――ああ、どうしようか。
 がりがりと後ろ頭をかいて、綿のたっぷり入った柔らかな布団に佐助はばたりと仰向けになった。ううんと伸びをして、さらりと肌触りのよい麻の懐に手を入れる。
 どれもこれも、あちらでは決して忍が享受できるようなものではない。いや、御門や将軍でさえ手に入れることはできないのではないだろうか。それを当たり前のように使えるこちらの人間は幸せだ。ただ、それに気付いている者は少ない。

 ぼうと明かりを消した天井を見上げてまどろみ始めた頭を振って、また起き上がる。眠ってしまうわけにはいかないのだ。解決策がないのならさっさとあちらへ逃げ帰ってしまえばよいのだが、今はどうしてもそうしたくなかった。
 ――あの時、こっちでいるのは偽りのない猿飛佐助として、って決めたんだ。それで、あの子と一緒にいられたら。なーんて、思ってみるんだけどなぁ……。
 はああ、と肺腑の息を吐き切るほどに溜息を落として、垂れ落ちてきた髪をかき上げる。組んだ膝に片肘をついて、顎を預ける。隣の部屋からは静かな寝息が聞こえてくるばかり。いい気なもんだよな、と声に出さずに零してまた頭をかいた。


 誰が悪いわけでもないのだ。
 ただ、現況を打開する策を佐助もも持たないというだけで、元を辿れば異郷に佐助一人がぽつねんと捨て置かれただけのこと。原因も理由も判らなければ、恨むも嘆くもできようはずもない。――それらを探ることは諦めた。知ったところでどうするというのだろう、二つの世界で「猿飛佐助」という男が、「そこに生きる忍」と「全くの異世界から訪れた人」。どちらの世界の意識をも保ったまま存在している事に変わりはないのだから。




 仮名文字はどうにか覚えた。いろはの歌ではなく、あいうえお、の並ぶ順番で全部言えるし、読める。書く時に筆の如くに流してしまわない限り、大抵の場合は不思議そうな目で見られることはなくなった。
 仮名が読めるようになると、次は辞典だった。新聞もテレビも、との会話でさえ意味の判らない言葉が多すぎた。これまでなんとなくで済ませていたものをきちんと知っていこうとして、音から仮名を探し、意味を一つずつ見ていく。よく使うもの、簡単なものから、と思っても何がそうなのか佐助にはいまいち判別がつかない。でたらめに調べていたのではどれだけ時間があっても足りそうにない。
 が手空きの時は、日常に使うような言葉から聞き出して調べることができるのだが、いつもそうとは限らないし、なによりは説明が下手だ。何かを聞かれて説明しようとがうんうん唸っている間に、佐助が調べ終えてしまうことが少なくない。ある時、ほとほと呆れ果てた佐助に対して、は「当たり前のことだからどう言えばいいか判らないの」と俯きがちに呟いた。
 その言葉にはっと理解せざるを得なかったのだ、――佐助はやはりどう足掻いたところでこの世界にとっての異邦人であることを。


 こちらの人間は当たり前であるものが、佐助にはそうではない。
 そのことが、千尋の谷のようにこの世界を佐助と隔てている。が差し伸べてくれる手は遠く細く、そして、とても頼りない。忍ではない、只人である猿飛佐助はこの谷を易々と跳ぶことはできないし、そのたおやかな手に縋ればもろとも見えない谷底へ落ちてしまうだろう。それだけはなんとしてでも避けねばならなかった。佐助に歩み寄ってくれてはいても、はこの世界の人だ。異邦人たる佐助の我が儘での平穏を乱すわけにはいかない。

 こちらに来てしばらくは騙し騙され、見知らぬ他人の暮らしをかき乱す、忍である猿飛佐助のまま生きていた。どうせ眠ってしまえばあちらに戻れるのだからと軽い気持ちでいたのかもしれない。
 三月経て四月経ち、段々とそれが通じなくなってきて行き場をなくし、どうにでもなってしまえ、と自棄になっていた時にと出会った。一回目は、「死にたくなかったらうちにおいで」と言われた。二回目は、「死ぬの」と訊かれた。声からして女だったが顔を見る気にもならず、敵意もないから放っておいた。三回目に、「身元不明死体が近所で出ると迷惑だから私の身内ってことにして葬式するから来なさい」と強い口調で言われて思わず目を上げた。そこにいたのはこちらではいたって普通の身なりをした女だった。無表情だった女は佐助と視線が合うと、「無縁仏になるよりマシでしょう、私が毎日拝んでやるんだから」と微笑んだのだった。
 その、あまりに突拍子もない言葉に、久しぶりに笑みがこぼれた。警戒は解くことなく、口を開いた。
「俺は佐助。あんたは?」
。佐助、あなたが死ぬか回復するまでの間、私が世話をしてやるから感謝して」
「……はは、礼は言っとく」
 今でもありありと思い出せる。冷たい雨の降る夜だった。




 こちらの人間にあって佐助にないものは数多い。そのうちで最も重要なものが戸籍と住民票というやつだった。己の出自や所在を明らかにする、なによりの証明。佐助はそれがないから定職には就けないし、病をしても臥せって快復を待つしかできない。諸々の免許やら資格やらも取れない。
 いつだったか、が「佐助はフホウタイザイシャね」と言っていた意味を最近ようやく知った。不法滞在者。あちらで言うところの南蛮人がこの国での滞在資格を持たずに在住していたり就労していたりすること、らしい。新聞やニュースで時々見聞きしていたその言葉。知ってからは色々と調べた。大体は国外追放処分、生まれ育った国に帰されてしまうのだ。
 ――ならば、生まれ育った国がここにない者はどうなる? 俺は、どうすればいい?

 ぞ、とした。法に治められた国ばかりの世で、まるきり寄る辺のないおのれの足許が、見る間に音を立てて崩れていく――。
 どうにかならないだろうか、とわずかの希望を求めて調べ始めたのに逆に行き詰まってしまい、佐助は途方に暮れた。しかし、そんな中でもには何も言わずにいたから、二人にとっていつもどおりの生活が続いていた。少しずつ少しずつ、千尋の谷の渡り口を探ってみたり、橋を架けようとしてみたり。大体は徒労に終わってしまうのだが、賽の河原よりはマシだと言い聞かせて佐助は谷を越える手段を探し続けている。
 は以前ほど無関心ではなくなって、佐助のことを訊ねてくることがある。そうして知った、当たり前のことが当たり前でない者への説明の難しさ。何をどこから言えばいいのか、こちらではどのような言い回しをしていたか。咄嗟の判断でできるものならば答え、そうでなければ適当にごまかすことにした。も深くは追求してこないし、佐助も態々話して聞かせる気もないから、しばらくはこのままだろう。




 二人での夕食を終え、は暖かな敷物を敷いた床に座って座卓に肘をついてテレビを見ていた。食器を濯ぎ終えて乾燥機を回し、佐助は既に定位置となっているソファの右側に腰かけた。
 が見ているのは恋愛ドラマというやつだった。お互いに別の仕事をしている男と女がすれ違いを繰り返しながら、どうにかこうにか付き合いを続けていく物語。はそれがお気に入りのようで、決まった曜日の決まった時間に必ずこれを見ていた。佐助にとってはおもしろくもなんともないが、今話しかけてもまともに取り合われないと学んでいるから、黙って同じようにテレビを見ていた。

 そのドラマが終わって短いニュースと天気予報が流れ、がぐっと伸びをした。これから風呂に入るつもりだろう。言うならば今しかない。
「……あの、さ」
 たった一言切り出すのに、信じられないほどの勇気と時間を要した。口がからからに乾いてしまっている。しっかりしろとおのれを叱咤して、振り返ったに真っ直ぐな目を向ける。
「俺、こっちの人じゃないから、戸籍がないでしょ? でも、どうにかしたい。だから、近く役所へ行ってこようと思う。追い返されるかもしれないし、根掘り葉掘り話を聞かれるかもしれないし、もしかしたら捕まっちまうかもしれない」
「え?」
 佐助の言葉に、は驚いたのか小さな声を上げた。それに硬く笑いかけて、ちょっと難しい話になっちゃうけど、と続ける。
「実はさ、元の世界とこの世界、毎日毎日行き来してんの。ここで眠ったらあっちで目が覚めて、むこうで寝たらこっちで起きて。不思議なことに疲れはないし、あっちの俺とこっちの俺は同じなんだけど、ちゃんと違ってるって判るんだ。――いつか言わなきゃいけないと思ってたんだけど、遅くなって、ごめん」
「ええ、と? ……どういう、ことなんだろう、ね?」
 ゆっくりと、判りやすく説明したつもりだが、は難しい顔をして首を捻る。佐助とて理解するのに随分と時間がかかってしまったものを、がすぐに理解してくれるとは端から思っていなかったが、欠片も判っていない様子に苦笑が出てしまった。佐助のそれに返ってきたのは、の見慣れた笑顔。――できないことが情けなくて、困っているのを知られたくなくて、表情に出してしまえば相手に伝わってしまうから、そうないように、と曖昧に浮かべる微笑。
 佐助は、のそれが好きでもあり、嫌いでもあった。自身はそのような表情をしているとは知らず、照れ笑いをしていると思っているらしい。だから佐助も知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。

 硬かった笑みをへら、と緩めた。
「こっちじゃ俺様、住所不定無職ってやつだろ? 名前も佐助だけ。だけどあっちじゃ、こうしてる今も、住処も職も所属も全てはっきりしてる。――それに、猿飛佐助って氏も名も、ある」
「さる、とび?」
 聞いたこともない、と言って繰り返されるのが面映ゆい。苦笑しつつ、裏面の白い広告に字を書いて見せた。
「言ってなかったしね。獣の猿に、ヒコーキの飛。猿飛、佐助」
「猿飛、佐助……?」
「うん。それが俺の名前。――よろしく、さん」
 に、と唇を引いての名を声に出す。ぽかんとしたの顔が可笑しかった。
「名前、初めて……」
「うん。なんか踏ん切りつかなくって、呼べずじまいだったからさ。いい機会でしょ? 何て呼べばいい?」
 開いたままの口許に手を当てたは、見る間に赤くなっていく。あんまり見開きすぎると二つの目玉が落ちちまうぜ、と変な事を思った。
「あ、ええと、じゃあ、で」
「ええー、俺様のことは佐助って言ってるくせに?」
 意地悪く言ってやれば、熟れた柿のように赤らんだ頬を両手で押さえながらが俯いた。伏せられた目尻がきれいだと、やはり佐助は変な事を思う。
「……、でいい、かな」
「はいよ、
 くつくつと笑う佐助に何事かをぶちぶちと呟きながら、立てた膝に顔を埋めては首を振っている。これは退屈が減ったな、と思わず声を上げて笑ってしまった。


 風呂場へ逃げて行ったが戻ってきた時には、満面に喜色を浮かべていた。今度はなんだろう、と無言でテレビの音を下げてを見た。
「オオカミ少女!」
「なに、それ」
 意味が判らない、と首を傾げて話の続きを催促する。
「佐助のことを現実的に説明するのに使えるかなと思って。オオカミに育てられた女の子が森の中から見つかったっていう話があってね、その子を見つけた先生が人間らしく育ててたんだけど、若くして死んじゃったっていう……」
「ダメじゃん、それ。しかもいつの話?」
「18世紀か19世紀だったと思う……」
「今、何世紀?」
「21世紀、だね」
「そうだね」
 かくりと首を落としてダメかあ、と言った次の瞬間には、また喜色満面に戻っていた。
「それなら、恥ずかしながら帰ってまいりました!」
「それはなに?」
「第二次世界大戦が終わって随分経ってから南方戦線に出兵していた人が発見されて帰国した時のセリフ、たしか」
「その大戦はいつの話?」
「終わったのが1945年……」
「もう七十年から前になるでしょ、俺様どんだけ不老不死なの? それとも合いの子?」
 二度の大戦くらいは知っている。歴史にしてもこちらにおいて、という前置きが必要だ。二つの世界は、根源となる何かが微妙に異なっている。

「じゃ、じゃあ、日系人!」
 意地になりかかっているを適当にあしらいながら、テレビに視線を戻す。こちらでも流行り病には後手に回らざるを得ないらしい。
「はいはい、それは?」
「ブラジルとかハワイとか、ちょっと昔に日本人が渡っていって、プランテーションがどうのこうの……? それで現地では今でも日本人とかその子孫のコミュニティ、ええと、集まりみたいなのがあって……?」
 とうとう詰まってしまい、佐助の理解の範疇を超えた言葉を使い始めたにぎょっとして、慌てて止めた。
「わかったわかった、もういいよ! そんな必死になって考えたら熱が出る!」
「失礼な!」
 ぱっと言い返して考えるのを止めたにほっと息を吐いて、佐助は小さく肩を竦める。
「でも、苦手でしょ。――考えてくれてありがと、後は俺様一人で何とかしてやるさ」

「ついて行こうか?」
 不安そうに訊ねられるのが一瞬、主を案ずる忍の姿に重なった。
 すぐにそれを追い払って、人になる。
「役所が空いてる日はも仕事があるでしょーが。心配しなくても取って食われるわけでなし、きちんと話せば判ってくれるだろ」
「お役所って頭が固いから、どうかなあ」
 不安そうなに、だいじょーぶ、とへらりと笑ってやれば、いつもの微笑。の、その笑顔を減らしていければ。佐助は心の奥底で小さく小さく、初めて願った。




 ――ある程度の事実に、少しの作り事を混ぜ込ませ。味付けには人情に訴えかける苦労談でも語ろうか。

 にんまりと笑むとばさりと布団を被って目を閉じた佐助が、――次に覚醒するのは――合戦最中の敵陣背後である。









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2009/11/19
中途半端にリアル志向にするんじゃなかった、と大反省中の天王屋です。
SFは好きだからいいとしても、法律にはめっぽう弱いので途中でかなり苦戦しました。
実はこれでもまだ、デネブの続きではなかったりするんですけど……。
よしわたり



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