あれから、は佐助に対して少し距離を置き始めた。
前のように、とまではいかないから、これ以上踏み込んで来られないように、立ち入ってしまわないように。佐助はそれを不思議に思っているようだったけれど、暗黙の了解か、何も聞かずにいてくれた。
何かを訊ねようとしてか言おうとして、一瞬迷った後、やっぱり止めたと言わんばかりにへらりと笑って話をはぐらかしたり変えたり。以前は自分のためにしていたことを当然のようにのためにしてくれる、佐助の優しさが思いもかけずに痛かった。佐助はこんなに心を砕いてくれているのに私はどうしてこうなんだろう、と泣きたくなった。
ふと、思い返す言葉があった。
――もし、夢が覚めないでこのままでいられたら。……これからも一緒にいてくれる?
あれはきっと、佐助の決意の言葉だったんだろう。この世界に対して正面切って生きていく、という。それからは少しずつ、同じ空間にいるようになって、話をするようになって、屈託なく笑いあうようになって、――名前を、呼び合うようになって。
佐助がここで生きていくのにと一緒にいることを選んだ理由は判らない。軒先を貸しているだけから幾分か距離が縮まって、でも、一線は越えていない。だから、元通りとはいかないまでも顔見知りくらいまでなら遠ざかれる気がした。
街はキラキラと美しくイルミネーションされて、人は幸せにクリスマスを夢見る。年末だから仕事は忙しく、帰りも遅くなりがちだった。けれど、朝に晩に、会社と家を往復するだけで楽しい気分になるし、昼休みには仲のいい女の子同士でランチに行ってはクリスマスの予定に毎日飽きずに盛り上がり、忘年会は出費が痛いけど呼ばれれば顔を出す。
駆け足のように日々が過ぎ去っていくから、つい、佐助がいるのだということを忘れてしまいがちだった。朝はギリギリまで寝ているし、夜は何もなくても帰りが遅くなるものだから、二人で食事をすることがなくなった。作り置きの料理に礼を言って食べたら、すぐに風呂へ入って眠る。自然と顔を合わせる時間も減って、と佐助が一緒にいて話をするのがほとんど夜だけだったから、話もしなくなっていった。
忙しさを笠に着て逃げているだけなのは、だってわかっていた。二人の間の微妙な関係に綻びが出て、いっそ崩壊してしまえばいいとさえ思った。そうすれば佐助はいなくなって、の心の中にぽかりと穴が開くだけで、表面上は以前と変わらなくなる。
でも、自分から壊してしまおうとは考えもしなかった。築き上げられたものが壊れてしまうのは仕方がないけど、決して壊したくはない。形があろうとなかろうと、それがどれだけ大切なものか、身をもって知っている。
佐助でもでもない第三者――佐助の恋人でも、忙しさであるとか気まずさであるとか、人でさえなくてもいい――、が今の宙ぶらりんな状態をどうにかしてくれることを、毎夜、は子供の許へしか訪れることのないサンタクロースへと願っていた。
12月24日。朝から妙に浮足立った空気だったのが、夕方になるとあからさまにそわそわしたものになっていた。定時になった途端に何人もの同僚がお疲れ様でーす、と帰っていく。どんどん人がいなくなって、30分もすればフロアにはと他数人しか残らなかった。終わらない仕事にグチをこぼしながら早く帰りたいとうそぶく。は仕事の能率があまりいい方ではないから、どうしても仕事が残りがちだった。
ようやく全部終わった、とイスに沈み込みながら時計を見上げたとき、驚いたことにまだ一時間も回っていなかった。二度見直して、ウソだと呟いて、それからは慌てて帰り支度を始めた。
携帯を見ると着信履歴が何件か。全部同じ知らない番号からで、一件の留守電が入っている。どこからだろうと首を傾げながら、場所を移動して再生してみた。しばらく無音が続いて、人の声がした。
「……えーっと、これでちゃんと残るんだよな? もしもし。あ、こちら佐助。今日はクリスマスイブで鳥とケーキを食べるんだって聞いたから買って帰ろうと思うんだけど、今日も帰りは遅くなる? できればこれを聞いた後に連絡を寄越してくれるといいんだけど。……最近、ずっと大変そうだから声かけらんなくてさ。遅くなってごめ、」
ピー、と遠慮のない電子音に最後の言葉が切られてしまっている。はちくり、瞬いてからは小さく笑いだした。
「佐助……」
しばらくぶりの佐助の声は、格好いいんだけどやっぱりどこか違っていて、なんだかほっとした。それと同時に、すっと心に差し込む冷たいものもあったけれど、今はフタをしておこうと思った。
どうやってとか、どうしてとか、そういうものは全部帰ってから聞き出せばいい。履歴に残った番号にかけ直すと、数コールの後に繋がった。
「……も、もしもし?」
「佐助?」
「? よかった、ちゃんと通じた?」
「うん。今、仕事終わったから」
「それじゃ一時間くらいで帰ってくる?」
「うん。夕ご飯どうするの?」
「俺様が腕によりをかけて作るから期待してて」
「ローストチキンじゃなくて干し肉が出てきそう……」
「アハー、飯と塩と浸し菜だけでいいって?」
「そんな質素な食事イヤだからね! 期待してるからね!」
「まかせときなって。んじゃ、後でね」
「うん。あ、……あの、佐助」
「なーに?」
「……ありがと」
「どーいたしまして」
穏やかに心の底から溢れてくる温かな感情が、知らず知らずを笑顔にさせていた。
強い北風が雪でも降らせそうな黒く重たそうな雲を運んできていて、ホワイトクリスマスへの期待に街中がさざめいていた。色とりどりの明かりや飾りはひときわ輝いてみえる。
デパートの入り口に設置された大きなツリーの下では悩んでいた。佐助にプレゼントを買うかどうか。ケーキを買って料理も作ってくれるというのだから手ぶらで帰るのはさすがに気が引ける。買うにしても何を買えばいいのだろうと、また悩む。冷たい風に体の芯まで凍えて、とりあえず中へ入って考えることにした。
「ただいまー……」
天井灯を使わずにスタンドライトを点け、柔らかな色味で明るくなった玄関でほっと息を吐く。最近は帰ってすぐ部屋に入っていたから、これも使っていなかった。明かりひとつで寒さも忘れられるし気分も落ち着く。ブーツを脱いで玄関に上がり、バッグと紙袋を床に置く。コートとマフラーをハンガーにかけている最中でガチャリとダイニングのドアが開いた。
「た、ただいま」
にっこり向けられた佐助の笑みに、はどもってしまう。
「おかえり。ちょーっと遅かったみたいだけど」
言葉が刺々しい、顔は笑っているくせに。
「寄るところがあって……」
「ふぅん……」
腕を組んで軽く壁にもたれかかる姿はすごく様になっている。のヘアバンドとエプロンさえなかったら完璧だった。髪が邪魔なのと、服に水や油がはねるのが嫌なのは判るけど、とがっくりと肩を落としたに首を傾げて、佐助がふっと笑った。
「プレゼントでしょ、それ。気使わせちゃってゴメン」
え、と顔を上げると佐助は困ったように目を逸らせて、手は洗って来てよ、と言い残して中に戻る。流れてくる空気が温かくておいしそうな匂いをしていたけど、それよりも大きな驚きと喜びがを微笑ませたのだった。
「すごい……」
テーブルの上を見たは言葉を失った。これは本当に自分の家のいつもの食卓だろうか。そこだけどこかのレストランかと言わんばかりの光景が広がっている。
買ったはいいが数回しか使っていなかったテーブルクロスが敷かれ、磨きあげられた食器が二人分きれいに並んでいる。カゴに盛られている、小さくカットされた柔らかそうなパン。佐助と食事をする時はいつもご飯ばかりだったのに、どういう風の吹き回しだろうとキッチンの方を見れば、いいから座ってて、と言う佐助が料理を皿に移しているところだった。うん、と頷きながらもはそちらへ向かう。
「手伝ってくんなくてもいいって」
「ありがとう。あの、これ。プレゼントっていうか料理とケーキのお礼のつもりだったんだけど。ちょっと開けてみて」
苦笑する佐助に少しためらってから、は紙袋を渡した。それを受け取った佐助がありがとう、と言って上下させて中を覗き込んだ。
「重たい。今?」
「うん」
「じゃあ遠慮なく、っと」
そっと床に置いた紙袋から、佐助はきれいにラッピングされた小箱と、大きめの木の箱を取り出す。問うように向けられた佐助の視線に、は小さく微笑むだけ。
「……先にこっち」
佐助が選んだのは木箱の方。カタリ、とフタをスライドさせた中には一本のフルボトルと緩衝材。丁寧に取り上げて矯めつ眇めつしてから、佐助は溜息を吐いた。
「赤ワイン、だよね」
「そう。ボージョレー・ヌーヴォーじゃないけど」
「その、なんとかっていうのはちょっと前によくテレビで聞いたけど、どういう意味?」
「知らないよ」
「そっか」
二人で軽く笑って、ラッピングされた方の箱に佐助が手をかける。器用に飾りも包装紙も破らずに箱を開ける。ワイングラスが二客。
「これは?」
「ワインを飲むためのグラス。せっかくいいワインを買ったのに、いつものコップで飲むのはかわいそうだから」
「……高かったんだ」
ワイン、と目で言われて、はしまったと口に手を当てた。それに緩い苦笑いを寄越してから佐助は背を向けてグラスを洗い始めた。
「まあ、可哀相ってか勿体ないよな。ワイン持っていって先座ってて。すぐに支度終わるよ」
言い終わる前に洗い終えたグラスをさっと拭いた佐助が笑うので、それも受け取っては頷いてその通りにすることにした。
佐助の言った通りにすぐにテーブルに料理が並び、がワインを注いで乾杯をした。
料理番組を参考に、判らないところを本で補いつつ勉強したという佐助の初の本格的な洋食は、非の打ちどころのない美味しさだった。おいしいおいしいと褒めちぎりながら大喜びで食べるに少しだけ呆れたような顔をして、それでもやっぱり嬉しいのか、佐助はどことなく照れているようだった。ワインもすいすいと飲み進めてフルボトルをほとんど佐助一人で空けてしまった。なのに全く酔うそぶりも見られないのは相変わらず。
食事を終えて、片付けを手伝うと申し出たをきっぱりと断って、佐助はこう言った。
「俺が皿洗いを済ませている間に風呂に入ってきてよ。久しぶりにゆっくりできるんだし、さっぱりしてからの方がいいんじゃない?」
笑顔で手を振る佐助にさっさと追い出されて、は着替えを持ってバスルームへとぼとぼ向かう。お湯を入れるまでの時間くらいリビングでいさせてくれても、と思いながらドアを開けるとバスタブいっぱいに張られたちょうどいい温度の湯。佐助ありがとう、とドア越しに思わず叫んでからは上機嫌に鼻唄まじりのお風呂タイムを楽しんだのだった。
「いいお湯でした!」
湯気も笑顔もほこほこと、が戻ってきたときにはケーキがすでにテーブルにあり、コーヒーも準備されていた。笑みを深めたは佐助が何かを言う前に素早く席に座って佐助を待つ。からからと笑いながら座った佐助が小さめのケーキにナイフを入れる。の分を取ってやり、自分のも同様にして、二人でいただきます、とフォークをつける。
甘すぎない生クリームに酸味のまろやかな苺がピッタリで、一切れがあっという間になくなってしまった。もう一つ、と取り分けようとしたの耳に咳払いが聞こえた。
「この時間に甘いものは控えるんじゃなかったっけ?」
意地の悪い笑みで佐助が言うものだから、ぐっと我慢しただったのだが、それをよそに佐助は素知らぬ顔で二切れ目を食べ始めた。
「ひどい! 私に言っといてどうして自分は食べるの!?」
「俺様はそんなこと言った覚えないよ。が何回も何回も決めては次の日には食べてるから、善意で注意してやっただけ。そんなんじゃダイエットできるわけないよなー」
くつりとバカにしたように笑われてかあっとなりながらも、結局はもう何百回目ともしれないダイエットをさらりと断念してさっきの倍ほどに切る。ぱくぱくと食べておいしい、と本当に嬉しそうに表情を緩ませるに、微苦笑を浮かべ軽く肩を竦めるだけで佐助は何も言わなかった。
残ったケーキを冷蔵庫にしまって、コーヒーのおかわりを持ってきた佐助に、はようやく疑問をぶつけてみた。
「今日電話くれたのって携帯からだよね。携帯、どうしたの? 誰かに借りた?」
「どうしたと思う?」
の言葉に意味深に答えた佐助の瞳はいたずらっぽく輝いていて、なにかあるのだろうかと疑問に思う。
「電話するだけなら公衆電話からできるし、わざわざあれだけを言うために使い方を教えてもらって携帯を貸してもらうのもおかしいし……。本当にどうしたの?」
眉根を寄せて訊ねたに、にっと笑った佐助が何かを投げた。ぱし、と受け取ったそれは。
「携帯……」
手許を見るとそれはメタリックレッドをした、折り畳み式の携帯電話だった。まだ真新しい。
「誰の?」
「俺の。こないだ買ったんだ」
ふうん、と相槌を打ちかけてばっと顔を上げる。片肘をついてにやにやした佐助がの手の中のそれを指差していた。
「買ったってどうやって!? どうして!?」
「はい落ち着いて。一つずつ説明していくから」
が動転するのに慣れてしまったらしい佐助は、携帯に向けていた指をピッと立てる。
「前に戸籍がどうの、って話をしたことがあるだろ? あの後すぐ役所へ行ったら、ちょっと時間はかかったけど戸籍はもらえたんだ。どう説明したのかは、まあ――がすぐに理解できるような話じゃないから置いといて。んで、無事戸籍を得た猿飛佐助は保険証を交付してもらい、その足で携帯を買ってきた、ってこと。お判り?」
判ったような判らないような佐助の説明に、はあ、と頷いて改めて携帯に目を落とす。
「じゃあ本当にこれは佐助の……?」
「あったりまえでしょーが」
「実感湧かない……」
「……俺様も。実は今日、保険証を受け取りに行ったんだけど、あんな薄っぺらいもんもらっても狐につままれたような気分のままでさ。半信半疑で携帯買いに行って。それが自分に渡されてようやく、ああ俺もほんの少しだけどこっちの人間らしくなったんだ、って」
視線を落として独り言を呟くような佐助の話を聞いている、の耳にどきどきと脈がうるさい。
「こっちの人間らしく……」
「そう。――どちらが夢かもしれない、なんてもういい。むこうでもこっちでも、俺は生きてる猿飛佐助って人間だ。この世界で猿飛佐助としてきちんと生きていかなきゃならない。今は、そう思ってる」
力強い声に、は佐助を見つめる。まっすぐに射抜かれそうな瞳がを捉える。
「には感謝してるよ。に会わなけりゃこうは思わなかったし、遅かれ早かれくたばってただろう。……本当に、ありがとう」
ぎゅ、と佐助の携帯を握った両手に、温かな水滴が落ちた感触がした。
「泣くことないでしょー……」
心底嬉しそうに微笑んでいる佐助に言われて、余計にこらえられなくなる。
「ごめん」
新しい携帯を濡らしてしまわないように佐助に手渡すと、手の甲の涙をすっと拭われた。
――いつの間に佐助はこんなに優しくなってたんだろう。
「……ごめんね」
とても佐助を見ていられなくなって、抱えた膝に顔を埋める。ぐずぐずと鼻をすすって、次から次に溢れてくる涙に髪をまとめていたタオルを顔に当てては泣き続けた。
――いつの間に私と佐助の距離はこんなに近くなってたんだろう。
もう、元通りどころか、顔見知りにさえ戻れそうにない。二人の間にあったラインは跡形もなく消えてしまったのだ。
落ち着いてから、そういえば、とは問いかける。
「どうして私の番号知ってたの?」
そして、ふっとを見てにんまり笑った佐助は、いつものセリフを言う。
「アハー、秘密」
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2009/12/25
2009/12/26 訂正
メリークリスマス!
日本語覚える→携帯買っちゃった、というだけの話がどうしてこうも長くなったのか。それが問題だ。
よしわたり