼は事も無げに言った。そんなことが言えるのも、彼が相応の学力を有しているから、なのだが。あは、と笑っては彼に応える。
「そっか。遊ぶのもいいよね。バイトとか、サークルとか、コンパとか。楽しいんだろうね」
「楽しいに決まってるよ！ そのために嫌な勉強に耐えてきたんだから。大学入ったら、単位落とさないギリギリのところで遊ぶつもり。だから、さ。ちゃんみたいに真面目に勉強に励むっていうのは立派だよ」
素直に褒められて、僅かに照れながら、は微笑んで礼を言う。
「ありがとう。――でも猿飛君は就職まで考えてるし。私、そこまで考えてなかった」
「一流企業か国家公務員になるにはブランドが必要、ってだけ。どうせ俺、給料分以上は働かないよ。きっとね」
「巧くサボるんだ？」
「そいうこと。そんでもってお給料がいいとお得でしょ？ 俺は楽に生きたいんだ」
ふっと笑って、彼はから視線を外し、窓へ向き直る。なぜだか、それが寂しそうに聞こえて、はつい声を掛けた。
「ね、猿飛君。大学、どこへ行くの」
振り向いた彼が、驚いた表情を見せた。いつも飄々としている彼の、そのような表情はが初めて見るものだった。すぐに、それは消えて、彼はへらりと笑っていた。
「気になる？」
気をもたせるような、言い方。とん、と机から降りて彼はへと、ゆっくり歩いてくる。
「……気になる。模試のライバルだし、私より上のランクだったら悔しいから」
一歩、また一歩。猿飛の歩みは至極ゆっくりだった。の腰がわずかに引かれて、かたん、と椅子が鳴った。
「そっかぁ。じゃ、言わないでおこうかな、たぶん悔しがるよ」
に、といたずらっぽく笑った彼の顔は、の間近。身動き一つ取れずに固まってしまったの耳に口を寄せて、猿飛佐助は小さく告げた。
顔が離れて、ようやく真っ赤になったに声を出して笑いながら、彼はさっさと自分の席のカバンを引っかけて教室の出口に背を預けると人差し指を自分の唇に当ててにんまりと笑った。
「二人だけの秘密、ね」
じゃあね、と彼は姿を消した。
後に残ったのは、両手で真っ赤になってしまった顔を覆って、上がった心拍数をどうにか落ち着かせようとするだけ。もう彼女にはグラウンドも楽器の音も届いていなかった。
「ど、ドッキリかな、これは……。いやいやまさか」
独りきり、混乱するがようやく落ち着きを取り戻したのは、すっかり日が落ちて、鍵閉め担当の吹奏楽部員がの姿に悲鳴を上げてからだった。
――ちゃんの受かる大学のすぐ近く。わかるでしょ？ だから、一緒に上京しようね。
戻る
2008/08/08
2009/10/31, 2009/11/10 訂正
大学受験を控えた方は、今一番大変で、ピリピリしている時期だと思います。頑張ってくださいね。
よしわたり