東の京と書いて、トウキョウ。それがこの国の都だという。
武蔵国のだだっぴろいくせに何もない平野、湿地で使い物にならない海岸線をそこに見ることはできない。地平の終わりまで街が続き、この国の全てがここには存在している。
ならば、御所があり平安の遷都以来栄えた京はどうなったのかというと、千年栄えた古都として今も人々に愛されているという。ただ、国の枢軸は既にそこにはない。形骸となった都は、静かに長い眠りについているようだった。
家の掃除が終わったからと、大晦日には朝早くから電車に乗って買い物に行くことになった。
近場で揃えればいい、という佐助の意見には頑として首を縦に振らなかった。訳を聞いても渋って答えたがらなかったものの、なんとか聞き出したところによると会社の同僚や友人が近くに住んでいるから、佐助といるところを見られたくない、とのことらしい。彼氏はいないと言っている手前、何か言われるのが厄介なのだという。いつ、どこの世界でも女は噂話が好きなんだねえ、と苦笑する。だって楽しいじゃない、と笑うもやっぱり女で、佐助は小さく肩を竦めるだけに留めておいた。
当日は珍しく、部屋から出てきた時にはもうはしっかり目が覚めているようだった。いつもは半分眠ったような状態でふらふらと洗面所に歩いていって、顔も洗って化粧もしてからようやく起きた様子なのに。カラリと仕切り戸を引くなり、おはよう、と元気よく、誰にともなく言っていた。佐助はとうに起きて朝食の支度にかかっていたし、テレビもまだつけていない。
一人暮らしが長くなると独り言も増えるよね、と何が楽しいのか笑いながら佐助に挨拶をして台所を出ていく。フライパンの上のベーコンを裏返しながらも、珍しい笑顔を見た、と佐助はこっそり思う。
それでも、の、あの不可解な微笑は減ることがなかった。
こちらでは眠っているはずの佐助の忍の本質が衰えることがないように、もその微笑を幼い時からしみ込ませているのかもしれない。こちらの人間は総じて長寿であるから、絶縁したとか家を飛び出してきたとか、そういった特殊な事情がない限りは離れていても親兄弟と連絡を取るのが当たり前だという。よくよく考えてみれば、がそのような素振りを見せていたことは一度もなかった。
そういう人間の存在は知っていたから特に訊こうとも思わなかったけれど、十日程前に確かにが口にした言葉にどきりとした。
――ずっと一人が当たり前だったから。
俯き加減の横顔は、何かをこらえているようにきゅうと下唇を噛みながら、いつもの微笑を浮かべていた。佐助を拒絶するようには自室に籠り、佐助はそれ以上の詮索を諦めて、翌日からが佐助を避けるようになった。
はこちらの世界の人間で、異邦人の佐助とは違う。けれど、そんな二人がゆっくりと距離を縮めてこられたのはが佐助を救い上げ、長い間、互いの世界を踏み越えることなく、一線を越えることもなく過ごしてきたからだ。
千尋の谷は怖ろしく深い。前よりも話すようになったとはいえ、欲を出しての事や世界を知りすぎ、うっかり足を滑らせてしまえば谷底へと真っ逆さまに落ちていってしまう。佐助が、が、どれだけ互いに歩み寄ろうとも、越えられない溝が二人の間には存在し続けるのだ。――佐助がこの世界にいる限りは。
こちらで戸籍を得て人になったところで、向こうでは変わらず戦忍のまま。
甲斐の虎・武田信玄に仕える日の本一の兵・真田幸村の使う一の忍として蒼天を疾風の如く駆け、戦場を一対の手裏剣で掻き回し、敵に動きも見られぬ内から情報を手に入れる日々。
あちらには、この世界ほど異邦人を受け入れるだけの土壌が備わっているとは言い難い。不可解なもの、容認できないもの、不用意な戦を避けるためそれらは全て排除される。佐助が唐突にこの世界に現れたように佐助の目の前にが現れたとしても、何の疑いもなく敵の間者と同じ扱いをするだろう。あちらにおいての存在は異端でしかない。捕縛し、牢に入れ、尋問し、場合によっては拷問も行うだろう。
そう考えて怖ろしくなる。――もはや、こちらとあちらの猿飛佐助は一人でありながら同一ではないのだ。感覚では判っても、理解が及ばない。このまま乖離が進んでしまえば、それは果たしてどちらも猿飛佐助と言えるのか。
この幸せな夢はいつか必ず覚めて、の事もこの世界の事も忘れてしまうのだろう。判ってはいても、どこか空しかった。机に置いた赤の携帯が目について、ふっと頭を過るものがあった。
――その時、は何を思う?
軽く頭を振って莫迦な考えを追い払う。こちらへ来てから何かと考えに耽りがちだ。ベーコンがいい匂いをさせている。ちゃちゃっと一口大に切ると火を止めた。余計な油を拭き取ってから生野菜のサラダに散らし、丁度タイマーが鳴ったグリルからイワシの塩焼きを取り出す。豆腐の味噌汁に青ネギを浮かべ、白米を茶碗によそい、茶を入れる。もうすぐもリビングに戻ってくるころあいだ。
あちらよりも食材は豊富で安価、栄養値も高く新鮮、和洋中と多種多様な調理法があって、あれこれと試すのが楽しくて仕方ない。なのにが当番の日は手抜き料理だったり、二、三日はしのげるカレーやらシチューやら煮込み料理やらが多い。朝も食パンとコーヒーだけという事もあった。ひと手間かければ変わるのに、と言えば時間がもったいないと返された。どうにも、こちらの人間の価値観というのはよく判らないままだ。
「わ、今日も豪勢な朝ご飯ありがとう!」
「はいはい。冷めないうちに食べるよ」
嬉しそうに言うに眉尻を下げて、二人で食事を取る。これまで夜だけだったのが朝もこうして二人でいるようになった。
やはり、クリスマスの夜から変わったのだろう。
あの時、初めて目にしたの泣いた姿に、触れたいと思ってしまった。が差し出した携帯に伸ばした手が一瞬触れて、脳裡でぱちりと何かが爆ぜるような感覚がした。
――それは、いけない。
とっさに判断を下せるだけの頭は残っていたか、と内心におのれを嘲笑いながら、一方ではひどくが愛おしかった。情に流され里を抜けた同郷の女を蔑むのもおちおちできそうにない。「人」は「忍」より強くもあり脆くもある。意地汚く生に縋るかと思えば、情によってあっさりと身を滅ぼす。
穏やかで優しい生活に、幸福とはこういうものなのだろうと幾度も思った。気を張らずに過ごすことにも慣れて、ふと顔を上げれば時間が経っていたりが声を掛けていたり。最近は佐助の新しい部分を知ってばかり、と笑うに苦笑を禁じ得ない。なぜなら、それは佐助自身ですら知らなかった姿なのだから。
何事にも距離を置いて眺めていたはずの佐助が、いつの間にかの近くに居場所を定めて同じ目線から世界を見ようとしている。それがいいことなのか悪いことなのか、今判ずるのは止そう。今はまだ、この異郷で、ささやかな幸福を味わっていたい。
朝食を終え、片付けと支度を終わらせた佐助はソファで足を伸ばして、何やら騒がしいの部屋へ呼び掛ける。
「、なにしてるの。置いて行くよー」
「ちょ、ちょっとだけ待って! ここに置いてあったはずの買い物リストがないの!」
「……昨日の夜、これ買うんだって見せてきた紙切れのこと?」
目の前の机に載っている四つ折りの紙をつまんで開く。しめ縄、鏡餅、橙、干し柿、……その他いろいろ。こんなにたくさん買い込んでどうするつもりだといわんばかりの量が書かれていて、重箱はご丁寧に一段ずつ図解がついている。の説明が下手なのは承知のことだったが、絵も下手だったとは。主が書き損じの書状の隅に描いていた団子の方が余程まともだ。
「そっち置きっぱなしだった!?」
慌てて部屋から顔を出したが佐助の持っている紙切れを見て、それだ、と指を差してはにかむように笑う。
「ごめんね」
――なんだ、は本当は表情豊かじゃないか。
また一つ、知る。
立ち上がり、携帯と財布に鍵を確認して先に居間を出た。
「……ホントだよ。ほら、早く行こう」
「うん」
小さく微笑むの顔は、本当に照れているだけのようだった。
年が明けて数日、罰が当たるのではないかというくらいにだらだらと過ごした。
同じような番組ばかりで見飽きたテレビ、三食おせちでもたれてきた胃袋、仕事も休み。寒い寒いというは出歩くのを嫌がって、福袋だのというものは欲しがるだけで終わってしまった。三日か四日経って冷蔵庫に食材がなくなって、渋々外へ買い物へ出るついでに初詣に行こう、という有様。
あちらでは到底考えられない緩い生活に、ほとほと呆れて溜息が出る。それともこれはだけなのか。仕事始めで周りの者の話を聞くところによれば、湯治へ行っていた者あり海外へ行っていた者あり、元旦から方々へ挨拶に駆けずり回っていた者あり、本家で親戚と飲んで騒いだという者あり。家族のいる者は忙しく、一人身の者はそうではない、というのが佐助の出した結論だった。
しばらくは寒さに波がありつつも体調を崩すこともなく、休みの間に増えていた仕事に悩まされつつも、佐助とはいつもどおりの生活を続けていた。だが、時々、何かを憂えるようにカレンダーを見ているに、佐助は声を掛けられずにいた。この時、何か一言でも訊ねていたら変わったのだろうか、と今になって思う。
十五日の朝、大きな荷物を持ったはいつもの微笑――困惑が強いそれを浮かべて、どこへ行くとも告げずにこう言った。
「いってきます。佐助、留守をよろしくね」
佐助が何かを言う前に扉は閉まり、ガチャンと重たい音が玄関に冷たく落ちた。
「なんだよ、それ……」
異郷に一人捨て置かれた、と気付いた時の心境に近かった。
考えはぐしゃぐしゃとまとまらず、いいようのない感情は奔流のように体中を駆け巡る。滅多に声を荒げることのない忍のおのれさえもが大声で喚きたがっているようだった。
「どういうことだ、……!」
佐助の言葉に答える者はいない。
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2010/01/21
2010/02/05 訂正
青星(あおぼし)とはシリウスの和名のことです。
これにて冬の連作終了!
次の展開バレバレですな。
よしわたり