その男はほんの瞬きひとつの間に現れた。

 明るい色の髪、整った顔、すらりとした体。頬と鼻に兵隊のような緑色をのせて、迷彩柄の服を着、黒い鋼の防具を全身にまとっていた。ニイ、と男は口を開く。
「改めまして、こんばんは。もう一人の俺様」
 ここが街中で、賑やかな雑踏の中なら何の違和感もないだろう軽い調子の声。ただし、言葉はどこで誰が聞いても首を傾げるのではなかろうか。例にもれずも、ひ、と息を吸ったのか声を出したのか判らないような音を立てて後ずさる。それを愉しげに見遣った男は片手を腰に、もう一方を口許に当てて、くつくつと笑う。
「そんなに怯えなくてもいーんじゃない? そりゃ、もう一人の自分に会うと死ぬって広まってるけど、――大丈夫。アレ、デマだから」
 ずい、とに近寄って男はなおも囁きかける。
「自分の存在は確かなものだと思ってたでしょ? 当たり前だよね。そうじゃなきゃ足許揺らいじゃって生きてけないし。……だけどさ、ホントのところはどうだと思う?」
 ちゃん。

 その声はの耳にひどく甘美な響きをもっていた。目眩と耳鳴りがする。轟々と頭が割れるようだ。はその場から逃げだした。
 後に残るは男の低い笑い声、それさえもを追ってきているように聞こえた。


「本来、一体であるべきものが何の因果か分かたれてしまっただけなんだ」
 どこを逃げているのか判らない。
「まるで細胞が分裂するように、な」
 見たことのない道をひた走り、右に曲がり左に折れる。
「けど、それは完全に同一の形でなければならない……、なーんて誰が言った?」
 行けども行けども終わりがない。転びそうになって慌てて塀に手をつく。息を整えるついでに辺りを見回して、ようやく異様さに気付く。
 蔦の絡んだ瓦屋根の平屋ばかりが向きも格好もぐちゃぐちゃに建てられ、土壁は崩れ落ちてさえいる。草の生えた土塀がぐねぐねと細い路地を縦横に走らせ、それはどれ一つとっても直角に交差していない。赤黒い空は夕焼けか。
 外から聞こえるのは男の声との荒い呼吸だけ。二人の他には、人一人っ子いないのにそれがおかしいとも思わない。塀を背にずるずると座り込む。これ以上はもう、無理だ。

 影が差した。向かいの塀の瓦の上に、男が屈み込んでいる。
「俺は男で、ちゃんは女。年だって背格好だって、どうやって生きてきたのかも全然違う。だけど、感じるだろ?」
 俺とアンタは同じ存在なんだ。
 逆光で見えにくい表情が、声から喜びに満ちているのだと判る。息を整えて、カラカラに乾いた喉の痛みをこらえ、切れた唇の血に吐き気を覚えながらは声を出した。
「あなた、誰」
「俺様は。――そして猿飛佐助。ま、今は猿飛佐助と言った方が正しいか」
 男の口から紡がれる自分の名前に寒気がする。
「私はあなたの事なんて知らない! 帰して、家に帰して! 警察呼ぶわよ!」
 パニックになって騒ぎ立てるを見下ろして、男は冷やかに告げる。
「知ってるはずだぜ、アンタが気付いてないだけで。それと、俺様も帰り方知らないから」
「知らない知らない知らない! 帰してよ、私は……!」
 が言葉を発する前に直近に迫った男の鋭い視線に、呼吸を忘れた。顎を掴まれ顔を持ち上げられる。硬く冷たい金属の感触が、――ない。


「知らない? よくその年まで自分自身の欠損に気付かずに生きてこられたな。こっちはアンタのせいで散々苦労させられてきたんだ、今更待てと言われて待てるかよ」
 呪詛のように吐き捨てられる男の言葉を、は理解できない。ただ、男に触れられて判ったことがひとつ。
 猿飛佐助は、だ。半身でも幻でもなんでもなく、姿形が違うだけの同一の存在。何を必死に逃げていたのか、今となっては判らない。

 両手を伸ばして、佐助の頬に触れる。温かくも冷たくもなく、ただそこに在る、というだけ。少しだけ驚いたように見開かれた瞳にうっすらと微笑みかけた。
「今、やっと判ったの。私は猿飛佐助であり、。……はじめまして、もう一人の私」
 うっとりと、細められる男の目に見惚れる。同時に、男がの唇に固まった血を痛々しげに見ているのも判る。互いの求めることは一つだけ。

 二人が触れ合った場所からぼんやりとした光が上がって消えていく。嘆くことはない、元の姿に戻るだけなのだから。喜びが全身を駆け巡る。
「ようやく一つになれる……」
 感慨深げに呟いた佐助に、はそっと目を伏せる。
「待たせてごめんなさい」
 くつりと笑んだ佐助は、とすんとの胸に頭を預けて小さく首を振った。
「今となっちゃどうでもいいよ、こうして一つになれることが嬉しい」
 先に消えてしまった腕を回すようにして、は佐助を抱き締める。それに答えるように佐助がを抱き返す。
「元の姿はどんなのかしら」
「きっとちゃんそのままの綺麗な姿だ」
「私は佐助の姿がいいわ」
 くすくすと笑う。体はもうほとんど消えかかっていた。


 猿飛佐助と、のままの姿で、最初で最後、一度だけのキスをする。
 そうして二人の姿は全て光の粒となって消えていった。








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2010/01/27
ドッペルゲンゲルが書きたかったのと、ストンと腑に落ちずにもやもやする気持ちの悪い話を書きたかったんですけど、うまくいかないものです。
よしわたり



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