ステージに立つ女性が深くまろい声で愛を歌う。
バックを支えるのは控えめなドラムス、爪弾く音を響かせるバス、ときにメロディにときに激しく、しかしながら主張をしすぎることのないピアノ。ジャズの生演奏をバックミュージックに、うるさすぎない程度に明かりを抑えた店内の客はそこかしこで談笑している。艶やかな光沢のあるどっしりとしたテーブル、ベロアや革の張られた座り心地の良いソファやチェア。焼き立てのピッツァがチーズの香りをふわりと広げて等分に切り分けられていく。カラン、とロックグラスの氷が鳴る。気配りの行き届いた店員は微笑を湛えて佇んでおり、呼ばれればすぐに足音も立てず客の許へ向かう。
この空間を構成する何もかもが、非日常を演出していた。
中二階の、階下を一望できる座席にしどけなく寝そべったは、空になったグラスにささったストローからズズ、と音を立てて水になってしまったカクテルを吸う。グラスをテーブルに置いて、ストールを巻き直す。ドレスから伸びる足から今にもヒールの高いパンプスが落ちてしまいそうだというのに、気にも留めていない。むっつりと不機嫌そうに黙ったまま、ひとつ、溜息をついた。
「お嬢さん、せっかく美人さんなのにそんな顔してちゃ誰も声掛けてくんないぜ?」
軽い調子の男の声。ゆるりと顔を向けた先には清潔そうな身なりの、若い男が腰を落としてに微笑みかけていた。長めで明るい色の髪をバックへさらりと流し、すっと通った鼻梁にアーモンド形の目、広く薄い唇。微笑んだ中に、何処か悪戯っぽさが見え隠れしている。パチパチと瞬いたが青年に声を掛ける前に彼は、どこからともなくメニューを出していた。
「何をお飲みになりますか?」
外では奇抜に見えるだろうグリーンのフェイスペイントも、穏やかな明かりの下では彼の色気を引き立てる名脇役になる。は、ゆっくりと体を起して目を細めた。
「……マティーニをお願い」
どうして一人で飲んでるの、と切り出されて経緯を思い出したが不平不満をぶちまけるのも嫌な顔一つせず相槌を打ちながら聞いてくれた。そうして、すっかり話し終えてから運ばれてきたマティーニをさりげなく差し出してくれた彼に、は思わず赤面してしまったのだった。
「ごめんなさい、すごくグチっちゃって……」
「アハ、気にしない気にしない。それよりも、美味しいうちに飲んでやってよ」
「ありがとう……。でも、あなたは?」
「俺様は――、まだちょっとね。あ、俺は佐助。飲んだ後でいいから名前、教えてよ」
長い指を唇に当てた佐助は、グラスを傾けたに小さく微苦笑を浮かべてみせる。一息に半分ほどを飲み干してオリーブにキスするようにひとつ齧り、問うようにが目を向ければ、だってさ、と佐助は続ける。
「お嬢さん、なんて呼ぶのも呼ばれるのも、恥ずかしいでしょ? 少なくとも俺様はちょーっとね」
「それもそうね。、よ」
「ちゃん。いいね」
佐助はそう言って、ふっと目許を綻ばせた。
「次、何にする?」
今度はトランプを取り出したかと思えば、それをザラリとテーブルに広げる。ここから選べということか、と少し感心して、は一枚を手に取って裏返す。トランプらしい数字とマーク、そしてカラーのイラストと数行のアルファベット。
「フローズン・ダイキリ」
描かれたカクテルを佐助に見せて、グラスを空けたがくすりと微笑んだ。
佐助は話し上手で聞き上手、女だけでなく男も楽しませるような嫌みのないキャラクタをしていた。ともすぐに打ち解けて、はじめはひそひそと遠慮がちだった会話は時々、歌声も演奏も聞こえなくなるほどに盛り上がり、その度に二人でシーッと声を抑えては顔を見合わせて笑う。それはとても楽しくて、時間の感覚がなくなるくらい。時計に目をやったは、久しぶりにこんなに話しこんじゃった、ちょっと失礼するわ、ときれいに笑って、席を立った。
が戻ってくると、テーブルにはオレンジ色をしたロングカクテルが置かれていた。ちょいちょい、と招かれるままに佐助の左隣に掛けて、はネイルを載せた指をそれに向けた。
「これは?」
「スコーピオン。さそり座の11月、誕生石はトパーズ。それをイメージした柑橘系のカクテル。そろそろ甘いのが欲しいかなー、と」
余計なお世話だったかな、と苦笑した佐助には首を振る。
「気が利くのね」
わざとらしい言葉に返ってきたのはからりとした笑い声。
「いつもいつも、人一倍気が付かなきゃいけない立場にいるせいで自然とそうなっちゃった」
「あら、お疲れさま」
「ホントだよ。だからたまーにはご褒美もらわなきゃ、やってらんない」
ちらりと寄越された視線を見逃せば、佐助はするりとの腰に腕を回した。痩せすぎているわけではなく太ってもおらず、程よく筋肉の付いたしなやかな獣の前肢のよう。ドレスの裾を上げて足を出してやろうとでも企んでいるのか、こそこそと動く指先にが佐助を見上げれば、悪戯がばれた子供のような顔をした。ふっとシトラスの香りを帯びたアルコール混じりの息をその顔に吹きかけて、は大きく足を組む。ヒュウ、と小さな口笛の音が、演奏を終えたステージへの拍手に溶けていった。
甘い口当たりに似合わず、スコーピオンは度数が高かったらしい。佐助に勧められるままに重ねたカクテルが効いてきたのだろうか。酔いとともに疲れも押し寄せてきたのか、の思考はぼんやりと霞み掛かり、視界は半分になっていた。そして、重たくなってきた瞼を見られないようにと睫毛を押さえる振りをしてこっそり隠したに気付かないほど、佐助は鈍感ではなかった。
「どしたの? 眠い?」
「……少しだけ、ね」
空っぽのグラスをコン、と爪で弾いて、は強がってみせる。途端に佐助が申し訳なさそうな表情をみせた。
「あらー……。俺様が来る前にも軽く飲んで食ってたのにいっぱい飲ませちゃってごめんね」
「大丈夫よ、これくらい」
「大丈夫に見えないから言ってんの。肩貸してやるからさ、ちょっと寝たら? 少しはすっきりするんじゃない」
「悪いわ」
「んじゃ、俺様からのお願い。ちゃん、休んでよ」
ぐい、と密着するほどに抱き寄せられて、耳許に低く伝わる佐助の声。労わりを込めて告げられた言葉に、は力なく笑うだけ。
「上手いのね」
「アハ、お誉めに預かり恐悦至極、ってな」
「……それじゃ、ちょっと甘えさせてね」
「かしこまりまして、お嬢さん」
力を抜いて佐助にもたれ掛ったの体が、急に重くなる。佐助は肩に置かれていたの頭をそうっと膝へ移し、楽になれるようにする。抗うこともせずにはそれを受け入れた。
うつら、うつら、と今にも眠りに落ちてしまいそうな瞳をさ迷わせるの、ずり落ちかけたストールを掛け直してやると、アップにしてあった髪を解いてサラサラと指を通していく。ゆっくりと瞼を落としたへおやすみ、と囁いてから、佐助は片手を挙げて近くの店員を呼んだ。
にんまりと緩んだ、その表情はひどく悪戯じみている。
「お兄さん、車回してきてくれる? それから、プッシー・キャットを」
戻る
2009/11/29
話に出した、カクテルの作り方を簡単に書いてあるトランプは実際に持っているんですけど、使ったことがありません(いろんな意味で)。
お酒は二十歳になってから。
よしわたり