は巧くやっていた。
 とある将校に諜報員としてこれ以上の逸材はいないとまで言わしめた、その技量が落ちたはずはない。自国でも表舞台に立って恥ずかしくないほどの教養を身につけ、多国語を操り、芸術や文化に造詣深く、所作も洗練されている。――そう、育てられた。そして高級外交員の父についてこの国に渡り、自らも社交界にいながら若くして女学校で教鞭も取り、また、学生に学ぶこともあった。

 は、いわゆる、軍属にはない情報活動員である。本国からの指令によって当該資料を多岐にわたって収集、その信憑性を評価、分析し、本国へと報告する。その連絡も複雑に複雑な暗号を組み合わせ、毎回異なる手段を取って確実に行っていた。一度として失敗したことはないし、証拠を残したこともない。
 潜伏先でもよい関係を築き上げ、父娘二人、異国の地でいるのも寂しかろうと多くの――の本職を知らぬ、人々に案じられては微笑んで返す。この国に来る事をずっと夢見てそれが叶って暮らしているのですもの、寂しくなどありません。これはの本心から出た言葉。偽りはなかった。

 は、巧くやっていた。一人の軍人に絡め捕られてしまうまで。




 空が白み始めて、窓から差し込む光に目を覚ます。
 清潔感と無機質、味気なさを詰め込んだ小さな病室。薬っぽい匂いしかしない。ここで寝起きするようになってどれくらい経っただろう、と起き上がって窓の方を見た。鉄格子のはめられた窓の外は深い森。窓に映るのは薄黒い目をした自分の顔。がいるのは隔離病棟だった。
 ガチャガチャと何重にも掛けられた鍵を開けて人が入ってくる。看護服を着た無表情な女は着替えと朝食を置くとさっさと出ていく。こうしてまた、一日が始まる。


 病人の体で診察室と名のついた小部屋に移される。室内には白い机が一脚、古い椅子が二脚、それだけ。は大人しく椅子に腰掛け、一人の時間を瞑目して過ごす。しばらくして、反対側の扉から女が入ってきた。顔を上げる。金髪金眼をした女は軍服を着込んでいる。
「おはよう、。今日もだんまりを続けるか?」
「……だんまりも何も、私は悪事を働いていたわけではありません」
「お前はこの国を支える政財界の人間の詳細な身辺調査をし、その情報を漏洩させた。これが悪事でなければなんなんだ」
「我が国と貴国、両国の友好関係を保つためにやってきたことです」
「お前の行いによってそれが崩れると思わなかったのか」
「思いません。どの国においてもいつの時代にしても、施政者とお金が世の中を回してきたのですもの。そうして、時にそれらは暴走を始めます。この国でそれを見守り、両国の為、未然に防ぐよう出来る限りの事をするのが私の職務です」
「違う。世は人が動かすものだ。金も政治家も軍人も、大衆が求めるままに踊るだけだ」
 お前も、私もな、と金髪の女は告げてを見る。まっすぐな眼差しが突き刺さるようだ。ここへ連れてこられる前の自分とよく似ている。
「父親は憔悴し切っているぞ、早く病気を治して安心させてやれ」

 女の言葉に養父の姿を瞼に浮かべる。人を落ち着かせるような温かい笑みをして、何かあるとすぐにを抱きしめる。大げさよ、こうすれば寂しくないだろう、とよく笑い合っていたものだ。養父は、が諜報員であることを何も知らない。本当の父子のように長く暮らしてきて、それが仇となるといつかは思っていた。これほど早く訪れようとは思いもよらなかったけれど。


 ある日突然、重度の感染症の危険性がある、としてだけが護送された。それが軍用車だと気付かないほどは無知ではなかったし、そうすることによって父はもちろん女学校の学生や教授、事務員、さらには屋敷の手伝いに来ていた人の良い下男下女も個々に隔離されて名ばかりの検査が行われ、数日か数週間は自由が利かなくなるのは明白だった。昨今、躍進目覚ましいこの国の特務機関は優秀だ。
 医師や看護師とは明らかに雰囲気の違った軍医や衛生兵が、高熱にうなされ、自由の利かなくなった体を床に横たえているのを一瞥するなり、諸外国でも最新の医療機器を惜しげもなく使い、と外気の接触を絶って屋敷の外へと運び出された。
 、と呼び掛ける父の声に、すぐ戻ってこられるわ、と微笑んだのは見えていただろうか。追いすがる父を押しとどめる医師、の日常生活圏内の徹底的な消毒と接触者たちの入念な検査が行われたが、誰からも、何も出るはずはない。――だけが、薬を飲まされたのだ。
 関係者、各所への検査を慎重に進めるという大義名分の外で、は軍部特務機関が極秘の隔離病棟に収監した。特殊な訓練を受けていないごとき、手荒な方法は使わずに全てを白状させることができると踏んでいたのだろう。

「……私は、病気ではありません」
「違うな。この国における、病原体の一つだ」
 迷いのない言葉。彼女の揺るぎない正義はとの折衝をみることはない。
 いきなり扉が開いた。女が振り返り、佐助、とうんざりした声を出す。のろりと上げた視線の先、赤茶っぽい髪をした男がにやにやと笑みを湛えて立っていた。これが、を捕えた張本人。




「かーすが、お疲れ。交代するよ。それと、辞令出てたぜ」
「聞いてないぞ」
「うん、昨日の軍議で急に決まった。ヒトマルマルマル、正式に通達されるはずだ」
「また化けて潜り込んでたのか」
「仕方ないだろ、俺様だって好きでやってんじゃないの」
「……ともかく。後は頼んだぞ」
 軽いやり取りを交わして、男がの真正面に座る。女はちらりとを憐れむように見てから、出ていった。

「頼まれました、っと。――おはよ、ちゃん。今日もちゃんと寝てないでしょ、奇麗な肌に隈がしみ込んじゃう」
 ひどく不躾に、丁寧な手つきで目の下をなぞられる。もう、このくらいでは動じない。それを判っているこの男は、にんまりと笑みを深めた。
「かすがとはよく話してんのに、なんで俺様相手だとほとんど口きいてくんないの? ちょっと辛いんだけどなー」
 パラパラと男がめくる書類は、に関する調書。さっきの会話も記録されているのだろう。
「かすがも言ってたけど、お父さん、やつれちゃって見てらんないの。ちゃんは頷くだけでここから出られるんだぜ?」
「……その父を騙していたのは誰ですか」
 もはや何の感情も湧かない。目の前の男はアハ、と楽しげに笑う。
「騙しちゃいないさ。陸軍少尉猿飛佐助は、あの人の専属護衛官なんだから」
 でも、あなたの本職はこちらでしょう。――言いかけて、はそれを飲み込んだ。はその言葉を口にすることができない。この男はひどく意地が悪い。
「まァ、このままだとちゃんが『インテリジェンス』であることは秘匿されたまま、娘が感染症を持ち込んだとしてお父さんは『ペルソナ・ノン・グラータ』にされちまう可能性が濃厚かねえ」
 おそらく養父は発動されたそれに反発する。娘を連れて帰る、と言うに決まっている。そうすれば余計に話がこじれてしまう。の愛する父が、同じくの愛するこの国に敵対感情を抱いて欲しくないと思うのは、わがまますぎる願いだろうか。両国の友好の為、それが嘘偽りのない、これまでのの行動理念だった。

「……私のこと、軍部は知っていたのでしょう? 初めから」
 一瞬、男がしかめ面をしたように見えたのは気のせいだろうか。
「ま、ね。一応、出入国者の名簿はこっちにも回されてくるからな。俺様は直感で判ったよ、ちゃんのこと」
「……そうですか」
 暗に上層部は気付いていなかった、と言っている。そうでなければ泳がしていた期間が長すぎる。




「軍人さんは、嫌いです」
 ふとこぼれたの本音に、男が複雑そうに目を細めた。硬い手の平がそうっとの頬を撫で、離れていく。
「その言葉、もっと早く聞きたかったな。そしたら俺様、ちゃんの為に軍、辞めてたよ」
 男は、陸軍特務機関所属の猿飛佐助。陸軍少尉は仮の姿。はほんの少しだけ微笑んだ。
「嘘がお上手ですこと」

 きり、とは猿飛佐助を見据えて口を開く。
「――私は何も話しません。父は本当に何も知りません。……亡骸は、父の許へ。娘の最期の顔くらい見せて差し上げたいのです。私を愛してくれた父、私の愛する父。素晴らしいお方でした」
「……考え直せよ、アンタはまだ若い。これから真っ当に生きることだってできるだろ? 自分は諜報員だったって認めて、覚えてる限りの報告書を書き直して提出してくれれば何事もなかったって解放できるんだ。そりゃ確かに監視はつくけど、俺が行く。アンタ達父子の護衛だって上には認めさせる。だから、」
 珍しくまくし立てる男の言葉を遮って、は結構です、と言い切った。
「この国は素晴らしい文化と歴史を世界に誇れます。そして、困っている人を助けることにためらいのない人々。どれほど私たちは優しさに触れ、感動したことでしょう」

 知らぬ間にの眉間には回転式拳銃の銃口が当てられており、ガチリ、と撃鉄の落ちる音がした。
「俺に引き金を引かせてくれるなよ……!」
「……あなたは、情を捨てて生きているのだと思っておりました」
 男の顔が、歪む。
「感染症ですから、父に死に顔を見せた後は骨になるまで燃やして、この地に埋めてください。遺言はしたためてあります」
 一瞬の隙をついては両手で拳銃を掴むと左胸に向けた。男の力に適うはずもないと思っていたけれど、あっさりとそれは成功した。
「軍人さんは嫌いですけど、佐助さんは好きでしたよ」








 パン、と狙いたがわず自らの心臓を打ち抜いたは仰向けに床に倒れ、病人服を、床を、染めていく赤の液体。苦しみを必死で耐えているのか、涙を流すその顔には玉のような汗が次から次へと浮いてくる。それなのに、ひどく安堵したような表情をしているのはなぜだろうか。
、ちゃん……」
「ひ、」
 膝をついた佐助の耳に、音のない声が届いて、慌てて顔を寄せる。
「きが、ね、は、わた、しが、だ、か、」
 それから先の言葉はない。瞳孔が開き、脈はない。瞬時に判断を下せてしまうのが憎かった。
 ――引き金は私が。だから佐助さんは巧く言い繕ってください。得意でしょう?
 聞こえないはずの声が聞こえた。
 ――人を騙すのは俺様の得意技だ、アンタに言われなくってもそうするさ。
 の手に銃を握らせて、佐助は失態を犯してしまったことに呆然とする優秀な特務機関の一隊長を演じる。


 発砲音を耳にしたかすがや部下が扉の外に集まってきている。かすがの罵声と、救命を専門にする人員がどうにかしようと叫ぶ声が遠くに聞こえる。
「貴様! 何をやっている! どういうことか説明しろ!」
「死亡確認! 蘇生不能!」
「すぐに上へ通達しろ! 佐助、おい、猿飛佐助!!」
 かすがに思い切り殴られて、ようやく意識がはっきりしてきた。すぐ横には、眠るように死んでいるが倒れている。
「あれ、俺……」
「この女には油断をするなと常々口にしていたのは誰だ! 他でもない貴様だ!」
、死んでんの?」
「とうに死んでいる! 猿飛、お前の拳銃はどこにある!!」
「え?」
が握っている! この不始末、どうするつもりだ!」
 かすががこれほどまでに怒っているのは滅多に見たことがない。それだけ、この女は軍部にとっても、軍の全権を預かるごく少数の人間にとっても厄介で重要な存在だったのだ。
「……あー、じゃあ俺様が撃ったんだろ。いつもの癖で相手に握らせたんだ」
 潜入捜査をする者にとってそれは特別疑問を持たれない言い訳なのだが、今回は相手が相手だった。
「それが言い訳になるとでも思っているのか」
「思ってるわけないでしょーが。あーあ、めんどくせ」
 がりがりと頭をかいて立ち上がる。死体に一瞥をくれてから、かすがの肩を叩いてその場を後にした。
「尋問でも何でも受けるし、処分だって文句を言いませんって伝えといて。あーあ、猿飛佐助、一生の不覚! ちょっとコイツの周囲に根回ししてくるわ」
 建物を出て、のいた部屋を見上げる。バカバカしくなった。
「やれやれ……」
 舞い上がった黒い羽根に佐助は姿を紛れさせた。








戻る

2010/01/29
2011/05/10 訂正
軍人パラレル、ヤッチマッタ\(^o^)/! 加えて救いのない話だよ! 誰得!
勉強不足がバレバレで恥ずかしいです。SFとか古典の戦争ものは他でやってるので、これは近代BASARA世界パラレルってことで。
この下にカーソルを合わせると、これまで注意書きで補足していたことが出るようにしました。
よしわたり
参考webサイト
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、<http://ja.wikipedia.org/>


・佐助とヒロイン、両者の関係がどうだったのかは明白にはしません。



テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル