幸村が外周の走り込みを終え、校内に戻ってきたのはいつものように一番乗りでだった。
二月の冷たい空気の下で汗をぬぐい、更衣室に向かって歩いていた。グラウンドと校舎の間には小さな池を囲んだ芝生と、考えて植えてあるのだろういろいろの樹木がある。春や秋には桜や紅葉を、夏には木陰を求めてこの庭で昼食を取る学生も多い。校舎沿いに歩いている幸村は一人の学生が紅白対になった梅の根元で座っているのに気付いた。
――だ。
考えることもなく直感で判断した幸村の足は、その女子学生の方へと向かっていた。
幸村は高校二年生、剣道部員。は同学年で吹奏楽部員である。
幸村とは幼馴染みともいえる関係で、が小学校に上がってすぐ通わされた剣道の道場で二人は知り合った。ちなみに、は塾こそ行かされなかったものの、昔でいう芸事はたくさんやらされた。書、華、茶、琴に始まりピアノや剣道、水泳などなど。それは多岐にわたっており、途中で逃げ出さなかった方を挙げた方が早い。その一つが、剣道だった。だから、二人は気安い間柄のままである。
「、サボりか?」
幸村に声を掛けられたはイヤホンを外して譜面から目を上げ、にかりと笑って、違うよ、と答えた。
「譜読みしてんの。ほら」
イヤホンを片方渡され、渋りながらも幸村はそれを耳に当てた。幸村は吹奏楽に詳しくない。頭が割れそうな音量で演奏が聞こえてきて、さっきとは別の意味で顔をしかめる。
「こんな大音量で聞いていては耳が悪くなろう」
「ここは大事なところだったからしっかりチェックしてたんだ。いつもはもっと音量下げてるよ」
むくれたようにしては楽譜をめくる。幸村にはおたまじゃくしのダンスにしか見えないそれを、は丁寧になぞっていく。
「この、メロディ部分。――中低音がしっかり支えて、ゆるゆると細まっていく音の束。そして次の瞬間、ぱっと華やかな高音のファンファーレ!」
ポータブルプレイヤからの言葉そのままに音が響いてくる。ファンファーレから賑やかなメロディが続き、楽器が増えて音が洪水のように溢れ流れる。
ジャン、と最後にひとつ大きく鳴り響いて曲は終わった。楽譜の上、の指も終止符の上。くうう、と唸ったがばっと幸村の目を覗き込む。
「どうよ、カッコよくない!?」
「あ、ああ……」
「判ってないな!?」
「うむ……」
「最初っから聴く!?」
「いや、俺も部活の途中だから遠慮しておく」
テンションの上がったににじり寄られ、じりじりと尻でさがりながら幸村は断った。なんだ、とは唇を尖らせる。
そこで幸村は思い出す。自分も部活の最中なのだ、もそのはずであろうに。
「それよりも、楽器を持って練習しなくていいのか? 今日のように寒い日にわざわざ外に出なくともよかろうに」
幸村の言葉には笑って人差し指を頭上に向けた。
「なんだ?」
寒そうな空が広がっているだけだ。
「違う違う」
幸村の視線に苦笑いをして、は二人を挟むように生えている梅を両手で示す。紅梅と白梅がちょうど見頃で、よくよく気をつけてみればうっすらと香りもしている。そういうことか、と幸村はを見る。この、幸村の幼馴染みの同級生は人一倍季節を感じるのが好きなのだ。
「今の今まで気付かなかった」
「まあね。ここんとこ暖かかっただろ、一気に満開になったんだよ」
にっかりと笑ったはここの校庭はいいよなあ、と梅を見上げた。そうだな、と頷いて幸村もにならう。
中学に上がった時、幸村はが剣道部に入るのだと信じて疑わなかった。二人は近隣の小学生で一、二を争う強さだったし、早く段位を取りたいと話し合っては切磋琢磨して腕を競っていた。それが何を思ったのか、は突然剣道を止めてしまった。
そして吹奏楽部に入ったのである。楽器は、ユーフォニウム。なかなか覚えられない幸村の耳許でが繰り返し繰り返し叫んで半ば無理やり覚え込ませた。だから音楽に疎い幸村もの楽器だけは判る。どんな音かも散々聞かされたので耳が覚えてしまった。
が吹奏楽部に入った理由は単純である。新入生歓迎会で演奏した中にいた、中学生にしてやたらとユーフォニウムを吹くのが巧い先輩に憧れてコロリとやられてしまったのだ。その日の内に吹奏楽部の部室の扉を叩き、彼女、つまり先輩に弟子にしてくれ、と頼みに行った。
しかし、は剣道の才はあっても音楽の才はからっきしだった。琴もピアノも長続きしなかったのはそのあたりが深く関係している。
そうであったのだが、吹いているうちにユーフォニウムという楽器の魅力や音や響きの深さにどんどんハマリ、幸村と六年間鍛えた負けず嫌いの根性と必死の努力でなんとかしてしまった。中学三年の時には副部長も務め、定演では指揮棒を振るほどにまで成長した。
幸村はといえば、相変わらず剣道一筋で順調に段位を上がり、大会でも好成績を記録し続けている。県下に敵はなし、とこっそり思っているのだが、そのあたりは弁えている。剣道を続けていたら、男女の違いは大きくなってくるにしても同じようになれていただろうに、と時々幸村はに愚痴る。そのたびには吹奏楽こそ最高、と言ってはばからない。
昨年はとうとうコンクールの全国大会に勝ち進み、常連強豪校と肩を並べて演奏してきた。初出場なりの結果ではあったが、は興奮しきったまま、いかにその大会がすごかったか幸村に語って聞かせたのだった。
「それで、今年も出られそうなのか」
なんとなしに訊ねたことだった。幸村の問い掛けにどこか嬉しそうに、は首を横にした。
「もういいんだ」
夏の終わりは部活生活の終わりでもある。三年が引退してから、は部活をしょっちゅうサボるようになった。ちょうど今、幸村とが梅の下で座っているように。
だから、幸村はに開口一番サボりか、と訊いたのである。
「そういえば、噂に聞いたぞ。吹奏楽部で問題を起こしている二年生がいる、と」
に向き直った幸村は、なんとかしてくれと言いに来た者がいた、と少し不機嫌に言う。
吹奏楽部の大半の部員は女子なので、幸村は中高ととそれほど親しくしていない。小学校からの友人づてに二人の話が広まったに違いない。付き合っているとかいないとか、そういう類のものもあって、たまにこうして話す時にネタにしている。それが余計に誤解を招くのだと、幸村の方は気付いていない。
「コンクールに出ませんって言っただけなんだけど」
顧問から一年生からOBからみんなが大騒ぎしてる、とは苦く笑った。幸村は首を傾げる。
「なにゆえだ?」
コンクールに出ないのも、騒ぎになるのも、と付け足した。
「普通は最後の年こそ最高の演奏をして終わりたいと思うだろ、誰だって。幸村も今年のインハイは優勝したいだろうし」
昨年、二位の雪辱に泣いた幸村は力強く頷く。来年こそ表彰台の真ん中に。
は幸村の横顔を見る。
「幸村風に言うと、燃え尽きてしまったでござる、って感じ。最高の舞台で最高の演奏をしきったんだ。だからもう大会のために演奏するのが嫌になった」
「……違うのか?」
の言葉の意味を理解しきれずに、幸村はむうと唸る。
「うん。大会でいい成績を出すためには、どれだけきちんとそのバンドが音がきちんと合って良く出てまとまって作曲家の意図どおりに演奏できているか、それに加えてそのバンドらしい個性は出ているか、とかキッチリしてるんだよ」
「剣道に例えてくれぬか……」
「えー? 今でもギリギリなのに余計にわかんなくなる」
「俺にはもっとさっぱりだ」
しばらく二人でうんうん唸って、結局のところ、とが口を開いた。
「やりたいことはやりきったから好きに吹かせてほしいのに、それはダメだってみんなが言うんだってこと」
「ならば初めからそう言えばよかろうに」
弱ったふうな幸村の声に、はベエと舌を出した。何かでが幸村をやりこめたとき、あかんべをするのは小学校の時からの決まりごとのようなものだった。
男勝りに竹刀を握っていた幼い女の子のがもういないように、かわいらしさの中に芯を秘めた男の子の幸村はもういない。の隣にいるのは、何事にも曲がらぬまっすぐさを人の形にしたような青年になりつつある少年。それがなにか置いていかれたようで悔しいからと、は幼い行動を止めなかった。
どう接してよいものか測りかねている、ともいえた。
「そろそろ俺は部活に戻る」
「お疲れー、部長さん」
からかい交じりに幸村を呼ぶに、ぐうとかううとか言葉を呑みこんで、止めてくれと幸村は照れた。
「もあまりサボらぬようにな。――剣道には終わりがない。音楽もそれと同じだろう? ならばそれを言えば、皆、納得してくれよう」
音楽に詳しくはないが、と断りを入れた幸村はがぼうっとしているのに少し心配になって声を掛ける。
「?」
の呟きが聞こえた。目から鱗。
「確かに吹奏楽部員ならコンクールが一番だけど、大会だけが全てじゃないしね! 音楽にも終わりがないんだし、もういいやって気持ちになってちゃダメだ! いっぱい練習していろんな曲聴いてもっともっといい音出せるようになってオーケストラとか室内楽とかもできたらすっごく楽しいんじゃない!?」
また、さっきと同じ状態になる。ずいずいと迫る、じりじりと退く幸村。
「そ、そうだな」
「幸村、ありがとう!」
バッと勢いよく立ち上がったは、群れて咲いている梅の花びらに頭を突っ込んだ。枝が当たって、イタ、と声を上げてさらに暴れる。
「こ、こら」
慌てて幸村はの腕を引く。が痛がっていたのもある。同時に、こうも思った。
――せっかくの花を散らしてしまう。
春になると大きな桜の枝に登って眠り、夏が来るとアンズの根元で落ちてくる実を拾って食べ、秋が廻るとはらはらと散る紅葉に手を伸ばし、冬が訪れると生気を失った木々を遠くに眺める。草木を愛でて、山を見て、空を仰いで、雨に濡れ。晴れても曇っても、雷が鳴ろうと台風が来ようと、は喜ぶ。
と一緒にいて、幸村も知らず知らずのうちにと同じように季節の移ろいを体で感じるのを好きになっていたのだろう。不思議な感覚に、今度は幸村が動きを止める。
びっくりしたあ、と顔や頭を払いながらは、ちょっと落ち着いて行動しなさいって親や先生にも言われてるけど直らないんだよね、と苦笑いをして楽譜とポータブルプレイヤを拾う。呆れて笑う幸村もそれに同意した。
「言えておる。……、頭に花びらが」
「え」
ちょい、との髪の上の白い梅の花びらを、幸村が指先で払い落した。ひらりと舞って、ひとひら、ふたひら。そこだけ映画のワンシーンのように世界が切り取られていた。
それと同時に、二人は同じことを思った。
――これってもしかして、恋人同士みたいじゃないか。
かあ、と揃って顔を赤くした幸村とは挨拶もそこそこに、お互い部活へ逃げて行く。
春はもう、すぐそこ。
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2010/02/19
2010/02/25, 2010/03/09 訂正
幸村は難しいなあ……。
新しい春を迎える、全ての人へ。
よしわたり