ふっと佐助は目を開けた。
一瞬ぶれてすぐに景色が像を結ぶ。振り仰いだ夜空には満天の星が冷え冷えと光を放つ、戦の世。
――こっちは星がよく見える。
薄く笑えば吐いた息が夜陰に白く溶け、すぐに消えた。
「さーて、さっさと終わらせますかね」
ごきり、と肩を鳴らした次の瞬間には、――忍は夜の闇に溶けていた。
異郷へ落とされた、と気が付いてしばらくは人のいない山深くに逃げ込んでいた。どれだけ深い山奥でもこちらの世界は拓かれていて、人が建てたのだろう気味の悪い塔が点在していたし、おそろしい速さで移動する乗り物が行き交っていた。
時折、人の居るところまで下り、気配を消して姿を隠して観察をした。男も女も体格がよく、子供はどいつもこいつもふくふくと肥え、老人が驚くほど多い。可笑しな衣裳を着てよく判らぬ代物を使ったり食ったりしていた。言葉は同じようだったが理解できない語が多く、書かれてある文字も読めたり読めなかったりと、ここはどのような世界であろうかと佐助を悩ませた。
日ノ本であることは確からしいが、人々の様子からして戦はないらしい。戦が頻繁に起きている元の世界では、農民でさえこれほどまでの間抜けな奴らはいなかった。それゆえか、暮らしは安定しているようだと判断した。開けた土地が一望できる山間から見た数々の集落はどこもかしこも佐助の知るどこよりも広がり、奇妙に高く伸びた建物が幾つも立ち並んで大路が縦横に走っていた。あちらは、京でさえこれほど大きくはない。人の多さも桁違いだった。老若男女が様々の着物をして、日に日にせかせかと動き回る。昼間だけでなく、日が落ちても、さらには夜半になってさえも明かりが全て消えることはなく、人が絶えることがない。市は毎日開かれて賑わい、移動は徒歩ではなく何らかの乗り物による。同じような姿をした子供、若者、男。それぞれに集団を形成しているのだろう。多くの女も男と同様に出歩き、似た格好をしていた。男女の差はほとんどないのだ。隠居していそうな老人がそこかしこに見られ、仙人かと思わんばかりの翁嫗も少なくない。理由は判じかねるが、寿命が格段に違っている。
この異世界の全てが佐助の理解の及ばないところにあった。
敵に狙われる危険はないのが確実になって山中に簡素な居を構えると、食えるものをかき集めて――誰のものとも知れぬ畑から少々作物を拝借もしたが、数月を過ごした。時節は二つの世界で同一なのか、冷たい風は毎日のように吹き、身を凍らせる雨が降る時もあった。
冬の入りである。
底辺の生活だったとはいえ、なんとか生き延びてこられたのは、ひとえに佐助の忍である体はそのままだったことにある。極限に耐えられるよう作られた体はそう簡単に死ぬ事をよしとしなかった。しかし、何度試しても、忍の技は何一つとして使えなくなっていることに絶望を覚え、ひたすらに異郷から目覚めることばかりを考えるようになっていた。
こちらで眠ればあちらで目を覚ます。だが、たとえ一炊の間であっても向こうで目を閉じてしまえば、またここに戻ってしまっているのだ。
疲労困憊して苦しんでいても、佐助の置かれた状況を説明したところで助言をくれるものなどいようはずもない。主や部下の前では平静を装うことなど容易かったが、その反動か次に目覚めてしばらくは酷い破壊衝動に駆られて、度々、気が狂ったように喚きながら得物を振り回した。その振る舞いさえ、この忌々しい世界の者は見逃しはしない。見つかって厄介になることは明らかだと短期間のうちに佐助は学んでいたから、落ち着きを取り戻すとすぐに生活痕を消してそこから去る。その繰り返しだった。
転々と土地を移って行くうちに、山林に打ち捨てられた廃屋で休むようになった。運が良ければ虫に食われていても干せば使える衣類や布団は残っていた。また、枯れておらず飲用に足る井戸もあったし、放棄されたとはいえまだ充分に食糧となる草木が枝を伸ばし、崩れかけた田畑からも収穫はあった。鳥獣を獲るのも難しくない。携行食を作って次へ移るようになってからは、寒さが厳しくなる中にあっても飲食に困窮することはなかった。
その間も、当然の如く山を下りて集落を観察することは欠かさなかった。
およそ信濃国と思われる処から甲斐国へ周り、そこで腰を落ち着けてどうにかしようとしていたのだが、何かに呼ばれるように武蔵国へ足は向かっていた。東へ向かう内に、次第に集落は大きくなっていく。いつしか、平野一帯が人の暮らす地になっていて、果ての見えないその景色には息を飲んだ。
その頃には多少の知識は得ていたから、こちらの衣裳を幾ばくか拝借して、集落の中で賑わっている場所――デンシャという乗り物が停まる駅前であったり、デパアトという大きな建物の前の広場であったり――で椅子に腰掛け、何気ない風を装って注意深く会話を聞いて更に詳しくこの世界を知ろうとした。幸いにして佐助の忍らしからぬ髪色もこちらでは目立つこともなく、順調に事を進められた。
情報を集めては仮住まいとした廃屋へと帰り、それを整理しながら床について戦忍に戻る日々。いつになったらこの二重世界を生きる悪夢は覚めるのだろうか、と考えるのはもはや諦めかけていた。戦忍として武田の、真田の為に命を落とすのは厭わないが、訳の解らぬ異郷で野垂れ死んだ時どうなるか、皆目見当もつかない。万が一、の事を考えると試す気にはなれなかった。
異郷の寒空に見上げる星月夜は、心なしか霞んでいるようだった。
山村がなくなり、人が住んでいる平地に下りるしかないと決めた時には、佐助もかなり衰弱していた。二つの世界で体は同一ではないらしい。おのれの作ったもの以外は決して口にしなかったせいもあって、冬も深まる頃には食糧が底をついてしまい、新たに作ることもできなかった。
戦装束をまとめて隠し置き、見ず知らずの地へ向かう足取りは不安ながら、導かれているように迷いはなかった。一睡もせず、人通りの滅多にない細い道をひたすらに歩き続けて何日経っただろうか。
その日は朝から骨の髄に染み込んでくるような雨が降り続け、夜も晩くなっていた。これ以上はもう無理だと、こじんまりした広場の門前で柱に背を預けて崩れ落ちたようになっていた。
――さすがの俺様も、ここまでか……。
足掻いて足掻いて、足掻いた最期は、なんとも呆気ないものだと薄く笑う。
――目を閉じさえすれば、旦那がいて、大将がいて、なによりも猿飛佐助として生きている世界に戻れる。この体は捨ててしまえばいい。そうすれば何もかもが元に戻るだけだ。
近付いてくる女の足音が頭に響いて喧しい。さっさと通り過ぎてしまえ、と思っていたそれは、佐助の前で止まった。同時に、降ってきていた雨粒が体に当たらなくなった。
――放っておいてくれ。
「……死にたくなかったらうちにおいで」
冷え冷えとした声だった。まるで、死ねと言っているかの様な。身動ぎせずに気配だけを鋭くさせて女を探る。こちらではいたって普通の、警戒心の薄い若い女。荷物を重そうに抱え直して、しばらくしてからまた女は言った。
「死ぬの」
端的な言葉に笑ってしまいそうになった。女からはそう見えるのだろう。
――違う。戻るだけだ。
佐助が全く反応しない事に諦めて立ち去るかと思った女が、思わぬ言葉を口にした。それも、予想以上に大きく強い声で。
「身元不明死体が近所で出ると、迷惑だから。私の身内ってことにして葬式するから、来なさい」
何を言うのだ、と佐助は女を見上げた。感情の少ない表情をしているくせに、何故かしら僅かに怒っているようだった。佐助に傘を差し出し、自らは雨に打たれながら、顔を上げた佐助に少し瞠目して、――不思議な微笑を浮かべた。
「……無縁仏になるよりマシでしょう? 私が毎日拝んでやるんだから」
――俺が死ぬのが前提か。
女の可笑しな物言いに、苦笑がこみ上げてきた。佐助が応えた事に、女はまた微笑んだ。
何故か、この女はこれまでに見てきた異郷の奴らとは違うと感じた。忍の勘とも言えない、ただの気の迷いだったのだろう。衰弱しきっていた当時にまともな判断ができるとは考えられない。
「……俺は佐助。あんたは?」
「」
短く名前だけを告げる。女もそれに答えて返した。佐助が思っていたよりも用心深いのかもしれなかった。
「佐助。……あなたが死ぬか回復するまでの間、私が世話をしてやるから感謝して」
「はは、――礼は言っとく」
佐助の名を反復した女は、無言で立ち上がれと催促し、軋む体を叱咤して佐助は重い腰を上げた。
身を切るほどに冷たい雨の降る夜、それがとの出会いだった。
そこまで思い返し、佐助はふとある事に気が付く。――あれは、一年前のこの時期だった。
が何も言わずに出掛けて数日、佐助は連絡を取る気にもなれずにいた。あちらの任務で忙しくしているからだとおのれを誤魔化していたのだが。あの時もは大きな荷物を持っていなかったか。今回もそうだった。考えすぎかもしれないが、関係がないとも言い切れない。
何かを掴みかけたようでもあるし、それは形のない雲のようなものかもしれない。いずれにせよ、今は連絡せずにの帰宅を待つことに決めた。
――向こうでの俺の事を、話そう。それから、の事を訊こう。これ以上隠し事をしたままではいられないところまで来てしまったんだ。俺も、も。
戦装束と、武器や防具の入った衣裳箱を見る。は、佐助が人を殺める忍だと知っても動じないだろう、という確信に似た予感がしていた。そして、幾日かの内に戻ってきて、あのぎこちない微笑をまた佐助に向けるのだろうということも。
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2010/02/05
2010/02/06, 2010/02/14 訂正
天文関係でタイトルをつけていたのですが、ここにきて気象関係になってしまいました。少し悔しい。
東風解凍と書いて、はるかぜこおりをとく、と読みます。話の中の時期とは多少ずれるのですが、内容を鑑みて。
よしわたり