ごうごうと風が吹き、隙間を抜けてひゅううと鳴る風の音に、灯りの落ちた部屋で女が独り両腕をかき抱いていた。はあ、と吐く息は白く、板間に直に敷いた布団は薄い。宵闇に慣れぬ目で枕許を探り、上掛けを肩から掛けて長い髪を後ろで結える。起こした上半身はすっかり冷え切ってしまい、ぶるりと一度身を震わせた。
「今宵は帰らぬのか」
宙へと放たれた女の声に、くすくすとしのび笑いが返る。かたり、風にかき消えるほどの微かな音がして、どこからともなく長身の男が女の横に立っていた。
「風が強いからね。俺様、飛べないの」
「冗談を。腕利きの忍なのだろう。このような処に居てはお前さまの主が泣こうぞ」
「あはー、アンタはそんなこと気にしないでいいんだって。女の許を訪れる男を叱り飛ばすような主じゃないんでね」
「寛容なこと。善き主に仕えておるのだね。――それで、今宵は何の話を持ってきてくれたのだ」
それまで男の方を見もせずに話をしていた女が、言って男の方を仰ぎ、瞬いた。暗闇に不思議と溶け込んでいる男の姿は女が捉えるのは難しい。薄い唇が弧を描き、男は女の隣に腰を下ろす。かちゃかちゃと金属の触れ合う音がして、暖かな男の手が女の頬を滑った。
「アンタの処に来るのに俺様は話持って来なきゃダメなの? ないよ、なーんにも」
大きな男の手にそっと手を重ねて、女はほうと笑んだ。
「ならば早う去れ。このような逢瀬、知られてはお前さまが困ろう」
「困るのはアンタだろ。武家の一人娘が名も知らない忍を寝所に迎え入れてたなんて知れたら、折角決まった婚姻がなくなっちまうばかりか一族諸共白い目で見られるようになるよ」
「……知っていて来たのか」
「俺様をなんだと思ってんの。夫になる男の話をしてやるよ」
驚いたように目を瞠った女へ、男がにたりと笑って口にした。
「お前さまの口から他の男の話など聞きとうない。輿入れは二月後だと父上が言っておった。もう来てはならぬぞ」
「どうして? 俺様にはなーんの関係もないことだ。アンタがどうなろうと知ったこっちゃないね」
「相も変わらず酷い男よの」
「その酷い男に情を抱いてるアンタも充分酷いんじゃないの? ねえ、身体を暴いてやろうか。相手は初夜に何て言うかな。考えただけでもぞくりとする」
暖かくしっかりとした、けれども細身の男の体に女はぴったりと抱き寄せられて、互いの心音を聞きながら決して互いの表情は見ない。そうと男に回された女の細腕がほんの僅か、ひくりと引きつった。男がそれを見逃すはずもなく、くっと喉を鳴らして笑う。
「アンタが子を為したところでそれはホントに我が子かと疑って止まないよ、きっと。正室になるはずのアンタも、跡継になるはずのアンタの子も、疎まれ蔑まれ廃嫡扱いを受けて生きなきゃなんないだろうね。アンタは生家の血を絶やすことになるんだ。武家の娘なによりの不孝だぜ」
「さまで言うなら、今、ここで、お前さまの手で断絶させればよい! この首を捻ってしまえ! さすればお前さまの任も果たせよう!」
くつくつと笑い止まない男からばっと身を剥がし、女は低く唸るように叫ぶ。声高に怒鳴れば近くの従者がすぐに走り寄ってくるだろう。左手を胡坐かく大腿に、右手を首の後ろへと回し、睨みつける女の視線をさらりと受けて、男は微笑んだ。
「ああ、知ってたの」
「主に、お前さまを慕った女を迎えさせるわけにはいかぬ。ほんに腕利きの忍よ。――お前さまが案じずともよい、婚姻は近々白紙になろう」
力無い笑みを湛えた女の瞳に揺るぎない覚悟を見て、男は溜息を落とした。呆れからでも、疲れからでもない無色の溜息だった。
「なあ、今更アンタは信じないだろうけど。楽しかったんだぜ、この数箇月。忍に話を乞うたのは俺様の主とアンタくらいのもんだ。ホントはさっさと始末するはずだったのにさ、ついつい長居しちまったせいですっかり先延ばしになった挙句、俺様の手を下すまでもないときた。なんだろうね、変に落ち着かない」
「気に留めることはない。お前さまは忍、人とは違うのだ。人はさような心をうつろと呼ぶ」
「うつろ、ね。ありがとさん。そうしとくよ」
「もう風も弱まったろう、主の許へ帰ってやれ」
笑った顔を俯けて、女が息を吐く。同時にごう、と一際大きな風が鳴いた。ふっと笑みをもらした男が、ちゃきりと金属音をさせながら立ち上がった。
「アンタも嘘が下手だね。それと水より白刃を勧めておくぜ。水は見れたもんじゃなくなっちまう、美人が台無しだ」
「いらぬことを」
「うん、俺様の私情。だって、好いたかもしれない女が目も当てられない姿になっちゃ悲しいだろ。せめて添い遂げることが許されないならさ」
「可笑しな事を言うのだな」
「あれ、おかしい? 人ならそう言うだろ。そんじゃ、帰るとしますか」
とん、と軽い音がした時には既に男の姿はなく、部屋は女独りのみとなっていた。ばらばら、打ちつけはじめた雨音に耳を傾けて女は髪を解き、しばらく天井を仰いでいた。
「……空が泣いておるのか」
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2009/02/14
2009/11/08 訂正
これをまさかバレンタインに書いたなんて、どれだけ病んでいたのだろうかとびっくりします。
よしわたり